8日目 豚丼
アイツが馬券を握りしめてベンチを軋ませるたび――。
俺の胸の奥には、冷たくて濃い霧がじわじわと立ち込めていくように、思考が重くなっていった。
これ以上、まともに考えてはいけない。脳が壊れてしまう。
俺は強引に思考をシャットアウトするように、さっきの馬券の元金のことを思い浮かべた。
そうだ、元金は啓太の財布から出たんだ。決して、アイツが自分で稼いで買った馬券じゃない。ただの偶然だ
そう思い込むことにして、俺は無理やり啓太に感謝する方向へと頭を切り替えた。
「なぁ、当たればやっぱり楽しいだろ?」
自慢げに聞いてくる啓太に、俺は努めてフランクに頷いてみせる。
「そりゃ嬉しいわ。俺が選んだマダラ模様の3番は、見事にビリだったけどな」
啓太はケタケタと腹を抱えて笑いながら、俺の顔を指さした。
「ハハハ! お前、マジで3番選んだのかよ? ギャンブルの才能なさすぎだろ!」
その物言いに少しカチンときたが、ふう、と深く息を吐いて気持ちを落ち着かせる。
「うるせぇよ。それより、啓太はよく1着なんて当てられたな」
話しながら、俺たちは現金への換金所に向かって歩き出した。
啓太が窓口に馬券を差し出すと、カサカサという心地いい音と共に、何枚もの野口英世が戻ってきた。
啓太は鼻をピクつかせながら、ニヤけそうになる口元を必死に手で抑えている。
「いやだからさ……これは、ホントにコイツが教えてくれたんだよ」
啓太はそう言って、また何気ない様子で自分の真横を向い
た。
だが――当然、そこには誰もいない。ただの冷たい空気があるだけだ。
俺はまた、喉の奥で息を呑んだ。
啓太にこうして指し示されれば、そこに何かが『居る』ことは嫌というほど分かる。いや、指し示されなくとも、肌を刺すような独特の気配は最初から感じていたんだ。
ただ、俺自身が、恐怖から逃げるために必死に目を逸らし続けていただけだ。
俺はどうしても、アイツらがどうやって意思疎通をしているのかが気になり、堪えきれずに聞いてしまった。
「……声なんて、聞こえないだろ? どうやって分かったんだよ、そんなの」
啓太は首を傾げたまま、しばらくの間、彫刻のようにピタリと動きを止めた。
「どうやって……。どうやってだろうな」
少し記憶を掘り起こすように虚空を見つめてから、ぽつりと言った。
「なんかさ、俺がマークシートを塗ろうとした時、モニターのオッズの数字が、そこだけパチパチって不自然に点滅したんだよな」
その言葉を聞いた瞬間、俺の脳裏にストレートな単語が浮かんだ。
――怪奇現象。そのものじゃないか。
「……それを見て、お前は何とも思わなかったのかよ?」
俺が引きつった声で聞くと、啓太はあっさりと、まるで明日の天気の話でもするように答えた。
「いや、だって。直感で『あ、コイツが教えてくれてんだな』って分かっちゃったし」
旅行の初日。あの寿司屋やホテルにいた頃、アイツは俺たちと一緒に怪異を怖がっていたはずだった。
なのに、今は違う。
啓太はもう、当たり前のように、そこに“居るはずのないもの”を受け入れ、日常のピースとして組み込んでしまっている。
胸の奥が、すうっと音を立てて冷えていく。
これは――本当に、まずい。啓太の精神が、完全にアイツらに乗っ取られかけている。
けれど、こういう時、一体どうやって友達を正気に戻せばいいのか、二十歳そこそこの俺には全く分からなかった。
俺は咄嗟に、これ以上その深淵に触れないよう、話題を逸らすことしかできなかった。
「……で、とにかく当てた奴の奢りなんだよな? 昼飯」
その瞬間、啓太の表情が一気にガチガチに曇った。
「あ……そうだったわ……。儲かった奴が奢るって、自分で言っちゃったんだっけ……」
たった今手に入れたあぶく銭を惜しむように、啓太は目に見えて肩を落として嘆いた。
俺はそんな啓太の背中をポンと軽く叩き、駐車場へと促す。
「よし、豚丼行こうぜ、豚丼!」
今度は俺が意気揚々と運転席に乗り込み、エンジンをかけた。昨日の夜、ラブホテルのベッドの中でこっそり調べておいた、地元でも評判の豚丼の店へと車を走らせる。
「お前、ナビも何も見ないで場所分かるのか?」
助手席から啓太が感心したように聞いてくる。
「分かるに決まってんだろ。お前みたいに勝手に目的地から逸れて走ったりしないからな。大人しくゆっくりしてろ」
少し混み合った市街地を走りながら、俺はふと、東京にある自分の住み慣れた街のことを思い出していた。
北海道のドライブは、確かにどこまでも自由を感じられる。遮るもののない広い空と、地平線まで続く一本道。
でも――。
やっぱり、俺は、あの狭くて騒がしい、いつもの住み慣れた街に帰りたい。
この長い旅の間で、俺はそのことを痛いほど痛感していた。
いや――後ろにいる「何か」のせいで、そう思わずにはいられなかったのかもしれない。
しばらくして、俺たちは目的の豚丼屋の駐車場に車を停め、店内へと足を踏み入れた。
そこは、少し寂れた、昭和の雰囲気を残す昔ながらの食堂だった。
横に長いカウンター席が並び、奥には畳の小上がりがある。
四人掛けのテーブル席は三つしかなく、こじんまりとした落ち着く空間だ。
「いらっしゃい!!」
厨房の奥から、店主のおじさんの豪快な声が響き渡った。
「空いてる席、どこでも好きなところに座りな!」
初対面なのに、親戚の親父のようになぜか気さくな人らしい。俺たちは少し圧倒されながらも、奥の四人掛けのテーブル席へと腰を下ろした。
お水はセルフサービスらしく、カウンターの横にコップと冷水筒が並んでいるのが見えた。
それに気づいた啓太が「俺が取ってくるわ」と席を立ち、すぐに戻ってきたのだが――。
啓太の両手には、当然のように『3つ』の水のコップが握られていた。
彼が何食わぬ顔で席に座るのを見届けながら、俺は自分の手元に置かれたコップを、じっと見つめた。
「……やっぱり。三人、なんだな……」
消え入りそうな小声で呟くと、メニューを見ていた啓太が顔を上げた。
「ん? 隼也、今なんか言ったか?」
「……いや、なんでもない」
俺たちは、豚丼を「3つ」注文した。
すると、厨房から注文を聞いていたおじさんが、大きな声でガハハと笑いながら言った。
「ガッツリ3人前ね! さすが若い男の子たちは、いっぱい食うねぇ!」
おじさんのその無邪気な言葉に、俺の心の中のツッコミが炸裂する。
いや、おじさん! 俺たち二人しか見えてないよね!? 二人で三人前食う大食いだと思われてるじゃん!
なんだか急に恥ずかしくなってきて、俺は運ばれてきた出来立ての豚丼を、誤魔化すように急いで口へと運んだ。
本場の豚丼は、甘辛いタレと炭火の香ばしさが絶品で、もの凄く美味かった。
窓の外には、抜けるような青空が広がり、遠くには十勝の緑豊かな山並みがゆったりと連なっている。
そんな美しい景色の中で、助手席側の啓太は、相変わらず俺の目には見えない「誰か」に向かって、楽しそうに美味い美味いと話しかけていた。
俺がその間に挟まっているせいで、店のおじさんや他の客からは、ただ男二人が向かい合って賑やかに話しているように見えているはずだ。
それだけが、今の俺にとってのせめてもの救いだった。
やがて俺も啓太も食べ終わり、テーブルの端に残された、もう一つの豚丼のどんぶりに目を向けた。
俺も釣られて、そちらを凝視する。
――空っぽだった。
タレの一滴、米粒の一つ、箸の包み紙すら動いていないのに。
ついさっきまで、山盛りの豚肉が乗っていたはずのどんぶりの中身は、綺麗さっぱりと『消失』していた。
啓太はそれを当然のように見届けると、財布を手に取って席を立ち、レジに向かっておじさんに話しかけた。
「おじさん、ごちそうさま。お会計お願い」
「おう! 美味かったか?」
「最高に美味しかったです」
店の奥から漂うタレの香ばしい匂いと、暖簾の隙間から吹き抜ける夏の涼やかな風が入り混じり、妙に心地いい。
久しぶりに、幽霊ではない“ちゃんとした生身の人間”と会話をした気がして、それだけで胸がじんわりと温かくなった。
豚丼を食べ終えた俺たちは、この地域で有名なお菓子屋の本店へと向かった。
チョコレートがコーティングされた丸いバームクーヘンが、特に人気のお土産らしい。大学の友人たちへのお土産も兼ねて、ここから一括で配送してもらう手続きをとることにした。
車を停め、俺たちは店の前で降りる。
トタン、トタン……。
背後から、どこか浮かれたような、小さなステップを踏む足音が聞こえてきた。
その軽快な音を聞くたび、俺の心はゲンナリと沈み込む。
この楽しそうな子供のような足音の主が、誰なのか、もう嫌というほど知っているからだ。
自動ドアをくぐって、お菓子屋の店内に入る。
中ではガラス越しに、職人さんたちがバームクーヘンを作る工程がそのまま見えるようになっていた。
金属の芯の周りで、何層にも重なった生地がゆっくりと回転しながら焼き上げられていき、バターと砂糖の暴力的なくらい甘い匂いが店いっぱいに広がっている。
工場見学のルートを一周して、売り場に並んでいる商品を眺める。
「やっぱり、お土産はこういう王道のバームクーヘンがいいか?」
俺が何気なく啓太に質問すると、啓太は迷わず一番大きなサイズの箱を手に取った。
「そうだな。これ何個か買って、割り勘してサークルのアイツらにあげるか。みんな喜ぶだろ」
懐かしい、東京にいる大学の友人たちの顔が脳裏をよぎる。
その時だった。
コトッ。
誰も触れていない棚の隅から、バラ売りされている個包装の小さなバームクーヘンが、一つだけ不自然に床へと転げ落ちた。
俺と啓太は、同時にそっちを見つめる。
啓太はよっこらしょとしゃがみ込むと、まるで悪戯をした子供を叱るかのような、呆れ果てた声を漏らした。
「……あーあ、これか。これがお前、食いたいのか」
啓太は深いため息をつきながら、床から拾い上げたその個包装のバームクーヘンを、自分の買い物カゴの中へと追加した。
その瞬間。
棚に並んでいた他の商品のビニール袋が、カササッ……と、嬉しそうに小さく震えた。
俺は、もう何も言わなかった。言う気力すら、残っていなかった。
支払いを済ませ、何個かのバームクーヘンを抱えて店を出る。
俺がトランクを開けて荷物を積み込んでいる間に、啓太はさっさと自分から運転席のシートへと腰を下ろしていた。
その光景を見た瞬間――俺の脳内で、強烈な嫌な予感がアラートを鳴らした。
俺は盛大なため息を吐き出しながら、助手席のドアを開けて乗り込んだ。
「……なぁ啓太。今度は、お前が運転するのか?」
啓太は不思議そうに首を傾げる。
「そうだけど? 何か問題ある?」
「いや……俺がそのまま運転しても、全然良かったんだぞ」
思い返してほしい。この旅で、啓太がハンドルを握って、今までまともなことが起きた試しがあっただろうか。
俺が不安げに横を見ると、啓太は前を見つめたまま、平然と言い放った。
「大丈夫だって。ほら、今回はあいつも後ろに居るしさ」
あいつがいるから、危ねぇんだよ……!!
俺は叫び出しそうになる衝動を、心の中で必死に押し殺した。
「今夜は、たしかワイン工房のある町の近くで泊まるんだよな?」
話を逸らすために、俺は咄嗟に頷いてみせる。
「あ、ああ、そうだ。今日はこのまま少し長距離を移動して、向こうのホテルにチェックインして終わりだな」
気がつけば、窓の外の空は、少しずつその色を変化させていた。
鮮やかな青は夕闇に溶け込み、太陽が地平線の向こうへと低く傾き始めている。
啓太もそのグラデーションに染まる空をチラリと見上げて――そのまま、静かにアクセルを踏み込んだ。
俺たちは、真っ赤に燃えていく西の空を追いかけるようにして、薄暗い山道をひた走っていた。
車の窓を少しだけ開けると、昼間の熱気をかき消すような、北海道のひんやりとした夜の風が容赦なく流れ込んでくる。
「……ホテルに着いたら、俺、もう速攻で寝るわ」
シートに体を沈めながら呟く。鉛のように、体がもの凄く重かった。
「分かるわ……。北海道旅行の二週間って、思った以上に長いんだな」
啓太も同意する。
だけど、分かっている。ただの観光旅行なら、ここまで精神が摩耗して疲れるはずがないんだ。
今、俺たちの体を底なしの疲労感で支配している原因は、他でもない『この状況そのもの』だと、俺は確信していた。
今だって、そうだ。
静まり返った車内の、すぐ後ろの座席から。
ギシ……、ギシ……。
革のシートが、体重をかけるようにして、小さく軋む音が聞こえてくる。
まるで、誰かがそこに座って、退屈そうに体を左右に揺らしているみたいに。
俺は、絶対に後ろを振り向かなかった。
もう、それが何なのかを、自分の目で確かめる元気すら、今の俺には残されていなかったからだ。
やがて車は今夜のホテルへと到着し、俺たちは部屋に入って荷物の整理を始めた。
長い移動のせいか、頭の芯まで重く、思考がうまくまとまらない。
今日はもう、このままベッドに潜り込んで朝まで死んだように眠るだけ。誰もがそう思っていた。
だが――。
この日の夜、起きた『ある出来事』によって。
俺の甘い考えは、180度、完全に覆されることになる。
その時の俺は、まだ知る由もなかった。
アイツらが、本当の牙を剥く瞬間が、すぐそこまで迫っていることを。




