11日目 身体の異変
峠をゆっくりと下り、山間にひっそりと佇む小さな町に出た。
確かに人の営みや気配はあるはずなのに、世界から音だけが消え去ってしまったかのように、どこか静かすぎる不気味な町だった。
俺たちはそこに留まることなくそのまま通り過ぎ、再び鬱蒼とした山道へと車を走らせる。並走するように、すぐ横を大きな川が流れていた。
かなりの高低差があるせいか、激しく波立つ水の音は車内まで一切届かない。
ただ、窓越しにその水面を眺めているだけで、車内の空気に妙に冷ややかな涼しさが混じり始めるのを感じた。
最初はエアコンの風のせいだと思った。だが、設定温度のダイヤルはさっきから一切変えていない。
車の窓は完全に閉まり切っているというのに、なぜか俺の指先だけが、芯からジンジンと冷えていく。
どれほど走り続けただろうか。
同じような、狂ったような緑の景色が、やけに長く、果てしなく続いた気がした。
時間の感覚が麻痺し、どれくらいの時間が経過したのか分からないまま、気づけば車は目的地のアイヌ博物館の駐車場へと滑り込んでいた。
薄暗い施設の受付で、入館料金を払うために列に並ぶ。
ようやく俺たちの順番が来て、カウンターの前に立った、その瞬間だった。
「いらっしゃいま――」
対応しようとした受付の女性が、ふっと息を呑んで表情を不自然に固めた。
お釣りを渡そうとした彼女の手がピタリと止まり、そのまま、俺と啓太の顔を穴が空くほどじっと見つめてくる。その瞳には、明らかな困惑と、微かな恐怖が混ざり合っていた。
「……あの」
女性は周囲の様子を窺うように、ひどくためらう風に声を潜めた。
「大丈夫、ですか……?」
「何がですか?」
あまりの不躾な視線に、俺は思わず眉を潜めて聞き返す。
女性は視線を泳がせ、何度も言葉を選び直すようにして、震える口を開いた。
「その……失礼ですが、かなり、お疲れのように見えましたので。お顔の色も……その、少し……」
それ以上は、言葉を濁して言おうとしなかった。
俺は怪訝に思い、すぐ隣に立つ啓太の顔を見た。
――言われてみれば、やけに、木の皮みたいに頬がげっそりとこけて見える気がした。
けれど、それが今の啓太にとって“おかしいこと”なのかどうか、俺の頭ではもう正しい判断が下せなくなっていた。
「大丈夫です。連日の運転で、ちょっと寝不足で疲れてるだけなんで」
啓太は、至っていつも通りの、何の変哲もない調子で笑って答えた。
女性はまだ何かを強く訴えたげな目で見つめていたが、結局はそれ以上踏み込んでくることはなく、どこか怯えた様子で会計を済ませた。
俺たちは、何の疑問も持たずに『もう一枚分』のチケットを当然のように買い足して、その場を静かに離れた。
館内のトイレに入る。
手を洗おうとして、何気なく正面の鏡を見た瞬間、俺の足が凍りついたように止まった。
――俺、元からこんな顔、してたか……?
鏡の中の男は、頬の肉が削げ落ち、目の下には死人のような昏い影がベッタリと浮いている。
蛇口をひねる自分の腕も、記憶にあるより二回りは細く、まるで行者のように枯れ果てていた。
今朝の自分の姿を懸命に思い出そうとしても、頭のモヤに遮られてうまく像が結ばない。
確かに、何かが劇的に変わってしまっている気がする。
けれど、どこがどう変わってしまったのか――その決定的な異常が、はっきりとは、分からなかった。
トイレを後にして、薄暗い館内を静かに見て回る。
薄暗いガラスケースの中に展示されているのは、アイヌの深い歴史や当時の衣服、儀式に使われた槍など。
人の少ない静かな空間に、俺たちの靴の足音だけがやけにコツコツと響き渡っていた。
――その足音の中に、もう一つ。
ぱたぱた、ぱたぱたと、衣服をはためかせるような、軽くて小さな足音が明確に混じり始める。
俺は思わず、その足音が聞こえる空間に向けて、父親のような優しい声を向けた。
「おい、館内であんまり走るなって。他のお客さんもいるし、危ないぞ」
隣の啓太も、親戚の子供をあやすように苦笑しながら言葉を続ける。
「そうそう。ここで転んだら、床が固いから痛いぞー」
もちろん、誰もいない空間から返事はない。
それでも、その見えない足音は、俺たちの言葉を理解したかのように、少しだけ遠慮がちに遠ざかった気がした。
――背筋の奥に、微かな違和感が残り続けている。
姿の見えない、けれど確かにそこにいる何かの存在。
けれど、不思議なほど、それが怖いという感情は1ミリも湧いてこなかった。
ただ、妙にそいつがそこに“いる”ことが、世界の理としてあまりにも自然に感じられるのだ。
この静謐な空気の中で、俺たちはすでに、何一つ抵抗することなくそれを受け入れていた。
ふと、強烈な視線を感じて周囲を見渡す。
いつの間にか、周囲にいた数少ない他の観光客たちが、一斉にこちらを凝視していた。
いや――正確には、俺たち二人だけを、まるで見世物小屋の怪物でも見るかのような目で凝視しているのだ。
その視線は、単なる好奇心というよりも、「関わってはいけない、理解不能な異形の存在」を見るかのような、本能的な忌避感に満ちた目だった。
少し遅い昼食を取ることに決めて、館内に併設された食事処に入る。
アイヌの伝統料理が食べられるらしく、物珍しさもあってそれをいくつか注文した。
運ばれてきた料理を一口、口に運ぶ。
「……あ、意外とこれ、美味いな」
思わず呟くと、向かいの啓太も何度も深く頷いた。
「ほんとだ。素朴だけど、俺これすごく好きかも」
ふと、テーブルの向かい側の席に目をやる。
そこには、主のいないはずの席に、アイヌの伝統的な料理がもう一皿、手つかずのまま静かに置かれていた。
――ああ、そうか。
俺たちは注文する時、何の疑問も、何の違和感も持たずに、最初から『もう一皿』を余分に頼んでいたのだ。
そこにいるアイツが、それを食べるかどうかも、分かりもしないのに。
「……食べるのか?」
俺は何気なく、誰もいない向かいの空間に声をかける。
やはり、返事はない。
俺と啓太が自分の分の料理を食べ終わる頃、ふと向かいの皿に視線を戻した。
――皿の上は、綺麗に空っぽになっていた。
さっきまで、確実に手つかずのまま湯気を立てていたはずの料理が、汁一滴すら残さずに消え失せている。
「……なぁ、これ、いつ食べた?」
啓太がスプーンを握ったまま、小さく声を震わせて呟く。
俺も必死に今の数十分間の記憶を思い返そうとするが、その瞬間、その空間の記憶だけが、頭の中から綺麗に、1ピース丸ごと抜け落ちていた。
食べた音も、器が動いた気配も、何も思い出せない。
それなのに――“綺麗に食べ終わっている”という厳然たる結果だけが、そこに確かに存在していた。
……まあ、でも、食べたんならいいか。
俺たちは特にそれを深く気にする風もなく、ごく自然に席を立って伝票を持った。
博物館を一通り見終えて外に出ると、気づけば山の端に日が少し傾きかけていた。
そのまま静まり返った車に乗り込み、今日の目的地である近くの温泉宿へと向かう。
事前に予約していたその宿は、やけに新しく、綺麗だった。
最近建て替えられたばかりなのか、ロビーも廊下もどこもかしこもピカピカに新しい。
――けれど。なぜだろう、これほど立派な宿なのに、人の気配が、不自然なほどに少しだけ薄い気がした。
客室に入り、俺は洗面所の大きな鏡の前に立った。
なんとなく、今の自分の本当の姿を、もう一度だけ確かめておきたくなったのだ。
上着を脱ぎ捨て、さらにTシャツを脱いで上半身を完全に晒す。
右肩には、あの湿原の泥の女につけられた、禍々しい手の跡がくっきりと焼き付いたままだ。
皮膚が強烈に爛れて歪んだ、おぞましい形。
――なのに、未だに痛みは全くない。
指先でその爛れた肉に直接触れてみても、何も感じない。そこだけ、自分の身体ではない別の物質に置き換わってしまったみたいだった。
そのまま、視線を下に落とす。
自分の脇腹のあたりの骨が、皮を突き破らんばかりに、やけに鋭く浮き出て見えた。
「……俺、こんなに痩せてたっけか……?」
思わず、独り言のように呟く。
「後ろも、すごいことになってるぞ」
いつの間にか脱衣所に入ってきた啓太が、俺の背後に立っていた。
「背中、ほとんど肉がない。骨だけだ」
鏡越しに、自分の背中を確認する。
そこには、背骨と肩甲骨の形が、まるで解剖図のように妙にくっきりと浮き出て、不気味な陰影を作っていた。
――俺は、こんな化け物のような身体を、元々していただろうか。
必死に思い出そうとする。
けれど、北海道に来る前の、東京にいた頃の自分の健康的な姿は、霧の向こうにあるようにうまく浮かび上がってこない。
代わりに――脳の奥で、恐ろしい思考が馴染んでいく。
――いや、これでいいんだ。これで、普通だった気がする。
「啓太、お前の足首はどうだ?」
俺は視線を床に落とす。
啓太が静かに、ズボンの裾を膝の上まで捲り上げた。
そこには――。
俺の右肩と全く同じ、黒く濡れたような女の手の跡が、肉に深く食い込むようにして残されていた。
皮膚の繊維にまで怨念が食い込んでいるような、くっきりとしたその痕跡。
「……うん。俺も、やっぱり全然痛くないんだ」
啓太はそう言って、今度は自分の服を胸の上まで捲り上げた。
彼の肋骨もまた、鳥の籠のようにうっすらと、けれど生々しく浮き上がっていた。
「なあ……啓太、お前、それ――」
あまりの異常さに何かを言いかけて、俺の言葉は途中で不自然に停止する。
――おかしい。絶対に、何かが狂っている。はずなのに。
「……まぁ、旅の疲れもあるし、そんなもんじゃないか?」
俺の口から出たのは、そんな、すべてを容認するような調気の抜けた言葉だった。
啓太もまた、自身の肉体の崩壊を特に気にした様子もなく、あどけなく微笑んでいる。
鏡の中に並んで映る、餓鬼のように痩せ細った、土色の顔をした二人の男。
それなのに――その画面のどこがどう異常なのか、俺たちの脳は、もううまく言葉にすることができなくなっていた。
俺たちは、この致命的な異常さに気づかないフリをしたまま、宿の広々とした温泉に浸かった。
熱い湯に身体を沈めながら、ふと胸の奥の、最後の理性の部分に微かな違和感が引っかかる。
――何かが、決定的に、おかしい。
俺たちは、どこかで引き返せない一線を越えてしまったんじゃないか?
けれど、その違和感の正体を深く考えようとした瞬間、俺の意識は氷の上のようするりと滑り、思考の外側へと心地よく落ちていった。
まぁ、いいか。もう、どうでも。
そんなふうにすべてを濁流に流して、俺は静かに目を閉じた。湯の温かさだけが、妙に遠く感じられた。
その夜は、怪異の襲撃も、部屋の軋みも、特に何も起こらなかった。
ただただ、深く、死んだような静寂だけが部屋を満たしていた。
そして、翌日。
俺と啓太、そして――。
何一つとして疑うことなく、当たり前のように、“三人で”東京へ帰ることになった。




