5日目の夜〜6日目車の密室で
俺たちは、全身で北海道旅行を楽しんでいた。
奇妙な出来事はいくつかあったけれど、5日目にもなると、もうどこか慣れ始めている自分がいた。
――いや、そんな異常な状況に慣れてしまっていること自体が、すでにおかしい気もするのだが。
人間の順応力というのは、恐ろしいものだ。
夜中に響く少しの物音、バックミラーの端に映る影、そしてなぜか勝手に消える食べ物――。
どれも今の俺たちにとっては、旅の些細なハプニングのひとつに過ぎなくなっていた。
俺たちは、北海道でも2番目くらいに栄えているという大きな街に、二日間滞在していた。
連日の長距離ドライブは思った以上に体力を削る。それに気づいた俺たちは、車をホテルの駐車場に置いたまま、街を歩き回ることにした。
有名な動物園を回り、行列の絶えないラーメンを貪り、夜は地元の居酒屋へ。
昼も夜も、これ以上ないほど存分に楽しみ尽くした。
「いやぁ、楽しかったな! あのゲーセン、やたら広くて最高だったわ」
「旅行先に来てまでゲーセンに行く奴があるかよ」
ホテルのツインルームに戻り、ベッドの上で缶ビールを開けて一杯やっていた、その時だった。
ペコッ。
俺が手元に置いていたビールの空き缶の底が、不自然に凹んだ。
――そして、少しの間を置いて、パチンと元の形に戻った。
まるで、見えない誰かが指先で缶を小突き、こちらの様子をうかがっているみたいに。
俺と啓太は、一瞬だけ顔を見合わせた。
だが、アルコールが回っていた俺たちは、もう恐怖を感じるよりも先に笑いが込み上げていた。
「おいおい、こいつも一緒に混ぜて欲しそうにしてるぞ」
酔った俺たちは、まるでそこに「3人目の友人」が座っているかのように、空き缶相手にくだらない冗談を言って盛り上がった。
ひとしきり騒ぐと、体が急に重くなり、ベッドから立ち上がるのすら面倒になってくる。
すると啓太が、仰向けに寝転がったまま、誰もいない部屋のドアに向かってふざけて叫んだ。
「おい、そこの3人目。ちょっと電気消してくれよ」
クスリと笑う。ただの悪ノリのつもりだった。
――だが、その瞬間。
ドン……ドンドン! ドドドドドンッ!!
壁を、拳で激しく連打するような、凄まじい音が室内に響き渡った。
隣は一般の客室だ。
「……おい、壁ドンされたぞ。うるさすぎたか?」
啓太と目配せをし、慌てて口を噤む。
しかし、壁の音がピタリと止んだ直後。
部屋の照明が、パチパチパチパチパチッ!と、狂ったように点滅を始めた。
俺たちは思わず息を呑んだ。
ふざけていたはずの酔いが、冷や水を浴びせられたかのように、あっという間に引いていく。
部屋の空気が、急激に冷たく張り詰めていくのが分かった。
パチン。
照明のスイッチのあたりで、乾いた音がした。
その瞬間、部屋の明かりが完全に消え、真っ暗闇が訪れた。
カーテンの隙間から入る街灯の薄明かりだけが、部屋の輪郭をうっすらと浮かび上がらせている。その不気味さに、背筋がぞくりと震えた。
「……やべぇって。隼也、ちょっと電気点けてきてくれよ」
「嫌だよ、お前が消せって言ったからだろ……」
俺は恐る恐るベッドから立ち上がり、足元に何もないことを祈りながら、すり足で壁のスイッチへと歩いた。
ゴクリと唾を飲み込み、震える指先でスイッチを押し込む。
パチッ。
部屋に明かりが戻る。――が、
パチッ。
すぐに、何かに押し返されるようにして電気が消えた。
「うわあああっ!」
俺は恐怖のあまり半パニックになりながら、全速力でベッドの啓太のもとへと駆け戻った。
「やばい! マジでやばいって! 次は啓太、お前が行け!」
俺は啓太の背中を必死に押す。啓太も本気で嫌がって、全身を硬くして抵抗した。
「なんで俺なんだよ! 隼也が行けばいいだろ!」
暗闇の中で、二十歳を過ぎた男二人が、みっともなく押し合い合戦を始める。
「最初に煽るようなこと言ったのはお前だろ、啓太!」
結局、じゃんけんに負けた啓太が諦めたように、ゆっくりと立ち上がった。
呪われた機械に触れるかのような手つきで、壁のスイッチに恐る恐る手を伸ばす。
啓太はぎゅっと目を瞑り、一気にスイッチを押し込んだ。
パチッ。
部屋にまばゆい明かりが灯る。
しばらく肩を寄せ合って様子をうかがったが、今度は何も起きない。
さっきの狂ったような点滅も、壁を叩く激しい音も、まるで最初から幻聴だったかのように静まり返っている。
「なんだよ……本当に何もないじゃんか」
啓太が、拍子抜けしたような情けない声を漏らした。
俺たちはもう一度自分たちで電気を消すと、今度は何事もなかったかのように、逃げるように布団の中へと潜り込んだ。
それでも、俺の心臓のバクバクは一向に収まらず、結局朝までぐっすりと眠ることはできなかった。
翌朝。少し遅い時間、時計の針は午前9時を指していた。
俺は寝不足の重い目を擦りながら、隣のベッドの啓太に声をかける。
「おい、そろそろ起きろ。次の街に移動するぞ」
のっそりとこちらを振り向いた啓太の顔は、あからさまにげっそりと窶れていた。
やっぱり、こいつも一睡もできなかったんだな……
妙な連帯感を感じながら、俺は心の中で納得した。
「とりあえず、行くか」
俺たちは無言でチェックアウトを済ませ、駐車場に停めてあったレンタカーに乗り込んだ。
トランクに荷物を積むとき、念のため二人分のリュックが揃っているか確認する。
よし、二人分ある。
そう思いながら、荷台のフチに手を置いた、その瞬間だった。
――ドサッ。
目に見えるものは何もないのに、あきらかに、大きな塊が“追加で乗っかってきた”ような、凄まじい質量が車体に加わった。
だが、どれだけ目を凝らしても、荷物の数は増えていない。
「……気のせい、だよな」
「おい何してんだよ隼也! 早く行くぞ、今日は俺が運転するから!」
手すりにしがみつくようにして、啓太が悲鳴に近い声を張り上げ、慌てて運転席に乗り込んだ。
俺も引きずられるようにして、すぐに助手席へと滑り込む。
車がゆっくりと動き出す。
街の賑やかな建物は徐々に背後に消え去り、代わりに、窓の外にはうっそうとした木々だけが増えていった。
ふと違和感を覚えて、俺は口を開いた。
「なぁ啓太。これ、どこに向かって走ってるんだ?」
今回は、俺も啓太も、スマホのナビ画面には一切触れていなかった。
「え? 昨日部屋で調べたろ。この先に、ロープウェイのある有名な山があるんだよ」
啓太が前を向いたまま答える。
俺は念のため、自分のスマホを取り出して検索を始めてみた。
「これか……あ、本当にあるな」
なんとなく、現在地からの経路案内を起動してみる。
画面に表示された地図を見て、俺の心臓が冷たくなった。
進んでいる道が、あきらかに本来のルートから大きく逸れていたのだ。
「って、おい! ナビも見ないで走ってると思ったら、全然違う道じゃん! どこ走ってんだよ!」
啓太は、まるで魂が抜けたようなすっとぼけた顔で、ただ前だけを見つめている。
「へぇ……? そうなのか……?」
ラチがあかないので、俺は車の純正カーナビの液晶に、目的地の住所を直接打ち込んだ。
『ポン。まもなく、目的地周辺です』
女性の機械的な声が、淡々と道案内を開始する。
しかしその直後、ナビの液晶画面がザラザラと砂嵐のように激しく揺れ、何本ものノイズの線が走った。
「大丈夫かよ、このカーナビ……」
「……そのうち治るべ」
啓太の声には、もう覇気がなかった。
しばらく重苦しい沈黙が続いたあと、カーナビの画面に、右に曲がるよう促す矢印が表示された。
「あ、ここ曲がるんだって。右」
「そうか」
啓太がウインカーを出そうとした、その時だった。
ナビのスピーカーから流れてきたのは、先ほどまでの、あの女性の案内音声ではなかった。
『ご、ご……ごめ……メ、メメメ……』
機械のノイズに混ざり合って聞こえてきたのは、どこか音が歪んだ、男とも女ともつかない、おぞましい生身の「声」だった。
『……真っ直ぐが、いい』
「っ!!」
俺と啓太は、同時に全身の血が凍りつくのを感じた。
額から嫌な冷や汗がにじみ出て、心臓が早鐘のように暴れ出す。
『……真っ直ぐが、良いな』
ナビは、執拗にそう繰り返す。
しかし、ルームミラーを見ると、俺たちのすぐ後ろからは地元のミニバンがぴったりとついてきていた。今更ここで急に直進することはできない。
啓太は引きつった顔のまま、仕方がなく、ナビの指示を無視してハンドルを右に切った。
だが、胸の奥にある不穏なざわめきは、一向に消え去ってはくれなかった。
「い、今……今の、聞こえたか?」
啓太のハンドルを握る手が、目に見えてガタガタと震えている。
「……聞こえた」
啓太は半ばパニックになりながら、本来の目的地であるロープウェイに向けて、アクセルを踏み込んだ。
「なぁ、隼也……さっきの道を、もし真っ直ぐ行ってたら、何があったんだ?」
啓太に聞かれ、俺は慌てて手元のスマホの画面に目を落とした。
手が激しく震えて、スマホが指先から滑り落ちる。
ガチャンッ!
助手席の足元にプラスチックが激突する音が響いた。
その音に、啓太がビクゥッ!と車体を蛇行させるほど大きく体を揺らし、情けない声を漏らす。
「な、なんだよ! 驚かすなよ!」
「スマホ落としただけだろ! ビビりすぎだって!」
俺は必死に強がりながらスマホを拾い上げ、液晶をじっと見つめた。
地図の画面をスワイプして、真っ直ぐ進んだ先にあるルートを確認する。
「……真っ直ぐ行ってたら、さっきの大きな街に、そのまま戻るルートみたいだ」
その事実を口にした瞬間、胸の奥がひんやりと冷たく締め付けられた。
さっきのナビの異常な声。そして、この不自然な道。
まるで何かが――俺たちが街(人間のいる安全な場所)へ引き返すのを、全力で邪魔して、山奥へと遠ざけようとしている気がしてならなかった。
右に曲がってから、数分。
バックミラーを確認すると、さっきまで後ろを走っていた地元の車は、いつの間にか影も形も消え失せていた。
原生林の山道に、俺たちのレンタカーだけがぽつんと取り残されている。
二人だけの、完全に孤立した空間。
このまま何事もなく進んでくれ。
そう祈った、まさにその矢先だった。
ガガガガガッッ!!!
突如、車体に強烈な急ブレーキがかかった。
タイヤが悲鳴をあげ、俺たちの体は慣性で前に激しく吹き飛ばされ、シートベルトに強く締め付けられる。
「うわっ!? いきなりどうしたんだよ! 鹿でも飛び出してきたのか!?」
「違う! 俺、何もしてない! 勝手にブレーキが踏み込まれたんだ!」
助手席から啓太の足元を見ると、彼の両足は、確かにペダルから完全に離れていた。
その時だった。
――カチリ。
静まり返った車内の足元から、小さな、硬い機械音が聞こえた。
反射的に、俺は視線を落とす。
何もない空間。
誰もいないはずの運転席の足元で。
金属製のブレーキペダルが。
まるで、目に見えない巨大な足でグッと踏み込まれているかのように。
ゆっくりと、深く、床に向かって沈み込んでいった。
「……なぁ」
喉がカラカラに張り付いて、声がうまく出ない。
「今……見たか?」
啓太は答えない。ただ、恐怖で顔を限界まで歪めて、俺と全く同じ「それ」を見つめていた。
そのまま、ドスン……と、心臓が止まるような不気味な音を立てて、車のエンジンが完全に停止した。
あたりは、一瞬にして完全な静寂に包まれた。
窓の外からは、風の音も、鳥の鳴き声も、虫の羽音すら聞こえない。
まるで、この車の周囲だけ、世界から「音」そのものが消滅してしまったみたいだった。
「勘弁しろよ……マジで……」
啓太が、消え入りそうな声で呟いた、その瞬間。
――カチリ。
今度は、俺たちのすぐ真後ろ。
後部座席の暗がりから、何かが作動したような音が響いた。
(振り返ったら、終わる)
本能が、全身の細胞が、絶叫に近い警告を鳴らしていた。
これは車の故障なんかじゃない。あきらかに、この世のものではないおぞましい「異常」だ。
心臓が早鐘のように肋骨を叩き、呼吸の仕方が分からなくなる。
何もない山道の麓。
動かないレンタカーの車内。
俺は北海道旅行に来て初めて、心の底から「もう嫌だ、東京に帰りたい」と本気で思った。
啓太も、本当に精神の限界が来たのだろう。
ハンドルに額を押し付けたまま、項垂れてガタガタと震えている。
「なんだよこれ……普通に怖いから……もう無理だって……」
ボソリと漏らした啓太のその情けない声を聞いたとき、俺の脳裏に、初日の寿司屋での三つの湯呑み、夜中に菓子袋を漁る乾いた音、そして先端だけが消えたメロンソフトの光景が、走馬灯のように駆け巡った。
こいつは、怒らせちゃいけない。
機嫌を取らなきゃいけないんだ。
俺は震える口を開き、泣き出しそうな声を必死に絞り出した。
「……なぁ、啓太。この先の、ロープウェイの駅に着いたらさ、美味しいソフトクリーム屋があるらしいから……食べようぜ。俺が奢るから。な?」
怪異に命乞いをするように、すがるようにそう言い終えた、その瞬間。
ブルンッ!!!
何事もなかったかのように、車のエンジンが唐突に爆音をあげて始動した。
カーナビの画面も、いつもの綺麗な地図へと何食わぬ顔で戻っている。
「まじ、かよ……」
啓太が生き返ったようにアクセルを踏み込む。
俺は、もう半ば義務のようになっていた動作で、恐る恐るバックミラーへと視線を走らせた。
そこには。
口角を耳の近くまで不自然に釣り上げた、満面の笑みの「口」だけが、くっきりと映り込んでいた。
――さっきよりも、確実に、俺たちの座席に近い位置で。




