10日目 霧の入り口
朝から、白く冷たい小雨がしとしとと降っていた。
この辺りの地域は、海からの冷たい空気が流れ込むせいで、昔から霧や小雨が非常に多いらしい。
けれど、外を歩けないほどの土砂降りではない。
俺たちは東京から持ってきた服のフードを深く被り、傘をさして、湿ったアスファルトの道を踏みしめながら、目的地の動物園へと向かった。
地面にできた小さな水たまりを避けたり、靴が濡れないように足元の湿気に気をつけたりしながら歩く。――それでも、俺の胸はどこか、遠足の日の子供のように弾んでいた。
「なぁ、お前は動物、好きか?」
歩きながら、俺は自分と啓太の間に漂う、愛おしい『何か』の気配に向かって自然に声をかけた。
チャプ。
足元の水たまりの表面が、風もないのにピチャ、と小さく跳ね上がった。
それがアイツなりの健気な返事みたいに見えて、俺の口元は少しだけ優しく綻んだ。
「あはは、好きみたいだな。でも、もうちょっと晴れてくれたら良かったのになぁ」
隣で歩く啓太が、白い傘の縁から空を見上げる。
視界の上のほうに広がる白くぼやけた空は、雲の境界すら分からず、どこまでも曖昧に溶けていた。
「とりあえず、このまま右回りのルートで見て行くか」
想像していたよりもずっと広大な園内を見渡しながら、啓太が地図を指さす。
「カバとか、ちゃんといるかなぁ」
俺はあの泥まみれで大きな口を開ける間抜けな顔が、昔から少し好きだったんだ。
「は? カバより普通はライオンだろ!」
「いや、檻の中で飼い慣らされたライオンなんて、大して迫力ないだろ」
「何言ってんだよ、カバだって大して動かないあの顔だぞ?」
そんな風に、いつもの大学のノリで軽口を叩き合いながら、湿った園内を歩いていく。
今、そのやり取りのすぐ真ん中に、もう一つ分の明確な気配が混ざり込んでいることに、俺たちの心には何の違和感も、何の拒絶反応もなかった。
「……お前は、どっちが見たい?」
俺はつい、隣の空間に向かって問いかけていた。
その瞬間、アスファルトの端に薄く広がっていた泥混じりの土が、生き物のようにわずかに崩れた。
――“ライオン”。
文字が書かれたわけでも、声がしたわけでもないのに、なぜか俺の頭には直接、そうアイツの意志が伝わってきた。
「なるほどな。こいつも俺と同じライオン派か。分かってるじゃん」
啓太が嬉しそうにニヤリと笑う。
俺たちは小雨の降る静かな園内を進み、さらに奥の猛獣エリアへと入っていった。
「お、先に見えてきたのはライオンみたいだな」
檻の向こう、遠目からでもはっきりと分かる立派なたてがみが、冷たい雨の中でゆっくりと揺れている。
ゴロゴロと低く喉を鳴らす唸り声が、水分を含んだ重い空気に混ざり、しっとりと溶けていった。
「カバの展示エリアは、一番ラストかな?」
あえてパンフレットの地図は見ない。何がどんな順番で現れるのか、子供みたいにワクワクしながら見るのが楽しかった。
「うーん、この様子だとカバ、そもそもこの園にいないかもしれないな」
啓太が冗談めかして笑う。
「いや、きっといるよ」
「――きっといる」
その声が、静かに鼓膜を震わせた。
それは、俺の声でもなければ、啓太の声でもなかった。
少しだけ、現実の音から遅れて脳に直接届くような、奇妙な残響。
旅の初日、あの寿司屋のカウンターで聞いて以来の、アイツの生の『声』だった。
なのに――恐ろしいことに、俺の胸に湧き上がったのは、恐怖ではなく、旧友に再会したかのような妙な懐かしさすら覚える感情だった。
「……なぁ、今の、聞こえたか?」
「ああ。今回は、めちゃくちゃはっきり聞こえたな」
啓太が少しだけ興奮したように、目を輝かせて笑う。
湿った心地いい空気のせいだろうか、それ以上、その声の異常性について深く考える気にはならなかった。
園内をぐるりと一周し終える頃には、時計の針は昼近くを指していた。
「カバもちゃんといて良かったな」
お目当ての巨体を見られて、俺は満足げに呟く。
「いや、やっぱりライオンの勝ちだろ」
「あんなの、ただのだらけた巨大な猫みたいだったじゃん」
岩の上で完全に寝そべっていたライオンの様子を思い出して、思わず二人で笑い合う。
「それでもいいだろ。お前、猫好きだしな」
「まぁな。でも、あれは別枠だわ」
そんな何気ない、本当にくだらない会話が、今の俺には妙に心地よかった。
園内の食堂で簡単な昼飯を済ませると、俺たちはそのまま動物園を出た。
それから車を走らせ、俺たちは広大な湿原の展望ルートへと真っ直ぐに向かった。
現地に到着する頃には、あんなにしぶとく降っていた雨はいつの間にか弱まり、代わりに、どこからともなく白い霧が辺り一面に立ち込め始めていた。
「最悪、雨の次は霧かよ……」
車を降りると、地面は雨水を吸ってぐちゃぐちゃにぬかるんでおり、足元が酷く不安定だった。
一歩、泥を踏みしめるたびに、じょぼり、じょぼりと、水が滲み出す嫌な音が響く。
けれど俺たちは、湿原の奥へと続く木道と土の道を、そのまま迷わず進んでいった。
気づけば、周囲に生い茂る原生林や草の丈が、いつの間にか俺たちの背丈を超えるほど高くなっていた。
ふと、自分の足元を見る。
茶色く濁った泥の上に、いくつもの足跡が残されていた。
スニーカーの底の模様がついた、俺と啓太の足跡。
そして――もう、一つ。
それは、人間の子供よりもはるかに小さな、けれど泥の上に、妙にくっきりと刻まれた『蹄』のような歪な足跡だった。
……。
不思議だった。なぜか、それを見ても、脳の危険信号は一切鳴らなかった。違和感すら湧かない。
むしろ、「ああ、ずっと最初から、こうして一緒に並んで歩いていたんだな」という、当たり前の事実のようにすら思えた。
俺たちは、前方から薄くかかり始めた不気味な霧の存在を、大して気にも留めずに進む。
――もし。もしもこの時、ほんの少しでも正気を取り戻して、今来た道を引き返してさえいれば。
すべてが、全く違う結末になっていたかもしれないのに。
霧は少しずつ、けれど確実に密度を増し、広大な湿原全体を静かに、冷酷に包み込んでいく。
遠くに見えていたはずの木々の緑が、またたく間に白一色の世界へと溶けて消えていった。
風はピタリと止み、ただ冷たく湿った空気だけが、じっとりと肌にまとわりついてくる。
耳を澄ませてみても、さっきまで聞こえていたはずの水のせせらぎも、鳥のさえずりも、全てが遠くの彼方へと消え去り、底知れない『静寂』が辺りをどんどん支配していった。
「……おい、やけに静かすぎないか?」
前を歩く啓太が、ぽつりと不安そうに呟いた。
俺も足を止め、白い闇に包まれつつある周囲をぐるりと見渡す。
這い寄る霧が、ゆっくりと、確実に俺たちの世界の視界を奪い、薄めていく。
「……霧の湿原って、元々こういう、静かな感じなんじゃないか?」
自分に言い聞かせるようにそう言ってみたものの、やはりどれだけ耳を澄ませても、おかしい。
風の音がしない。
草葉の擦れる音すら、1ミリもしない。
――生命の気配が、何一つ、聞こえないんだ。
「いや、違うだろ」
啓太の声のトーンが、わずかに低く、強張ったものに変わる。
「静かすぎる。……何もないんだよ」
言われて、もう一度、深く白い霧の奥を見つめる。
確かに――何もなさすぎる。そこにあるはずの世界の音が、最初から存在しなかったみたいに、綺麗に消去されている。
「……」
喉の奥がカラカラに乾いて、うまく言葉が引っかかって出てこない。
それでも、脳の奥の『何か』が思考を強制的に停止させ、俺は無理やり視線を前に戻した。
「……気のせいだって。行こうぜ」
そう答えたはずなのに、白い壁に遮られた空間の中で、自分の声だけが妙に現実味なく、浮いて聞こえた。
俺たちは、音の消えた静かな道を、ただ機械的に歩き続けた。
その時だった。
行く手を阻む背の高い草むらの向こうから、かすかに、カサカサと草を分けるような音が聞こえてきた。
トパパパパパパッ、と。
目に見えない小さな足が、湿った草地を、小気味よく踏みしめている。
自然と、俺たちの足が止まった。
啓太もその音に気づいたのか、ハッとした表情でこちらをチラリと見た。
俺は、その草むらの向こうの音の正体を確かめようと、さらに耳を澄ませる。
――トパパパン、トパパン。
それは、まるでダンスでも踊っているかのような、跳ねるような、もの凄く楽しげなリズムだった。
風の悪戯でも、野生の動物でもない。確かにそこに生きている、何かトクベツな小さなものが立てている音だ。
気づけば、俺の頬は、無意識のうちに緩んでいた。優しく、微笑んでいた。
――怖くなんてない。むしろ、胸の奥がじんわりと温かくなり、嬉しそうに鼓動を刻んでいる。
「……なぁ、なんか、あいつめちゃくちゃ楽しそうだな」
張り詰めていた緊張が完全に解けたのか、啓太の声が、一気にパッと明るいトーンに戻った。
俺も、草むらを縦横無尽に駆け回る小さな足音を聞いているうちに、胸の奥を締め付けていた重苦しい塊が、ふっと嘘のように軽くなっていくのを感じた。
――ああ、笑っている。アイツが、あんなに楽しそうに笑っているんだ。
その幸福なリズムが、何の抵抗もなく、自然に俺の心と同化して、溶け込んでいく。
「そうだな。本当に楽しそうだ」
俺は、その愛らしい小さな足音を道標にするようにして、そっと視線を動かした。
視界を遮る白い霧の向こう――そこには、まだ直接姿は見えないけれど、確かに俺たちを待っている『誰か』の、絶対的な気配があった。
アイツが奏でる、楽しそうな足音の響きに、俺たちは完全に夢中になっていた。
背後から、自分たちの退路を完全に消し去るようにして、濃密な霧がすぐ後ろまで迫ってきていることにも、まだ誰も気づいていない。
――もし、あの瞬間に。俺たちが霧の異常な深さに気づいて、恐怖に震えて逃げ出してさえいれば。
全てが、違っていたのかもしれないのに。




