後日談
東京に戻ってきても、俺たちの狂った身体はとうとう元には戻らなかった。
手足はまるで枯れ木のように痩せ細り、衣服の上からでも骨の輪郭がくっきりと浮き出ている。
それなのに、相変わらず痛みは一切ない。むしろ、鏡に映るこの異常な細さこそが自分たちの「本来の姿」であり、これが普通なのだとごく自然に思い込んでいる自分がいた。
我が家に戻った日の夜、俺の姿を見た母親は、硬直した顔で「……あんた、ちゃんと向こうでご飯食べてたの?」と聞いてきた。
俺は言葉に詰まり、少しだけ考え込む。自分が北海道の地で一体何を食べて、どう過ごしていたのか、なぜか具体的な記憶が霞の向こうにあってうまく思い出せなかった。
冷蔵庫を開けてみても、胃袋が食べ物を拒絶するように食欲は全く湧かない。それなのに、内臓を雑巾のように絞られるような強烈な「空腹の感覚」だけは、確かに体内に居座り続けていた。
あの後部座席にいた『アイツ』の気配は、東京に戻ってからはパタリと感じなくなっていた。
最初からこの世界に存在していなかったかのように、冷たい空気だけを残して、静かに消え去っていた。
今日は、東京の大学の友人と久しぶりに会う約束がある。
俺と啓太、そして――当然のように、四人で。
約束の駅の改札前で待ち合わせる。
平日の昼間だというのに、視界を埋め尽くす容赦ない人混みに、俺は立っているだけで少し眩暈を覚えた。
あの静寂に包まれていた北海道の土地とは、何もかもが違いすぎる。耳を刺す音も、肌をなでる空気も、すべてが狂おしいほどに騒がしい。
駅構内のアナウンスの声がガンガンと頭の奥に響き渡り、周囲を行き交う何百人もの足音が、やけに巨大な地鳴りのように腹に響く。
自分の行き先も、これから何をするのかも分かっているはずなのに、一瞬だけ、自分が今世界のどこに立っているのかすら見失いそうになる。
その濁流のような人混みの向こう側から、友人が大きく手を振ってこちらへ近づいてきた。
「おーい! お前らおかえり! 北海道どうだった?」
「おう、楽しかったぞ」
笑顔で距離を詰めてきた友人の足が、俺たちの目の前で、ふっと不自然に止まった。
その視線が、俺の顔を正面から捉えた瞬間――彼の顔から、文字通り一切の笑顔が消え失せた。
「……おい。お前、それ、どうしたんだよ?」
友人の声は、引きつるように低かった。
彼の視線は、怯えたようにゆっくりと俺の後ろの空間へとずれ、ちょうどその時、少し遅れて啓太が人混みを割ってこちらに駆け寄ってきた。
「な、なんだよ……急に深刻な顔して」
周囲の人間は立ち止まることなく、川の流れのように俺たちの横を通り過ぎていく。
それなのに、俺たちが立っているこのわずか数メートルの空間だけ、世界から切り離されたかのように妙に空気が重く、冷たく澱んでいく。
友人は、恐怖を隠しきれない様子でじりりと一歩後ずさった。
「お前ら……顔、いくらなんでもヤバすぎるだろ。何があったんだよ」
俺と啓太は顔を見合わせ、心底不思議そうに首を傾げた。
「そうか? 別に普通だろ」
信じられない、まるで生ける屍でも見るかのような友人の目。
「おかしいだろ……どう見ても異常だ。骨が浮いてるぞ」
友人は一歩、無理やり距離を詰めて俺たちの腕を掴んだ。
「病院行くぞ。今すぐだ。俺が連れてってやるから」
啓太の表情がわずかに曇り、その手を拒絶するように半歩身を引いた。
「……急に何言ってんだよ。大袈裟だな」
「大袈裟なわけあるか!!」
友人が、声を荒らげて啓太の右腕をガシッと掴んだ。
乱暴に引っ張られた拍子に、啓太はバランスを崩し、よろけて駅の冷たいコンクリートの床に強く手をついた。
その瞬間――衝撃でズボンの裾が跳ね上がり、彼のソックスとの隙間から、生々しい足首が露出した。
――黒ずんだ、人の手形。
皮膚の奥深くまで、強酸で焼かれたように食い込む形で残る、あの悍ましい痕。
それを見た友人の動きが、彫刻のように完全に停止した。
「……なんだよ、それ」
次の瞬間、友人は狂ったように床にしゃがみ込み、強引に啓太のズボンの裾を膝下まで捲り上げ、靴下を引き下ろした。
隠しきれるはずもない呪いの跡が、東京の駅の明るい光の中に、完全に露わになる。
「おい……おい、これ、何なんだよ……!」
友人の声が、恐怖で完全に裏返った。
「なんでこんなになってるんだよ……! 痛くないのかよ、これ……!!」
啓太は痛々しい足首を晒したまま何も答えず、ただ床にへたり込んだ姿勢のまま、ゆっくりと俺の方を見上げてきた。
その虚ろな視線には、不安も恐怖も、何の感情も宿っていない。ただ、昨日までと変わらない何かが、静かにそこに存在していることを示しているだけだった。
友人も弾かれたように顔を上げ、俺と目が合う――その瞬間、彼はすべてを察したような顔になった。
「……お前も、同じなのか?」
もう、逃げ場はどこにもなかった。
「どこだ」
友人の声が、地を這うように低くなる。
「どこをやられた。見せろ、隼也」
周囲を無数の他人が通り過ぎていく。誰も俺たちの異常な一幕に気を留めない。
俺は少しだけ迷った末に、諦めたように小さく呟いた。
「……右肩」
友人は俺の胸元に手を伸ばし、Tシャツの襟元を掴んで、力任せに強く引き下げた。
東京の騒がしい空気に触れた瞬間、そこに隠されていたものが、完全にその輪郭を現した。
――啓太の足首と、全く同じ、悍ましい漆黒の手形。
女の細い指の形が、肉を腐らせるようにくっきりと焼き付いている。
「……なんだよ、これ。何なんだよ、マジで……」
友人の両手が、ガタガタと小刻みに震え始める。
「お前らマジで、病院だ。今すぐ……いや、違う。病院じゃねぇ、これ病院の領分じゃねえよ……!」
男は狂ったように頭を振り、絶望に満ちた声を絞り出した。
「寺だ。今すぐ寺に行くぞ。祓ってもらえ、こんなの絶対に呪われてる……!」
血相を変えた友人が、俺と啓太の手首を、今度こそ逃がさないように全力で掴んできた。
骨と皮だけになった俺たちの身体は、驚くほど軽く、強く引かれただけで簡単に前へと引っ張られる。
だがその時、啓太が冷淡な力で、その友人の腕を思い切り振りほどいた。
ピタリと、世界の動きが止まる。
啓太は無言のまま、ゆっくりと自分の視線を、何もない斜め下の足元へと落とした。
「……どうしたんだよ、啓太」
友人の声が、微かに震える。
啓太は床の一点を見つめたまま、吸い込まれるように一歩、後ろに下がった。
――まるで、その何もない虚空の場所に、大切な“誰か”がちょこんと立っているのを見届けるみたいに。
「置いていけないよ。コイツも、ここにいるんだぞ」
啓太がそう呟いた、まさにその瞬間だった。
俺たちのすぐ横を通り過ぎようとした見ず知らずのサラリーマンが、何もないはずのその空間を避けるようにして、不自然に身を翻して肩を引いた。
一瞬、駅のホームの喧騒の中で、俺たちの周りだけ完全な沈黙が落ちた。
友人の顔から、一切の血の気が引き、紙のように真っ白になる。
遠くのスピーカーから、駅のアナウンスがワンワンと流れている。
反響のせいで、何を言っているのか正確には聞き取れない。
ただ――さっきから、ずっと全く同じ内容が、狂ったように繰り返されているような、奇妙な錯覚に囚われていた。
俺は凍りついた空気を誤魔化すように、慌ててポケットからスマホを取り出した。
「まぁまぁ、落ち着けって。そんなに怖がるなよ」
乾いた声で笑いながら、画面を友人に突きつける。
「ほら、これ見てみろよ。写真あるから――俺たちの旅行のさ」
友人は引き寄せられるようにスマホの画面を覗き込み、俺がスワイプする写真を、一枚ずつ、凝視するように確認していった。
新千歳空港のロビー。霧の摩周湖。緑の公園。ロープウェイの山頂。
どれも、ただの楽しい旅行の記録であるはずだった。
なのに――。
「……なぁ」
友人の指が、画面の上でピタリと止まった。
彼は震える二本指を画面に当て、ゆっくりとピンチアウトして、写真を限界まで拡大していった。
「これ……この、後ろに写ってる子供……誰だ?」
目を凝らして、その画面を見る。
――そこには、俺たちの知らない、見覚えのない小さな子供が写り込んでいた。
次の写真を見ても、さらにその次の写真を見ても、必ず、写真の構図のどこかに、その子供の姿があった。
場所が変わっても、構図が変わっても、それは絶対に、俺たちのすぐ近くに紛れ込んでいる。
「……現地で、俺たちの目で、確かに見たんだぞ……」
記憶が、急激に脈打ち始める。
けれど、撮ったその瞬間に画面を確認した時には――そこには何も、誰も写っていなかったはずだ。
「……いなかった。撮った時は、いなかったはずなんだ……」
どの写真を見ても、その子供は、ほんの少しだけ首を傾げ
て、こちらをじっと見つめている気がした。
「なんで……」
友人の声が、かすり傷のような声に震える。
「お前ら……なんでこんな子供を、ずっと連れて歩いてんだよ」
「なんでって――」
俺は言いかけて、言葉を失った。
だって、当たり前のように、そこに最初からいたはずなのに。
「……ずっと、最初から一緒にいたよな?」
俺は隣の啓太を見る。同じように首を傾げている啓太もまた、記憶を疑うように呟いた。
「……ああ。ずっと、三人で旅をしてたはずだ」
そのはずなのに――なぜだろう。今、スマホの画面をどれだけ拡大しても、そいつの『顔』だけが、どうしても思い出せない。
写真をどれだけ大きくしても、顔のパーツは不自然にモザイクがかかったようにぼやけている。ただ、その口元だけが、裂けるように鮮明に歪んで、こちらに向かって笑いかけていた。
背後の線路から、ガタゴトと凄まじい電車の進入音がした。
だが、その音だけが、なぜか遠くの世界の出来事のように、
酷く遠く感じる。
「お前ら……行く前、二人で行くって言ってたよな? 東京を出る時、子供なんて、絶対に一緒にいなかったよな?」
友人が放った、その決定的な一言。
その瞬間、俺の脳内で、世界のすべての歯車がガチリと音を立ててズレた。
頭を覆っていた濃厚な霧が、冷酷なスピードで、少しずつ、少しずつ晴れていく。
「……ああ」
俺はゆっくりと、操り人形のように頷いた。
「二人で……旅行に、行くって……俺たち、確かに言ってた」
なのに――あいつは、羽田空港のロビーの時点で、最初から俺たちの隣にいた。
「なんで……」
自分の口から出る声が、水底から響くように遠く感じる。
「二人しかいないはずなのに……なんで俺たち、あいつを連れて歩いてたんだ……?」
啓太も完全に言葉を失い、自分の両手を見つめたまま立ち尽くしていた。
次の瞬間――。
脳の決壊した堤防から、封印されていた『本物の記憶』が、一気に濁流となって流れ込んできた。
走馬灯のように、記憶の場面が目まぐるしく切り替わっていく。
地方の競馬場。ホテルのツインルーム。レンタカーのナビ画面。
そして――旅の最中、車のラジオや街頭スピーカーから、幾度となく流れていた、あの不快な『音』。
『――迷子のお知らせをいたします。青いTシャツに、黒いズボンを着用した、七歳くらいの男の子。海斗くん。お連れ様が案内所でお待ちです。海斗くん――』
脳裏に浮かぶ、レンタカーの予約確認画面。
そこに表示されていた、利用人数の欄に刻まれた、見知らぬ名前。
――あの時から、ずっとそこに。
「……海斗」
俺は思わず、その名前を声に出して呟いていた。
次の瞬間、指先から完全に力が抜け、握っていたスマホが床へと落下した。
パツン、とガラスが割れる乾いた音が、やけに巨大に響き渡る。
俺はそのまま、糸が切れたように脱衣所の床、いや、駅の冷たいコンクリートの上に尻もちをついた。
「おい! 隼也!! しっかりしろ!」
友人が慌てて俺の手首を掴み、引き起こそうとする。
すぐ横では、啓太もまた、自分の頭を両手で抱えながらガタガタと震えていた――あいつの脳内にも、今、すべてが気づいた顔で行き渡ったのだ。
床に落ち、画面の消えた黒いスマホのガラス面。
その暗暗とした鏡面の中に、ぼんやりと映り込む、俺たちの背後に潜む影。
小さな、子供の影。
その黒い画面の中で、小さな口元だけが、ゆっくりとおぞましく、耳元まで裂けるように歪んでいくのが見えた。
周囲の何千人もの雑音のざわめきが、一瞬にして、完全に遠のいた。
「――あ、が、あぁぁぁぁぁぁっっっっ!!!!」
突如として、右肩に、この世のものとは思えない凄まじい激痛が走り抜けた。
さっきまで、壊死したように何も感じなかったはずのその場所が、今、生身の肉を直接業火で焼かれているかのように熱く、激しく、のたうち回るほどの痛みを上げて主張し始める。
啓太もまた、自分の足首を押さえて、駅の床に転がりながら悲鳴をあげていた。
認知の歪みが解け、遅れてやってきた、これが『現実』の痛み。
感覚の麻痺という、あいつの優しい保護(洗脳)が剥がれ落ちた、世界の真実。
俺は、涙と脂汗で歪む視界の中で、ようやくすべてを理解した。
――あれは。
あの泥の女から逃がしてくれた、温かいアイツなんかじゃない。
あれは、旅が始まるその最初から、ずっと俺たちと一緒にいたんだ――。
『ちょっと変わった旅行記』、これにて【完結】となります。
数ある作品の中からこの物語に立ち寄り、二人の旅を最後の瞬間まで見届けてくださり、本当にありがとうございました!
皆様の心に、少しでも奇妙なシミを残すことができたなら、作者としてこれ以上の喜びはありません。
※最後になりますが、本作はフィクションであり、実在の地名や観光地とは一切関係ありません。作中の舞台となった場所に心霊現象や呪いなどの噂はございませんので、エンターテインメントとしてお楽しみいただけますと幸いです。
これまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました。また別の物語でお会いしましょう!




