6日目 花と居酒屋
ロープウェイで文字通り死ぬような思いをして手に入れたソフトクリームを胸に、俺たちは山を抜け、車で3時間かけてラベンダーとメロン、そしてワインの名産地として名高い次の目的地へと向かった。
運転席の啓太はすっかり精神的に疲れ果てた様子だったため、途中のサービスエリアで俺が運転を代わることになった。
不思議なことに、俺がハンドルを握っている時は、あの奇怪な現象が起きることが比較的少ない気がする。
助手席で大いびきをかきながら泥のように眠る啓太を横目に、俺は誰もいないバックミラーに向けて、静かに声をかけてみた。
「……さっきの。いるならさ、姿を見せてくれよ」
車内には、時速80キロで流れるロードノイズと風の音だけが虚しく響いた。当然、返事はない。
だけど、すぐ後ろの座席のあたりに、じっとりと冷たい「誰かの気配」が張り付いているのだけは、嫌というほど伝わってくる。
しかし、俺はこれまでのハプニングを通して、こいつの「扱い方のコツ」をなんとなく掴み始めていた。
バックミラーを見つめたまま、俺は言葉を続けた。
「……メロン。また、食べたいか?」
その瞬間。
カチャリ、と音がして、バックミラーが自重に逆らうようにして、ふと下へ傾いた。
まるで、こちらの言葉に「コクン」と深く頷いたかのように。
(ビンゴだ……)
こいつは――超がつくほどの、食いしん坊らしい。
どうやら食べ物の話にだけは、やたらと素直に反応してくれるのだ。
本当に反応が返ってくるとは思わなかった。心臓の鼓動がドクドクと跳ね上がる。
それと同時に、この世のものではないおぞましい幽霊のくせに、食べ物に対して妙に卑しい性質を持っていることが、どこか滑稽で、同時に底知れない居心地の悪さを感じさせた。
「なんで俺たちに付いてくるんだよ?」
「……」
その後は、どんなに話しかけてもミラーが動くことはなかった。
残りのルートの半分を、俺は冷や汗を流しながら、一人黙々と運転し続けた。
夕方になり、目的の街の看板が見えてきた頃、ようやく隣の啓太が目を覚ました。
俺はハンドルを握ったまま、ボソリと呟いた。
「なぁ啓太。メロンって、やっぱり高いよな」
「うん……? なんだよ急に。メロン買うのか?」
寝起きの目を擦りながら、啓太が怪訝そうに俺を見る。
「うん、いや……さっき、約束しちゃってさ……」
「約束って、誰とだよ」
「……俺らについて来てる、アイツと」
啓太は思い切り自分の顔を両手で覆った。
「なんでそんな余計な約束するんだよ馬鹿野郎!! メロン買わなかったら、俺たち今度こそマジで殺されるじゃん
か!!」
俺と啓太が、あの幽霊の存在を、ごく自然に「居るもの」として受け入れ始めてしまっていること。
それ自体がすでに、俺たちの心が少しずつ麻痺し、異常に侵食されている証拠だった。
俺たちは無事、目的の町に到着した。
今の時期はシーズンから少し外れているらしいが、それでも広大なラベンダー畑が人気だと聞き、せっかくだからと立ち寄ることにしたのだ。
どうせ今から急いで市街地へ向かったところで、もう夕方だ。お土産屋や飲食店のほとんどは閉まっているだろう。
車を停め、外に出ようとドアノブに手をかけた、その時だった。
ガチャガチャ! ガチャガチャガチャッ!!
「……あ、あれ?」
ドアロックは解除されているはずなのに、ノブが金属の塊のように凝固して、びくともしない。
助手席の啓太も焦って自分の側のドアを必死に引っ張るが、溶接されているかのようにピクリとも動かなかった。
密閉された車内で息を吸い込んだ瞬間、肺の奥がツンと凍りつくような、ひんやりとした空気が流れた。
「……嘘だろ、またかよ! なんだよこれ!」
啓太の声が恐怖で震える。
窓の外の景色は、穏やかな夕暮れの色に染まっていて、もの凄く静まり返っている。なのに、俺たちだけがこの狭い車内に閉じ込められ、外に出られないという強烈な閉塞感が、容赦なく胸を締め付けてくる。
「今度は何が気に入らないんだよ……」
啓太はシートにぐったりと体を崩し、額の汗を拭った。俺も連日の緊張でドッと疲れが出て、げっそりとため息を吐く。
「原因、何か思い当たることはないか?」
俺が頭を抱えながら記憶を遡っていると、啓太がハッと何かに気づいたように顔を上げた。
「……おい。あれじゃないのか? さっきお前が言った『メロン』」
その瞬間、俺はロープウェイの時、啓太が俺を冷たい目で見ていたことを思い出した。
(ああ、他人から『引かれる』って、こういう感覚なんだな……)と、今更になって妙に冷静に納得してしまう。
「メロンなわけあるかよ! まだ店にも行ってねぇのに!」
俺は即座に否定したが、頭の片隅では、ロープウェイで『ソフトクリーム楽しみ』と窓に書かれた前科がよぎっていた。
「それに、こんな夕方、もうどこにもメロンなんて売ってないし……」
そう言いながら、俺は一縷の望みをかけて、自分のカバンから途中のコンビニで買ったポテトチップスの袋を取り出した。そして、それを後部座席のシートの真ん中へ、お供えするようにそっと置いた。
「……メロンは、明日絶対に買ってやるから。とりあえず、今はそのポテチで我慢しろ」
祈るようにそう言い終えた、その瞬間。
カチャリ。
小気味いい音を立てて、車のドアロックが自動で一斉に解除された。
「開いたっ!」
俺たちは弾かれたようにシートベルトを外し、これまでで最速のスピードで車外へと飛び出した。
夕方の冷たい風が、冷え切った身体に心地いい。
「なぁ隼也……俺たち、このあと車に戻れると思うか?」
ラベンダー畑の入り口で、啓太が本気で泣きそうな顔で言った。
俺は開いたままの運転席のドアに手を置いたまま、遠くの地面を眺めた。
「……二時間後なら、戻れるかもな」
「二時間!?」
「周りには時間を潰せそうな店も何もない。あるとすれば、この、まだ一輪も咲いていない緑一色のラベンダー畑くらいだ」
「詰んだな……」
啓太が絶望したようにつぶやく。
男二人で、何が楽しくて、こんな夕暮れ時に咲いてもいない花(ただの草むら)を2時間も眺め続けなければならないんだ。
ふと、俺は恐る恐る車の中を振り返った。
後部座席に置いた、あのポテトチップスの袋。
アルミの袋が、内側に引っ張られるようにして、少しだけ「へこんで」いる。
さっき置いた時よりも、あきらかに、外側から見た中身の体積が減っていた。
俺は小さくため息をつき、車内に向かって声をかけた。
「……メロンは、明日だからな。約束だぞ」
その時、静まり返った車内から、
『パリッ……ゴソゴソ……』と、スナック菓子を咀嚼するような微かな音が聞こえた気がした。
……いや、聞かなかったことにしよう。それが一番いい。
啓太はさっさと車から離れ、長い遊歩道を歩き始めていた。
「なぁ、なんで二時間なんだよ? 一時間じゃダメなのか?」
「お前さ、一時間後に車に戻って、アイツがまだ後ろでポテチ食ってたら怖いだろ」
「一時間もありゃ食い終わるだろ、ポテチくらい!」
本気なのか冗談なのかわからない会話を交わしているうちに、さっきまで張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ軽くなった。
そのとき、背後の車の中から――
パリッ。
もう一度、はっきりと袋の弾ける音が響いた。
俺たちは同時にピタリと足を止める。
振り返ってみたが、スモークガラスの奥にある車内の様子は、すでに夕暮れの影に飲み込まれて何も見えなかった。
「……ほら、だから二時間なんだよ」
それから俺たちは、本当に二時間近くの間、咲いていないラベンダー畑を散歩したり、冷え込むベンチに座ったりして、ひたすら時間を潰した。
辺りが完全に暗くなり始めた頃を見計らって、ようやく車へと戻る。
さすがに男二人で二時間外に放り出されるのはキツかった。体は芯から冷え切っている。
俺と啓太は、あえて後部座席のポテチの袋には一切視線を向けない、という暗黙の了解のもとで車に乗り込んだ。
エンジンをかけ、ゆっくりと車を走らせる。
窓の外には、街灯の少ない静かな田舎の町並みが広がっていた。
「ここ、結構な田舎だな。とりあえず飯にしよう。そこらの居酒屋でいいんじゃないか?」
「そうだな。お腹空いたし……」
会話をしながら、俺はある重大な事実に気づき、血の気が引いた。
「……おい啓太。俺たち、今日のホテル、取り忘れてたな」
一瞬で、車内が凍りついた。
俺と啓太は同時に、ゴクリと息を呑む。
普段のビンボー旅行なら、迷わず「じゃあ道の駅で車中泊だな!」と笑って選ぶところだ。
だが――今夜だけは、この車内での車中泊だけは、絶対に、何があっても選べなかった。後ろに「誰か」がいるのだから。
啓太が慌ててスマホを取り出し、周辺のホテルを検索し始める。しかし、直前の当日予約、しかもこんな田舎町だ。空き室なんてまったく見つからなかった。
「本当にないのか!? ビジネスホテルとか、旅館とか!」
「ねーよ! どこも満室か受付終了だよ!」
しばらく、重苦しい 沈黙が続く。
街灯の光が、交互に助手席の啓太の暗い顔を照らしていく。
そして、最後の最後で、俺は意を決して口を開いた。
「……なぁ。あそこのホテルなら、空いてるんじゃないか?」
「あそこってどこだよ」
「ほら、街道沿いによくある……“ら”から始まる、あのホテルだよ」
啓太は一瞬で全てを察したらしく、深く、深くうなだれた。
「マジかよ……。女の子と一緒ならともかく、男二人で、お前とあそこに入るのかよ……」
「それはこっちのセリフだわ!」
彼女ならともかく、男二人で入る場所じゃないことくらい分かっている。
だが、啓太もあの車中泊の恐怖に戻るよりはマシだと判断したのだろう。渋い顔のまま、スマホの画面をタップした。
「……あったわ。平日だし、一室だけ空いてるっぽい。とりあえず予約入れとくわ」
俺たちは最悪の選択肢を回避できた安堵と、男二人でラブホテルに泊まるという筆舌に尽くしがたい羞恥心の間で顔を見合わせ――無言のまま、まずは目の前にあった居酒屋へと車を滑り込ませた。
その居酒屋は、夕飯の時間帯ということもあって、地元の人々でかなり賑わっていた。
店内に一歩足を踏み入れると、それまで背中に張り付いていたおぞましい恐怖が、ガヤガヤとした笑い声やグラスの音にかき消されていく。
やっぱり、人間のたくさんいる場所に来ると、それだけで圧倒的に安心するものだ。
啓太も同じだったらしく、さっきまでガチガチに強張っていた肩の力が、目に見えて抜けていくのが分かった。
「二名様ですか? こちらへどうぞ」
店員さんに案内され、俺たちは奥の掘り炬燵の席に腰を下ろした。
テーブルの上には、箸差しと、おしぼり、そしてラミネートされたメニュー表が置かれていた。
「まずはビールでいいか?」なんて言いながらメニューを開き、何を頼むか話し合う。
その時、俺の視界の端に、綺麗に並べられた割り箸が映り込んだ。
俺は正面に座る啓太に向けて、何気なく声をかけた。
「あ、おしぼりと箸、ありがとな」
啓太は、心底不思議そうな顔をして俺を見た。
「は? 何が?」
「え? だから、箸とおしぼり、俺の分用意してくれたんだろ?」
啓太も、テーブルの上に置かれた箸とおしぼりに視線を落とす。
「……してねぇよ。俺、席に着いてからずっとお前と一緒にメニュー見てただろ」
俺は、一瞬で言葉を失った。
「じゃあ……誰がこれ、準備したんだよ」
すぐ隣の席からは、サラリーマンたちの楽しそうな笑い声が聞こえてくる。なのに、俺たちのいるこの四角いテーブルの周りだけ、急に世界の音が遠くなったような錯覚に陥る。
恐る恐る、俺は啓太のすぐ『隣』のスペースに目をやった。
そこには。
もう一セット。
さっきまで絶対に無かったはずの、新品の箸とおしぼりが――まるでお客を一人迎えるかのように、美しく、きちんと並べられていた。
まるで、最初から三人でこの店に来たみたいに。
俺たちが硬直しているところへ、タイミング悪く、ジョッキを持った店員さんが声をかけてきた。
「お待たせしました、生ビール二名様分……あ」
店員さんはテーブルの上にコップを二つ置いたあと、ふと、啓太のすぐ横の『誰もいない空間』へと視線を向け、申し訳なさそうに軽く頭を下げた。
「あ、大変失礼いたしました。もうお一人、いらっしゃったんですね。すぐにコップとおしぼり、もう一つご用意しますので、少々お待ちください」
そう言って、店員さんはそそくさと厨房の方へ戻っていった。
俺たちは、お互いに声が出せなかった。
店員さんは、テーブルの上に勝手に並んでいた箸とおしぼりを見て、ただ勘違いしただけなのか。
それとも――。
店員さんの目には、啓太のすぐ真横に、
本当にもう一人の「誰か」が、ちょこんと座っているように見えたのか。
それがどちらなのか、 確かめる勇気すら、今の俺たちには無かった。
店員さんが戻ってきて、誰もいない席の前に、当たり前のように三つ目のコップを置いた。
俺も啓太も、その一連の光景を、ただ網膜を震わせながら見つめていることしかできなかった。
「お客様、ご注文はお決まりですか?」
もう一度声をかけられて、俺はようやく喉の癒着を剥がすようにして反応した。
「あ……は、はい。決まりました」
啓太が引きつった声のまま、代わりにいくつか料理の注文を伝える。店員さんは伝票に書き留めると、軽く一礼してその場を離れていった。
長い、重苦しい沈黙の後、啓太が血の気の失せた目で俺を見た。
「……なぁ。一応聞くけど、俺の横、誰もいないよな?」
「……ああ。俺の目には、何も見えない」
互いに必死でそう確認し合う。
しかし、その言葉を遮るようにして、それは起きた。
座っている掘り炬燵の、暗い足元の床下から。
ドン……、ドン……。
何かが、内側の壁にぶつかる小さな音が響いてきた。
それはまるで、退屈した子供が、席で足をぶらぶらと揺らしながら、
お気に入りの靴の踵を、掘り炬燵の木の縁にリズミカルに打ち付けているような――そんな、あまりにも無邪気で、生々しい音だった。
その後、運ばれてきた地元の美味しい料理の数々に、俺たちはほとんど箸をつけることができなかった。
どうしても、喉の奥が狭くなって、食べ物が一切通らなかったのだ。
そして、食事を終えた俺たちには、もう一つの問題が待っている。
この、すぐ足元で踵を鳴らしている「三人目」を連れた状態で、俺たちは今から、あの男二人でのラブホテルへと向かわなければならない。
店を出る頃には、北海道の夜空はすっかり深い闇に包まれていた。
明日からの旅行のことを考えると、胸の奥にある冷たい不安は、消えるどころか、ますます大きく膨れ上がっていくようだった。




