6日目 ロープウェイの覚悟
車が再び何事もなかったかのように快適に走り出し、俺たちは予定通り、ロープウェイのある山の麓へと辿り着いた。
ここは有名な温泉地らしく、観光シーズンからは外れているものの、立派なホテルが何軒も立ち並んでいる。
さっき山道の途中で車が止まったときは、正直――あの鬱蒼とした原生林の中で一晩を過ごす羽目になるんじゃないかと、本気で肝が冷えていた。
車を降り、冷たい空気を吸い込みながら、俺たちは山の上へと長く伸びるロープウェイのワイヤーを見上げた。
「……あの車の怪異のあとで、空中の密室に乗るのかぁ」
思わず弱音が口をついて出る。
隣の啓太が、すぐに眉間にシワを寄せた。
「思ってても言うなよ、縁起でもねぇ。……なぁ隼也。お前さ、昔ちょっと霊感あるみたいなこと言ってたじゃん。ぶっちゃけ、さっきから何か見えてたりすんの?」
俺は、車が動き出す直前に見た、あのバックミラーの光景を思い出した。
「車のエンジンがかかった瞬間さ……バックミラーの真ん中に、笑った口だけが浮いてたんだよ」
啓太の顔から、一気に血の気が引いていく。
「マジで……?」
「マジで。ただ、口のサイズがやたら小さかった。大人の男じゃない。女か、それとも子供か……」
山頂の乗り場へと続く坂道を登る足取りは、もともと重かった。けれど、その話をしてからは、足元に鉄球でも括り付けられたかのようにさらに重くなった。
啓太が、周囲の観光客に聞こえないような小声で呟く。
「俺さ、今まで幽霊とかオカルトの類って一切信じてないタイプだったんだけど……。ここ数日のこと考えると、なんていうか……」
言葉を濁す啓太に、俺は無理やり作った薄笑いを返した。
「お前、実は引き寄せ体質ってやつかもな。その癖によく今まで信じてこなかったよ」
乗り場に着き、チケットを購入する。
周りには、シニアの団体客や何組かの観光客の姿があった。
人間の気配がそこかしこにある。さすがに――あの狭い車の中みたいな異常なことは、もう起きないはずだ。
そう、自分に言い聞かせるように信じることにした。
ロープウェイはそれなりに混雑していて、俺たちは三台目の一客としてようやく乗り込むことができた。
十人ほどが乗れる小さなゴンドラは、壁面がほぼ全面ガラス張りになっていて、外の景色がパノラマで見渡せるようになっている。
ガタン、と大きな音がして、ゴンドラがゆっくりと浮上を始めた。
ぐんぐんと高度が上がっていく。山肌は深い緑に覆われ、初夏の強い日差しを浴びてキラキラと輝いていた。
思わず、息を呑む。
東京のコンクリートジャングルで育った俺たちには、まるで別世界のような大自然の美しさだった。
「なぁ知ってるか? ここ、紅葉の季節に来るとめちゃくちゃ綺麗らしいぞ」
啓太が窓の外を見下ろしながら、少し緊張をほぐしたように笑った。
「うわ、じゃあ俺ら完全に季節間違えたじゃん」
「でも、この青々とした緑も悪くないな。光が当たってて生き生きしてるわ」
俺たちはすっかり、窓の外に広がる雄大な景色に目を奪われていた。
――その時だった。
フワリ、とロープウェイが不自然に横へと揺れた。
風でも吹いたのかと思ったが、外の木々の葉は一枚も揺れていない。
「……なぁ、今風あったか?」
「いや、無風だろ……」
啓太がそう答えた、まさにその瞬間。
それまで横に揺れていたゴンドラが、今度はドスン、ドスンと、縦に激しく揺れ始めた。
まるで、狭い車内の中で、目に見えない子供が楽しそうにドタバタと跳ね回っているかのように。
……もちろん、俺たちの足元には、誰もいない。
異様な揺れ方に、乗り合わせていた他の観光客たちも不安そうにザワザワとざわめき始めた。
「今の揺れ、風じゃないわよね……?」
年配の女性が、隣の旦那らしき男性に小声で怯えたように話しかけている。
「ロープウェイって、こんなに縦に揺れるもんなのか?」
男性も険しい顔で眉をひそめた。
俺と啓太は、体のバランスを取りながら、必死でゴンドラの中を鋭い視線で見回した。
どこだ。どこにいる。
「……やめろって……!」
突然、俺たちの後ろの席に座っていた若い男が、ひっくり返ったような声を荒らげた。
だが、その男が怯えた目で見つめる先には、ただの何もない空間しかない。
「ひっ……何もない、何もないんだ……」
男は完全にパニックを堪えるように自分に言い聞かせ、頭を抱えて俯いてしまった。
車内の空気が一気に凍りつく。
すると、俺たちの目の前にある分厚い窓ガラスの一部が、すうっと白く曇り始めた。
まるで誰かがガラスにハァーッと息を吹きかけたかのように。
その曇りはじわじわと広がり、最初は蜘蛛の巣のような奇妙な模様を形作っていくように見えた。
視線を奪われていると、ガツン!と大きな衝撃と共に、ロープウェイが空中でピタリと停止した。
「うわっ!」
体のバランスを崩し、俺たちは揺れに抗うように必死で金属の手すりを掴んだ。高度数百メートルの空中での急停止。生きた心地がしない。
揺れがようやく収まり、恐る恐るもう一度窓ガラスに目をやった時、俺の心臓は完全に跳ね上がった。
白く曇ったガラスの表面に、にじんだ文字が、内側から浮かび上がってきていたのだ。
『 ゆ っ く り 見 て 』
指でなぞったような、歪な筆跡。
俺は思わず息を呑んだ。何度も周りを見渡すが、この狭いゴンドラの中に子供なんて一人も乗っていない。
その時、斜め向かいに座っていた中年の男が、じっとその窓の一点を見つめていることに気づいた。
男は、何か恐ろしいものでも読むように目を細め――次の瞬間、弾かれたようにブンブンと首を振って、強引に視線を逸らした。
見えている。俺たちだけじゃない。この車両にいる全員が、何かが「いる」ことに気づいている。だけど、誰もそれを口にできないんだ。
怖さが限界まで胸を締め付ける中、俺は隣にいる啓太の肩をそっと叩き、震える指先でそのガラスを指し示した。
「……み、見ろよ、あれ……」
啓太が俺の指先を目で追う。
その瞬間、窓の文字が生き物のようにさらににじみ、別の言葉へと変化していった。
『 ゆ っ く り 見 て …… 』
『 そ ふ と く り ー む 楽 し み 』
「ひっ……」
啓太の顔が、その意味を理解した瞬間に、土気色に青ざめた。
文字はゆっくりと、確実に、俺たちに対する“明確なメッセージ”へと形を変えていく。
そして、その文字が浮かんだ曇りガラスの奥、外の景色を映し出す反射の中に。
あの、口角を異常に釣り上げた「口」だけが、くっきりと浮かび上がった。
クスクスと、微かに笑っているように見える、あの口が。
直後、窓の曇りは何事もなかったかのように、跡形もなくスウッと消え去った。
啓太の呼吸が、過呼吸手前のように激しく荒くなる。
「うわっ……見えた、今、マジで見えた……っ!」
「おい、静かにしろ!」
俺は慌てて啓太の口を手で塞いだ。
ゴンドラ内の乗客たちの視線が、一斉に俺たち二人に集まる。
「す、すみません……! 急に停まったから、ちょっと怖くなっちゃって……」
俺は乗客たちに向かって、今にも震え出しそうな声を必死に作ってペコペコと頭を下げた。周りの客たちも、それ以上は何も追及せず、ただ引きつった顔で俯いている。
不気味なほどの静寂が戻った。
ガタン――。
金属が軋む微かな音と共に、ロープウェイが再び何食わぬ顔で進み始める。
ふと、足元で、コツン……と小さな音がした。
視線を落とす。
俺の、スニーカーのすぐ爪先の部分。
乾いた床の上に、ポツンと、小さな水滴のようなものが落ちていた。
まるで、さっきまでそこに、誰かが体育座りでもして、じっとこちらの顔を見上げていたかのように。
俺は背中に伝う冷や汗を拭いもせず、極限の小声で啓太に話しかけた。
「……なぁ、このロープウェイの山頂の駅、本当にお土産屋とかソフトクリーム屋、あるよな……?」
啓太は口元を引き攣らせ、怯えきった目で俺を見た。
「……もし無かったらどうする? 帰りのロープウェイで、俺らマジで殺されるかもしれないぞ……」
俺は窓から真下の原生林を見下ろし、ゴクリと唾を飲んだ。
はるか下に見える木々の影が、さっきまで風もなかったはずの場所で、そこだけがザワザワと不自然に揺れている。
まるで、何かがもの凄いスピードで、このロープウェイを追いかけて地上の山道を走っているみたいに。――けれど、足音なんて聞こえるはずもない。
「帰り……歩いて下りるか? 来る時にウォーキングコースの看板あったろ……」
俺がそう提案した瞬間。
窓のガラスが、またうっすらと白く曇った。
『 ま っ て て 』
ゆらゆらと揺れるような文字が浮かび、すぐに消えた。
啓太もそれを見て、今度は声にもならない悲鳴を漏らした。
やっぱり、完全に後ろについてきている。
俺はそっと窓ガラスに手を触れてみた。
ひんやりとしたガラスの冷たさの奥で、一瞬だけ、窓の反射の中に、小さな子供のような影が通り過ぎた気がした。
「……よし、落ち着け。大丈夫だ」
俺は自分自身に言い聞かせるように呟き、手すりを強く握り直した。
やがてゴンドラは山頂の駅へと滑り込み、俺たちは何事もなくロープウェイを降りることができた。
開いた扉から外へ出ると、大自然の空気を深く吸い込む間もなく、俺たちは狂ったようにお土産屋を探し始めた。
啓太が先に見つけたらしく、引きつった笑顔で俺を先導する。
「……あった! 隼也、あったぞ!」
「でかした!」
二十歳を過ぎた大の男二人が、たかがソフトクリーム一つを求めて必死になっている。側から見れば滑稽極まりないだろう。
だが、こっちは命がかかっているのだ。
わざわざ窓に文字まで書いて催促されたんだから、忘れたなんて言い訳は通用しない。
俺は売店に駆け込み、ソフトクリームを購入した。
手にした瞬間、視界の端にさっきの窓の文字の残像がチラリと過った気がして、背筋がゾクッとした。
「……なぁ、やっぱり気のせい、だよな?」
啓太が縋るように呟く。
だが、二人とも分かっていた。心の奥底では、本気で命の危険を感じていることを。
手元にある甘いソフトクリームの香りに一瞬ホッとしながらも、あの口が笑った瞬間の網膜に張り付いた恐怖は、決して消えてはくれない。
「……なぁ、隼也。アイスクリーム、3個買ったけど……これどうするんだよ?」
啓太が、困惑と恐怖が入り混じった顔で自分の手元を見つめた。
片手には自分のソフトクリーム。そしてもう片方の手には、頼んだはずのない「3個目」のソフトクリームが、ポツンと握られている。
俺たちはまだ知らなかった。
そもそも、幽霊という存在が、物質である食べ物を食べられるのかなんて。
「……お供え、するんじゃないか?」
俺は3個目のソフトクリームを見つめ、思わず神棚に手を合わせるような仕草をした。
啓太が、一瞬だけ緊張を解いた呆れ顔で俺を見る。
「お前、バカだろ。そんなんでアイツが――」
啓太がくすくすと笑い、俺も顔を上げた、まさにその瞬間だった。
――フッ。
何の音も、前触れもなかった。
啓太の左手にあったはずの3個目のソフトクリームが、コーンも、上に乗った白いクリームも、文字通り『跡形もなく』消滅していた。
さっきまで、確かにそこにあったはずなのに。
残されていたのは、風に流れていく、かすかに甘いバニラの香りと、それを握っていた啓太の、虚しく空を掴む手のひらだけ。
「……な、何だこれ……」
啓太の声が、ガタガタと震え出す。
俺も、自分の手元を見つめたまま、言葉を失って息を呑んだ。
小さな、子供のような満足げな笑い声が、耳の奥で響いた気がした。
その甘い匂いだけが、いつまでも俺たちの手のひらに、じっとりと残っていた。
それからというもの。
俺たちの北海道旅行は、自然と「もう一人分」を用意する旅になった。
誰も見ていないのに、どこかで確かに“待っている誰か”が、すぐ後ろにいる。
そんな狂った感覚だけが、俺たちの当たり前になって、どこまでもついてきた。




