8日目 ばんえい競馬の熱
昨日は、あの後どうにか無事に「ら」のつくホテルへとチェックインし、アイツと約束していたメロンを買い与えた。
それから、俺と啓太は部屋で静かにワインとチーズを味わい、次の日の目的地へ向けて車を走らせ、深夜にようやく普通のホテルへと滑り込んで泥のように眠った。
次の目的地。その町は、香ばしい豚丼と「ばんえい競馬」が有名らしい。
普通の競馬とは違い、体重1トンを超える巨大な馬たちが、重たい鉄製のソリを引いて二つの高い砂の坂を登り切るという、世界でもここだけにしかない少し変わった競馬だ。
今、俺たちは二人で、そのレースを見に競馬場へと向かっている。
天気は良く、絶好の競馬日和だ。
だが――今朝から、あきらかに啓太の様子がおかしい。
もし、東京にいる他の友人に今の啓太を見せたら、「あいつ最近ちょっと変だよな」と首を傾げるレベルだと思う。
でも、俺が隣で感じている“おかしさ”は、そんな生ぬるいものではなかった。
朝、ホテルの部屋で起きると、なぜか洗面所にタオルが3枚用意されていた。
部屋の備え付けの歯ブラシは2手あるのに、啓太はわざわざフロントに電話して、もう1セットもらっていた。
それについて俺が指摘しても、啓太は「ん? なんでもないよ」と、虚ろな目で笑ってすぐにはぐらかすのだ。
昨日のことを思い返す。
冷静になれば、別に、そこまで大したことは起きていない。
ただ――少し、おかしなことがあっただけだ。
ワイン売り場で、棚のボトルが一斉にガタガタと倒れたこと。誰も触れていないのに。
ホテルの部屋で、さっき自分で消したはずの照明が、いつの間にか点いていたこと。
……それだけだ。
もう、そんなことくらい、この旅では珍しくもなくなっていた。
5日目の夜の点滅に比べたら、ただ電気が点いただけ。至って平常運転――そう、自分に言い聞かせていた。
だが、俺は気づいていなかった。
そうやって怪異を「日常」として処理しようとするたび、自分の感覚が少しずつ、致命的に狂わされていることに。
いや。気づけばアイツの存在に完璧に適応してしまっている啓太に比べて、俺だけが、この異常な世界のスピードに少し遅れているのかもしれない。
「なぁ、隼也。ばんえい競馬って、普通の競馬とやっぱり全然違うのかな?」
助手席の啓太が、フロントガラスの向こうの青空を眺めながら、まるで『もう一人』そこに誰かが座っているかのような絶妙な角度で話しかけてくる。
俺は競馬自体ほとんどやらないので、反応に少し困った。
「啓太ってそもそも競馬やるんだっけ? 俺、ルールもやらないからよく分かんないわ」
啓太はシートに深く体を預け、どこか遠くを見るような目で呟いた。
「なんだ、知っているのは俺だけか。……もちろん、賭けはするんだろ? 俺以外」
――俺以外。
その不自然な言い方が、喉の奥に刺さった魚の骨のように妙に引っかかった。
「……俺以外って、何だよ。ここにいるのは俺と啓太の二人だけじゃん」
俺がそう言った瞬間。
啓太はゆっくりと、本当にスローモーションのような動きで、首を真後ろの後部座席へと向けた。
「……あぁ。そうだったな」
胸の奥が、冷たいナタで一気に切り裂かれたようにざわつく。
……そこに、いるのか。
今、お前の目には、後ろに座っているアイツがはっきりと見えているのか。
そう思わずにはいられなかった。
会場へ到着するまでの間、車内には耳が痛くなるほどの重苦しい沈黙が、どこまでも続いていた。
競馬場に到着すると、俺と啓太は無言のまま車を降りた。
入場ゲートをくぐると、乾いた干し草の匂いと、獣特有の重い汗の混じった匂いがふわりと鼻をかすめる。
建物の中に入ると、馬券売り場のカウンターが並び、無数のモニターが明滅し、自動販売機の駆動音と観客たちの低めのざわめきがガヤガヤと響いていた。
その奥へと進むと、実際に馬が走る屋外のコースへと繋がる重い鉄扉があった。
扉の隙間から、砂埃と、微かな鉄、そして馬たちの荒い息の匂いが漏れ伝わってくる。それを嗅いだ瞬間、背筋が少しだけ冷たくなるのを感じた。
「どの馬が良いとか、俺も全然わからないわ。とりあえず適当に賭けてさ、当たったやつの奢りで昼飯にしようぜ」
並んで歩く啓太の言葉の端々に、やっぱりどこか奇妙な違和感が混ざる。
だが、その時の麻痺しかけた俺の頭では、何がどう引っかかっているのかをはっきりと掴みきれなかった。
「普通はさ、競馬の賭けに負けた方が罰ゲームで奢るんじゃないのか?」
俺がそう突っ込むと、啓太はニヤリと、どこか不気味なほど無邪気に笑った。
「何言ってんだよ。儲かった奴が奢る方が、みんなハッピーで良いに決まってるだろ」
「それだと結局、誰も得しないだろ。下手したらトータルでマイナスじゃないか」
そんなくだらないやり取りをしながら、啓太はタッチパネル式の券売機に向かい、馬券を発券した。
機械から、紙の滑り落ちる音がする。
それを見て、俺は思わず首を傾げた。
啓太の手元には、2枚の馬券が握られていた。
「なんだ? 一人2レース分買ったのか?」
啓太は少し頭を掻きながら、至極当然のことを確認するかのように、ぽつりと言った。
「うーん……だって、もう一人いるだろう」
――もう一人いるだろう。
頭をガツンと殴られたような衝撃だった。
声が出ない。
脳の理解が拒絶しているのに、ここ数日の異常現象が「そうだ」と強制的に納得させてくる。
だから、俺は啓太のその狂った言葉を、どうしても否定することができなかった。
だけど、口に出して認めてしまったら、何かが完全に終わってしまう気がして、肯定することもできなかった。
ただ、今の啓太の言い方から察するに――啓太はもう、そいつの存在を、恐怖の対象ではなく「旅の同行者」として、完全に受け入れてしまっているのだ。
「……まあ、啓太がそれでいいなら……いいんじゃないか」
俺が諦めたようにそう呟くと、啓太は少し意外そうに俺を見た。
「まあな。それで俺らのうちの誰かが儲かったら、美味いもん奢りなよ」
俺は現実逃避するようにモニターに視線を移し、出走表を見る。どれが良いかなんて分かるはずもないので、なんとなく体の模様が個性的で目立っていた馬を選んだ。
マダラ模様の、3番の馬。
機械にお札を入れ、ボタンを押して馬券を1枚だけ購入した。
俺と啓太は、そのまま屋外の観戦スタンドへと向かう。
その途中、俺たちのすぐ後ろで、軽く『トン』と小さな足音が響いた。
確かにその音は、俺の鼓膜に届いた。
だが、恐ろしいことに、俺の心は「ああ、ついてきてるな」と思うだけで、不思議なほど何も気にならなくなっていた。
恐怖のハードルが、完全にバグってしまっている。
屋外のスタンドに出ると、平日の昼間だというのに、思っていたよりも多くの観客で賑わっていた。
俺たちは空いていた長ベンチの端に腰を下ろし、ゲートが開くのを待った。
俺の手には、斑模様の馬が一枚。
そして――隣の啓太の手には、二枚の馬券が、しっかりと握られていた。
「次だな。めちゃくちゃ楽しみだわ」
競馬が好きだという啓太のテンションが、一段と跳ね上がる。
「お前、本当に競馬好きだったんだな」
そう言うと、啓太は子どものようにニコニコと何度も頷いた。
ファンファーレが鳴り響き、待ちに待ったレースが始まった。
ゲートが開き、巨大な輓馬たちが重いソリを引いて一斉に動き出す。
俺の選んだ3番の馬は、出だしこそ好調だった。二番手の馬よりも、わずかに前に出ている。
だが、ばんえい競馬の難所である、最初の大きな砂の坂(第一障害)に差し掛かった瞬間、ソリの重みに耐えかねるようにして、徐々にスピードが落ちていった。
「あ、おい頑張れよ! 抜かれるぞ!」
気づけば俺も、さっきまでの恐怖を忘れて、身を乗り出すようにして馬を応援していた。
横を向くと、啓太もまた、今までにないほど真剣な目でコースの一点を見つめていた。
「な? 意外と面白いだろ、これ!」
「おう、結構熱いな!」
もしかしたら、俺もこの旅行が終わる頃には、競馬にドハマりしているかもしれない。そんな他愛もない雑念が頭をよぎる。
――その時だった。
俺たちが座っている木製の長ベンチの、すぐ中央のあたりから、何度か『トン、トン』と、何かが小さく跳ねるような規則正しい振動が伝わってきた。
ダイレクトに、お尻から太ももへと振動が走る。
もし、その音の主がアイツなのだとしたら、随分と観戦マナーの悪い観客だ。
「……お前も、これ楽しいか?」
啓太が、前を向いたまま、明らかに俺ではない「隣の空間」に向かって話しかけていた。
一瞬、胸の奥がゾワリと波打つ。
……だが、それだけだった。悲鳴をあげることも、逃げ出すこともない。ただ、冷たい不快感が通り過ぎていくだけ。俺の脳も、もう限界まで狂いかけている。
レースは終盤、俺の3番馬が完全に力尽きて後方に沈む中、啓太が選んだ馬は驚異的な粘りで坂を越え、順調に前へと躍り出ていた。
先頭の馬が、最後の力でソリを引き、最後の直線である平地を猛然と駆け上がる。
一気にスピードが上がる。
地響きのような歓声の中を駆け抜けるあの馬は、はたして啓太が選んだ馬なのか――。
それとも、啓太の隣に座る、アイツが選んだ馬なのか。
「いけ! いけ! そのまま逃げ切れ!!」
啓太が立ち上がらんばかりに叫ぶ。
そして――。
先頭の馬が砂塵を巻き上げてゴール板を駆け抜けた瞬間、啓太は両手を大きく挙げて、ベンチから跳ね起きた。
「きたぁぁぁーーー!! 本当にきやがった!!」
俺も釣られて思わずテンションが上がる。
「マジかよ! 当たったのか!? すげーじゃん、いくらになったんだ!?」
興奮する俺に向けて、啓太はニッと満足げに笑い、手の中にあった1枚の馬券を差し出してきた。
「いや、俺じゃない」
啓太は、信じられないほど穏やかな、優しい声で言った。
「こいつが、当ててくれたんだよ」
そう言って、啓太は自分のすぐ隣にある、ただの何もないベンチの空席へと視線を向けた。
その瞬間だった。
啓太の指先に挟まれていたその馬券が、パタパタパタ……と、何かに引っ張られるようにして、ひとりでに激しく揺れ動いた。
周囲の旗は、一枚も動いていない。風なんて、1ミリも吹いていないのに。
そして。
ギチ……。
俺たちの座っている長ベンチの、誰もいないはずの真ん中の座面が。
まるで、誰かがそこにドサリと腰を下ろしたかのように。
『トン』と、不自然に深く沈み込んだ。
――そこに、いる。
確実に、俺たちのすぐ間で、アイツが馬券を握って笑っている。




