2日目 滝とメロン
2日目の朝――。
意外にも俺たちは、前夜の恐怖が嘘のようにぐっすりと眠ることができた。
あれだけ浴びるように酒を飲んだのだ、泥のように眠ってしまうのも無理はなかった。
「よし、今日は少し離れた場所まで走るぞ」
今日の運転は、昨日と交代して啓太だ。
目的地の途中、昔は炭鉱で栄えたという古い街に立ち寄ることにしていた。
今はメロンが名産らしい。
昨夜の不気味な出来事から逃れるように、俺たちの心は少し浮き立っていた。
「今から行く所、メロンソフトがあるみたいだぞ。ほら」
助手席の俺が、スマホの画面をチラリと見せる。
「うわ、めちゃくちゃ美味そうじゃん!」
フロントガラス越しに差し込む日差しが、心地よく暖かい。
昨日のはやっぱり、長旅の疲れが見せたただの幻覚だ。
今日は、最高の一日になる気がした。
だが、目的地までは思っていたよりも遥かに遠かった。
本格的な山道に入ると、街と街の間隔がやけに長くなっていく。
道沿いにぽつぽつとあったコンビニも、いつの間にか全く見かけなくなっていた。
都会を離れ、視界のすべてに原生林のような大自然だけが広がる景色は、やっぱり新鮮で圧倒される。
「昨日も思ったけど、やっぱ北海道って広いよな」
啓太がハンドルを握りながら、窓の外の流れる緑を見つめて言う。
東京とは、まるで別の国に来てしまったみたいだった。
「車も全然走ってないしな。独占状態じゃん」
ただメロンだけを買って街に戻るのも、少しもったいない気がしてきた。
俺はスマホを取り出し、この近辺で寄り道できそうな場所を検索してみる。
すると、紅葉の時期には絶景になるという、滝のある美しい公園がヒットした。メロンの直売所からも目と鼻の先だ。
「なぁ、滝って興味あるか?」
俺が尋ねると、啓太は不思議そうな顔でこちらを一瞬見た。
「なんだよ、急に」
「いや、直売所のすぐ近くに滝がある公園があるらしいんだよ。写真で見るとすごく綺麗でさ」
山奥にあるマイナーな公園らしく、ネットの写真を見る限り、平日の今は人もほとんどいなさそうだった。
「ついでならいいんじゃないか? せっかくだし、普段行かないようなマイナーなところも攻めようぜ」
啓太も軽い調子で賛成してくれた。
その時、――カクン、と硬い音がした。
フロントガラスの上にあるバックミラーが、まるで誰かに触られたように、不自然に下を向いたのだ。
それに気づいた啓太が、「なんだこれ」と眉をひそめながら指先で角度を元に戻す。
「まるで、生きてるみたいに勝手に動いたな」
俺も何気なく、そのバックミラーに視線を走らせた。
その瞬間――。
ミラーの奥、後部座席の暗がりに、口角をこれ以上ないほど不自然に釣り上げた「誰かの顔」が、はっきりと見えた気がした。
「っ……!」
思わず息を呑む。
心臓が嫌な音を立てて跳ねた。
もう一度、穴が開くほどバックミラーを凝視する。
……そこには、何も映っていなかった。空っぽの座席があるだけだ。
なのに、そこからじっとこちらを覗き込んでくる「視線」の感触だけが、いつまでも肌にねっとりと残っている気がした。
急に無言になった俺を不審に思ったのか、啓太が前を向いたまま尋ねる。
「どうしたんだよ、隼也。急に黙り込んで」
「あ、いや……なんでもない。ちょっと外の見間違いだ」
俺たちは、それ以上その話題に触れることなく、目的地へと車を進めた。
公園の駐車場に着くと、平日の昼間だからか、俺たちのレンタカー以外に車は1台もなかった。
鳥の鳴き声すらしない、どこか寂しく、ガランとした場所だった。
車を降り、俺たちは早速、滝へと続く散策路に向かって歩き出す。
途中まではアスファルトが敷かれていたが、やがて道はうっそうとした木々に挟まれた砂利道へと変わった。
すれ違うのもやっとなくらい、狭い道を進んでいく。
ジャリ、ジャリ、ジャリ。
俺と啓太、二人分の足音が、静まり返った山の中に規則正しく響く。
――ジャリ。
俺たちが足を止めた、その一瞬あと。
少しだけ遅れて、背後で砂利を踏みしめる音が小さく鳴った。
俺はピタリと動きを止める。
啓太も、同時に硬直していた。
互いに顔をゆっくりと見合わせる。
気のせいだ。そう言い聞かせるように、息を合わせて同時にもう一歩、踏み出した。
ジャリ。
――ジャリ。
やっぱり、少し遅れて後ろの砂利が鳴る。
まるで、俺たちのすぐ真後ろを、誰かがぴったりと歩幅を合わせてついてきているみたいだった。
「なぁ、隼也……気のせいならいいんだけどさ」
啓太が声を限界まで低くして呟いた。
俺も、自分の足元の砂利を凝視したまま、冷や汗が背中を伝うのを感じていた。
「……この辺、野生の動物とかいたっけな」
「いや、動物なんて見てない。でも、ほら……もしかしたら、人懐っこい野良猫か何かが、後ろからついてきてるのかもしれないだろ?」
俺は頭の中で、丸くてコロンとした愛らしい猫の姿を必死に思い浮かべた。
……最悪の現実逃避だ。
俺は恐怖に耐えかねて、啓太に押し付けるように言った。
「ちょっと後ろ見てみろよ。猫だったらさ、撫でてやりたいじゃん」
その瞬間、啓太の肩がビクリと跳ねた。
「な、何言ってんだよ! 隼也の方が猫好きだろ! も、もしかしてお前、ビビってんのか?」
「は? ビビってねぇよ!」
互いに子供のように言い返し、虚勢を張り合いながらも――。
俺たちは二人とも、絶対に、後ろを振り返ろうとはしなかった。
「啓太こそ、声が震えてるぞ。ビビってんじゃん」
「ビビってねぇって言ってるだろ!」
強がるのは一丁前だった。だが、このまま歩き続けるわけにもいかない。ラチがあかないと悟ったのか、啓太が震える声で提案してきた。
「じゃあ、……一緒に振り返るぞ。せーので」
「お、おう。いいよ」
俺たちは無駄に声を大きく張り上げて、静寂をかき消そうとした。
「「せーの……!」」
勢いよく、真後ろを振り返る。
だが、目の前に広がっていたのは、誰もいない一本の砂利道と、うっそうと茂る木々、そして青々とした雑草だけだった。
誰もいない。
俺は大きく胸をなでおろした。
「なんだよ、誰もいないじゃんか。脅かしやがって」
心底ほっとして、肺の空気をすべて吐き出した、その時だった。
――パチン!
すぐ背後、俺の耳元のすぐ近くで、乾いた破裂音が響いた。誰かが手を叩いたような音だ。
「うわあぁっ!?」
啓太が情けない声をあげて飛び退き、俺も思わず叫んでいた。
「わっ……!」
慌てて周囲を見回すが、やはり風が草を揺らしているだけだ。
互いに顔を見合わせ、引きつった苦笑いが浮かぶ。
「……お前、今、からかって手を鳴らしたか?」
「鳴らすわけないだろ! 早く行こうぜ!」
啓太は半ばパニックになりながら、滝を目指して走り出した。
俺も置いていかれてたまるかと、必死でその後を追う。
周りの自然を楽しむ余裕なんて1ミリもなかった。
全力で走り抜け、ようやく滝の前に辿り着く。二人とも息が完全に上がり、膝に手をついて激しく肩で息をした。
ゴォォォォ……という、大量の水が川へと打ち付ける轟音が、周囲の不気味な静けさを一瞬にして全て飲み込んでいく。
その圧倒的な音の塊に包まれているうちに、先ほどまでの刺すような恐怖心は、自然と薄れていった。
白い水飛沫をあげる滝は、ただ堂々とそこに佇んでいた。
轟音だけが、耳の奥に残る。
ピチャリ。
激しい水流の傍らで、静かに川の水が跳ねた。
俺たちは「魚でもいるのかな」と今度こそ本当に納得して、顔を見合わせて笑った。
「やっぱり、北海道の自然ってスゲェな」
啓太がポツリと呟く。
俺も滝を見つめながら、深くため息をついた。
「そうだな……。なんか、急にお腹空いてきたわ」
「よし、戻ってメロンソフト食おうぜ!」
「おい、ご飯じゃなくていきなりデザートかよ!」
帰り道は、恐怖の余韻を振り払うように、ゆっくりと周りの自然を眺めながら歩いた。
車に乗り込み、俺たちはメロンソフトを販売している直売所へと向かった。
お目当ての品は、1個千円ほどだった。
贅沢にも半分にカットされた本物のメロン。その、ちょうど種が入っていた真ん中のくぼみに、濃厚そうなミルクソフトクリームが贅沢に巻き上げられている。
熟したメロンの甘い香りが、一気に鼻腔をくすぐった。
「うわ、最高!」
ごくりと喉を鳴らし、俺は食べる前に記念としてスマホで写真を撮った。
画面に綺麗に収まったことに満足し、さあ食べようとソフトクリームに目を戻した――その時だった。
……あれ?
ソフトクリームの、ツンと尖っているはずの先端が、いつの間にか綺麗に消え失せていた。
スプーンでペロリと、誰かに一口だけ掠め取られたような跡が残っている。
「おい! 啓太! お前、俺が写真撮ってる隙に盗み食いしただろ!」
俺は思わず、隣にいる啓太のソフトクリームの先端を自分のスプーンで狙いに行く。
「はぁ!? 食ってねぇよ!」
「嘘つけ! 見ろよ、先っぽが誰かに食べられたみたいに丸くなってんじゃん!」
俺が怒ると、啓太の顔が急に、不自然に強張った。
その表情を見た俺の胃の奥にも、得体の知れない違和感がどろりと広がる。
「いや、マジだって……。本当に触ってもいないって」
二人の間に、冷ややかな沈黙が落ちた。
笑い飛ばすこともできず、ただ互いの顔をじっと見合わせる。
俺は無意識に、自分のソフトクリームの、メロンとの境界線のあたりに目を落とした。
そこには。
ほんのわずかに、ソフトクリームの白い頭のような、小さな「影」が、不自然に残っていた。
……まるで、目に見えない何かが、俺のすぐ隣に屈み込んでソフトクリームを食べているかのような。
恐怖のあまり、その影に指先で触れようとすると、それはスッと空気のように消えた。
「……天気がいいから、一瞬で溶けたんじゃないか?」
啓太が、喉の奥から絞り出すように声を繋いだ。
「ああ、うん……。そうかもな。北海道のソフトは濃厚だから、溶けるのも早いのかも」
俺も、無理やり自分を納得させるように言葉を返した。
でも、二人の胸の奥には、確実にとてつもないザワつきが居座っていた。
それが何なのかは、どちらも決して口には出さなかった。
甘くて、冷たくて、最高に美味しいはずのメロンソフトだったが。
なぜか、いくら噛んでも、何の味もしなかった。
それでも。
俺たちの、この楽しすぎる旅行は、まだ終わらない。




