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【稀代の魔術師】

突如噴水から飛び出てきたライは、素早く駆け、ネェツアークが受ける寸前で風の塊の内、2つを愛用の武器の鉄爪に中和する"土"の精霊を纏わせて片付けました。

ネェツアークが、器用に足元にある"泥"でを蹴りあげて、ナイフに"土"の加護をつけて、片手で3つ片付けいるので

「もう少し、助けてよ〜」と言うと、

「生憎、猫も手は2つまでにゃ〜」

と返されたのでした。


「さて、もう一度言うにゃ~。

稀代の魔術師の名前にワチシは"異議あり"なんだにゃ~」

黒髪に黒い瞳を雨に濡らし、麗しい王族護衛騎士の礼装の軽鎧に身を包む美女・ライヴ・ティンパニーが負傷したネェツアークの側に立つ。

彼女は騎士でありながら帯剣しておらず、籠手から伸縮する鉄の爪を出し、猫のように舐めてベルゼブルを見据えた。

語尾につける言葉だけが異質なのだが、それすらも当たり前と感じさせるミステリアスな雰囲気を彼女は携えている。

「また、不可思議な"存在"が入ってきてしまったものだな」

「あ~、それは認めるしかないな」

「にゃ?!ワチシが、フルボッコにゃ?!」

ベルゼブルの言葉にネェツアークも便乗し、ライが振り返ると賢者は肩を負傷しながらも、不貞不貞しく笑っていた。

「にゃ~、ところで笑ってるあんたは―――可愛いリリィちゃんを泣かした"ヒトデナシの"ウサギの賢者殿で、あってるかにゃ?」

鉄の爪を、ビッと鳶色の髪と瞳を持った人物に、ライは向ける。

「あっ、そうか。"この姿では始めまして~。ウサギの賢者です"」

ネェツアークはウサギの姿の時の声を出し、ライに答える。

ライは少しだけ鋭い獣のような瞳で、人の姿のウサギの賢者を見つめ、次に敵となる翁―――ベルゼブルを睨んだ。

「ふーん。まあいいにゃ~。とり敢えず賢者殿、爺さん、訂正するにゃ」

ネェツアークはライが何を言わんとするか理解し、苦笑いを浮かべ、ベルゼブルは皺だらけの顔の眉間に縦皺を更に加えた。

「"稀代の魔術師"の名前を間違えて連呼しすぎにゃ~!。

セリサンセウム王国、稀代の魔術師は"シトロン・ラベル"にゃ!。

腹黒貴族のママさんは、天才魔術師に過ぎないにゃ!」

ライは比較的平らな胸を張り、言い切った。

「―――そうか、ではワシの記憶は稀代の魔術師は銀髪のシトロン・ラベル殿としておこう。

さて、ワシの存在定義は"人間の敵"なのだが」

ベルゼブルは自分の敵――ネェツアークとの間にいる"女性の騎士に見えるような"存在を、扇子を弄びながら見つめた。

「お嬢さん。あんたの返答次第では、ワシは余計な手間を省かずに済むし、"可愛い子猫だったモノ"を敵と見做さないですむ」

「にゃ~」

ライにも眼前にいる翁の姿をした存在が、"人ではない何か"と解る。

「ライさん、あんたが怪我をしたらリコさんが、とても心を痛める。あんたのお陰で、状況が開けた、だから」

ネェツアークが立ち上がり、ナイフを構えた。

「少し時間がかかるけれど、この場所で待っていて貰っていいかな?」

「にゃ~。どっちの言うことも、"真っ平ごめん"にゃ」

ライはニコッとネェツアークに向かって、チャーミングで有名な微笑みを浮かべた。

次の瞬間に獲物を刈る猫の瞳となり、ベルゼブルに向かってしなやかな自慢の体躯を駆け始めていた。

「ライさん――――無理はしないでくれよっ!」

ネェツアークはライが移動と同時に、ナイフを支援するように投げる為に構えた。

「フフッ、残念だ。ワシは"猫"は好きな動物なんだがな」

ベルゼブルは扇子を構え、迎撃に形をとる。

ライの素早い一発目のパンチに乗せた鉄の爪を、後退しながら扇子で受け止める。

その間にベルゼブルは先程と同じ様に、敵を切り刻む為の風の魔術で疾風の球体を周囲に造り出し、浮かせた。

「支援で、中和と!」

ネェツアークは姿勢下げて、ナイフに泥を纏わせから風の球体に向かって投げつける。

ドス、ドスと大地に突き刺さるような音がして土を纏ったナイフは風の球体に"突き刺さり"、ナイフから泥が風圧で落ちるのと同時に、球体もそのまま掻き消えた。

「賢者殿~ナイスアシストだにゃ~」

そう言ってライが扇子と拮抗させていない方の、鉄爪がついた手を振り上げる。

「いくら2人分の魔力があっても、使う存在が1人なら宝の持ち腐れになっちまうにゃ~」

ライによる、2発目の鉄爪の突きが振り下ろされた。

"キィイイイイイン"と金属と金属の激突音が、雨が降り頻る中庭に波紋の様に響き渡る。

ライの鋭い2発目は、再び細剣に変わったベルゼブルの武器によって受け止められていた。

「"2つの物を上手に使いこなす"。それが年寄りの知恵だよ、"黒い子猫さん"」

不思議とベルゼブルが互いの武器を拮抗させながらも、穏やかな声でライに語りかけた。

「にゃ~。おばあちゃんみたいな事、言わないで欲しい――――にゃっ!」

ライは鉄爪を引き抜き、華麗なアクロバティックにしか見えない動きで、ネェツアークの側まで下がった。

「ウサギの賢者殿。"時間"って後どれくらいにゃ?」

ライは多少刃零れした鉄の爪を眺めて、小さく舌打ちをしながら尋ねる。

ネェツアーク何かを呼び出す為に文言を呟きながら、"適当"にも聞こえる感じで口を開いた。

「アプリコットさんがある事を"受け入れる"か――。

それともエリファスさんが、"覚悟を決めた"、その時だね」

「に゛ゃ!?。そんな決まってないアバウトな機会がくるまで、ワチシに戦わせる気にゃ?!。

ワチシはそもそも、稀代の魔術師シトロン・ラベルの後継者にゃ!。頭脳派にゃ!」

「うん、私もそう思う」

ネェツアークなりに誠実なキリリとした顔をして答えた時、

「お喋りは楽しそうだが、状況を考えなさい」

ベルゼブルが細剣を武器にして、賢者と魔術師の元へ大きな矢のように突っ込んできた。

鳶色の瞳と漆黒の瞳が一瞬で交わり、二手に別れるように大地を蹴り、跳ぶ。

ネェツアークにしても、ライにしてもバネがある動きは秀逸なので、互いの距離は一気に大きく開いた。

そして丁度その中間に、ベルゼブルが細剣を構えて立つ。

「さて、どちらを先に仕留めるべきか。

気をつけんと、2兎追うものは、いや、ウサギも猫も追うがどちらも得ずという状態になりかねん」

「にゃ~。お爺さん、意外と謙虚だにゃ~」

ライは雨が滴る前髪を掻きあげ、ペロリと舌を出しながら言うと、翁はカッカッカッと雨降るなか、闊達に笑う。

「"傲慢"は我が君主のもう1つの"名"。ワシが語るなど、恐れ多い。

まあ、そこの賢者なら2人の敵がいたなら"一石二鳥"とか、(てら)うようにいうだろうな」

「―――いや、私なら"一網打尽"だな」

ネェツアークが文言を唱える合間、雨で下がる眼鏡を中指でクイっとあげながらに答える。

ベルゼブルはまた笑う。

「フフッ、姿は全く違うというのに、君主のようなワシの考えを超えた事ばかり言う。

その君主と引けを取らない傲慢さ、"弟君(おとうとぎみ)"が眷属を頼らず、吝嗇の賢者殿を頼るわけだ」

「にゃ~、じゃあ爺さんを象徴する言葉は何なんだにゃ?」

ライの純粋に興味を持った言葉に、ベルゼブルは今まで持っていた"好好爺"の雰囲気を一気に消した。

「フフッ、知りたいかね?。

何、今、この時のワシの心情にぴったりな言葉に、ワシも驚いておるよ。

"嫉妬"さ!」

「ライさん、気をつけろ!。武器を、"爪"を左右、罰の形に重ねれば耐えられる!」

ベルゼブルの怒声の言葉に続き、ネェツアークの叫び声が続く。

大戦の4英雄の中、一番のスピード誇る"魔剣のアルセン"の細剣が、ライの眼前迫っていた。

("罰"にゃ!)

ライが辛うじて拾い上げたネェツアークの言葉に従い、武器の爪を眼前で交差させた。

交差させた爪の向こうで、ベルゼブルが細剣で煌めく真一文字を描いたのをライが確認した瞬間、腕の籠手がフッと軽くなり10本の鉄の爪が、綺麗に折られて宙に舞った。

"――――お前にピッタリな武器を用意してやったよ。ライヴが騎士になる、お祝いだ"

リコと同じ銀髪の老婆が死の床につく間際、今と同じ用な雨の日に"ライヴ"にくれた武器だった。

(―――"おばあちゃん"!)

ライがショックに包みこまれた最中、鉄の爪が砕かれた音がキィンと"遅れて"響く。

「―――またしても、謀るかっ!。賢者、ネェツアーク!」

嫉妬に満ちた瞳で、ベルゼブルが振り返りネェツアークを睨む。

次の瞬間には"トットットッ"と、10回泥に音を広げ、折れた爪達は見事に全てベルゼブルの足元の泥濘に突き刺ささった。

「シトロン婆さんに借りがあって、それは返さないとならない!。

どんな手を使ってでも"孫娘"を守るってな!」

ネェツアークが長い指を弾いた。

大地に突き刺さる折れた爪達が、白銀に輝き、物凄い勢いで意志を持ったロープのように伸び、ベルゼブルの体を縛った。

「―――稀代の魔術師シトロン・ラベルが、命削って、孫娘に黙って作った緊縛の護法だ。

セラフィムが1人、縛って時間を稼ぐぐらいはさせてもらう!」

ネェツアークが再び指を弾いた時、縛る銀の紐は更に力を増すようにグルグルと、老翁の体に巻きつく。

そして、大きな地響きと共に落雷があって、ライがやってきた噴水の空間の歪みが更に大きくなった。

「"自然"すら、今回は人と戦いでは敵となったか」

瞳に"嫉妬"の炎を宿したままベルゼブルは、白銀の紐に縛され、空間が歪んだ噴水の方を見る。

「―――この場は諦めをつけてくれないか、"高所の神ベルゼブル!"。

地獄の君主ベルゼブブとなる前の貴方だから、"頼む!"」

ネェツアークは尚も何かを呼ぶ文言を唱えつつも、ベルゼブルに呼びかけた。

「フフッ、神と呼ぶ存在に"願う"とは言わず"頼む"か。

どこまでも、傲慢で小賢しい。

―――頼まれたのは、我が君主と"妻"以来の事よ」

【ベルゼブル、堕天しようとも、僕に着いてきてくれないか?】

輝ける12枚の翼に、傲慢という名の"誇り"が空色の瞳に光っているのが、途方もない時間が過ぎた"現在"でもベルゼブルには思い出せた。

("暁に輝ける子"、"星の天使"、我が君主)

【どんな存在でもよいのです、いつか私を迎えにきてください。

私は貴方に初めて愛する気持ち、"嫉妬"する気持ちを教えて頂きました】

(悲しくも優しい我が妻よ)

そして激しい雨音の中、魔法を通さない機械の音が、ネェツアークの胸元で"ガガガガっ"と音をたてて空間を更に拓く。

"賢者さま、リリィです。晩餐会おわりました。

色んな事があったので、お話を聞いて欲しいです。

早く、賢者さまの調査が無事に終わって、帰ってきたなら、ぬいぐるみの時みたいにギュウッと抱きしめたいです。

どうか、賢者さまに、私の声が聞こえていますように"

幼い少女の声が自分の張った"結界"が壊れかけではあるが聞こえた時、ベルゼブルは笑った。

「賢者ネェツアーク、その今も小賢しく用意した紐で早くワシを今一度、縛するが良い」

「――――では遠慮なく」

ネェツアークが指を弾くと、グレイプニル、遠い昔のように感じる数時間前の日中。

炎の猪グリンブルスティの動きを封じた魔法の紐が、今回は深紅の紐の姿で賢者の手に現れる。

「紅白で縛されるか、どこか東の国では目出度き色とされている模様で、ワシは縛されるとは。

異国の神の1人として、皮肉な限りか」

そんな事を言うベルゼブルの声はどこか、清々しい。

銀の紐が、自ら縛する力を弱める。

(シトロン婆さんらしい。あくまでも、暴れる意志のあるモノしか縛らぬ仕組みか)

「その姿のあんた、地獄の君主の方じゃないだろ?」

縛っていたハズの銀の紐すら、荘厳な王の衣服の装飾品に見えるベルゼブルに、ネェツアークは近づく。

「賢者殿は、ワシのもう1つの姿をご存知のようだな」

ベルゼブルが自分より少々背が高い、鳶色の髪と瞳を持った人の青年を見上げる。

「どこもかしこも、君主殿に似ておらぬというのに。ああ、でも1つだけあった」

「良かったら教えてくれ」

ネェツアークが指を弾いて、深紅のグレイプニルがベルゼブルに巻きつく。

「―――フフッ、"いけ好かん"のよ。

自信と傲慢に溢れ、向こう見ずのくせに、やろうとすることに希望を抱かせる、そんな感じがな」

噴水から歪んでいた結界が、いよいよ中庭全体に広がった。

「それではこの姿では、さよならだ。賢者ネェツアーク。

そこで蹲る猫のお嬢さんの、ケアをちゃんとしてあげなさい」

ベルゼブルの後方で、泥の大地にペタリと座り込み、砕かれた鉄の爪が付いていた籠手を見詰めて、雨と涙を混ぜたものを幾筋も頬に流すライがいた。

「―――ばあちゃん、おばあちゃん」

ネェツアークは少しだけ痛みを堪える様に頷き、その顔を見て、ベルゼブルが1つため息をついた。

「変な所で素直なのも、似ていて困る。フフッ、まあ良い。猫は好きだからな。

セラフィムの君主相手に、共闘し健闘したお前さん達に、溝が残らんようにしてやろう」

深紅と白銀の紐を纏った翁は、蹲るライの前に膝を着く。

(そう言えば、この翁殿。戦いの中では結局一度も、膝を着かなかった)

ネェツアークがそんな事を考えていると、ベルゼブルは涙を流し続けるライの雨に濡れた黒い髪を、優しく撫でた。

「猫のお嬢さん。もしも、あんたがあの形で形見の爪を使えていなかったなら、あんたの細い首をワシは―――跳ねていた」

ベルゼブルの躊躇いのない言葉に、ライは顔をようやく上げた。

「そして後ろにいる"いけ好かん男"は、分かっていたんじゃよ。

ワシが使った力、"アルセン・パドリック"という人が、心胆に友と決めた以外の人を斬り捨てられる、"英雄"だとな。

だからワシがあんたを狙った瞬間、あの男はあんたに、ああ指示するしかなかった」

「でも、にゃ。あれ、おばあちゃんが、にゃ」

ライがまだベルゼブルを縛る銀の紐を眺めながら、形見の爪が姿を喪った事を嘆く。

「武器は、この男が直せるだろう」

「―――直せるにゃ?」

ライの涙が止まった。

止まったのを見て、ベルゼブルが安心したようにまた頭を撫でた。

「ワシの今の姿が消えたのなら、折れた爪はこの場所に姿を表すだろう。

だが、修繕し武器の形は元通りになっても、もう今回のような"力"は二度と働かない。

おばあちゃんの"稀代の魔術師"の力が、二度と"この世界"に現れる事はない。

そういった意味では、本当にお別れではある」

「お、おばあちゃん」

再び瞳に涙を溜めたライの前に、ベルゼブルは小さな杖を出す。

ベルゼブルが最初から持っている杖とは違い、細く白い美しい杖だった。

「おばあちゃんの、杖にゃ」

「お前さんと銀髪のお嬢さんの記憶から、形にしてみた」

ライの涙は再び流れ始める。

「記憶の中で、名や身分に捕らわれて、稀代の魔術師殿を見送る事に参加させてもらえなかった、お嬢さんが見える」

ライはこっくりと頷いた。

シトロン・ラベル、リコリス・ラベル、"ラベル家"は政治的にも、社会的にも高官や治癒術師などを多く輩出してきた名家。

ライがどういった経緯で、シトロン・ラベルの養子になったかは全く世間でも憶測しかでてこず、真実はいまだ不明のままである。

シトロンの兄(リコリスの祖父)に当たる人物が、それなりに助力したが、結局シトロンを見送る式にライは参列させて貰えなかった。

「―――今一度、しっかりとお別れすると良い」

ベルゼブルはライに白い杖を貸してやった。

「―――にゃ~、おばあちゃん、おばあちゃん!」

"うわああああっ"とライは雨の中、杖を抱きしめて咽び泣く。

「目も開けられない黒い子猫を、愛される"人"に育て上げた、魔術師か。

確かに"稀代の魔術師"よ。

生きているうちに、一度対話してみたかった。

フフッ、そこの賢者殿に"平手打ち"などをして説教出来る女性などそうそう中々居るまい」

ベルゼブルが自分の皺だらけの手を見ながら、ネェツアークに振り返る。

"努力が全て報われるなんて傲慢な考え、まだ持っていたのかい"

そんな言葉と共に、頬に受けたスナップが効いた平手打ちを思い出してネェツアークは苦笑する。

「そういう記憶は、分かっていても口に出さないで貰えると有り難いんだが、ベルゼブル殿」

ネェツアークが濡れた頭をボリボリと飛沫を飛ばしなら掻いた時、空間が動き始めた。

「"辛い記憶はなくした方が良いのか"。

それとも"乗り越えられそうなら、多少辛くとも乗り越えた方がよいのか"。

未だに分からん」

ベルゼブルがライに手を差し出すと、ライはスッと白い杖をベルゼブルに返す。

「ありがとにゃ~」

「何度も言ったじゃろ、猫は好きなんじゃよ。

涙にまだ濡れているが良い眼になった。

悲しき記憶、(わだかま)り、乗り越えた眼になっている。

もう、ネェツアーク殿が自力で直せない溝が出来る事もあるまい」

ライから受け取った杖は、白い"シトロン・ラベル"の杖から、ベルゼブルが元から持っていたもの形に戻る。

「ネェツアーク殿、"次回"戦う時の知恵を貸してやろうと思うが―――どうか、いるかね?」

中庭の端から白い亀裂が入った場所は、カケラみたい物を巻き上げ始めた。

「―――あんた達との戦いに"戦略"は確かに必要だけれど、結局は心の問題の方が大きかったりするから」

ネェツアークがそう答えると、ベルゼブルは確かに、と笑った。

カケラはネェツアークの頭の高さぐらいまで舞い上がり、雨は激しさを増していた。

「それでは、また(まみ)えよう。今度は地獄の"公爵夫妻"として手加減は出来ん。

そして君主の"弟君(おとうとぎみ)"に敬意を 払う事も不可能だ」

ベルゼブルの姿が薄くなり、銀の紐も深紅の紐は自然と緩み始めていた。

「―――弟君も、それは覚悟しているようです。

本当の事を言えば、"彼"は、兄である"主殿"について行ってくれた貴方達に感謝もしているけれど、"嫉妬"もしているんですよ。

最愛の妻や、セラフィムという高位の役目を置いてでも、付いていけるその、心根に」

「―――何と、フッ、ハッハッハッハッ!」

ネェツアークの言葉を聞いたベルゼブルは、雨空に向かって盛大に笑った。

「何と不可解!、だが、納得はした。

まさかこの立場を、嫉妬されているとは思わなかった」

殆ど姿が消え、盛大に笑う翁に、ネェツアークは小さく頭を横に振った。

「一番信頼されている、大切にされているつもりだったのに、"置いて"いかれる辛さ。

裏切られたとも、自分を思いやった為とも取れる事は、残された方には枷にしかなりません」

ベルゼブルの姿は、殆ど消えていた。

だが、結界のカケラはまだ舞っているのでネェツアークは先程の言葉を語った。

(そういった"記憶"に縛られるのも、また地獄かもしれないな。ウサギの賢者殿、猫のお嬢さん)

ネェツアークとライの頭にベルゼブルの声が聞こえ、最後の結界の塵が2人の間に落ちた。

そして全ての結界が消え去り、雨が未だに降りしきり、罠だけが全て作動した荒れた中庭の中。

眼鏡をかけた鳶色の瞳と髪を持ち、何も縛していない深紅の紐を携えた男と、銀色に輝く折れた爪が突き刺さる大地に蹲る黒髪の美女が残された。

「さて、これじゃあもう旧領主邸に入る事は出来ないし、時間もないかな、ん?」

ネェツアークが胸元から銀色の懐中時計を取り出して、時計の蓋を開く。

そして時計版に示されている時間と、雨雲からでも神経を研ぎ澄ませば何とか分かる月の位置を数回、見比べた。

「済まないが時計を貸して貰えるかな?」

ライは少し腫れた目許で、大地に刺さる折れた爪を眺めながらも小さく頷き、胸元から、黒い猫がモチーフとなっている懐中時計をネェツアークに差し出した。

「ありがとう。

やはり、タイムラグがあるか」

自分の時計、ライの時計、そして月の位置が示す現在の"本当"の時間、その3つを比べてネェツアークは考える。

ネェツアークの感覚と経験から読んだ今の時間と、彼の時計が刻む現在の時間、そしてライの時計が示す時間。

時間の進み具合が一番早い順にならべるなら、

"現在の時間"

次に今の時間から30分遅れで

"ライの時計が示す時間"

そして今の時間より1時間30分遅れの

"ネェツアークの時計が示す時間"。

(ベルゼブルの翁さんが張っていた結界の中では、時間が遅くなっていたわけだ。

"外の時間"が早く進むように。

さて、事態はどちらに動いたかな?)

―――"アプリコット"が、ある事実を受け入れるか。

―――"エリファス"が、覚悟を決めたか。

(どっちが起きていてもおかしくないし、両方もありえるか)

「ライさん、時計ありがとう」

ネェツアークが時計を返すと、立ち上がりライは俯いたまま受け取った。

雨に濡れた前髪は、ライの快活な黒目を隠しているのでネェツアークには彼女の表情が読めない。

ただ、表情は読めないがそれなりに人生経験をつんでいるネェツアークの勘が訴える。

"歯を食いしばって、舌を噛まないようにしろ"と。

「にゃ~、ヒトデナシのウサギの賢者のオッサン」

濡れた前髪の隙間から、ライの鋭い視線が見えた瞬間。

パシンと音がして、ネェツアークの頬に衝撃が走り、今までのベルゼブルとの戦いでも外れなかった眼鏡が吹っ飛んだ。

「どうして、黙っていたにゃ?」

ネェツアークは無言で吹っ飛んだ眼鏡を拾いに行く。

そして泥にまみれた眼鏡を負傷していない右腕拾い上げて、長く器用な指で眼鏡についた泥を払い落とした。

「質問が漠然過ぎるから、もう少し聴きたい内容を具体的に、お願いしてもらってもよいかな?」

そう言ってまだ薄く泥が残る眼鏡を、ネェツアークは少しだけ赤く腫れた頬の顔にかけた。

「どうして、おばあちゃんが武器に命を削ってまで魔法をかけていた事を、黙っていたにゃ?!。

それに、どうして、命を削るような魔法を、使う事を知っていたなら、アンタは止めてくれなかったにゃ?!。

その魔法を使わなきゃ、おばあちゃんは、まだ少しは長く生きられたかもしれないんだにゃ?!。

そしたら、そしたら、そしたら――――」

ライの姿は成人に近い女性の姿ながらも、まるでリリィと同じくらいの少女のように、また涙を流し始めた。

「そしたら、もうちょっと、長くいきられたなら、リコにゃんとワチシと、おばあちゃんとで、一緒に、おばあちゃんが大好きな、桜を見れたかもしれないにゃ。

どうして―――にゃ!」

ライの眼が鋭く煌めいて、風の矢がネェツアークの鳶色の髪を掠めた。

「感情の昂ぶりを抑えなさい、ライヴ・ティンパニー」

ネェツアークが珍しく平らな声で"警告"して、動かせる右手で指を弾く。

すると、大地に刺さっていた10本の銀色に輝く鉄の爪がフワリと浮いて、ネェツアークの何とか抱えられる左側の手元に収まった。

「かえせにゃ!。それはワチシのにゃ!。

ワチシがおばあちゃんから貰ったんだにゃ!」

ライが激昂すると、黒い瞳が煌めいて、今度は数本の疾風の矢がネェツアークを掠める。

(ベルゼブル翁さん、どうやらこの"猫"さんは、自分の命より、"おばあちゃん"と共にある時間の方が今のところ、大切みたいだ)

ネェツアークがため息をつこうしたが、止めた。

今はどんな行動でも、ライの気持ちを傷つけしまう。

 出来るだけ言葉少なに、ライが納得が出来るようにネェツアークは話したかった。

そして"シトロン・ラベル"がこの方法をとった理由の、沢山の意味も伝えてあげたかった。

裏打ちされた"シトロン・ラベル"からのライヴ・ティンパニーという"孫娘"への溢れんばかりの"愛"。

それだけは、間違わずに伝えねばならない自負を賢者は抱いている。

【かつて伝える事が上手く出来なくて、大切な人の家族を傷つけてしまった過去を悔やんでいる。

ネェツアーク、そんな、あんただから頼むんだ。

そして私に対して、"あの娘"の命を散らした借りがあるつもりなら、ここで憎まれ役を買ってでも、ライヴが強く、騎士として強く生きていく為に"泥"を被っておくれでないかい?】

死の床にありながら、力強くネェツアークに頼むシトロンの姿が思い出される。

(そう言えば、あの娘と別れたのも、シトロン婆さんを最後に見舞ったのも雨の日だったな)

"ザァーザァー"という音は、気持ちを寂しくもさせるが、ネェツアークの心には静寂を与えてくれる。

(ライさんの"好きな言葉"を使って伝えてあげよう。上手く伝えてあげたいが)

ライを見ると雨の中でまだ涙を流す姿が、泥で霞んだ眼鏡越しにも確認出来た。

(まっ、怒らせて、泣かれるのは男も女も慣れてるからいいか)

反省も覚悟もしてはいるが、自分の"分"という力量もわかっているネェツアークは、ライに説明するべく雨の中、向き合う。

「ライさんも薄々は解っているだろうから、ありのままを言おう。

最初の質問は

"シトロン婆さんがこの魔法を使う事を黙っていて"

と言っていたから、私はその約束守った」

このネェツアークの言葉は本当にその通りで、賢者の説明を聴いていたライは、この答えには静かに納得したように頷いた。

「おばあちゃんなら、そう言うにゃ」

ライも幾らか落ち着いてきたらしい。

意固地にはなっておらず、受け入れられる"答え"なら受け入れる。

(さて、次の質問はちょっとばかし曲者だ)

"命を削って使う魔法と知っていたなら、何故止めなかった"

("ネェツアークは魔法を使うその現場に居なかった"と言うことも出来るけれど)

誤魔化し、ライを言いくるめる事も"今"の賢者には出来る自信がある。

(だけどそれじゃあ、駄目なんだよなぁ。

ただ、シトロン婆さんの"想い"が"今時の感性"のライさんに通じるか、どうか)

「ライさんは何かを犠牲にしてでも、守りたいってのはあるよね」

ネェツアークはライが多分薄々察するような喋り方をする。

変わった口調で喋る彼女ではあるが、"稀代の魔術師の後継者"を名乗るくらいで、アルセンやグランドールが一目置く術者。

「―――あるにゃ、リコにゃん。

ワチシの"友だち"にゃ。

でも、庇ったり術の(あがな)いに体を傷つけるのと、"命を削る"の別の話にゃ!」

ネェツアークが何を言わんとするかやはり察して、ライはバッと手を横に払い"命を削ってまでの思いやり"を受け入れない意志を表明した。

「―――そんな事されても、残された方は、さっきの爺さんとヒトデナシ賢者が言ってたのと同じにゃ!。重たくて、嫌な枷にしかならない、にゃ」

「そう、愛しい孫娘の枷になりたくなんかなかったから、シトロン婆さんはこの武器を造る時、大切なライさんに黙って造った。

それと後1つ、シトロン・ラベルの"夢"と"役目"がこの爪には込められていた事を、ライさんには知っておいて欲しい」

「おばあちゃんの"夢"と、"役目"?」

ライは"シトロン・ラベル"の夢と役目については、本当に見当がつかない。

ネェツアークは痛む左肩を使って抱く、折れた鉄の爪を達を自慢の長く器用な指で撫でていく。

「これは、ライさんはまだ経験をした事がないだろうから、思いもよらないだろうけれど。

不思議と人ってね、弟子や教え子や、自分が伝えた技術を受け入れてくれた"存在"があったなのら、いつか"一緒"にやってみたくなるものなんだよ。

ライさんとシトロンさんなら、一緒に魔術を使うとかね」

「―――魔術なら、少しだけなら、一緒にした事があるにゃ。

おばあちゃん、もっとワチシと魔術を使いたかったにゃ?。

だったら、ワチシは」

ライに魔術を指南する時期には、シトロンラベルの体は病に(さいな)まれていた。

おばあちゃんが大好きな孫娘としては、魔術の指南を受けていたとしても、体調が悪そうならすぐにでも床に押し込んでいた。

「それには感謝していたから、心配しなさんな。

ずっと1人で魔導を探求していたシトロン婆さんは、

"体を気遣われる優しさが、あんなに染み渡る癒やしになるなんて、考え及びもしなかったって"

って、嬉しそうに私に内緒話とか言いながら言っていたから」

内緒話を暴露して、ネェツアークが珍しく優しく笑った後、折れた爪の一本を手にとりライに見せる。

「正直に言うなら、シトロン婆さんの夢と役目を昇華させるのは、難しい事だった。

夢と役目、これをワンセットでライさんに教えねばならなかったけれど、"機会"が巡ってくるまで自分の"命数"はもたないと、シトロン婆さんは悟っていた。

"魔導を極めた者"なら、自分の命数を測る事が出来るのはライさんは知っているね?」

ネェツアークがライに見せていた爪を、コントロール良くゆっくりと彼女に向かって投げる。ライはそれを危うげなく、受け取った。

「おばあちゃんは夢と役目の為に、解っている命数を―――命を削ったにゃ?」

ライは受け取った爪を抱きしめながら、ネェツアークに尋ねる。

「そこはどうなんだろう。シトロン婆さん自身は、命を削ったなんてつもりはないかもしれない。

"残っている時間を、自分が使いたいものの為に使った"。

それぐらいの気持ちなのかもしれない」

ネェツアークが指をパチリと弾くと、ライの持つ爪が震えて、中に閉じ込められていた"音"が零れ出す。

【―――人は馬鹿なもんさ。

人には死が必ずくると知っているくせに、その直前まで心構えも支度も何もしていないんだから。

まあ、ギリギリになって孫娘にこんな事しかしてやれないし、役目をネェツアークに押し付けている私が言えた事じゃないね】

女性にしては低く、そして落ち着きに満ちた声だった。

「―――おばあちゃん!」

ライが祈るように、折れた爪を抱きしめた。

「シトロン婆さんに黙って爪の中にある精霊の部分に音を刻み込んでおいたんだ。

シトロンさん照れ屋だから、なかなかチャンスがなかったよ」

ネェツアークが苦笑しながらいうと―――ライはやっと微笑んだ。

(やはり私の言葉じゃ無理だった)

快い敗北感にネェツアークも笑った。

「おばあちゃんはセリサンセウム王国の稀代の魔術師で、セリサンセウム王国で一番ツンデレなんだにゃ♪」

在りし日の孫娘にだけ見せた姿を思い出す事で、ライの気持ちは持ち直したらしい。

(頃合いだな)

「―――そのツンデレさんが、大好きな孫娘を悲しませても伝えたかった話を、そろそろ受け止めて貰ってもいいだろうか?」

雨で下がってきたメガネを上げて、ネェツアークはライに尋ねた。

「―――教えて欲しいにゃ。おばあちゃんが、したいけど出来なかった役目と夢の話」

「シトロン婆さん、ライさんの師匠が教えたいけど、教えられなかった事は、

"戦ってはいけない相手"

"戦っても勝てない相手"

という"存在"がこの世界にあると言うこと。そしてそれを推し量る力を身に着けなさいって事だね」

ネェツアークの言葉に、理解しかねるといった感じで黒い瞳をパチパチとしながら、ライは折れた爪をギュッと抱きしめた。

「確かにあのお爺さんは強かったにゃ。

だけれども、勝てないわけじゃ―――」

「―――じゃあ、どうして一度も"稀代の魔術師シトロン・ラベル"仕込みの魔法を使わなかった?。

ライヴ・ティンパニー?」

ライが"にゃ~"という語尾をつける前に、ネェツアークが畳み掛けるように詰問する。

いつもおちゃらけている、ウサギの賢者とは信じられないくらい凛とした響きと重みをその言葉は持っていた。

(言葉に、潰されるにゃ)

ライは、怯えた。

「ついでに、これも尋ねようか。

かつてディンファレさんがリリィを攫った事があったね。

そして、"ウサギの賢者"と戦った」

ネェツアークの言葉はまだ重たく、ライを縛り付ける。

ライはやっとの思いで、頷いた。

「―――どうして、あの時も"稀代の魔術師"仕込みの魔法を、ウサギ姿の私に使わなかった?。

確かにディンファレ殿は魔法は使うなと言ってはいたが、あれは戦術的詭弁で、私とアルセンに対しての"牽制"でしかない。

―――リコさんは、その事にアルセンと戦った時に気がついたみたいだがね」

ネェツアークの鳶色の瞳が、鋭く輝く。

(雨空の中に、空があるにゃ)

ライがネェツアークの瞳が僅かに空色に輝くのを確かに見た。

次の瞬間"トットットットッ"とライの足元に、ネェツアークが抱えて折れた鉄の爪が刺さる。

「ライさんはわかっていなくても、"稀代の魔術"は知っていたんだよ。

あの翁殿にもウサギ姿の私にも、

"自分じゃ、魔術じゃこの相手には叶わない"

だから、自分の存在をライさんの心の中で、ひた隠した」

ネェツアークの指を弾き、泥の大地に刺さった鉄の爪達が、雨の雫を受けつつ輝き始める。

「"稀代の魔術"は気づいていながら、その術者たるライヴ・ティンパニーは気がつけていない事を、"教える事"。

それが"シトロン・ラベルの役目であり夢"。

そうする事で、戦う事が仕事ともなる"王族護衛騎士ライヴ"が少しでも、危険な場面を察する事が出来て、イタズラに命を落とさずに、天命を全うする事が出来るように」

もう一度ネェツアークが指を弾くと、彼の足元に小さな炎が旋風となって現れ―――真紅のうり坊が現れた。

「だが、気づく為には"命を賭ける"ような戦いに出逢う機会が必要だった。

そしてそんな機会は中々訪れるものでもないし、ライさん」

ライは名前を呼ばれて、少しだけビクリとする。

ただネェツアークの声には先ほどまでのような"圧"と"重み"がない。

そして賢者の瞳の色は鳶色に戻っていた。

「ライさんは、あんたは"優秀"過ぎた」

笑顔で言ってネェツアークが指を弾くと、小さな炎のうり坊は力を貯めるように体を膨らませた。

「―――武器を直そう。

籠手を外して、大地に突き刺した爪の側に置いて貰えるかな」

「はい、にゃ」

ライは素直に従い、籠手を防具のアタッチメントから外して大地に置いた。

「じゃあ、火力が凄くなるし少し時間がかかるから、離れようか。

せっかくだ、翁が結界を張っていた噴水の所、座ろう」

ネェツアークの提案にライは素直に頷いた。

平手打ちを受けて、跳ばされた眼鏡を取りに距離をあけてから、漸く"溝"は狭まる。

"よっこらせ"、と少し年寄りじみた言葉を吐いてネェツアークから先に座り、ライがその横に腰を下ろした。

「さっきも言ったが、ライさん、あんたは魔術師として十分優秀だ。

アルセンやグランドールも、あの生意気盛りのルイ君も、そして何気に人を中々信用する事が出来ないうちのお姫様も、ライさん。あんたに懐いている」

ネェツアークが"お姫様"と呼ぶのは、リリィの事。

「にゃ~。リリィちゃんは素直で良い子にゃ~、きっと、誰とでも―――」

ネェツアークは無言で頭を横に振った。

少しだけ、ネェツアークから雨の雫が飛んでライの手の甲に落ちる。

「あの娘もそれなりに色々あってね。

一度心が壊れかけた時があってからは、中々人に心なんぞ開かなかった。

まずは草花、それから"とっても可愛動物とかね♪"」

ウサギの時の声を出して、ネェツアークが笑う。

―――小さな炎のうり坊が破損した籠手と折れた爪の間にちょこんと座った。

「―――さあ、準備が整った。本当なら工房を使って、火をおこして砕かれた部分を浄化してから、鎚で打ち、金属を伸ばしてつなぎ合わせて直した方がいいが、応急処置だ。

私の左肩もこんなだから、工房があったとしても力が入らないしね」

ネェツアークは血塗れた左肩を指差し、苦笑いをしてから指を弾く。

炎のうり坊が苛烈に身を燃やし始めて地面に置いてあるライの破損した武器の上を歩くと、離れていた爪と籠手が互いに融合を始めた。

「さて、暫くは待ち時間だ。話を続けようか―――ん?」

ベルゼブルに細剣で貫かれたが、血は止まったネェツアークの左肩の傷を、ライが心配そうに見ていた。

先ほどネェツアーク自身が"力が入らないし"というまで、ライはそこまで傷が酷いと考えていなかった。

「賢者殿、何だかおばあちゃんとタイプが似ているかもにゃ~」

ライの言葉にネェツアークは明るく笑った。

「アツハッハッハ。稀代の魔術師殿と似ていると、その家族に言われるてのは光栄だねえ。

まあ、この服は特別な設えで体の治癒力が高まるのと、"アルセン"が貫いたのと同じなら、傷口が綺麗だからね。

出血の量は少ないから、死にゃあしないから安心してくれていいよ」

ライは明るく答えるネェツアークの方を見ずに、賢者が呼び出した精霊が自分の武器を修理する様子を眺める。

「にゃあ~死なない程度の怪我はしちまってるって事だにゃ。

おばあちゃんも、相手を安心させる言葉を言って、自分の事を後回しにして病気を大きくしちまったにゃ~。

まあワチシは気がついたから、無理やりでも、休ませたにゃ」

そんなライの頭をネェツアークは撫でた。

ライの言葉でどれだけシトロンを"家族"として心の支えにし、愛していたかネェツアークにも伝わる。

「ライさん、あんたはやっぱり優秀だから、時間が限られていたシトロン婆さんが取った方法は正解だったと私は思う。

今まで戦ってきた相手でも勝てない事はあっただろうけれど、"ライさんを殺す気"の相手と戦う機会もなかっただろうしね」

その時、ボッと炎が上がる音がしてイノシシがライの籠手の右手側の修理を終えていた。

「ありがとう、引き続きもう片方を頼むよ」

ネェツアークが声をかけると、うり坊はピョンと跳ねてもう片方の籠手の方に、小さな愛らしい姿でトコトコと修理に向かった。

修理が終わったライの武器は、まだ熱が引かないらしく降りかかる雨粒達を蒸発させていた。

「―――おばあちゃんやウサギの賢者殿、あんた、人間の時の名前あるにゃ?」

「"ネェツアーク・サクスフォーン"」

ウサギの賢者が答えた。

「おばあちゃんにネェツアーク―――さんは、立派な魔術師で、凄い賢者だとワチシも思うにゃ」

「ありがとう」

ネェツアークは目を閉じ、痛む腕を我慢してまで組んだ。

ライから何か言われると察しているし、言われる内容に(こた)えねばならいと覚悟している。

「でも、そんな"凄い人"の家族になった身になって言わせてもらうにゃ。

おばあちゃんも、ネェツアークさんも"馬鹿"にゃ」

「―――馬鹿ですか」

ネェツアークは噛み締めるようして、ライの言葉を拝聴する。

多分ライが言う言葉は、自分が聞きたくても聴けない、少女の本音の言葉でもあるから。

「ワチシもリリィちゃんも、大事な人が側にいて、普通に暮らせていればそれで十分幸せなんだにゃ。

成長だって自分の力でしてやるにゃ。

だけど誰も、大事な人の命を削って貰ってまで、"普通の日"が欲しいなんて考えてないにゃ!」

ウサギの賢者を全身全霊で信じ、愛して待っている―――リリィの言葉。

「シトロンさん婆さんと私の気持ちを言わせて貰えれば、命を削ってというか、大好きな守りたい人の為に使うのはいけない事かな?」

「"いけない"にゃ。少なくとも、今のリリィちゃんには絶対いけない事にゃ」

ライの答えに迷いはなかった。

「賢者殿、リリィちゃんの泣き声聞いたにゃ?」

ネェツアークには一番堪える話。

「聞いたし、心が痛くなったさ」

「にゃ~、そんな口振りという事は、そんなに責めないで欲しいって感じだにゃ~

でも、無理にゃ。ワチシはリリィちゃん側だった"人"にゃ~」

話はライのペースに合わせて進んでいく。

「無理をして助けられたなら、それは自分は大切な人の重荷にしかならないって気持ちになるにゃ~。

助けられた方は、方なりにプライドが、"誇り"が傷つくにゃ」

ライが人差し指をクルクルと回しながら言う。

「―――その重荷を背負いたいから背負っているのは、いかんかね?。

というか、助けないと死んじまうよ?。ついさっきみたいに」

ネェツアークが少しだけ険のある言葉でライをいなす。

「にゃにゃ~。"仕方なく死ねる場所"を探している、傲慢賢者に言われたくないにゃ~」

ライがピッと回していた指を、ネェツアークの鼻先につ向けた。

「聞いていたのか?」

ネェツアークが少しだけ気まずい顔した後―――ライはチャーミング微笑む。

「聞いてたにゃ!」

と、先程ネェツアークを平手打ちした頬を、鼻先にやっていた指で今度は抓りあげた。

「あっだだだだだだだっ」

ネェツアークという"人"にしては情けない声を上げて、思わず両手を膝から上げて、長くて器用自慢な指をワキワキとして痛みに堪える。

だが、抓りあげるライの手を引きはがそうとはしない。

「にゃにゃにゃ~♪。賢者殿が野郎の姿で良かったにゃ~♪。

可愛いウサギさんの姿だったら、ワチシの豊かな胸が痛むところにゃ~♪」

「――――」

「何にゃ、その"それはない"って眼差しは!」

「いだだだだだだだっ!」

ライはネェツアークがもう一度悲鳴(?)をあげた所で、漸く抓るのを止めた。

苦笑しながら、抓られた頬を抑える。

「で、リリィや昔のライさんはが命削って守られた時の痛みは、こんなもんじゃないって感じかな?」

ネェツアークの言葉にライが頷いた。

「気がついて抓られていた事は、誉めてやるにゃ~。言葉ばっかりで、疲れたにゃ!」

ライがそう言って立ち上がった時、武器の修理が終わった。

猫のように軽やかに立ち上がり、修理が終わった武器の元まで歩き、大地に置かれた"祖母の形見"と向き合う。

「賢者殿にはほっぺた抓りの刑だったけど、おばあちゃんなら"デコピン"にゃ~。

でも、ネェツアーク、さん―――ありがとうにゃ。

久しぶりに、おばあちゃんの事をちゃんと思い出したにゃ」

初めてあったのも"ライヴ"と名付けて貰ったのも、同じような雨の日だった。

(ふふふ、お前が出す"音"は私を幸せにしてくれる。

そうだ、お前の名前は"ライヴ"にしようか。

生きている、演奏する、色んな意味がある。

それは私の好きな言葉ばかりだ)

ライがギュッと拳に力をいれるのを眺めて、ネェツアークは安心したように彼女に続いて立ち上がった。

「"長ったらしい言葉より、一発の拳で"って考え方は男のもんだとばっかりだと考えていたが、考えを改めんといけないなぁ」

(ライさんは、もう大丈夫だろう)

という確信をネェツアークは得ていた。

抓られた頬を摩るネェツアークの元に、武器の修理を終えた炎のうり坊がトコトコと歩いてくる。

「ありがとう―――グリンブルスティ」

昼間、アプリコットと共に倒したはずの炎の猪の名前を賢者は呼んだ。

「―――それ、昼間のあのデッカいイノシシにゃ?。

でも確か、晩餐会でお肉は頂いてしまったにゃ?」

ライは熱が引いた方の武器を先に身に着けながら、不思議そうにネェツアークに尋ねた。

「これはあのイノシシの"胎内"にいた子どもの一匹さ」

平坦な声で答えて、ネェツアークはコートの中から水晶の粒を1つ取り出した。

「イノシシ、赤ちゃん、いたにゃ?」

思わずライのアタッチメントの武器を接続する手が止まった。

「ああ8匹いたかな―――っつ」

特製の服のお陰で塞がりかけていた左肩の傷口に、ネェツアークは指で挟んだ水晶の粒を押し当て、水晶は賢者の血に濡れた。

「―――にゃ、賢者殿、そのイノシシを使い魔にするつもりにゃ?」

ライが再びアタッチメントと武器を繋げようとするが、若干手が震えている。

ライもこの世界における"魔術師の免状"を持っている。

しかし、使い魔を雇っていたりするが"血"を使ってまでの契約を見たのは、自分の師匠であるシトロンがした一度だけであった。

【血の契約はタマシイ―――この世界じゃ未だ認められない"生命の息吹"における契約。

そして契約の相手が自分の力を超えたなら、確実に命を落とす――必要に迫られない限りする事ではない。わかったかい?ライヴ】

「――使い魔じゃない"式神"として側におかせて貰うつもりだ」

ライの心配を拭い去るように、ネェツアークは優しく声をかけ、血塗れた水晶を小さなグリンブルスティに放り投げた。

小さな炎のうり坊は、体にネェツアークの血がついた水晶を取り込み嬉しそうに身を震わせている。

「―――本来なら荒ぶる御霊、母を理不尽に奪われて、この世に出てこれなかった、うり坊達の心が落ち着くまで、私の元で使役させて貰うだけさ。

落ち着いたなら、どっかの静かな山の自然を守る神様になるように、御霊を放す」

そう言うネェツアークの言葉は多少暗い。

ライが何と言葉をかけていいかわからず佇んでいると、また空が稲妻によって瞬いた。

「―――私という(ヒトデナシ)の人生は、"子どもから、親を引き離す"事が多いらしい」

雷の轟と共に呟く賢者の言葉は、ライには届かなかった。



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