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ちょっと変わった旅行記〜二週間〜  作者: アグ


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10/14

10日目 霧の入り口

朝から、白く冷たい小雨がしとしとと降っていた。


この辺りの地域は、海からの冷たい空気が流れ込むせいで、昔から霧や小雨が非常に多いらしい。


けれど、外を歩けないほどの土砂降りではない。


俺たちは東京から持ってきた服のフードを深く被り、傘をさして、湿ったアスファルトの道を踏みしめながら、目的地の動物園へと向かった。


地面にできた小さな水たまりを避けたり、靴が濡れないように足元の湿気に気をつけたりしながら歩く。――それでも、俺の胸はどこか、遠足の日の子供のように弾んでいた。


「なぁ、お前は動物、好きか?」


歩きながら、俺は自分と啓太の間に漂う、愛おしい『何か』の気配に向かって自然に声をかけた。


チャプ。


足元の水たまりの表面が、風もないのにピチャ、と小さく跳ね上がった。


それがアイツなりの健気な返事みたいに見えて、俺の口元は少しだけ優しく綻んだ。


「あはは、好きみたいだな。でも、もうちょっと晴れてくれたら良かったのになぁ」


隣で歩く啓太が、白い傘の縁から空を見上げる。


視界の上のほうに広がる白くぼやけた空は、雲の境界すら分からず、どこまでも曖昧に溶けていた。


「とりあえず、このまま右回りのルートで見て行くか」


想像していたよりもずっと広大な園内を見渡しながら、啓太が地図を指さす。


「カバとか、ちゃんといるかなぁ」


俺はあの泥まみれで大きな口を開ける間抜けな顔が、昔から少し好きだったんだ。


「は? カバより普通はライオンだろ!」


「いや、檻の中で飼い慣らされたライオンなんて、大して迫力ないだろ」


「何言ってんだよ、カバだって大して動かないあの顔だぞ?」


そんな風に、いつもの大学のノリで軽口を叩き合いながら、湿った園内を歩いていく。


今、そのやり取りのすぐ真ん中に、もう一つ分の明確な気配が混ざり込んでいることに、俺たちの心には何の違和感も、何の拒絶反応もなかった。


「……お前は、どっちが見たい?」


俺はつい、隣の空間に向かって問いかけていた。


その瞬間、アスファルトの端に薄く広がっていた泥混じりの土が、生き物のようにわずかに崩れた。


――“ライオン”。


文字が書かれたわけでも、声がしたわけでもないのに、なぜか俺の頭には直接、そうアイツの意志が伝わってきた。


「なるほどな。こいつも俺と同じライオン派か。分かってるじゃん」


啓太が嬉しそうにニヤリと笑う。


俺たちは小雨の降る静かな園内を進み、さらに奥の猛獣エリアへと入っていった。


「お、先に見えてきたのはライオンみたいだな」


檻の向こう、遠目からでもはっきりと分かる立派なたてがみが、冷たい雨の中でゆっくりと揺れている。


ゴロゴロと低く喉を鳴らす唸り声が、水分を含んだ重い空気に混ざり、しっとりと溶けていった。


「カバの展示エリアは、一番ラストかな?」


あえてパンフレットの地図は見ない。何がどんな順番で現れるのか、子供みたいにワクワクしながら見るのが楽しかった。


「うーん、この様子だとカバ、そもそもこの園にいないかもしれないな」


啓太が冗談めかして笑う。


「いや、きっといるよ」


「――きっといる」


その声が、静かに鼓膜を震わせた。


それは、俺の声でもなければ、啓太の声でもなかった。


少しだけ、現実の音から遅れて脳に直接届くような、奇妙な残響。


旅の初日、あの寿司屋のカウンターで聞いて以来の、アイツの生の『声』だった。


なのに――恐ろしいことに、俺の胸に湧き上がったのは、恐怖ではなく、旧友に再会したかのような妙な懐かしさすら覚える感情だった。


「……なぁ、今の、聞こえたか?」


「ああ。今回は、めちゃくちゃはっきり聞こえたな」


啓太が少しだけ興奮したように、目を輝かせて笑う。


湿った心地いい空気のせいだろうか、それ以上、その声の異常性について深く考える気にはならなかった。


園内をぐるりと一周し終える頃には、時計の針は昼近くを指していた。


「カバもちゃんといて良かったな」


お目当ての巨体を見られて、俺は満足げに呟く。


「いや、やっぱりライオンの勝ちだろ」


「あんなの、ただのだらけた巨大な猫みたいだったじゃん」


岩の上で完全に寝そべっていたライオンの様子を思い出して、思わず二人で笑い合う。


「それでもいいだろ。お前、猫好きだしな」


「まぁな。でも、あれは別枠だわ」


そんな何気ない、本当にくだらない会話が、今の俺には妙に心地よかった。


園内の食堂で簡単な昼飯を済ませると、俺たちはそのまま動物園を出た。


それから車を走らせ、俺たちは広大な湿原の展望ルートへと真っ直ぐに向かった。


現地に到着する頃には、あんなにしぶとく降っていた雨はいつの間にか弱まり、代わりに、どこからともなく白い霧が辺り一面に立ち込め始めていた。


「最悪、雨の次は霧かよ……」


車を降りると、地面は雨水を吸ってぐちゃぐちゃにぬかるんでおり、足元が酷く不安定だった。


一歩、泥を踏みしめるたびに、じょぼり、じょぼりと、水が滲み出す嫌な音が響く。


けれど俺たちは、湿原の奥へと続く木道と土の道を、そのまま迷わず進んでいった。


気づけば、周囲に生い茂る原生林や草の丈が、いつの間にか俺たちの背丈を超えるほど高くなっていた。


ふと、自分の足元を見る。


茶色く濁った泥の上に、いくつもの足跡が残されていた。


スニーカーの底の模様がついた、俺と啓太の足跡。


そして――もう、一つ。


それは、人間の子供よりもはるかに小さな、けれど泥の上に、妙にくっきりと刻まれた『ひづめ』のような歪な足跡だった。


……。


不思議だった。なぜか、それを見ても、脳の危険信号は一切鳴らなかった。違和感すら湧かない。


むしろ、「ああ、ずっと最初から、こうして一緒に並んで歩いていたんだな」という、当たり前の事実のようにすら思えた。


俺たちは、前方から薄くかかり始めた不気味な霧の存在を、大して気にも留めずに進む。


――もし。もしもこの時、ほんの少しでも正気を取り戻して、今来た道を引き返してさえいれば。


すべてが、全く違う結末になっていたかもしれないのに。


霧は少しずつ、けれど確実に密度を増し、広大な湿原全体を静かに、冷酷に包み込んでいく。


遠くに見えていたはずの木々の緑が、またたく間に白一色の世界へと溶けて消えていった。


風はピタリと止み、ただ冷たく湿った空気だけが、じっとりと肌にまとわりついてくる。


耳を澄ませてみても、さっきまで聞こえていたはずの水のせせらぎも、鳥のさえずりも、全てが遠くの彼方へと消え去り、底知れない『静寂』が辺りをどんどん支配していった。


「……おい、やけに静かすぎないか?」


前を歩く啓太が、ぽつりと不安そうに呟いた。


俺も足を止め、白い闇に包まれつつある周囲をぐるりと見渡す。


這い寄る霧が、ゆっくりと、確実に俺たちの世界の視界を奪い、薄めていく。


「……霧の湿原って、元々こういう、静かな感じなんじゃないか?」


自分に言い聞かせるようにそう言ってみたものの、やはりどれだけ耳を澄ませても、おかしい。


風の音がしない。


草葉の擦れる音すら、1ミリもしない。


――生命の気配が、何一つ、聞こえないんだ。


「いや、違うだろ」


啓太の声のトーンが、わずかに低く、強張ったものに変わる。


「静かすぎる。……何もないんだよ」


言われて、もう一度、深く白い霧の奥を見つめる。


確かに――何もなさすぎる。そこにあるはずの世界の音が、最初から存在しなかったみたいに、綺麗に消去されている。


「……」


喉の奥がカラカラに乾いて、うまく言葉が引っかかって出てこない。


それでも、脳の奥の『何か』が思考を強制的に停止させ、俺は無理やり視線を前に戻した。


「……気のせいだって。行こうぜ」


そう答えたはずなのに、白い壁に遮られた空間の中で、自分の声だけが妙に現実味なく、浮いて聞こえた。


俺たちは、音の消えた静かな道を、ただ機械的に歩き続けた。


その時だった。


行く手を阻む背の高い草むらの向こうから、かすかに、カサカサと草を分けるような音が聞こえてきた。


トパパパパパパッ、と。


目に見えない小さな足が、湿った草地を、小気味よく踏みしめている。


自然と、俺たちの足が止まった。


啓太もその音に気づいたのか、ハッとした表情でこちらをチラリと見た。


俺は、その草むらの向こうの音の正体を確かめようと、さらに耳を澄ませる。


――トパパパン、トパパン。


それは、まるでダンスでも踊っているかのような、跳ねるような、もの凄く楽しげなリズムだった。


風の悪戯でも、野生の動物でもない。確かにそこに生きている、何かトクベツな小さなものが立てている音だ。


気づけば、俺の頬は、無意識のうちに緩んでいた。優しく、微笑んでいた。


――怖くなんてない。むしろ、胸の奥がじんわりと温かくなり、嬉しそうに鼓動を刻んでいる。


「……なぁ、なんか、あいつめちゃくちゃ楽しそうだな」


張り詰めていた緊張が完全に解けたのか、啓太の声が、一気にパッと明るいトーンに戻った。


俺も、草むらを縦横無尽に駆け回る小さな足音を聞いているうちに、胸の奥を締め付けていた重苦しい塊が、ふっと嘘のように軽くなっていくのを感じた。


――ああ、笑っている。アイツが、あんなに楽しそうに笑っているんだ。


その幸福なリズムが、何の抵抗もなく、自然に俺の心と同化して、溶け込んでいく。


「そうだな。本当に楽しそうだ」


俺は、その愛らしい小さな足音を道標にするようにして、そっと視線を動かした。


視界を遮る白い霧の向こう――そこには、まだ直接姿は見えないけれど、確かに俺たちを待っている『誰か』の、絶対的な気配があった。


アイツが奏でる、楽しそうな足音の響きに、俺たちは完全に夢中になっていた。


背後から、自分たちの退路を完全に消し去るようにして、濃密な霧がすぐ後ろまで迫ってきていることにも、まだ誰も気づいていない。


――もし、あの瞬間に。俺たちが霧の異常な深さに気づいて、恐怖に震えて逃げ出してさえいれば。


全てが、違っていたのかもしれないのに。

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