10日目 霧と泥
深く、どこまでも深くなっていく白い霧。
水分を限界まで含んだ重苦しい空気が肌にまとわりつき、呼吸を繰り返すたびに、肺の奥深くまで冷たく湿った不快な感触が染み込んでいく。
足元は底なしの泥濘と化しており、一歩を踏み出すたびに、ズボリと靴の底が泥に吸い付いて引き剥がすのに体力を奪われる。立ち込める湿った青臭い草の香りと、腐った古い土の匂いが容赦なく鼻腔を刺した。
その異様な白い視界の中で――。
周囲の霧の奥から、針で刺されるような鋭い「殺意」が、じわりじわりと距離を詰めて迫ってくるのを肌で感じていた。
遠くに歪んで見える樹木の影は、ぼんやりと不自然に揺れ、霧の壁へと溶けて輪郭を失っていく。
木々の隙間を吹き抜ける風すらも完全に途絶え、広大な湿原全体が、生きとし生けるものの気配を拒絶するような不気味な静寂に閉ざされていた。
前を歩いていた啓太が、唐突にピタリと足を止める。
「なぁ……隼也。霧、いくらなんでも濃すぎないか? 前が、前が全然見えないぞ……」
言われて俺も前方に目を凝らす。
だが、そこにはただ白い煙のような霧が壁となって立ち込めているだけで、視界は文字通り「ゼロ」だった。今自分たちが湿原のどこに立っているのかさえ、うっすらとしか判別できない。
俺も足を止め、奥歯を鳴らした。
「……一度、引き返すか?」
その言葉を口に出した瞬間だった。
胸の奥が、それまで経験したことのないほどの勢いでドクンドクンと激しくざわつき始めた。
脳の奥で、けたたましく冷たい警鐘が鳴り響く。とてつもなく嫌な予感が、全身の毛穴を突き抜けていく。
気のせいだと思いたかった。
だが――このゾッとする感覚を、俺はここ数日間の経験から、嫌というほど知っている。
本当に、生命の危機に関わるレベルで「非常にまずい時」のやつだ。
俺たちが呑気に霧の中で立ち往生していると――突如、足元の泥が、生き物のように滑らかに蠢き、形を作り始めた。
『きた道。走って。』
「え……?」
啓太がそれを見て不思議そうに首を傾げる。
だが、俺は直感的に理解した。これは、アイツからの、必死の警告だ。
同時に、正面の白い霧の奥から、こちらの存在を値踏みするような、おぞましい得体の知れない視線が突き刺さってくるのが分かった。
「走れ啓太!! 戻るぞ!」
「っ、こんな泥だらけの道で、走れるわけないだろ……!」
啓太の言う通りだった。踏み出すたびにスニーカーが重たい泥に深く吸い付く。
思うように足は上がらず、生い茂る湿った草の茎が、足留めをするかのように靴の先に絡みついてくる。
――そんな死に物狂いの焦りの中、背後の霧の奥から、カサカサと微かな、けれど小さな足音が混じり始めた。
ぴょん、ぴょん、と楽しげに跳ねるように聞こえるその規則正しい音は、ただの野生動物や風の悪戯なんかじゃない。
何か、子供くらいの小さな存在が、凄まじい勢いでこちらに向かって近づいてきているように感じられた。
その存在の接近を意識した瞬間、周囲の霧の濃度がさらに爆発的に増したように見えた。
視界の端々がじわりと歪み、周囲の木々の影が異様に黒く、長く、生き物の手足のように伸びていく。
湿原の絶対的な静寂が物理的な質量を持って重く圧し掛かり、狂ったように跳ねる心臓の鼓動が、耳の奥で爆音となって鳴り響いていた。
「……っ」
恐怖のあまり、もう声も出ない。
ただ、足元の泥の重みと、霧の向こうに潜む何かの視線を背中に感じながら、俺たちは必死に次の一歩を踏み出すしかなかった。
その時――。
前方の足元の泥が、再び勝手に文字を象った。
『くる……早く……逃げて』
次の瞬間。
ドンッ、と、俺たちの背中を、目に見えない強烈な何かが力強く押し出した。
泥と湿った草の感触が肌に刺さる。息が一瞬止まり、鼓動が耳の奥で大きく跳ねた。
俺はアイツに背中を押されながらも、必死に前方の白い闇を凝視する。
刹那――。
霧の中から突如として伸びてきた『何か』に、啓太の手首がガシッと掴まれる感触がした。
同時に、俺たちの体は、自分の意志とは全く無関係に、アイツの手によって強引に来た道へと引きずられるようにして動き出した。
「……なんだこれ……ッ!?」
啓太が声にならない悲鳴を飲み込む。
その先――激しく渦巻く霧の向こう側に、俺はついに『それ』を目撃した。
黒く濡れそべった長い髪が顔の前にだらりと垂れ、全身が泥にまみれた、この世のものとは思えない女の姿。
瞬きをするたびにその形は蜃気楼のように揺らぎ、霧に溶けて消えたかと思えば、次の瞬間にはまたヌッと現れる。
その狂気に満ちた、怨念そのものの視線が、全身の皮膚を突き破って細胞にまで突き刺さるようだった。
距離は、確実に、徐々に縮まっていた。
どれだけ脚を動かしても足元の泥は重く、踏み出すたびに靴が深く吸い付いて離れない。
だが、今の俺たちには、死に物狂いで逃げる以外の選択肢なんて残されていなかった。
「……やばい……やばいって……!!」
恐怖に耐えかねて、思わず振り返る。
霧の向こう――。
あの女の霊が、さっきよりも確実に、数メートルは近い場所に直立していた。
視界の端にベッタリと映り込む黒い影が、ゆっくりと、けれど滑るような速度でこちらへ迫ってくる。
湿った濃密な空気と、死体を思わせる泥の匂い。
それだけで、全身の細胞が、拒絶反応でガタガタと震え出す。
「逃げろ……!!」
引きつった俺の口から出たのは、ただその一言だけだった。
心臓が焼けつくように痛み、呼吸が追いつかずに荒くなっていく。
だが、そんな俺たちの背後から、不快極まりない湿った音が、不気味に追い詰めるように響き渡った。
――ベチャ、ベチャ、ベチャ、ベチャ……。
霧に包まれた底なしの湿原で、俺たちはただひたすらに、前だけを見て走り続けた。
心臓が破裂しそうなほど強く脈打つ。
俺たちの息はすでに完全に上がっており、冷たい空気を吸い込むたびに肺が内側から焼けるように痛んだ。
足元の泥は容赦なく重く、踏み出すたびに靴が吸い付いて、まるで地面から無数の手が足を引っ張っているかのようだ。
それでも、無理やり泥を引きちぎるようにして足を前へ出す。
こうして必死に逃げながらも、俺はある「致命的な異変」に気づき始めていた。
だが――それを今、口にすることだけはしなかった。いや、絶対に口にしたくなかった。それを認めたら、本当に心が折れてしまうからだ。
その時、すぐ横を走っていた啓太が、喉を詰まらせ、息を切らしながら絶望的な声をあげた。
「お、おかしくないか……!? 隼也……っ!」
「ハァ、ハァ……何がだよ……!」
「俺たち、結構な時間走ってるのに……」
霧の向こうの景色を見据えながら、啓太は狂いそうな声で言葉を続ける。
「同じところを、ずっとぐるぐる走ってないか……!?」
その瞬間、俺は堪えきれずに叫び声をあげていた。
「お前はなんで!! そういう事をわざわざ口に出すんだよ……!!」
「ひっ……!」
「そういうのは、気づいても絶対に言わないんだよ……!!」
恐れていた通り、言葉にした瞬間、世界のルールが確定するように視界の端に見覚えのある黒い影が現れた。
霧の中、湿った泥の上にべったりと横たわる、特徴的な歪な倒木。
さっき、俺が走りながら確かにスニーカーの先で蹴飛ばしたはずの木が、全く同じ位置、同じ角度でそこに転がっていた。
背筋が、ぞくりと音を立てて凍りつく。
やっぱりだ。俺たちは――この霧の女の手によって、同じ場所を無限に走らされている。
背後から、あの嫌な湿った足音が、さらに速度を上げて近づいてくる。
ベチャ……ベチャ……ベチャ……。
泥を激しく踏みつけるような、粘り気のある足音。
もう、振り向かなくても距離が分かる。あの女が、確実に、すぐそこまで距離を詰めてきているんだ。
背中にピタリと張り付くような、冷たくてねっとりとした不快な感触が、霧の向こうからじわり、じわりと押し寄せてくる。
そして――ついに、あの悍ましい声が、直接耳元に届く距離まで肉薄した。
『私に……ちょうだい……』
湿った怨念の声が、白い霧の中にねっとりと滲む。
『私と……ずっと……一緒に……』
一緒に? 誰に言っているのかなんて、考えている余裕は1ミリもない。
その瞬間――横を走っていた啓太が、短く悲鳴をあげた。
「っわ! な、何か足首を掴まれ――ッ!!」
「啓太!?」
よろめき、泥の中に倒れ込みそうになる啓太。
見ると、彼のズボンの裾、泥まみれになった足首のあたりに――人の指の形をした、黒く濡れた手形がくっきりと浮かび上がっていた。
湿った死人の手の感触が、冷たく肌に張り付いたまま、どうしても離れない。
背後にいるのは確かに――あの泥塗れの女だ。
くっきりと残された、黒い手形。
泥に濡れた、指の節の形まで、恐ろしいほどはっきりと見えていた。
背筋が完全に凍りつく。本当にまずい。もう――文字通り、触れられる距離まで来ているんだ。
「いいからとりあえず走れぇぇ!!」
俺は半狂乱で叫びながら、よろめく啓太の腕を強引に引っ張り上げた。
重たい泥を力任せに蹴り上げ、足元を気にする余裕すらなく、ただ必死に前へ前へと突き進む。
その俺たちの背後から、低く、湿った女の声が響く。
『待って……』
霧の中で、空間そのものが引き伸ばされるように声がゆっくりと伸びる。
『私のものに……なって……』
ベチャ! ベチャ! ベチャ!
泥を踏みつける音が、次第に大きく、激しくなっていく。すぐ、本当にすぐ後ろまで迫っている。
『一緒に……いよう……?』
全身から嫌な冷や汗が溢れ出す。
肌を容赦なく這い回る湿った空気。
息を吸い込むたび、鼻をつくのは、水分を含んだ不快な土の匂いと、古いカビのような、死骸のような強烈な異臭が混ざり合ったものだった。
もう、湿原の入り口なんてどこにも見えない。
白い霧が、世界のすべてを完全に飲み込んでしまっていた。視覚も、距離感も、空間の感覚さえも、まるで全てを狂わされていくようだ。
振り向かなくても、完全に理解できる――。
すぐ、耳の後ろに、そいつがいる。
耳元で、女の冷たい息のような声が、ねっとりと滲み込んできた。
『私の……元に来て……』
心臓が凍りつく。
『ここで……ずっと……二人で……』
声は、少しずつ、けれど確実に、ミリ単位で俺たちとの距離を詰めてくる。
霧と、泥と、湿気に混ざり合いながら、全身にまとわりついてくる純粋な悪意の塊のようだった。
俺の背中に、冷たい悪意そのものが、べったりと張り付く。
ゾクリと背筋が激しく震えた。
――確信した。アイツ(小さな足音の怪異)とは、まったく違う。
これは――救いようのない、命を奪うための『悪意そのもの』だ。
ポン、と肩に触れたその感触は、氷のように冷たく、粘りつくようで、一瞬本気で息が止まった。
抗えず、ゆっくりと首を振り向くと――。
黒く濡れた、泥で汚れた生々しい女の手が、俺の肩の上に生えてきたかのように乗っていた。
思わず叫び声をあげるより早く、俺は狂ったように肩を激しく振って、その手を振り払った。
ふわり――。
幸いにも、空気の中でその手は霧のように一度消え去り、ただ周囲に強烈な湿った死臭だけが残された。
「もう……もう無理だ……! 走れない……っ!」
啓太の声が、絶望に震える。
だが、今の俺には、それに反応して言葉を返すだけの心の余裕すら、1ミリも残されていなかった。
耳元で、再び女の声がねっとりと張り付いてくる。
冷たく、湿った悪意に満ちた声――。
しかしその時、その悍ましい声の隙間に混ざるようにして、もう一つの、か細く消え入りそうな声が、俺の頭の中に響いた。
『こっち……来て……ここで……ずっと……』
その瞬間だった。
濃密な霧の中、濡れた草むらをかすめるようにして、パッと小さな、淡い光が跳ねるのが見えた。
その冷たさと湿り気の世界の中に、わずかに混ざり込んだ、確かな『温もり』。
それは、俺たちをこの最悪の結末から逃がすための、唯一の正しい脱出路を示しているかのように見えた。
「アイツについていくぞ!! 啓太っ!」
俺が叫ぶと、啓太ももう迷うことなく、その小さな光の足跡を追って必死に脚を動かした。
霧の壁を切り裂くようにして、細い獣道をすたすたと躊躇なく進んでいく小さな足音。
その光が、前方の茂みへと大きく飛び移った瞬間。
俺たちの目の前には、底が全く見えない、深く暗い「巨大な溝」が口を開けていた。
一歩でも足を踏み外せば、奈落の底へと真っ逆さまに落ちて、二度と人間の世界へは戻れないだろう、そんな底知れない恐怖の溝だ。
「あ、あそこって……! 飛べるわけない……っ!」
啓太が恐怖で声を震わせ、一瞬足を止めかける。
だが、もう俺たちに選択肢なんて、残されていなかった。
すぐ背後からは、泥まみれの女の足音が――
ベチャ、ベチャ、ベチャ、ベチャ……!!
激しい湿った音が、耳を劈くほどの大きさで近づき、完全に距離を詰めてきていた。今ここで立ち止まれば、確実にあの女のものになる。
「行くんだよ!! 行くぞぉぉ!!」
俺は叫びながら、啓太の背中を全力で押し出した。
重たい泥に吸い付く足を無理やり蹴り上げ、濡れた草を強く踏みしめて、二人でその暗い溝の向こう側へと、勢いよく身体を投げ出す。
視界が、一瞬にして完全な闇と白い霧の中に溶けた。
地面の感覚は消失し、深い溝の底へと、どこまでも落ちていくような無重力の感覚。
湿った土と泥の匂い、冷たい空気、そして耳元をかすめていく女の最後の呪詛の声――。
そのすべてが俺たちの身体を押し潰すように重く圧し掛かり、世界のすべてから逃げ場を奪っていく。
俺は思わず、恐怖のあまり強く目を瞑った。
――ドンッ!!!
背中に強烈な衝撃が走り、激しい痛みと共に、泥と湿った草の青臭い匂いが一気に鼻を突いた。
「……う、ぐっ……!」
痛みを感じながら、ゆっくりと恐る恐る目を開けると――。
あんなに深く立ち込めていた不気味な白い霧は、綺麗さっぱりと、すっかり晴れ渡っていた。
雲の隙間から差し込む眩しいほどの日差しが、青々と湿った草むらを静かに照らしている。
視界に広がる雑草の葉は、泥と朝の瑞々しい水滴を全身に受けて、まるで宝石のようにキラキラと美しく光り輝いていた。
ポツリ、ポツリと、草の葉から滴り落ちる水滴が小さな音を立て、さっきまでのあの世のような恐怖の記憶が、現実の光の中に遠く溶けていくようだった。
俺たちは、湿原の入り口近くにある深い排水溝の中に、重なるようにして倒れ込み、全身泥まみれになっていた。
服は水分を吸って酷く湿り、髪は重く、全身が芯から冷え切って鉛のように重い。
それでも。
あの泥の女から、完全に逃げ切れたのだという絶対的な実感が、胸の奥の方でじわりと、確かな温かさを帯びていくのを感じていた。
「……はぁ……っ、ふぅ……っ……」
俺の横で、啓太が泥だらけになった手で自分の顔を何度も拭いながら、か細く、けれど生きて戻れた安堵の息を漏らした。
俺はその横で、しばらくの間、空を見上げたままどうしても立ち上がることができずにいた。
目の前には、温かい太陽の光に照らされた、雑草たちの穏やかで、ありふれた現実の世界が広がっている。
鼻をくすぐる湿原の爽やかな匂いと、心地よい冷たさ、そして肌に残った確かな泥の感触。
けれど、背中にまだべったりと張り付いているような、あの悪意の手の恐怖の余韻が、今も静かに俺の心を激しく震わせ続けていた。
助かった――。逃げ切ったんだ。
その凄まじい安堵感と、湿原の奥底に確かに潜んでいた、あの悍ましい恐怖の記憶が、頭の奥底に消えない焼き印のように焼き付いて離れなかった。
風もなく、すべてが静止した現実の世界の中で。
俺たちは泥にまみれたまま、いつまでも、いつまでも荒い息を整え続けていた。
これが――俺たちの、10日目の旅の終わりだった。




