11日目 女の跡
昨日の、あの湿原での狂気の顛末のせいで、俺たちは夜の間ほとんど眠ることができなかった。
目を閉じれば、暗闇の向こうからあのベチャ、ベチャという泥を踏む足音が再生される。
そして何より、背中にべったりと張り付いたまま離れない、あの凍りつくような冷たい感触。あの泥塗れの女の手が俺の肩に直接触れた瞬間の、粘り気を帯びた得体の知れない冷たさが、朝を迎えてもなお、皮膚の表面からどうしても消えてくれないのだ。
重い身体を引きずるようにして、啓太が先に狭いシャワー室に入っていった。
その直後だった。
――ァ、ァガッ……!!
短い、けれど喉を詰まらせたような悲鳴が、乾いた音を立てて脱衣所に響き渡った。
「啓太!?」
俺は反射的にベッドから立ち上がり、そのままなりふり構わずシャワー室の中へと踏み込んだ。
脱衣所の冷たい床の上に、啓太が全裸のまま力なく座り込んでいた。
顔面は完全に土気色に青ざめ、その視線は、自身の右足首の一点に完全に凝固している。
「おい、どうした……!? 何があった!」
俺が肩を揺さぶると、啓太はガタガタと震える指先で、静かに自分の足元を指し示した。
俺もゆっくりと、促されるように視線を落とした。
「――っ」
目にした瞬間、あまりの衝撃に本気で息が止まった。
俺は思わず自分の口を手で強く押さえ、胃の奥から一気に込み上げてきた激しい吐き気を、喉を鳴らして必死に飲み込んだ。
そこには――。
啓太の白い足首の皮膚に、くっきりと、黒く濡れたような人の『手形』が残されていた。
いや、それだけじゃない。手形の形に沿って、彼の皮膚が――まるで強酸でも浴びせられたかのようにドロドロに焼けただれて崩れ、赤黒くグズグズに変色していたのだ。
あまりにも悍ましいその肉体の損壊を視界に入れただけで、俺の喉の奥がヒリついた。
「……い、痛くないのか……? 啓太……」
恐る恐る、声の震えを隠せずに尋ねる。
啓太は、呪縛が解けたようにゆっくりと首を横に振った。
「……不思議と、痛みは……全くないんだ。1ミリも」
その静かな一言を聞いた瞬間、俺の背筋に本物の氷を叩きつけられたかのような悪寒が走った。
視覚的には、完全に皮膚が壊死して爛れている。こんな状態で、痛みが全くないはずがない。
――おかしい。何かが、致命的に狂っている。
昨日の湿原での出来事が、濁流のように頭の中をよぎる。
あの女の、泥の手。
あの粘りつくような冷たい感触。
……待てよ。俺も昨日、あの女に思い切り肩を触られたはずだ。
俺は半狂乱のまま、自分の着ていたヨレヨレのTシャツの襟を掴み、力任せに強く引き下げた。
白い日差しの中に、右肩が剥き出しになる。
鏡に向かって、狂ったように視線を落とした。
――あった。
啓太の足首と、全く同じ形の、禍々しい黒い手形。
そして――。
その形に沿って、赤黒く、醜く爛れ落ちている自分の皮膚。
「うわっ……、あ……」
思わず、情けないほどに声が震えて漏れた。
その怯えきった声に反応して、床に座り込んでいた啓太の肩がびくりと小さく揺れた。
「ど、どうしたんだよ、隼也……?」
啓太の虚ろな視線が、俺の剥き出しになった右肩へと向けられる。
一瞬、脱衣所に張り詰めたような重苦しい間が空いた。
それから――。
「……ハハ、お揃いだな、俺たち」
それは、あまりにも力のない、乾いた苦笑いだった。
こんな絶望的な状況であるにもかかわらず、アイツはそんな冗談を口にする。
「……お前さ、そういう不謹慎なとこ、ほんと昔から嫌いだわ」
言葉を返しながらも、それ以上強く咎めることはできなかった。なぜなら、俺自身も全く同じ「終わりの兆候」をその目で見てしまっているからだ。
身体に刻みつけられた、あの泥の女の手形。
焼けただれたような、死人のような皮膚。
ふと洗面台の鏡に映った自分たちの姿を見ると、まるで別人みたいに酷くやつれ果てていた。
血色は完全に消え失せ、顔色はまるで乾いた土のようにくすみ、目の下にはどす黒い隈がべったりと浮かんでいる。
肩や首筋の奥底に、まだあの冷たく湿った感触が根を張って残っているような気がして、何度も無意識に身震いを繰り返した。
――明らかに、普通じゃない。完全に一線を越えている。
俺たちは、この肉体の異変のすべてを“昨日の湿原の女”の呪いのせいだと思っていた。
現に触られた場所に跡がついているのだから、それ以外に考える余念もなかった。
でも――。
なぜか、脳のいちばん深い奥底のあたりに、ずっと消えない違和感が引っかかり続けている。
昨日今日で始まったことじゃない。最初からだ。この北海道の旅が始まった、ずっと最初から感じていた、あの奇妙な違和感。
羽田空港のゲートをくぐった、あの時。
ふとした瞬間に、何度も脳裏をよぎっては消えていく“何か”の残像。
それが一体何なのか、今の濁った頭ではまだどうしても思い出せない。
けれど――。
ひとつだけ、細胞レベルで確信していることがあった。
この異常事態は、あの湿原の女だけの問題じゃない。もっと根本的な『何か』が、俺たちの旅の裏で動いている。
朝からの目覚めは、文字通り最悪だった。
鏡であんな冒涜的なものを見せつけられて、平気な顔でいられるわけがない。
身体は鉛のように重く、頭の中には常に薄いモヤがかかったようにぼんやりとしている。
ここ数日、ほとんどまともな睡眠をとれていないせいで、まともな思考力すら奪われかけていた。
視界の端を意識するたびに、まだあの白い霧の中の不気味な気配がちらつくような錯覚さえ覚える。
それでも――。
この宿に、もうこれ以上は1分たりとも居座りたくなかった。
あの最悪な湿原のすぐ近くでこれからの時間を過ごすなんて、考えるだけで精神が狂いそうだった。
俺たちは、ほとんど一言も言葉を交わさないまま、機械的に荷物をまとめて準備を済ませる。
東京から持ってきた服はなぜかいまだに湿っぽく、髪も重く、荷物を詰める手は小刻みに震えていた。
互いに充血した目を擦りながら、逃げるようにレンタカーのシートへと乗り込む。
次の行き先は――ひとまず、空港の近く。
とにかく、あの女のいた湿原から物理的に距離を離す。今の俺たちには、それだけが唯一の目的だった。
車は、山を越えるための峠道に向かって走り出す。
生い茂る山の中を貫く一本道。迷うような脇道はない。
車の窓を少しだけ開けると、北海道の冷涼な空気が肺の最深部まで染み渡り、狂いそうだった心を少しだけ静かに落ち着けてくれた。
本格的な峠の山道に入る手前で、俺たちは見かけたコンビニへと車を滑り込ませた。
自動ドアをくぐると、白い蛍光灯に煌々と照らされた店内はやけに明るく、現実味が強くて――。
さっきまで脱衣所で怯えていた出来事が、まるでタチの悪い白昼夢だったのではないかとすら思えてくる。
だが、服の下の右肩に残る冷たい感覚は、まだ確実に、微かにそこに残っていた。
「おい隼也、お前すごい量買うな?」
カゴに商品を放り込んでいく俺の様子を見て、後ろから啓太が覗き込んできた。
見れば、自分のカゴの中には、おにぎりや弁当といった定番のものの他に、普段なら絶対に選ばないようなやたらと大量の菓子類や甘い飲み物が敷き詰められていた。さらには、エナジードリンクも何本も突っ込んである。
限界に近い疲れと過度な緊張のせいで、無意識のうちに身体が栄養を欲して手が伸びていたのだろうか。
「……そう言う啓太だって、結構な量カゴに入れてるだろ」
軽く軽口を返しながらも、俺の右手はなぜか、勝手にスナック菓子の棚へと伸びていく。
もう、二人分としては十分に過剰なはずなのに――。
なぜか脳の命令とは裏腹に手が止まらず、無意識のうちに追加の飲み物を次々と手に取っていた。
不思議なことに、商品を手に取るたびに、背後の空間から微かな気配がして、ゾクリと首筋が粟立つような感覚がある。
自分でも、明らかに買いすぎだと自覚している。
それなのにどうしても拒絶するように手が動いてしまい、気づけばカゴの中身は山盛りになっていた。
「……お前、マジで寝不足で頭おかしくなってんじゃねえの」
啓太が半分呆れたように、けれどどこか安心したように小さく笑う。
「かもな」
俺は力ない苦笑いを返しながら、重たいカゴをレジへと運んだ。
会計を終え、店員の事務的な笑顔に軽く頷いて、外の冷気の中へと出る。
買い込んだ大量の袋を放り込んだ後部座席の空気は、昨日の壮絶な出来事の影響もあってか、いつもよりずっと静かだった。
目には見えない。けれど、そこには確かに、何かがじっと小さくなって座っているような、明確な『気配』があった。
背筋にぞくりとした冷たい感覚を残す、とても慎重で、こちらの様子を窺うような警戒心の混ざった気配。
それなのに――不思議だった。
昨日、あの濃霧の湿原で俺たちの命を狙ってきたあの女に比べたら、この後部座席の気配は、ずっと、ずっと“人間らしい”温かみを含んでいる気がしたのだ。
「……なんか、あいつ今日はやけに元気ないな」
フロントミラー越しに横目で後部座席の空間を見やりながら、啓太がぽつりと呟いた。
「昨日の命がけの脱出劇が、あいつなりに尾を引いてるんだろ。俺たちを助けるために無理したんじゃないか?」
俺もハンドルを握りながら頷く。
俺たちはもう、この異常な恐怖に、どこかで慣れ始めていたのかもしれない。
いや――慣れたというよりは、あまりに非現実的な日常が続きすぎて、感覚が根本から麻痺してしまっているのだ。
あの湿原での悍ましい臨死体験ですら、今の俺たちにとっては「背筋が少し冷える程度」のイベントとして処理されようとしていた。
後部座席のその存在感は、時折、車の揺れに合わせて微かに俺たちの肌を優しく撫べるような、奇妙な感触だけを残し続けている。
見えないのに、確実にそこに『いる』――。
その異様なまでの安心感と、怪異と同乗しているというわずかな緊張感が交錯した不思議な感覚が、静かな北の大地の朝にゆったりと漂っていた。
俺たちの車は、再びゆっくりと動き出す。
窓をさらに少しだけ開けて、山の中の新鮮で瑞々しい空気を深く吸い込んだ。
クネクネと激しく曲がる峠道、窓の外を流れる木々の緑のざわめき。
昨日まで俺たちの心を黒く支配していたあの暗い霧のような気持ちが、この疾走感の中で少しずつ霧散していくようだった。
「峠のドライブなんて走ったことなかったけど……結構、気持ちいいもんだな」
流れる景色を眺めながら、俺の口元に自然と本物の笑みが浮かぶ。
「そうだな。東京じゃこんな景色、絶対に見られないしな」
隣の啓太も、少しだけ楽しそうに表情を緩めていた。
そのときだった。
車の背後から、カタッと小さく、窓のロックが外れてガラスが下がる音が響いた。
俺と啓太は、咄嗟にバックミラー越しにすべてを理解した。
――あの後部座席の静かな存在が、自ら少しだけ、窓を開けたのだ。人間みたいに、外の風を感じたがっているみたいに。
「お、少しは元気になってきたか?」
啓太が、誰もいないはずの後部座席の空間に向かって、優しく語りかけるように声をかける。
車内の空気がふっと優しく揺れた。まるで、あいつなりの静かな返事のように――。
姿は見えなくても、そこに確かに息づいている温もりを、俺たちははっきりと感じていた。
俺は、そんな後部座席のアイツを少しでも元気づけてやりたいと思い、ふと思いついた提案を口にした。
「……なぁ、この先にある街に、確か有名な『アイヌ博物館』があるはずなんだ。せっかくだし、ちょっと寄っていこうぜ」
その言葉を発した瞬間、ミラー越しに見える後部座席の雰囲気が、いつもの調子を取り戻したように変化した。
小さな身体をちょこんと動かして、ふんわりと嬉しそうに笑っているような、そんな愛らしい気配が確かに見えた気がした。
アイツも、昨日の疲れから少しずつ調子を取り戻してきたのだろう。
こうして、俺たちはまた静かに車を走らせた。
自分たちが一体、何をこの車に連れて旅をしているのか――その本当の正体を、まだ何一つとして知らないまま。




