1日目 湖の異変
俺たちは20分ほどかけて、目的の湖を目指した。
街を抜けるのはあっという間だった。
やがて車は山道に入り、左右を深い緑に囲まれる。
視界のすべてが、濃い緑に塗りつぶされていく。
「こういう道、なんかいいよな」
せっかくだからと、俺はエアコンを切り、窓を大きく開けた。
湿った土と、青々とした木の香りを孕んだ風が、勢いよく車内を通り抜けていく。
隣では、啓太がスマホの画面をいじっている。
「ここ、冬になると氷の祭りをやるらしいぞ」
「へえ、そうなんだ」
少しだけ、会話が途切れた。
窓から吹き込む風の音と、エンジン音だけが車内に残る。
夏の今は当然、そんな銀世界の景色は見られない。
少し残念だけど、慣れない雪道を怯えながら走るより、この快適なアスファルトを風を切って走れるほうが、ずっと楽しい。
俺たちは学生らしい馬鹿話をしながら、あっという間に湖へと到着した。
「うわ、綺麗だな」
目の前に広がった水面が、太陽の光を反射してやけに明るかった。
車を降り、バタンとドアを閉める。
俺が眩しそうに湖へと視線を向けた、その時だった。
――ガチャリ。
静かな空間に、場違いな電子音が響いた。自動で鍵の閉まる音だ。
助手席側の啓太が、飛び上がるように驚いて声を上げた。
「おい! 俺、荷物まだ後ろの席に置いてるんだけど!」
俺は慌てて振り返る。
「いや、俺、鍵なんて閉めてないぞ……」
湖の周囲は、不気味なほど静まり返っていた。
「無意識のうちに、ポケットの中でキーのボタンでも押したんじゃないのか?」
啓太の少し焦った声に、俺は手の中の車のカギをじっと見つめる。
そして、そっとリモコンの解除ボタンを押した。
「……かもな。もしかしたら、テンションが上がりすぎて無意識に触っちゃったのかも」
俺は誤魔化すように頭に手を置き、髪をぐしゃりと乱した。
啓太もホッとしたように後部座席からリュックを取り出しながら、鼻で笑った。
「なんだよそれ。小学生の遠足かよ」
湖沿いに整備された遊歩道を歩きながら、俺たちは点在する古い建物に目をやる。
「そういえば、ここ温泉もあるらしいぞ」
俺が言うと、啓太の声が一段と明るくなった。
「いいじゃん! 行こうぜ」
「あと、ボートの貸し出しもあるみたいだけど」
一瞬の沈黙のあと、啓太が吹き出した。
「男二人でボートとか、さすがに絵面がキツいだろ」
「確かに。おっさん二人のデートになっちゃうな」
俺たちは笑いながら、湖の縁を歩く。
カラフルな貸し出し用のボートが何隻も並ぶ、木製の桟橋の方へ視線を向けた。
その時だった。
前を歩いていた啓太の体が、ふっと不自然に横へ傾いた。
「おっと……っ!」
反射的に、俺は彼の肩を強く掴み乗せる。
「な、何してんだよ! あと一歩で湖に落ちるぞ!」
静かな湖畔に、俺の怒鳴り声が思ったより大きく響き渡った。
啓太は大きく目を見開き、自分の胸を強く押さえている。
「違う……」
あきらかに呼吸が荒い。顔から血の気が引いている。
「今、後ろから……誰かに思いっきり押されたんだって」
ポチャリ、と静かに湖の水面が跳ねた。
その瞬間、俺の視界の端を、小さな何かが通り抜けた気がした。
勢いよく振り向く。
――誰もいない。
「……足元、滑りやすくなってるから本当に気を付けろよ」
「ああ、うん……」
啓太はまだ落ち着かない様子で、湖から一歩、また一歩と距離を取る。
気づけば、俺も無意識に水際から足が離れていた。
湖は、相変わらず静かだった。
さっきまで綺麗だと思っていた水面が、急に底の知れない、深く暗い泥水のように見えてくる。
「……先に、温泉行くか」
「そうだな」
逃げるように、俺たちはその場を歩き出した。
温泉に入ると、露天風呂は湖を一望できる見事な造りになっていた。
白い湯気の向こうに、さっきまでいたあの湖が静かに横たわっている。
自分たちが歩いていた桟橋のあたりが、ここからはっきりと見えた。
誰もいないはずなのに。
あの湖の向こうから、じっとこちらを「見られている」ような気がしてならなかった。
俺はたまらず、湖から目を逸らした。
湯上がりの心地よさも手伝って、俺たちは旅の楽しさに、さっきまでの一連の不可解な出来事をすっかり忘れてしまっていた。
温泉を出る頃には、時計の針はもう16時を回っている。
「ここから街に戻るなら、ちょうどいい時間だな」
「……寿司がいいな」
「そうだな、寿司がいいな」
何気なくそう返してから、俺は隣の啓太を見た。
啓太は立ち止まり、眉間に深い皺を寄せてこちらを凝視していた。
「な、なんだよ。そんな顔して」
啓太は少し間を置いて、喉の奥から絞り出すように言った。
「……隼也。お前、さっきから誰と話してるんだ?」
俺の喉が、ひくりと鳴った。
「誰って……お前が、晩飯は寿司に行きたいって言ったから……」
言いながら、周囲を見渡す。
広い駐車場の周りには、俺たち以外に誰もいない。
冷たい風だけが、静かに吹き抜けていくだけだ。
啓太は、はっきりとした口調で、怯えを堪えるように言った。
「俺は、何も言ってない。ずっと黙って歩いてた」
どろりとした沈黙が、二人の間に落ちる。
さっきまで心地よかったはずの風が、急に肌を刺すように冷たく感じられた。
「……そっか。俺の聞き間違えか」
乾いた笑いを無理やり漏らし、その場を強引にやり過ごす。
俺たちは逃げ込むように、そのままレンタカーに乗り込んだ。
車が走り出すと、さっきまでの賑やかさが嘘みたいに、車内は静まり返った。
どうしても沈黙に耐えかねて、俺は口を開いた。
「晩飯、本当に寿司でいいのか?」
「あ、ああ……。いいよ……」
啓太の返事は、明らかに歯切れが悪い。
窓の外、急速に暗くなり始めた北海道の空を見つめたまま、啓太がぽつりと呟いた。
「お前ってさ……その、幽霊とか、見えたりする方なのか?」
俺は小さく眉をひそめた。
普段なら「見えるわけないだろ」と笑い飛ばすはずなのに、なぜか今日だけは、その言葉が出てこなかった。
「……霊感は、ある方だと思う。自覚はないけどな。そういう啓太は?」
少しの間があった。
「俺は……『引き寄せ体質』って言われたことがある。実家の近くの、寺の住職にさ。昔だけどな」
その不穏な言葉が、車内の重苦しい空気に沈んでいく。
タイヤがアスファルトを切るゴーという音だけが、やけに大きく響いていた。
静まり返った車内で、突如、ビニール袋が擦れる音がした。
ガサガサ、ガサッ、と乾いた音。
「っ!」
俺たちの肩が同時に跳ねた。
反射的に、俺はバックミラーを覗き込む。
誰もいない。
――はずだった。
ミラーの端、後部座席の暗がりに。
白い「口」だけが、不自然に浮かんで歪んでいた。
心臓がバクバクと暴れるのを必死に抑え、俺はミラーの角度を指先で少し変えた。見える範囲を広げる。
――そこには、何もいない。ただの空っぽの座席だ。
助手席の啓太も、恐る恐る後ろを振り返っている。
再び、痛いほどの沈黙。
「……俺ら、ちょっと気にしすぎだよな。疲れてんだよ」
無理に明るい声を作る啓太に、俺も引きつった笑顔を返してみせる。
「そうだな。幽霊なんているわけない。ただの気のせいだ」
言いながら、俺は視線だけで、もう一度バックミラーを盗み見た。
角度を変えたはずなのに。
なぜかさっきよりも、後部座席の空間だけが、どんよりと黒く淀んで見えた。
街に着くと、俺たちは予定通り、目についた寿司屋に入った。
やっぱり北海道の海鮮は格別だった。
東京では味わえないような圧倒的な旨さに、思わず頬が落ちそうになる。
脂の乗ったネタをひとつ口に含むと、舌の上で至福の幸福感が広がった。
しかし、その幸福は、目の前の「光景」によって一瞬で凍りついた。
テーブルの上には。
頼んでもいないのに、三つの醤油皿と、三つの湯呑みが綺麗に並べられている。
「……なぁ、隼也。俺ら、二人だよな?」
啓太の声が、地を這うように低い。
その時、タイミングよく店員が伝票を持ってやってきた。
「ご注文は以上でよろしいでしょうか? ――あちらのお連れ様のお飲み物は、いかがなさいますか?」
店員は、誰もいないはずの「3人目の席」を見つめて、にこやかに微笑んでいた。
俺たちは、何も答えることができなかった。
その夜、俺と啓太はビジネスホテルのツインルームで、狂ったように酒を飲んだ。恐怖をアルコールで麻痺させるように、浴びるように飲んだ。
気がつけば、外は白々と朝になっていた。
――二人とも、駐車場のレンタカーの、その後部座席だけは。
絶対に、見ないようにしていた。




