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【昔話 兵(つわもの)の掘る穴ー真実その9・前編ー】

『旦那様、マーサはグロリオーサ様の事が好きだったんですか?』

口が動かせる程回復はしていたが、身体は未だに動かせない執事を背中に背負ってロブロウ領主ピーン・ビネガーは、彼を休ませる為に使用人の部屋に向かっていた。


『好きだったという言葉の当てはまると思うが……私的には"恋をしていた"と言ったほうが良いかもしれない。

しかし、ロックは成長したもんだ。

姫抱っこして、からかおうと思ったがさせてくれないときたもんだ』

話をさけるわけではないが、もしも誰かに聞かれても何だか個人的に賢者は嫌だった。

なので後半に実にわざとらしく、且つ残念そうにそんな言葉を口に出してピーンは執事を―――恋には無頓着なロックをからかう形で、話を逸らす。

ロックは"姫だっこ"とふざけた領主らしからぬ言葉に閉口しかけるが、執事として諌めの言葉を少し恥ずかしいが、主の背中からかけた。


『―――万が一にも変な噂がたちそうないたずら事を考えて、実行しようとするのは止めてください!』

『それなら、ロックが誰か御婦人を娶って、家庭を作れば良い話だ。

独り身でいようとするから、暇な奴が変な噂を面白おかしく広めようとする』

巧く逸らした方向の話に執事が乗ってくれた事に上機嫌となり、ピーンは尚もからかい口調を続けていた。


『……私が家庭を持ったなら、朝晩の時間は必ず家に帰りますから、旦那様の研究が滞る事は間違いありませんよ』

『それは真に困ることになるな。

まっ、私とカリンが仲良くしてれば、それこそ杞憂だよ』

そんなやり取りこなした時、ロックを背負ったピーンは使用人部屋の入り口までたどり着いた。


『旦那様、鍵を』

まだ体に力が入らない執事は、鍵を取り出そうと腕をに意識して力をいれるが動いくれず、眉間にシワを刻む。


『無理をしなくいい。

こういう時は、魔術が得意で良かったと思うよ。鍵を使わなくてすむ』

口の中でピーンが軽い舌打ちをしたならば、カチャリと音がして鍵が開いた。

よっと、と軽く声をかけて施錠は出来るが、ノブのない扉を爪先で蹴って開き使用人部屋の中に主と執事は入る。


『ここの行儀の悪さは見逃してくれ』

『私も旦那様の資料を整頓する為に部屋に入る時は、両手が塞がっている場合は、同じように蹴って開閉しますのでお気になさらず』

几帳面にばかり見える、自分の執事の結構大胆な一面に主は眉をあげて驚きながら、使用人部屋の通路に靴を踏み込んだ。


『久しぶりに、使用人部屋に入ったなあ』

一番最奥にある、執事のロックの部屋に向かう為に、質素な造りの廊下を進んでいく。


『旦那様は、此方に入らなくていいんです。

使用人が気を抜いて、休むための場所なんですから。

それよりも、旦那様、大丈夫なんですか?』


『大丈夫というのは、私の体調のことか?。

それならロックも、身体に力は入ってなかったかもしれないが、アングレカムの話は聞いていただろう』

ピーンの胸元には、魔力を吸いとりもするが、先程初めて持ち主の―――賢者の意志をもって"記憶を吸いとる"絵本が入っていた。


『絵本は魔力を吸いとる事はするけれど、自分の移動が出来る分は持ち主に魔力をくれるらしい。

それにグロリオーサがいたならば、殆ど普通の絵本と変わりがないらしいからな』

そう言った時、ロックの部屋の前に着く。

今度も使用人部屋の入り口と同じ様に、軽く舌打ちをして賢者は魔法で扉を開けた。


『……魔法で開けれるのはいいが、ある意味危ないかもしれんなぁ。

何時か屋敷を建て直すときは、大変かもしれないが、壁や要所に精霊石をを埋め込んで、下手にテレパシーや施錠を開けられないように造る事を考えよう。

あと、ドアノブを使用人部屋にもとりつけよう。

足で開閉なんぞ、何んだか味気なくて、何より風情がなくていかんな』

『旦那様は、利便性より風情を優先なさりますね―――ありがとうございました』

背中から座るようにして、ゆっくりと寝台の上に、執事をは体を下ろしてもらった。

先程の客室と同じ様に、寝台に腰かけた状態にロックはなる。


『今日は、このまま寝るといい……と、このままでは休めないか』

執事の上着を脱がせて、ピーンは腕にかけた。


(……お、そうだ)

上着を部屋の備え付けにある椅子にかけながら、胸元の内ポケットにあるロックの懐中時計の大きさを手で掴んで計る。

大きさを確認出来たなら、誤魔化すためにまた軽くふざけた様子で口を開いた。


『それとも、マーサの心配なら、友人としてロックは気の済むまでしてやるといい。

まあ、グロリオーサに恋をしていた記憶はないがな』

主が執事の贈り物とする懐中時計の大きさを確かめるのに"夢中"になっている間に、執事は失恋をした事になる友人を気遣っていた。


『―――恋愛の本は役にたたないとばかり思っていましたが、考えを改める事にします。

私自身は、恋愛をすることはないと思います。

しかし部下となる使用人達が、真剣な恋をして、失恋で落ち込んだ時。

本を読むことで励ます言葉を学んだり、どんな気持ちか理解をすることはできませんが、知っておくことぐらいは出来ますから』

時計の大きさをしっかりと把握しつつ、部下の相変わらずの勤勉な勤務態度に、思わず"雇い主"は苦笑いを浮かべる。


『まあ、これから"旅先で"実際の恋人達を観察すればいい。

本で得る知識も良いと思うが、実際に見るのとまた違うものがある。

あと、うちの書庫にあるのはどちらかといえば大人なしい作品が多い。

出先で新たに恋愛の作品をを読んで見るのもいいだろう。

あと、実際の恋人同士……いや夫婦喧嘩の延長で、家中の陶器が割れてしまうこともあるらしいからな』

そう言うと、振り返り、寝台に腰かけたまま、身体を動かせない執事の背と脚に腕を回した。


『……本当に、すみません、旦那様。しかし喧嘩の延長で、どうして家財を破壊することに繋がるのですか?』

申し訳なさそうに謝りながらも、唯一動かせる表情の筋肉を使って、"夫婦喧嘩の破壊力"に心の底から不思議そうな顔を作り、ロックの頭は、ピーンによって枕の上に横たえられた。


『まあ、追々話していくさ。明日から色々と忙しくなる。

嫌でも手伝って貰わなきゃならないから、今日は早いとこ横になって休むといい。

一晩寝れば、多分体内の気の巡りも安定するだろうから。

マーサも、もうきっと休んでいることだろう。

私はこれから、絵本による魔力の吸われ具合や、記録をつけておこうと思うから、おやすみ、ロック。

明日は多分遅く起きるから、よろしく頼む。

カリンにも伝えておくから』

言いたいことをざっと言ってしまうと、ピーンが指を弾いて部屋の灯りと弱めた。


普段は人物の就寝を感じ取ったなら、自然と力を弱める照明の役割をしてくれるランプの中にいる火の精霊を"屋敷の主"として力を使って、弱めるように精霊に頼んでいく。


『それじゃあ、な』

『おやすみなさいませ、旦那様』

ロックの部屋の扉を今度は手で開けて出て、ゆっくりと閉める。

自分の寝室に進みながら、懐から"絵本"を取り出して、見つめた。


魔力を吸われるが、ピーンには記憶は吸われるような感覚はない。


『さっきは何か話しかけてきてくれた癖に、今はだんまりだなぁ』

様々なテレパシーとなるようなもので絵本に語りかけてみたり、異国の魔術の言葉で話しかけてみたが、やはり絵本はうんともすんとも言わない。


『―――マーサの"記憶を吸ったから"満足してしまったといったところかな』




ロックを部屋に運ぶ前、客人2人を得意の屁理屈で自分の目論見はとりあえず賛同させる事に成功したが、軽くグロリオーサとアングレカムな間で険悪なムードが漂っていた。

険悪の雰囲気に興味をもったが、後の話し合いは客人達に任せて、身体の力の入らないロックを背負ってピーンは客室を後にして、厨房に向かった。


執事を背負って扉を閉じたなら、盛大に何か口喧嘩が始まった様子で、ピーンが通路の角を曲がる時には何かが倒れる音と振動が響いたような気がするが、気にしない。

厨房につくと、扉は固定して開けられていて副竈番であるマーサは、頼まれた菓子を作り終えて、紅茶を飲みながら休憩していた。


ロックをおんぶしているピーンを見ると、軽く驚く。

ただ驚きはするけれど、既に何処と無くピーンが姿を見せたことで、察している彼女に、"グロリオーサ"の恋に関して、辛い事にもきこえる事実も含めて、包み隠さずに話した。

この恋について話したなら、もしかしたら書斎での時のように軽く興奮するかもしれないと、ピーンは考えていたが、それは要らぬ心配となる。


マーサは肝も座っていて粋も良いが、何より"潔かった"。


『"グローさん"は、何回もトレニアさんの名前を出していたし、本当に嬉しそうだったからさ。

何となく、わかっちゃいたんだ』

とりあえずロックを腰かける為の椅子―――あのグロリオーサの為の丸椅子を、力が入らないロックでも腰かけやすいように、壁際に支度してくれながらマーサは言う。


ピーンがロックをゆっくりと椅子に下ろしてみると、執事は顔に動かせる瞳と表情で、同期で友である彼女を心配している事を表現していた。


そして瞳で主に″どうにか、できませんか?″と訴えていた。


(こればっかりは、″領主″でも″賢者″でも″神様″にもどうにもできんよ)

優しくテレパシーでそう伝えると、

"どうしても、受け入れられないグロリオーサの為に使っていた椅子"

に座っても、それよりも友人の事を心配する事の出来る執事の頭を、ふんわりと包むように優しく撫でた。


それから副竈番の方を見れば、雇い主の為に紅茶を支度してくれていた。


『あー、えーっと、いきなり来たのに、すまないな、マーサ』

白髪の後頭部をボリボリと掻きながら、ピーンがそんな事を言うと、副竈番に鼻で笑われた。


『しおらしいのはやめてくださいな、領主様。

こっちが調子が狂っちまうよ。

いつもみたいに、時間も人の気持ちも関係なく、

「茶をくれ、マーサ」って領主様は言ってればいいんだよ』

相変わらずの威勢の良い口調ながらも、紅茶をカップに注ぐ手際は本当に見事に丁寧なものだった。

その中には確実に優しさもあるのが感じられて、マーサという人の本質が、本当に人情家なのだという事が伝わってくる。


『ロックさんは、とても紅茶を飲める様子には見えないから、支度するのは止めておくよ。

ああ、そう言えば背中。

寄りかかるのに、壁に直接あてて痛くないかね?。

良かったら、クッションを持ってこようか?』

紅茶を淹れたカップを載せたソーサーを雇い主に渡しながら、マーサも理由(わけ)ありで全く動けない状態になっている執事の話を聞いて、そんな同期の友人の心配をする。


(マーサ…、私は大丈夫ですからと、伝えて頂けませんか、旦那様)

ロックは動かせる事が出来る頭の中で、そんな気持ちを形にして主に伝えて貰うように頼む。

その頼み事が頭に響いた瞬間には、2人の使用人の主は笑いだしてしまっていた。


『はははは、マーサもロックも、私からすればどっちも"自分が大丈夫ではない"のに、互いの心配をしているから、面白いなあ』

多少、無神経にも聞こえるかもしれない言い様だったが、本当のことでもあったので、マーサは目を丸くした後に笑った。


ロックはテレパシーで主に(デリカシーが無さすぎです)と、諌めていた。

だが、どうやらマーサにとっては中々痛い処を言われたが、自分の気持ちと向き合う為には良かったらしい。


『やっぱり、空元気というか、賢者でもある領主様に隠し事したり、強がりをしようとすることが無駄なのかね?』

ズズっと行儀悪く紅茶をすする賢者の姿に尊敬をしながらも、呆れるといった感じに言い終えた後に、マーサは僅かに残った自分の紅茶を飲み干した。


『そういうことだ。マーサもロックも私の前で、強がることはやめておくといい。

無駄な抵抗だ』

そんな芝居がかったセリフみたいな言葉を、"キリッ"とした顔をしてふざけながら口にした後。


賢者は―――優しい目を作って空になったカップを載せたソーサーを、"グロリオーサの為に作ったお菓子"の側に置いた。


『一応、数週間で友人になった男よりは、

「十数年、ビネガー家に住む皆の為に美味しいご飯を作ってきてくれた、粋の良い女料理人」

の気持ちを優先させるぐらいの度量は、この領主邸の主としてある。

だから、ここで思いきり、この領主邸であった、副竈番が話したいことを話してしまえばいい、マーサ』

いつもは性別など関係なく、マーサという"人"をピーン・ビネガーは見ていたが、この時は不思議と"婦人"として彼女を見ていた。


マーサは領主の優しい眼差しを受けて、眉毛の端の方を下げて、彼女にしては最高に珍しい"困った"顔をしてから、自分の作った"渾身のお菓子"を見つめる。


《マーサのお菓子は、トレニアと同じ位優しくて、美味しいな》


ニッと夏に咲き誇る向日葵のような笑顔だと、まるで夢見がちの少女が使うような(ポエム)みたいな言葉が頭に浮かんでしまっていた。


マーサの中で温かい日の光のような言葉は、もしかして一生縁がなかったかもしれない、彼女の堅い"殻"を破り、芽を芽吹かせた。

それは幼い柔らかい芽で、何かあったならきっと摘めてしまうような芽だったけれど、下に伸びる"根"は本当に真っ直ぐ伸びて、中々抜けなくなりそうな事はマーサにも判っていた。


そんな気持ちのきっかけとなったお菓子を、料理人は短い指で摘まんで口に放り込んで、目を閉じてゆっくり噛んで食べて飲み込んだ。

小さく息を吐き出すと、マーサは話を始める。


『アタシは、あんなに恋に無頓着そうな人でも、それでも無自覚でも相手を――トレニアさんをとても想っている所も含めて、グロ―……グロリオーサさんに恋をしちまったんだと、自分でも分かるんだよ』

『それは、トレニアを想っている時のグロリオーサが、マーサにとっては魅力的に見えたということかな?』

マーサの"悔い"が残らないように、報われない想いや心情を吐き出せるように、ピーンは促しの言葉をかけた。

自分の主が賢いことはよく知っている料理人は、ありがたくこの言葉に(そそのか)される。


『そうだね、それを含めてグロリオーサさんの事がアタシは気になり始めていたよ。

領主様が言うように、寧ろトレニアさんっていう人があったからこそ、気になったんだとアタシも思える』

ただ無邪気でやんちゃなだけの"男の子"だったら、世話が焼けるだけの、ロブロウにやってきた放っておけない迷子だった。


きっと、その迷子の男の子に思いやりや、考える事を教えてあげる慈愛に満ちた優しい人がいたから、グロリオーサという人がいたのだし、恋をした。

だから、もしグロリオーサとトレニアが互いに想いを通じ合っているなら、きっとマーサは持ち前の潔さで、きっぱりと諦める事が出来たと思っている。


だけど、話を聞く限りグロリオーサの"片想い"の状況を窺わせる言葉を聞くと、情けない希望が自分の中に渦巻いてしまう。

例えグロリオーサとトレニアが結ばれる事がなくても、自分とそういった関係になることはないと頭では理解していた。

していたけれど、胸の塞き止められないような想いを、今は口から溢していた。


『ここは数日は、グロリオーサさんが側にいるだけで、初めて料理が旨く出来た時みたいに、ドキドキさせてもらったよ。

メイドさん達が言ってるような、あの綺麗なグロリオーサさんの友達を見つめているだけでもいい、とかじゃないんだ。

一緒に同じ時間を過ごせるだ事が、本当に楽しかったんだよ』

そこまで言うと、人心地がついたかのように、ホッとした表情を浮かべる。


『アタシは料理に一生を捧げようと思うぐらい、料理が大好きで、料理を思うのと同じくらいグロリオーサさんにドキドキさせて貰った。

料理とは、どんな困難があっても続けていきたいと思えるんだ。

でも、グロリオーサさんはそうはいかないのは分かるんだよ。

グロリオーサさんを見ていたなら、その一番中心に大切な人の気持ちを抱えているのが、アタシにはわかっちまう』


万が一にグロリオーサとの縁があったとしても。

その人がいたから、恋が出来たのだとしても。

想っている人がありながら、側にいて欲しくはないという自分の心の狭さを見せつけられたような気持ちになった。

無理だとわかっている――そう言った時、マーサの瞳は潤んでいた。



『こんな気持ちなんて、味わいたくはなかったよ』

グロリオーサという人に、出会えた事を後悔はしていない。


ただ、恋という、この気持ちだけがなかった事になってしまえればいいのに。

無茶苦茶な願い事だと想いながらも、マーサの心の中を占めていた。


【辛い記憶はなくした方が良いのか。 

 ――それとも乗り越えられそうなら、多少辛くとも乗り越えた方がよいのか】



まるでマーサの気持ちを汲み取ったかのように絵本が、胸元から賢者に語りける。

賢者である人にも、彼女が抱いている複雑な気持ちを汲み取ることは出来ていた。

そしてそれと同時に、"絵本の力を知っている"人として、常識を無視しても、探求したい好奇心が溢れてもきていた。


(利害が一致をしたならば、試す価値と行動があっても良いよな)

闇とは違った暗さが、鋭利な刃物のようにスッと静かに良識や常識という隙間に切り込み入って、決意となって賢者の口を開かせる。


『……なあ、マーサ。

マーサは、グロリオーサに恋をしたことだけを忘れたいんだな?』

まるで東の国にあると信じられている、命とはまた違う、"魂"という人の体に欠かせないという物を使って、取引をする"悪魔"と呼ばれる存在になった気持ちに賢者はなる。


―――可憐に芽生えた気持ちを摘み取る代わりに、その辛い思い出をこの絵本に与えてみないか。

―――胸が弾むような気持ちとは縁がなくなるが、自分の心の狭さと向き合う辛い事はなくなるから。


暗く、優しく、囁いた。


そしてグロリオーサ・サンフラワーに淡く抱き始めた恋心を、賢者は絵本を使って、彼女も了承の上で吸いとった。


《恋なんて、アタシの人生の中じゃないと思っていたんだけどねえ。

 でも、しちまうもんなんだねえ……》


まるで、(ゆる)されない(とが)を行ってしまって、断ぜられる直前の貴人のような高貴な雰囲気を滲み出す料理人の額に、賢者は絵本をつける。

絵本は仄かに光ると余すことなく、マーサの"恋心"を吸いとった。



吸いとった後、マーサは少しだけ疲れた様子だったが、身体の不調等は無い。

ただ、先程作り終えた菓子を再び口にいれると、少しだけ寂しそうに微笑み、呟く。




『きっと、アタシには、このお菓子のこの味をこえるものは、もう作れないんだろねえ』




その言葉を口に出させたお菓子は今、(くだん)の絵本の入れていた場所に、大きな紙に包まれてピーン・ビネガーの胸元に収まっている。

『調理は、手順を守り、計量を行い、時間を計ることで、それなりにどんな物でも上手いくものだと思ってはいたが。

こういった"傑作"と出会ってしまうと、それだけのものでもないんだろうと、考えてしまうなあ』

ピーンは自分の使用人が"2度と作れない味"と言った御菓子を、ゆっくりと口に放り込んでいた。


"恋をしていたマーサ"の作った菓子は、領主のピーン・ビネガーは元より、客人2人の気持ちを労りつつもがっしりと掴んだ、あのお菓子だった。

ロブロウ領主は、客人に恋をする前の料理人の手作り菓子の味は知ってはいるし、それも十分美味しかったが、その時に感じた味と、今こうやって食べている菓子は味が違う。


(いや、"大切にしたい想い"を知ってしまったからこそ、尚更違うように感じるものなのかもしれないな)

そんな事を考えながら、胸元にある"マーサの恋をした記憶を吸った絵本"に意識を向けながら、屋敷の廊下を歩きながら夫婦の寝室に戻る。


『ふむ、アングレカムの魔力はガツガツと(むさぼ)っていたみたいだが……』

歩きながら懐に手を入れて、 絵本をなぞる。


ピーンも魔力を吸われてはいるが、昼間に見たようなアングレカムが思わず膝をつくという疲弊をしていたようなレベルでは無い。


『私の場合は体に密着しているから、魔力を共有しているから平気、というわけではないみたいだしなあ』

魔力を吸われて疲弊するというよりは、どちらといえば体力の燃費が―――空腹になる速度が早まったみたいな感じであって、"疲れる"と言った感覚はほど遠いものがあった。


『……それとも、この古い絵本殿は私のは御気に召さないといういうわけなのかな?。

何気に、面食いというタイプなのか、絵本のくせに?』

そんな事を言った頃には、夫婦の寝室の扉の前にたどり着いていて、扉の向こうからは妻の笑い声が聞こえた。

ゆっくりと扉が開いて、そこからもう寝る支度を済ませた妻が姿を覗かせていた。



『―――領主様、楽しそうに入り口で何を仰っているんですか?』

『何、なんて事はない。

この絵本にだな、"好き嫌いはよくないぞ"と、説教をしていたんだ』

まるで本当に好き嫌いをしている子どもに説教をするかのように、絵本に向かって真面目に叱りつけている夫に、カリンは、品よく口に手をあてて、また笑い声をその場所からもらした。


妻が楽しそうに笑ったのが、ピーンには嬉しかった。

先程から、弟のように大切にしている執事に涙を流させてしまったり、

報われない恋心の為に、毎日領主邸の皆に美味しい料理を作ってくれる料理人と、自分の記憶と決別をさせてしまったり、


―――飄々としている男なりに、気が滅入るような事が連続してあったために、楽しそうに微笑んでくれる妻の姿が、ありがたかった。


『―――カリンは、寝巻き姿をしているということは、今日はもう休むんだな。

色々あって気疲れもしただろうし、夕方からはグロリオーサの挨拶回りにも付き合ったから、疲れていても仕方ないか。

思えば繕い物も、してもらったんだったな』

いつもは結い上げている、黒の中に、陽があたったなら艶やかな緑が垣間見える、豊かで綺麗な(ピーンも気に入っている)妻の髪は、今は弛く三編みにして肩に下ろされていた。

妻の髪がこの状態になると、触り心地が良いので、ピーンはよく指で軽くつまんでしまう。

今も自然に手を伸ばして、妻の髪を触っていた。


一方の妻は、夫がこういう事をする時は、無自覚に"何か言いたい事がある"状態なのを知っている。

そして、こちらの状態を(おもんばか)って今は黙ってしまっているのも、わかった。

しかし、露骨に"何かありますか?"と尋ねると、誤魔化そうと逆効果になるのは、執事と共に経験しているので、遠回しに話を向ける事にした。


『はい、今日はもう休ませていただこうと思っています。

明日もまた、グロリオーサ様のご挨拶にお付き合いをする予定ですから。

……もし、話がありましたら、今して貰った方が有難いんですが』

『や、カリンも領主夫人として、今日は沢山表にでて気を使い、疲れただろう。

でも、早くに話しておいた方が良いことではあるんだ』

―――妻に、決起軍に参入する意志を示した事を話さなければいけない。


本当なら一番に話そうと思っていたが、客室での"アクシデント"の為に、執事に次いでの2番目になってしまっていた。

それでも、早くに伝える事に意味があると思ったので、出来れば話たいとも考えている。

自分と執事の前でだけ、どっち付かず―――やりたいことが目の間に2つあるのに、どちらを取って良いかわからない子供のように、考え込む夫の姿に、また夫人は微笑んだ。


『それではとりあえず、寝室に入ってください。

寝巻きの支度は、ロックがしてくれています。

それに領主様のお夜食の給仕くらいなら、私でも出来ますから』

扉を開きながら、カリンに言われたならピーンは柔らかい髪から指を外して、そのままパチンと弾きながら頷いた。


『そうだ、異様に腹が空いたと思えたのは、食事をしてなかったからか』

どうやら"絵本"の為に、腹の減り具合が早まっているというのは、完璧に濡れ衣だった様子である。


(なら、やはりこの絵本は"魔力の選り好み"をしているという事になるのか?)

"魔力の質"が違うという話は、賢者でもまだ聞いた事がなかった。


血液なら《火・風・水・土》の相性があって、輸血の際には相性に気を付けなければ命が危うくなる事は、この世界でも常識ではあった。


("魔力"にも、種類があるというのか?)

ただ《魔力》に関しては、特殊な「(まじな)い物」さえ使えれば、分け与える事は可能という具合に世間には広がっている。


加えて、魔力を有する人が、体内から失えばそれに伴って体力を大層消耗は確かにするけれども、血液のように命を失うという事はない。

それに、魔力を使う職業にあたる者の大体が、今日のアングレカムのようになるまで魔力を散々吸い取られる事もない。

大体が疲弊しきる前に、自分でセーブして"魔力"を管理しているという具合だった。


(そもそも、魔力の種類を研究しようという発想がなかった)

魔術が使えるものや、社会的に"便利で必要とされる"技術や力は認められやすい世間で、魔力はまた別格の扱いとなる。


「"魔力"は"魔力"だろう」といった具合に、その才能があるだけで重宝されてもいた。

誰もその力に"区別"なんてつけようなんて、考えたことがなかった。


(いや、その前に、私は魔力の種類で"質"が違うと言う物なら、実際に目の前で見たじゃないか)

自分の領地自慢の渓谷を、白銀の力を纏いながら駆け降りてくる"鬼神"みたいな人。


アングレカム曰く、"魔法を好ましく思えないグロリオーサ"の為に、故郷にいたという賢者が彼の"溢れる魔力"を、魔法では昇華しない方法を教えた。

それがあの、渓谷にある巨大な岩を踵落としで砕いたり、賢者が招いた風の精霊を吹き飛ばした"力"――元は魔力と表現する力だったと思われる。


(それではあの絵本にしたら、グロリオーサの魔力は"大嫌い"、私の魔力は"苦手。

そしてアングレカムの魔力は"大好物"といった事になるのか?)

グロリオーサが使っているあの力が大嫌いなら、自分の魔力は苦手ではなく"普通"ぐらいの位置付けでも良いと思いもする。


しかし、アングレカムの吸い込まれ具合を間近に見ていると、どうやら好まれてはいないのが感じられた。


――――パンっ

耳に届いた感じでも控えめな様子でなのがわかる、掌を重ねた音が聞こえて、ピーンの思考は一旦中断させられた。

目をパチパチとしてから、どうして今この状なのかを思い出して、背の高い自分を見上げる妻に謝罪をする。


『カリン、すまない。どうしても考え込むと、固まってしまう癖がまた出たみたいだな』

後頭部をガシガシと掻くと、カリンは口の端を小さく上げて、細い首を左右に振った。


『こちらこそ申し訳ありません、領主様。

でも、それにしても客様がいらしてから、そちらに夢中で、またお食事を忘れていたんですね。

また考え込まれて固まっていらしたので、ロックに教わったやり方でこちらに"戻させて"いただきました。

それでは、取り敢えず中に入ってください』

『―――そうだな』

小柄な妻に促されて、ピーンは漸く寝室に入った。



『領主様が研究が御仕事で、考え込まれるのは仕方ありませまん。

でも、ただ食事をとらないと、ロックに見つかったなら、また怒るほどに心配をなさいますよ』

それからふと当たり前の事を忘れていた――と、いった表情で妻は夫を見上げて、大抵彼の影のように側にいる執事について尋ねる。


『あら、思えばロックはもう今日はもうこちらに、領主様のお手伝いにはいらっしゃらないのでしょうか?。

私と子ども達の食事の給仕を今日は、メイド達が一斉に暇を申し出たとかで、代わりにしてくれてから、随分と忙しそうにしていたから、まだ別の仕事をしているのかしら』

『ああ、確かに忙しいし、今日はもうこない。

明日から更に忙しくなるから。

今日は大事をとって休んで貰う事にした』


『あら、どんな事でですか?』

『ああ、それは……』

部屋に入ってロックとカリンとで繕い直してくれた紅黒いコートを脱ぎながら


(結局、今日の内に話してしまう事になってしまった)

心の中でそう思っていると、自分の上着を受けとる妻はにっこりと笑う。


(どうやら、カリンにしてやられたらしい)

大人しそうな顔をしていて、とても気が優しく弱いところがあるが、カリン・ビネガーは物凄く賢明な人であることを思い出した。


後頭部をボリボリと掻きながら、夫婦の寝台の側にある、"領主用"として設えられた立派な椅子に腰かけた。

その前に妻はコートを抱えて佇み、恭しく頭を下げる。


『領主様が決めた事、どうぞお話ください。

私は、確かに気の弱い人間ですが、ロブロウ領主夫人として、ピーン・ビネガー様の仰有る事に従うまでです。

それが、領主という人に嫁いだ私の勤めです。

平穏な日常を、領主様のお陰で過ごさせてもらっています。

けれども生活を過ごす内で、私の才覚では無理でも、それでもこなさなければいけない出来事と向き合う覚悟。

ロブロウ領主夫人カリン・ビネガーは、これでも常日頃から、させてもらっております』

豊かな黒髪を揺らして、頭を下げる妻にピーンは少しだけ"スマナイ"といった含みを持たせた笑顔を浮かべていた。


決起軍という存在を確認してから、その活動を数年に渡って"観察"した。

その上でグロリオーサという人に直接に出逢い、力量を確かめ、自分が参入――手助けをしたならば、暗愚と言われている王の執政を変える事が出来ると、確信も出来た。

ただそうする為には、"家族となった人達"をロブロウという土地に、置いて行くことになる。



グロリオーサと出会って、アングレカムが迎えに来る間に、ロックにも内密にして決起軍へ参入する為に支度を整えている内に、ピーンは

「今度の"旅"には、カリンも連れて行けたなら」

と、頭の中で度々考えてしまっていた。


これまでの自分の人生中で、いちばん楽しかった時期がどうしても思い出されて、懐かしくて、"もう一度"という気持ちが沸き上がって仕方なかった。

ロックを"拾い"、共に旅をして、たまにまだ許嫁の立場だったカリンから手紙が届いて、その手紙を読み上げ、返事を書いている時は、まるで3人で旅をしているような気持ちになれた。


出来る事なら、今度は実際にカリンを交えて、3人で旅をしてみたくもなっていた。

けれども、決してそれは叶わない"立場"にいることも、出来ない時勢なのも判っている。

立場を恨んでも、この大切な2人には自分が"ロブロウ領主"という立場であるからこそ、出逢えた大切な人達の縁だとも分かっている。


縁には感謝をしつつも、今はその立場が忌まわしい。


『……ロックを伴って、決起軍に参入し、セリサンセウム王国の平定にロブロウ領主としても、賢者としても決めた』

妻は豊かな黒髪の(こうべ)を垂れたまま、夫の言葉を聞きその続き待っていた。

夫で領主であるピーンは、椅子に座しながら腕を組んで妻に自分の考えていることに話していく。


『今でも―――私とカリンとロック、それにマーサ。

使用人と領主の主従間はは良好でも、領主の家族の仲は―――特に私と娘達は、お世辞にも良好とは言えない。

しかしこのままでは、良好ををどうこう言う前に、ロブロウも取り潰された領地と同じ末路に、なるとも限らない』



"領地を治める事も出来ぬ臣下など、要らぬ"



今はまだ不手際ををこなした領主である貴族達のような事は、ロブロウではないだろうと断言できるが、これが数年後大丈夫だとは言えない。

例え、現状では賢者でもあるピーンが上手く治めていても、仮に国のお達しでピーンが隠居を迫られたとしたのなら、バンが領主になるしかない。

思慮深く、真面目な性格のバンではあるのは父親としても認めるものがある。

しかし、あの真綿を締めるように搦め手で仕掛けられたなら、はっきりいってその"魔手"を避けられる(すべ)を息子が会得するには、年若いし経験が足りない。


もしかしたら嫁を貰っていない事ですら、難癖の材料になるかもしれない。

何がきっかけで一族郎党が"始末"されるかどうかも、分からなかった。


『この時勢では、安心して娘達を嫁がせる事も―――跡取りのバンに"ロブロウ領主の座"を譲る事も出来ない。

家族としての問題もあるかもしれないが、まずそれと向かい合う為に、国を平定の方向に持っていきたいと考えている。

とりあえず私は、ロブロウ領主としても賢者としても、あのグロリオーサという青年が、この国の王となるのが望ましいと結論を出した。

そして参入を、向こうから請われた形にもなっている』

『判りました。私は領主様が出した決断に従います』

答えたなら、カリンはゆっくりと下げていた頭をあげる。


その妻の浮かべている表情は、寂しそうでいてそれでいて、夫の出した結論に納得もしているのが感じられる―――複雑なものだった。

カリンも母としてもあるが、やはり貴族としては"年頃"に差し掛かった娘達の嫁ぎ先も気になっている。

だが嫁がせたくてもこの時勢では、安心が出来ないのは夫が言っている通りである。

嫁いだなら、自分の実家に頼れないのはカリンにはよく判っていた。


そして何よりも、嫁を迎える事になる息子の事も気になった。

カリンは自分の中にある大きな役目の1つとして、セリサンセウム王国の西の領地ロブロウのの領主ピーン・ビネガーという夫に嫁ぎ、彼の跡目となる人物を産み育てる事だと、自分の肝に命じていた。

幸いにも嫁ぎ先の伴侶となる夫には恵まれて、使用人ではあるけれどそれ以上に"弟"のようにも思える執事も、話していて気持ちの良い、友だちみたいな料理人もいた。

内向的な自分の代わりに、ハキハキとした人物ばかりで大変過ごしやすいロブロウ領主夫人としての日々を、送らせてもらっている。

だから、その恩を返すことになり、伴侶となる夫がこれからの生活に繋がる為に動き出すことを決意をしたのなら、カリンはそれについていくのみだと考えていた。


『―――なあ、カリン。領主としてでも、賢者としてでもない、一人息子のの父親としての提案なんだが、良かったらバンも連れていってはダメだろうか』

不意に僅かに躊躇い気味に、ピーンが口をひらいた。


『それは、バンを連れていく事に関しては、私の意見で決めるということですか?領主様?』

"バンを連れていきたい"という言葉にも驚いていたが、まずカリンの口に出たのはその言葉だった。


いつも自分の意志は無いに等しいカリンだったが、彼女に与えられる行動は、大抵納得できるし、受け入れやすいものだった。

そして今回のピーンの父親としての提案は、カリンが母親としての立場になって聞いても決して悪いものには聞こえない。


『ああ、そうだ。カリン・ビネガーの意見を最優先にして、決めたいと私は考えている』

手を伸ばして、コートを抱えていない方の妻の小さな手を掴んだ。


『勿論、あの子の意志も大事だとは思うが、カリンが領主夫人として懸命にバンを育てている事を見てきた。

これは、バン・ビネガーが成長する機会だと私は父親として思える。

ただ、私とロックで極力フォローを行い、戦にはまきこまない。

あの子の事だから、馬鹿げた事も絶対にしないだろう。

だが、万が一を否定する事は出来ない。だから、母親としてのお前の意志を最優先したい』

コートを抱えている方のカリンの手もとって、領主夫妻は、椅子に座る夫が見上げる形で見つめあう。


『息子を恐れがある旅に、カリン・ビネガーは懸命に慈しみ育てた子どもの一人を、父親というだけであまり子育てに手伝うことを出来なかった人に預ける事は、出来るか?』

『―――子育てには、領主様が出来る限りで参加してくださったではないですか。

それに、ロックも手伝ってくれて、私は6人という子どもを持つ身としては、大変育てやすいい環境に身をおけました』

ただ、ピーン・ビネガーとの夫婦の間で、カリンに不満があるすれば、男の子を一人しか授かれなかった事だった。


その息子は恐らくは自分に似て線の細い、それでいて幼少期は病気がちでもあった、大人しい気質でもある。

カリンが見た限り、父子の相性は悪くはなくて、ある意味では"男のカリン"とピーンといった感じに見えた。

ただ、大人しく思慮深いので、自分が父親と仲良くすれば、"跡継ぎだから贔屓されている"という姉妹からの嫉妬にも気がついていて、幼い頃から、極力父親との関係を遠ざけようとするところのも、母親として見てとれた。


(領主様との間にもう一人でも、男の子を授かる事が出来ていたのなら)

ここ最近にロブロウという領地にやってきた、グロリオーサやアングレカムのやり取りを眺めたのなら、本当に"男の子"を羨ましいとも思った。


領地にはバンと同世代の男児もいたのだが、幼少期は体力がなくて、領主邸ばかりにいて、友だちというものを作れなかった。

教会の学校というものに通う頃には、子ども達のある程度の分別がついていて、親から領地の跡取りと言われていたのか、いじめなどはなかったのだが"領主の息子"とあって遠巻きにバン見ているところがあった。

それに加えて幸か不幸か"一人でも平気"という所は父親のバンに似たらしく、暇があれば読書に耽るところもあって、益々"男の子らしい"から遠ざかっていた。

しかし、いつも口が強い姉や妹に喧しく言われながらも、黙々と本を読んでいる姿にはある種の"逞しさ"を感じてもいた。


特に息子が好んで手にしている書籍の内容も、この世界に実際にあった軍記であったり、最近では父親が取り寄せた東の国の兵法書や、武芸書。

一般的には戦いを好む殿方が手に取るようなものばかりだったので、体格や行動は兎も角、バンの内面は十分に"男らしい"と母として嬉しかった。


バンの事を"跡目として大人しすぎる"と口にする領民の男性陣も、跡目の少年が読んでいる本の種類を知ったなら、不思議な事に、それまで出していた非難するような言葉を慎んだ。

ただ一部のバンの姉妹の取り巻きにあたる輩が、"陰気だ""本の虫"とくちさがなく言っていたが、そこは"いつもの調子"で跡取り自身が相手にしなかった。


こういった"バン・ビネガーなりの逞しさ"を見た母親はこの調子ならこのまま、父であり夫である領主ピーン・ビネガーに指導をして貰えれば、賢者を兼ねる父のようにはいかずとも、引き継がせても安心だとも考えていた。



ただあるとしたのなら―――


『それならば、領主様、賢者として私の質問に答えていただけますか?』


"賢者"という言葉を出した途端、夫の瞳が澄んだものになる。

情に惑わされないけれども、冷たくも感じられる目元になり、包み込んでいる妻の手を離した。


『―――質問に答えはするが、それがカリンにとって望む答えになるかもわからないし、"正解"になるかどうかもわからない。

それでも構わないか?』

妻から離した両手を、ピーンはゆっくりと自分の膝の上に置く。


ふと胸元にしまっている絵本が、少しばかりざわつくようにピーンの魔力と――――記憶を吸いとろうとする力を強めた。


(どうしたんだ?。急にガツガツとし始めて?)

通じるか分からないが、テレパシーの要領で絵本に語りかけるが、やはり返答はない。

魔力の方はピーンの中にまだ余裕があるので吸わせてやるが、記憶の方は取られないように気を張った。


(いきなりどうして、魔力と共に私の記憶を吸いとろうとしているんだ?)

魔力は胸の方を起点に吸い取っていて、記憶の方には普通の視覚では確認できない蔓のようなものが、絵本の中心部から延びてピーンの白髪の頭にまとわりつき、吸い付こうとしている。


(やれやれ、大切な"伴侶"との会話を邪魔しないでもらいたんだが……)

魔力を吸われながらも、まだ余力はあるので、"気"を張って目に見えない蔓が、自分の記憶を吸われないようにピーンは努めた。

目の前では"賢者"としての夫の冴えた言葉に、カリンが細い喉に小さく鳴らして、唾を飲み込んでいる。


『構いません。賢者としての領主様のお話を聞かせていただいたなら、私はバンの事を決めさせていただきます』

豊かな黒髪と同じ、黒の中に緑色を潜ませた瞳を真っ直ぐ夫に向けて、カリンは頷いた。



【悲恋ではないからさ】

カリンが意に決した様子で頷いた姿を見て、胸元に収まる絵本が、初めて自分に語りかけてきた言葉を急に思い出す。



【辛い記憶はなくした方が良いのか。

――それとも乗り越えられそうなら、多少辛くとも乗り越えた方がよいのか】

続けて、マーサの記憶を吸い取る前に聞こえた絵本の言葉を思い出す。



(この絵本は"辛い事"、"悲しい事に"に繋がりそうな記憶を好んでいるというわけ……か?)

そしてそう考えてしまったのなら、自然とある仮定の話が今、この場所で浮上してくる。



《今、こうやってピーンとカリンが話しているこ事が、"悲しみ"や"辛さ"に繋がることになる》

(私と、カリンのこの会話が、私達、ロブロウ領主夫妻の"悲しみ"になるというのか?)

そんな言葉を心に思い浮かんだ瞬間、絵本から伸びる蔓が鞭のようにしなってピーンの額に巻き付こうとする。


――――パチン

話始めようとした妻の目の前で、ピーンは指を弾いていた。



『―――領主様?』

唇を開きかけた妻に、苦笑を浮かべて素直に丁寧に、詫びる。


『カリン、スマン。

ちょっと荷物を―――あの魔力を吸い取る絵本を出しても構わないか?。

カリンの話を真剣に聞こうとするのを"邪魔"するんだ。

あと、マーサのお菓子』

そう言って、胸元からあの絵本とマーサのお菓子を、長い指に摘まんで取り出して、ティーテーブルの上に、丁寧に置く。


(邪魔をせんでもらおうか?)

通じているかどうかは分からないが、"念押し"をして、絵本と距離をとった。


ここで"会話"を止めることの方が、例え結果に哀しみに傾く事になっても、妻に対して"誠実"な対応だとピーンは考えた。

指を弾いた瞬間には、記憶を吸いとろうとピーンに向かって蔓のように延びてきていたものは、指から産み出された魔術による小さな旋風(つむじかぜ)で、掻き消されていた。


(後でマーサのお菓子は、絵本の資料を纏めるときにでも、息抜きに摘まませてもらおう)

敢えて、魔力と記憶を吸いとる絵本の事―――悲しみに繋がる―――という過程を意識しないようにして、妻ともう一度向き合う。

今度はもう、話を中座させるつもりなど微塵もなかった。


『止めてしまって、悪かった。

それでは、カリンの質問を聞こう』

賢者の眼のままだが、少しばかり優しさを加えれた目元に、カリンは気持ちを落ち着かせてゆっくりと話を始めた。


『領主様が"息子と共に旅をさせたい"という理由の中に、私がバンの事で"男らしいところが少ない"と、気にしているところを、領主様が気遣って、言ってくれているのはありますね』

妻が"自分に似た大人しい跡取り"に不必要な負い目を感じていた事に、端を発した"共に旅に連れていく"という言葉だったので、ピーンは静かに頷いた。


『気遣っていないと言ったら、カリンに嘘を言っていることになってしまう。

だが、それを尋ねる位なら、私に賢者として尋ねるという、前置きは要らなかったんじゃないか?』

返事の気持ちとしては、どちらかと言えば"カリンの夫"としての立場で、ピーンは答えていた。

だがその夫の返答には反応をしないで、カリンは更に言葉を続ける。


『"バンにもっと活発に男の子……若い頃の領主様のように、なってほしい"。

そんな私の抱いている願望は、領主様は見越していらっしゃるんですね』

子の為より、伴侶となる妻の自分の気持ちを優先して動く、夫の事をありがたいと思う。

思い感謝しながらも、このピーン・ビネガーという人が、どことなく"異質"なものをカリンは感じてしまっていた。

自分が"女性"で、胎児という存在を280日あまりの間に胎内に宿し、その胎動も体感したからこそ母性というものうものが働いている。

だから、"夫"より"父親"としての情が薄いのは、仕方がないこと。

賢者である夫のように理屈っぽい考えを頭に浮かべてみても、まだ夫に抱いた"異質"の気持ちが拭えない。


今の自分の立場は、妻であり、領主夫人であることもわかってはいるけれど、6人の子どもの―――今は母親カリンとしての考え方――"情"が一番に来てしまう。


けれども、夫のピーンいう人は

"―――の立場だったなら"

という、子どもに関しても情を薄くにしか挟まない、良くも悪くも理屈で考えで動く人に思えた。

妻が自分にそんな考えを持っているのも承知の上で、賢者である夫も言葉を続ける。


『ああ、でも最近は、"時代が平和なら、このままバンに修行をさせながら、引き継がせれば良い"と、カリンが母として思っているところも、見受けられる。

でも、今の時勢ではこのままバンに譲っても、親というた立場の私達にとっては、安心できる事はない』

今まで心や頭の中で、カリンが何度も繰り返し、考えぬいた事をあっさりと見抜かれて、言葉に出された事にはカリンはもう驚かない。


好奇心が強すぎる(ひと)は、妻として自分を"大切"にして―――興味をもっているのだから、そして興味を持ったのなら"理解"をするまでとことん探究する性格なのも、十分に知っている。

ただ彼が"親という立場"という言葉を出したのに、少しだけカリンは悲しい気持ちになっしまっていた。


"大切に大事に思っている"という夫の気持ちに、嘘偽りはないと思う。

けれどカリンは、夫の"気持ち"には研究の時に見せるような探究心―――"深み"感じる事が出来なかった。


事に"子ども"に関しては言葉を額面通りに受け止め、決まった受け取り型をしている時にしか見えない事が、カリンには希にある。

ただ、"普通の人"なら一言で済ませてしまうような表現の為の言葉でも、膨大な情報を持っている"賢者"は、それを表現する何倍もの語彙を使いこなす。

だから、僅かなニュアンスの違いも感じさせずに、"情も知識もある方だ"と領民を納得させてしまう。


(領主様は、賢い方だからきっと考えて、自分のやっている事を"理解"はしている。

でも、子どもの事になると、研究をなさっている時ほど、感情は深みを持っていない)

親という存在は、家族――伴侶を想い、子を想い、生活を守るために努力をしなければならないという"定め"を ただ頑なに守っているようにも見えた 。


それさえ守っていれば、ピーン・ビネガーは"父親"としての役目を―――カリンの夫としての役割を果たしている。

だから、国を平定に導くことは子ども達を思う事ではあるが、その根底にあるのは大切にしたい存在――しなくてはいけないと思っているカリンの気持ちを落ち着かせる為。


そして、その更に先にあるのは、カリンがピーン・ビネガーの"領主夫人"で幸せでいる事に安心できている人。

影のように、ただ静かに夫の傍らに立つ影の闇の様なあの人。


(だから、ピーン・ビネガーという人が良い領主で、良い夫で、父親で、いようと努めるのは)


"奥様、旦那様が「カリンの淹れたお茶が飲みたい」とお待ちでございますよ"

ある意味では夫以上に嫁いできた自分に尽くしてくれている、優しい笑みを浮かべる執事がいた。


彼は決して、カリンの立場を脅かす事などなくて、寧ろ積極的に支えてくれている。

だから、ピーンもそんな臣下の心遣いに応えんが為に―――。


(―――これ以上は、今は考えるべきじゃない)

自分の中で考えが"負"の感情が伴って、それこそ暗い闇の方向に流れているのがカリンにはわかった。


『カリン?』

背の高い夫が椅子に座り自分を見上げる姿には、カリンが負の感情を持っていることには微塵も気がついていない事が伺えた。


(私が、悩んだり困っていると気がついてくださるのに、私が邪な気持ちを抱えるはずもないと、ロックもこの人も疑わない)


―――賢いけれど、この人だって万能ではない。

賢明な女性はその事に気がついて、張り積めていた気持ちを緩める。


『すみません、質問する言葉を頭の中で纏めようとしたのですが、中々上手にできませんでした。

これから質問したいことが、私が賢者様しての"ピーン・ビネガー"様にお尋ねしたいことです。

―――バン・ビネガーがロブロウ領主となった時、領主様がバンを平定の為の決起軍に形だけでも参加させることは、後に彼が領主になれた時に、利点(メリット)損失(デメリット)、どちらが多いと思われますか?』

賢者の夫が好む理知の言葉を使って、妻は尋ねる。


『それは……、子ども6人を全員を含んで考えた上での事を聞いているんだな?』

ピーンが目を鋭く細めてそう尋ねると、妻は小さく頷いた。


『はい、バンはこれまでも姉妹の僻みを気にしてはいないし、相手にもしていません。

それでも跡継ぎであることで、姉妹から事あることに爪弾きの様な仕打ちになっています。

最近では領民からは、いくらか認められる傾向ではあるのですが、それが却って姉妹達には僻みを助長する事態に繋がっているところも見られます』

そこで一度小さく息を―――溜め息を吐いて、再び質問を続ける。


『もしこれで、領主様がバンを修行という名目で連れ出したなら、彼女達がまた僻むのではないのかと。

彼女達からしてみたら、いくら父親が国の為、彼女達が貴族の息女として安心して嫁げるように父親が動いているのだとしても』

『恐らくは、僻み根性の方が勝ってしまうというわけか……』

夫が繋いだ言葉に、妻は豊かな黒髪を揺らして辛そうに頷いた 。


『万が一だとは思いますが、バンを連れていった事で、彼女達が人非人(にんぴにん)のような行動を取らないという保証が、今の私は母としてとれる自信がありません。

もしかしたら、国軍にみっ――――』

"密告"とい言葉をカリンが口に出そうとした時、口の前に夫の長い人差し指が出されて、勢いがついていた言葉に歯止めがかかる。


ピーンが労るようにカリンを見つめれば、視線を合わせる事も出来ずに、祈るように手をカリンは胸の前に組んだ。

そして、どうして娘達がそこまで僻みという気持ちを抱いてしまうのかが、親としても人としても理解が出来なくて、弱音を夫に溢す。


『本当に、母親として情けない限りです』

カリンは祈るようにしたまま、目を瞑り再び辛そうに俯いた。


夫には報告を控えてはいるが、ロブロウの子ども達の学校の役目を果たす教会から、長女を除く娘達に関して連絡があった。

苛めに繋がりそうな、また教会の神父や巫女が指導をしなければ、"あわや"と見受けられる行動を、娘達が度々取っているという事だった。

母として子どもと向き合い、いつも姉妹で固まる娘達をわけて、一人一人と向き合ったとしても、彼女達は口を堅く噤み何も喋ろうとしない。


『私の見る限り、カリンはカリンで、母として出来る限りの事をやっている。

それにカリンが危惧している事、私も(あなが)ち外れているとも思えない』

まさか夫から、自分の娘を否定するような言葉を肯定されるとは思っていなかったカリンは、手を祈るようにしたまま、ハッとしたように顔を上げた。



『"子供叱るな来た道じゃ、年寄笑うな行く道じゃ"。

そんな格言があるが、自分が通らなかった道を見せられても、対処は分からないし、大変だろう。

娘達は、自分達がやっている事は一般的に"悪い事"なのだと知ってはいても、辛いことなのだと感じてはいない。

この時勢では、聞く気持ちも、余裕もない』

ピーンはゆっくりと椅子から立ち上がって、未だに祈るように手を組む妻を抱き締めた。


『でも、まあ、案外普通に"反抗期"という奴がタッグを組んでいるだけかもしれないなぁ。

子育てが楽な方が、本当は珍しいし、希なんだと、領地の保育所の責任者が教えてくれたぞ。

私や、カリンの親御さんは良く「楽だ」と言っていたから、そういった話を聞いているから、私達夫婦が難しく感じすぎてしまっているのかもしれない』

長い腕の中で、わざと夫が明るい声を出しているのがわかるが、カリンはどういった反応をすればいいか分からない。

妻が反応を返さないのに構わず、ピーンは更に言葉を続ける。


『カリンだって、御義父上と上手くいってなかったと思える時期があったんだ。

もしかしたら、娘達も娘達なりに、どうしてこんなに僻んでしまうのか、悩んでいるかもしれない。

そしてそんな自分と向き合うのが辛くて、同じ価値観である姉妹と固まってしまっているかもしれない。

まあ、話し合いたくても、私は最近はすれ違うことすら避けられてはいるが』

そこまで言うと、抱き締められた腕の中で、夫の胸が息を吸うために大きく膨らむのをカリンは確認する。

更にグッと長い腕が強く妻を抱き締めて、黒い豊かな三編みの横にある耳に賢者は囁く。


『"賢者"として、カリンから尋ねられた事を含めて答えよう。

バン・ビネガーを、修行として決起軍に連れて行くのは止めておいた方が、娘達にも跡を継ぐ彼にも悪い影響は少ないと、断言しよう。

平定をされたこの国なら、バンも今の調子でいけば、卒なく領主として跡を継げる。

修行をして得る利点(メリット)損失(デメリット)なら、"帰ってきてから"の領主としての損失の方が大きそうだ』

帰ってきてからという言葉に"必ず、平定を成し得る"という、賢者の確信が込められていた。


そんな気持ちが溢れる、夫の言葉にカリンは夫の腕の中でやはり言葉なく、頷いた。

頷いた頭を長い腕をもって包み込むようにして、ピーンはまた妻を抱き締める。



『これ以上、カリンが"母"として辛い気持ちをしないように、私はしたい』

今は"情"を主として生きるカリンにとって、辛い言葉をピーンはまた無意識に吐き出す。


だけれども、"無意識"というピーンという人の"無知"がカリンの心を解してもいた。

例え血を分けた子どもという存在より、大切で大事な―――"興味"がある人の気持ちを最優先させるのが、"人情味"がない事がピーン・ビネガーの"個性"。



(もしかしたら、この人は"貴族"という家に産まれなかったのなら、賢者にはなったかもしれないけど、結婚も、そして家族すらも持たなかったかもしれない)


良くも悪くも"情"の上で成り立つ家族という集団生活が、ピーン・ビネガーには向いていない。


沢山の言葉を使いこなして領民を、賢く情け深い領主と"誤魔化して"いることはできていても、賢明な女性は妻として彼と肌を重ねる程触れあい、家族として過ごす内にその事に気がついてしまっていた。

でも、ピーン・ビネガーは無責任な人ではないから決して逃げようと考えはしても、実際にはしない。

だから、国は安定してないとはいえ、賢者である領主の采配のお陰でロブロウの領民は苦しむ事はない。


ただ"問題"があるとすれば、優秀な領主が父であることと、跡継ぎだけが優遇されてしまう事が、娘達の歪みと僻みを大きく育ててしまった。

賢い父には敵わないから、極力あうことすら避け、矛先は跡継ぎに向かうが、"知恵"をつけた跡継ぎは見事に避ける。


避けるけれども、胸の内に沸く僻みを、娘達は止められず、等々それが――学校のような場所へと出てしまい勝ちになっていた。

そして、それに心を痛める"カリンの事を、本当に心配している"ピーン。


(それでは貴方をロブロウ領主という立場に留める為に、家族をこの胎内に宿し産み出した私が、ピーン・ビネガーの自由を許さない"楔"みたいですわね、領主様)


夫が、決して覗かないと分かっている心の内で、カリンは少しだけ気持ちを闇に溶かした。


(―――?)


抱き締められる腕の隙間から、僅かに見えるティーテーブルに置かれている絵本が仄かに光っているのがカリンには見えた。



『――バンの事を始めとして、領地の事を頼む』

フッと抱き締められる力が抜けて、カリンは―――今、夫とロブロウ領主と家族の父親として話している事を思い出す。


"決起軍に参入を賢者として、求められた。

国を平定に導き、落ち着かない国を安定させる為、執事のロックを連れて参入しようと思う。

自分達の子ども達を安心して、嫁がせたり跡を継がせるため、決起軍にいる間の留守を頼む"

確か、そんな話を寝室に戻ってきた夫であるピーンに打ち明けられる。


そして、妻である自分は―――カリンはそれを受け入れた。

大変で、"命懸け"の話を聞かされたと記憶は確かにあるのだけれども、カリンの中で感情が何もわかないし、気持ちが伴わない。


(驚きすぎて…、感情が追い付かないのかしら)

考えてみれば、国の安寧を願う為とはいえレジスタンスの決起軍に参入を求められて、国から先祖代々治める事を命じられた貴族の領主が、参入する事は尋常な事ではない。


もしも、国に領主がしている事が知れたのなら、領地没収は当たり前で、そこを納めていた貴族は一族郎党で首を首を跳ねられる事は当たり前の事になる。

けれども、このままではこの国での"日常"すら危うくなるのは、これまで今抱き締めている夫や、弟のように可愛がる執事共に、ひっそりとではあるが散々話あってきた事でもある。

近頃では領主夫人として、領民の悩みの相談を受ける時にも、一番に多く聞かされる話題でもあった。

そこまで考えて、また疑問がカリンの中で浮かぶ。


(話を聞いて、それで、私は、どうして今、こうやって領主様に抱き締められているんだろう?)

自問自答して―――これから、決起軍として参入する為においそれと妻と会えなくなるから。

もしくは、いつも飄々としているロブロウ領主でも"国に(そむ)く決断"に、気持ちの昂り、その為の包容だという結論がカリンの中で浮かんだ。



(ああでも、確か領主様は――……)

夫が領主夫人である自分を大切にしてくれている事は、カリンはよく知っている。

そして、彼が自分を抱き締める時は、カリンが"悲しい"表情を浮かべた時ということも思い出した。


(私は、"悲しそうな"顔をしていた……の……?)

新たな疑問が浮かんだ時、ロブロウ領主が夫人を抱き締める力が弱まった。


華奢な寝巻き姿のカリンの両肩を掴み、身体を離して見れば、何かしら不思議そうな顔をしているが、その中に"悲しみ"の雰囲気は全く無く、ピーンは安堵をする。


『決起軍に参加している間、王都には"ピーン・ビネガーは領地にいて、国から任されている研究をしっかりとこなしている"という細工はもう準備できている』

そう言うと、何時ものようにイタズラっぽく夫が笑う顔を見たならば、先程まで浮かんでいた空白のような戸惑いは、カリンの中から消えた。


『―――カリンが子ども達の面倒をよく見てくれたお陰で、国に数年は報告を誤魔化せる位の研究の量を、密かに蓄える事は出来た』

グロリオーサが決起軍というレジスタンスを立ち上げ、挙兵している情報をピーンは仕入れた時から、ピーンは秘かに、1日に研究をする量を4時間増やしていた。


この世界の暦は1日は24時間、四季で分けられるのは春夏秋冬90日、合計360日、それに"5日間カウントされない祝日"が含まれていて、1年の流れが成り立っている。

職種で休日が別れていて、一斉に休むという日がないが、季節の節目に行われる季節祭には揃って休むか、交代でというのが主流だった。

そして、ピーンはこの支度は"領主にはカウントされない祝日以外、休みが無いもの"として開始していた。



ちなみに働く時間は、ピーンと同じ様に、祝日は以外は常に竈に向かう、副竃番の"マーサさん"の

「1日に働く時間?。料理だけなら、8時間位かねぇ……」

を参考にさせて貰った。


まず実際には8時間しか働いていないのなら

8×360=2880


ペースや配分はあるだろうが、取り敢えず1年間で働いた時間を2880時間分として、過去に執事が纏めてくれていた自分の仕事の量をざっと換算した。


そしてピーンが実際には働いていた時間は

(8+4)×360=4320

4320(実際の研究量)-2880(国に納める分の研究)=1440(誤魔化す貯めた研究の貯蓄※おおよそ半年分)


それを8年程繰り返して、グロリオーサと出逢った。


なのでピーンには"4年"程、何もしてなくても良い時間――自由な時間が出来た。


加えてロブロウで賢者としても、領主としている証明として、研究を国に提出さえしていれば、決起軍に参入はしていないという"現場不在証明(アリバイ)"にもなる。

国も恐らく"馬鹿"ではないので、季節の節目に訪れる役人に研究を渡す際には、戻るつもりもあるし――賢者の権限でそれこそ、"動き"を探らせて貰うつもりだった。


勿論、"賢者"として参加する為、直接国をどうこうする事は出来ないが、"手伝い"をする事になる。



『―――さっきもいったが、ロックを連れて行くことになるが、構わないか?』

『ええ、だってロックを連れていかない事には、きっと決起軍の皆さんが困ってしまいますよ。

領主様がいくらとても立派な"賢者"でいなさっても、片付けだけで皆さんが困る姿が目に浮かびます』

夫人は最初に寝室に戻ってきた時と同じ様に、口許に小さな手を当てて品よく笑う。



『こう言っては失礼かも知れませんが、ロックがいないと、きっとグロリオーサ様共々領主様がアングレカム様に叱られている姿が、私には簡単に想像出来てしまいます』

ロックとタイプがどことなく似ている、客人となった外見が整い過ぎている綺麗な青年が、ピーンに苦言を物申している様子が容易に想像が出来て、カリンはまた笑う。


『それに、ロックは―――"あの子"はカリン・ビネガーがいなくても大丈夫ですが、"ピーン・ビネガー様"がいてこそ完璧な執事なんですよ』

夫と2人きりの時、とても出来の良い弟のように思っている執事の事を、領主夫人は"あの子"と呼んでいた。

そしてそんな執事の事なら、夫の次に理解しているつもりでもある。



(ロックが、あの子がいるから、領主であるピーン・ビネガーも、領主夫人であるカリン・ビネガーも、しっかりしようと思えるのだもの)

夫であるピーンに誉められた時にロックが浮かべる、心の底から嬉しそうな笑みは、カリンの胸にも暖かいものを広げてくれる。



(カリン様、奥様、旦那様をこの国一番の領主と言われるように頑張りますね)

(……ロックがいるから、私も領主様も)

――――ナラ、"あの子"ガイナカッタラ、二人トモ、ドウシテイタ?。


領主ト領主夫人ハ、ココマデ打チ解ケルコトハ――


【そこまでになさい、せっかく"忘れた"のに】



『―――え』

冷風がまるで心を撫でるような感覚を突如として味わい、カリンの頭の中で荘厳で落ち着いた老人の声が響いた。


驚きの声を急に妻が出したことに、ピーンが何かがカリンの内に起こったのを察した。

そして恐らくは自分が借りてきた絵本が関係していると気がついて、ティーテーブルに置かれている絵本を睨む。

それから華奢な両肩をグッと捕み、ピーンは高い背を屈めて妻と視線を合わせて口を開いた。



『……カリン、お前の記憶のなかで、ぽっかりと忘れた物はないか?。

何か吸いとられたような感覚はないか?』

真剣に、真っ直ぐに妻に向かって賢者は尋ねる。

それを受けて、妻は"真剣"に困った。



『あ、その、急にそう言われましても。

それに、もしアングレカム様が仰るようにこの絵本が記憶を吸っていたのなら、もしかした本当にどうでも良いことを、私の記憶の中から吸ったかもしれませんし』


―――この絵本は人の魔力を、希には、"気紛れ"のように"記憶"吸って存在を保っているらしいとの事です。

―――記憶に関しては、本当に無造作に吸い取っているらしくて、基準が判りません。

アングレカムが説明してくれた言葉を思い出しながら、カリンは困り顔で夫に、今の自分の気持ちのありのままを答えた。


困り顔の妻が浮かべる表情は、本当に"困っている"というところしかピーンには解らない。

ただし困っている中に、"悲しい"やら"苦しい"といった事を含めて複雑そうな感情は、賢者には感じられなかった。


(どうやら、″今回は″本当に気まぐれに適当な記憶を吸いとったぐらいなのかもしれないな)

先程自分の"記憶"を、意味深な言葉と共に絵本が吸い取ろうとはしていたが、妻に関しては″悲しい″気持ちに繋がる事が想像できない。


(ああ、でも、ロックと離れる事は悲しくはないが、寂しいことになるかもしれない)

母として子育てに悩んではいるのは知ってはいるが、"領主夫人"としての妻が、気の弱い所はあるが、しっかりと仕事をこなしている。


そして彼女がここまでしっかりと出来るようになったのは、自分も大変世話になっている執事のお陰だった。

その執事も、真面目な直向きな態度であることで、保守的であるロブロウの領民に受け入れられたところもある。

ただ、それに加えて遠方から嫁いだばかりの幼い領主夫人だったカリンの世話を、例え古参人物にくちさがなく言われたとしても、真摯に努めたのが認められている所もあった。


カリンが領主夫人として、表だって夫であるピーンと並び、ロブロウという領地を守っていたというなら、

ロックは裏で、細々な事を援助してピーンがこなしてきた実績を存在を証明する"影"のようにして、支えてきた。

"表"と"裏"の2人は互いにどんな役目をしているのか互いに把握していて、正に"表裏一体"だった。


(そんな2人が離れるという言は、やはり"悲しい事"にはなる、か)

賢者は絵本をチラリと見てそんな事を考えた。

それからゆっくりと妻の肩から手を話して、ピーンは苦笑いを浮かべた



『そうだな、カリンの言っている通り持っている本人が、"持っているのを忘れている"記憶を吸い取っ手いるのかもしれない。

それに休もうとしている所を悪かった。

私はこれからの事で色々と支度をしなければならないから、先に休んでいてくれ』

夫が自分の気持ちを理解してくれた事に、カリンもホッとする。


『はい、わかりました。あ、でもお夜食や、寝巻きのお手伝いをしないと。

それに……、性急かもしれませんが、出きることなら、ご出発を何時になさるのかと、併せて支度の話伺いたいのですが』

『ああ、それは……』

夜食や風呂の心配はともかく、妻からの"出立の質問"はもっともだと思ったピーンは、それには答える事にした。


『実を言えば研究の貯蓄を8年かけて大量生産したのはいいんだが、4年分の提出の配分を全くしていない。

一応念を入れて、季節の報告時期に出すための纏めや、報告の説明資料に付箋をはっつけたりもする事になるだろう。

それをするのにロックの手を借りて、10日ぐらいだろうか……簡単に見積もって、それぐらいはかかると思う。

いざって時は、アングレカムが得意そうだから巻き込んで手伝って貰おう』


『まあ、領主様、お客様にそんな事を……』

執事に代わって諌める発言をカリンがしてみるが、あの真面目さと勤勉さが伝わってくる客人なら喜んでしそうだと、領主夫人は密かに思い、笑いを堪える。


『それに旅の支度については、バンがいたのならともかく。ロックと私だからそんなに荷物は要らないと思う』

『そうですね。領主様とロックなら"鞄とコート執事服"があればそれで、2人は何処へでも行ってしまえそうですもの』

夫のする支度の説明が、嫁ぐ前に、手紙でとても楽しませてもらった"2人旅"の時を体験をもとに語っているのがわかった。

カリンは安心しながらも、かつて旅をしていた時の、2人からの手紙を思い出してまた微笑む。


"領主様と執事"なら、この2人ならある意味、着の身着のままでも旅は出きると思えるほど、カリンは頼もしく思っている。

妻の微笑みに、ピーンも笑いながらまた説明を続けた。


『馬もロブロウを出てから仕入れようと考えている。

極力、ロブロウ内では異変が無いようにしておこう』

折角8年間、"引きこもり動きがない領主"をやってきたのだから、それを活用させてもらう。


『領民には、如何お伝えするつもりですか?。

季節の節目に戻られるとはいっても、誤魔化せない方もいらっしゃるのでは?

それに屋敷の使用人―――』

そこで本日、大勢の使用人がやめさせられた話をカリンは思い出した。

夫は妻が気がついた事にうっすらと笑う。



『使用人は、極力信用が出きる者以外は、今日を知ってのとおり暇を与えさせてもらった。

そしてグロリオーサを保護した次の日から、領地の主な取り締まりや役員となるものと密かに、密会を重ねきた。

大体、了承の返事をもらったし、誓約もしてもらった』

そこで話を一度区切るように、ピーンは妻の頭を優しく撫でる。


『とりあえず、明日すぐに出立するわけでもないし、支度はこなしていく。

その都度、カリンには報告をする。

今日は本当に疲れただろうから、カリンはもう休むと良い。

一応、"1人旅"をしていた時期もあったんだから、風呂も食事も自分の世話ぐらいはできる』

そう言って、コートを受け取り少しばかり強引に妻の背に大きな手を添えて寝台がある部屋まで"エスコート"をして、挨拶がわりに恥ずかしがる夫人の額にふざけて口付けて寝かせた。


部屋の明かりをティーテーブルの周りを残して、暗くしてから寝台からは離れた場所備えられてある浴室に向かう。

浴室の扉を閉める前、ティーテーブルに置いた絵本が見えた。

テーブルの上で仄かに明かりを浴びている古く立派な絵本は、人でもないのにまるでこの領地の主のような存在感を賢者に与える。



(さては、理由(わけ)ありの絵本も、領地ロブロウが気に入ったかな)

冗談めかしてそんな事を考えながら、コートだけはしっかりと衣紋掛けにかけて、明日片付ける執事には申し訳なく思えるほど乱雑な脱ぎかたをして、衣服を篭に放り込み湯に浸かる。

ザッと顔面に湯を浴びて、後ろに髪を掻きあげた。


(明日から、正式にロブロウを離れる事になったと説明をしないとな……)

賓客としてグロリオーサをロブロウに保護しておきながらも、食事を共に取る時間もないくらいあまり構っていなかった理由はそこにあった。



ロックにもそれとなく別の仕事とグロリオーサの"御守り"をさせていたのは、一対一で自分が領地を留守にするかもしれないことを、この土地の重鎮と言われる人物達と話す為だった。

領民には密かに"領主の懐刀"とも呼ばれている、主とその奥方以外には作られた笑顔しか浮かべない執事。


領主の傍らに影の様に控えている執事をつれず、ピーンが1人で突如目の前に現れて話をしたいと言う。

話を持ちかけられた方は"自分は特別に信用されて話をされているのだ"と思い込ませるのは、賢者にとっては造作(ぞうさ)なかった。

大っぴらにはしていないが、重鎮と呼ばれる人々はそうやって、自分の前に現れた領主が、"賢者"だという事を知っている、領民にはしては"知"に重きを置いている所がある方々である。


その"知"に重きを置いている人が、賢者の肩書を持つ人物に相談をされているという事に、誇りと優越感を抱くのはある意味自然な事なのかもしれない。

また飄々としてばかりいる領主が、幾ばくか思い込んだ風な様相で話を、いつもの滑らかな調子ではなく朴訥(ぼくとつ)と話す姿も、心を掴んだものだった。



(我ながら小聡明(あざと)い方法をしたもんだ)

自分のこの交渉と打ち明けるようなの遣り方に、苦笑いを浮かべた。

それでいて、この方法は本当に"信"を置いている執事や妻、竈番の娘には通用しない事もピーンにはわかっている。


(本当は、人の気持ちを利用した最低なやり方なのなのだろうな)

《貴族》で《領主》で《賢者》だという自分の使える権力と立場と名声を使っただけだと、沸き上がりそうになる傲慢な気持ちを懸命に押さえ込む。


一番信頼を得る方法だと考えてやって来た方法だが、自分でも下衆の極みのだと思って必要な分だけ"反省"をして、落ち込む。

そして仕上げに《今回だけが上手く行ったのだ》と、湯船の中で、目を閉じてきつく自分に賢者は言い聞かせる。


(人の気持ちを考えていたら、やっていけない時勢だけれども、忘れてもいけない)

色々と考えを巡らせたあと、これから仲間になるだろう人物や、しばらく別れなくてはいけない大切な人や、再びまた懐かしい日々を限られた期限ではあるが過ごす"自由"を思い浮かべる。

それを共に過ごす、大切な家族なような人―――執事のロックを思い出す。


(そうだ、ロックにそろそろ改めて"闇の精霊"との付き合い方を教えないとな)

ここでは"ロブロウ"という土地では教えてやる事ができない様々な事を、才能溢れる人物でもある青年に、出きる限り賢者は教えてやりたかった。

ピーンは彼が望んだとはいえ、自分の"わがまま"で才能豊かな青年を国からロブロウに匿うように隠した事も忘れてはいない。


(ああ、そういえばロックにお礼の品を渡そうと思っていたんだった。

でも、立派なだけの懐中時計じゃつまらないしなあ……。

まあ、4年も時間があれば良い案が浮かぶかもしれない)

元々は"決起軍"というレジスタンスを偶然の成り行きで見つけた時に、いずれ"縁"があったのなら、国を平定するのを手伝う為に作り始めていた時間だった


その中には、いつの間にか自分の為の時間も気持ちが入っている。

とっくの昔に、自分の時間を持つことを諦めていたつもりだったのに、こうやって目前にその"時間"を使える事に、胸を躍らせ、楽しんで仕方がない自分がいることに、ピーン・ビネガーは自嘲する。



『私の許された"自由(リミット)"は、4年か……』

そう呟いて、湯船の中に賢者は子どものように頭を潜らせた。


(ああ、明日は遅く起きるってカリンに伝えるの、わすれてた)

そんな事を考えながら、湯船から上がった。


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