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【乙女の決断】

仮面を外し、ケロイドに覆われた顔の女性領主がベッドに横たわる側に、リコリスは座っていました。


「そう。だから、リコさん。

貴女の力が必要だ、

『恋に一番近いようで、一番遠い心』

そんな心を持った、貴女の才能が」


金色のカエルに―――ウサギの賢者に言われた言葉を思い出しながら。


(領主様、大分肌の色が落ち着いてこられたわ)

顔の多くをケロイドに覆われているアプリコット顔色を、リコは唯一ケロイドがない口元で見ていた。

雨音が激しい領主の部屋の中でも、リコの頭に過ぎるのは金色のカエルを通して聞こえきたあの言葉だ。

"恋に一番近いようで、一番遠い心。

そんな心を持った、貴女の才能が"

(そんな"才能"なんて、あるのかしら―――ううん、それよりも見透かされているのかしら)

リコは自分でも解っていた。

―――1度も、自分が"恋"と呼べるものをした事がない。

名家ラベル家の嫡子の女子として産まれて、治癒術師の資格を持ち、王族護衛騎士にもなった。

リコのこれまでの人生は順風満帆なものにしか、周りには見えないだろう。

そんな中、リコの"恋に対する心の歪み"に気がつき、気にかけてくれたのは、敬愛する上司ディンファレのみだった。

("恋"は知っていた方が確かに、対人関係において話が進め易い事もあるが、そこまで拘る事もない。全ての男女が報われる恋愛をしている訳ではないからな)

恋に詳しくないリコでも、その時は不思議と理解できた。

(ディンファレ様は、決して報われる事のない"恋"をした事があるんだ)

そしてそんな恋に身を捧げていたディンファレが、リコにはとても気高く、美しく見えて仕方なかった。

そこまで慕える相手がいる事を、羨ましくも思った。

(この女性(ひと)は恋をした事があるのかしら―――)

ケロイドに覆われた顔で、今は静かに寝息をあげるアプリコットを見守りながらリコは考える。

ロブロウの関所に入った途端に、魔術に秀でている王都からの一行は、関所から少し離れた場所で魔術を使った戦いが行われていることに気がついた。

ディンファレが素早く鎧を身に着け、先行してその場所に向かい、リコ達がついた先には、既に巨大な魔獣を倒したウサギの賢者と今は仮面を外し、横たわるアプリコットがいた。

アルセンと対峙した時のアプリコットの所作は、完璧な貴族。

だが、それを止めた途端にとても感情豊かな"魅力的"な人にリコには見えたものだった。

(そして異国の魔術も使いこなしていらっしゃる。だけど―――)

顔は、一般的には醜いと言われても仕方ない程、ケロイドに覆われている。

その事を差別や見下す事などする気持ちは、リコに微塵もなかった。

「―――ケロイドが、そんなに気になるかしら?」

アプリコットが目を瞑ったまま、唇だけを動かした。

「失礼いたしました!」

どうしてだか、リコは謝罪をしてしまう。

見下しも偏見もしているつもりもないのに、どうしてだか"謝罪"の言葉が出た事はリコもした後に、困惑する。

アプリコットは起きあがらず、目を瞑ったまま口元だけで笑った。

「どうもまだ起き上がると眩暈がしそうだから、このままで宜しいかな?。治癒術師、リコリス・ラベル殿?」

「はい、では屋敷の方に回復した事を連絡を」

「いや、待って欲しい」

立ち上がろうとするリコを、アプリコットが起き上がりはしないが手を少しだけ上げて止める。

「窓から"友人"が来る。貴女の親友もいらっしゃるらしい」

「え?」

―――コンコン

雨音が打つ窓ガラスの向こう側に、窓を叩く音と共に、長く器用そうな指をリコは確認した。

治癒術師の格好なので武器を所持していないリコは、警戒し未だに音のなる窓に近づく。

そして窓を覗くと、眼鏡をかけた鳶色の髪と瞳をした男が、激しい雷雨にずぶれになりながらも、雨樋に右手だけで掴まりながら不貞不貞しく笑って手を振っていた。

(―――誰?)

リコは形の良い眉根を寄せて、露骨に不信感を現した顔をした。

(あら、でも、あの眼鏡の形は)

鳶色の男がしている眼鏡の仕様には、リコには確かに覚えがあった。

(確かあれは、"そういう事"なの)

「"ウサギの賢者殿"?!」

リコが出した驚きの声は外にも聞こえたらしい、鳶色の男は長い指で"OK"サインを作り出して、頷いていた。

「人の姿に戻る事が出来るのですか!?」

またしても驚きの声を上げるリコに、アプリコットが声をかけた。

「治癒術師さん、取りあえず中に入れてあげたら?。貴女の親友さんは雨の中、下で待っていて、窓が開いてから上がってくるみたいだから」

寝たままの状態であるにも関わらず、アプリコットには状況がわかる事にもリコは更に驚いた。

とりあえず、素直に従い窓を開けようとする前に、また寝たままの領主が声をかけた。

「ああ、そうだ窓の入り口に大きなバスタオルも準備した方がいいかな。備えの浴室にあるから、頼みます」

そうやって、アプリコットが横たわったまま色々と指示して、リコが支度をし、やっと窓は開かれる。

開かれた窓から激しい雷雨と風と共に、領主の部屋に、鳶色の髪と瞳を持つ男、"ウサギの賢者"であるネェツアークがずぶ濡れながら、身軽に入ってくる。

「リコさん、お昼ぶりだね」

「本当に"ウサギの賢者殿"なんですね」

驚き、水浸しの鳶色の髪と瞳を持った男を見あげる。

「ん?アルセンを通り越して、私に惚れちゃう?」

リコは白い肌を緊張の為に赤くしながら、見上げる背の高さになったウサギの賢者、ネェツアークはタオルを渡した。

右手でタオルを使い頭を拭きながら、人の姿に"戻った"賢者は茶目っ気を含ませたウィンクしながら、リコに微笑む。

「どうせなら、フワフワのウサギさんの方が、私は好みですね」

そう言ってリコも微笑み返し、雨樋を伝って猫のようにスイスイと登ってくる、こちらも、ずぶ濡れの親友のライの方へと向かった。

「リコにゃ~ん♪ただいまにゃ~♪」

そう言いながら、ライがびしょ濡れのまま飛びつこうとするのを、リコをは慣れたよう様子で避けてから、バッと頭から、大きなバスタオルで親友を包み込んだ。

"んにゃ~"と声を上げながら、拭きあげられるライを見て、ネェツアークは笑って指を弾いた。

すると旧領主邸の噴水から上がった時と同じように、ネェツアークの衣服に染み込んでいた水分がザッと落ち、足元に準備されていたバスタオルが吸い込む。

「いいにゃ~、王族護衛隊の服もあんな風にして欲しいにゃ~」

リコに優しくゴシゴシ頭を拭かれながらライが指差し、文句を言う。

「アッハッハッハッハ。この服は、この立場の特権だからね~」

明るく笑うネェツアークの言葉に、リコの声がかかる。

「賢者殿!左の肩、怪我をなされているじゃないですか?!」

リコは思わずライの頭を拭く手を止めて、声をかけた。

水分が抜け出したネェツアークの愛用のコートの左肩には、大きな血のシミが残ってしまっていた。

「血は止まっているから、大丈夫だよ」

だが"負傷者"を確認した治癒術師殿は、ツカツカと鳶色の男の前にやって来る。

そしてネェツアークの経験が、また告げる。

"歯を食いしばって、舌を噛まぬようにしろ"と。

本能が告げた次の瞬間には、バチーンと良い音がして、過去にシトロンに、先程ライに食らった同じ場所に、リコの平手打ちがネェツアークの頬を捉えた。

幸い(?)にも、今回は愛用の眼鏡は飛んでは行かずに、ネェツアークの頬が大層ジンジンと痛む程度に済んでいた。

("平手打ち"って遺伝するものなのかな~)

余りにもスナップの効き方が似ているので、ネェツアークは思わず考え込んでしまう。

「ライちゃんを拭き上げた後、治癒術を施します。コートと上着を脱いで、領主様の側にある椅子に座って待っていてください」

「―――はーい」

ネェツアークは素直に従って、まず緑色のコートを丁寧に脱ぎ、続いて上半身の衣服を脱ぐ。

「ふふっ、治癒術師の前で怪我をした状態であの言葉はマズいだろうよ、ウサギさん」

アプリコットは相変わらず瞳を閉じ、横たわったままだが状況は把握出来ているらしい。

ネェツアークは最後のシャツ―――結構な血の染みが出来てしまっているのを確認し、脱ぎながら苦笑する。

「だって"傷口を縫います"みたいな事になったら嫌じゃ、ない―――あいててて」

脱ぐために左肩を動かし、ネェツアークは思わず声を出して痛みを堪える。

「"普通"のご友人に感謝なさる事です。

傷口は、さっき"ウリ坊"達の為に血を使い、広げた所以外はもう閉じてしまいそうですし、治癒術師さんに術をかけて貰えれば、もう普通に使う分には大丈夫でしょう」

「あんたは、千里眼にでもなったのか?」

ネェツアークが血塗れたシャツを脱ぐと、なかなか均整のとれた筋肉質な身体が現れた。

そして左肩の傷口は、アプリコットが言った通りだった。

細剣で貫かれた背面側は完璧に傷口が塞がり、正面は先程水晶をねじ込んだ場所以外は傷口が閉じた状態まで"回復"していた。

「にゃ~、ウサギの賢者殿の人間バージョンは結構なマッチョメンだにゃ~」

ライは大方雨による水分を拭き上げたらしく、頭にタオルを頭に被ってネェツアークの側によってきて、指で"ツツ~"と背中を撫でた。

ネェツアークは"アッハッハッハッハ"と、割と筋肉質な体を捩って笑った。

「ちょっ、ライさん止めて!くすぐったいの苦手なんだから」

少しだけ、ウサギの時のような声をだし、ネェツアークはライに懇願する。

「ふむふむ、くすぐりに弱いのはウサギの時も人間の時も変わらにゃいとみたにゃ~」

ライがニヤリとするのを、リコがポンポンと頭を軽くて叩いて止める。

「ハイハイ、ライちゃんストップ。

じゃあ、ウサギの賢者さん"お名前"を教えてくださいますか?」

リコがウサギの賢者の真正面に立ち、銀縁の眼鏡のフレームを摘まみ、クイッと上げた。

「あんまり名前を大っぴらにしたくないんだけどな~」

そこにまた、アプリコットが割って入った。

「この国で"真名(まな)"の術を使いこなせる者は、もういないでしょうし、素直になったらいかがです。

治癒術師さんは、既に結構色んな事を見透かしておられるようです」

「―――さっきから随分と多弁になっていらっしゃるが、どうしたんだい?。アプリコット殿」

ネェツアークは視線でリコに

(少し、待って欲しい)

と告げると、リコは静かに頷いて賢者の前で静かに立って待ってくれていた。

「時間のラグがあった間の記憶が、頭に雪崩れ込んでくるんだ――――」

そう言ってアプリコットは体を少し動かして、ケロイドが顔と同じようにある右手を上げ、自分の眼前に持ってきてた。

そして漸く瞳を開き、側に持ってきた手を2・3度ギュッギュッと、閉じたり開いたりして見つめた。

「お身体の調子は如何ですか?」

「治癒術師殿、賢者殿の治癒をする前に割り込んで済まない。

だがこうやって言葉を口にして纏めていかないと、頭が混乱してしまいそうで」

そう言ってからアプリコットは、大きく息を吐いた。

気持ちを落ち着かせる為に、大きく深呼吸する。

「失礼します」

リコがアプリコットの脈を取ると、また眉を潜めた。

「お話なさる方が、気持ちが楽なら止めはしません。

ただ、今はまた脈が早くなっています。

落ち着かれてからになさる事を、治癒術師としてお勧めいたします」

「そうだね、割って入ったばかりか、心配かけて済まない」

リコに謝罪を述べてから、アプリコットは右腕で視線を塞ぐように、両眼の上に置いた。

ちょうど、右手のケロイドと顔のケロイドが重なるようにして皮膚が触れあっていた。

そしてアプリコットは何度も大きく息を吸っては吐くを繰り返す。

「にゃ~。ワチシがお手て握るにゃ~」

ベッドに横になる人の姿に、"何かを手伝いたい"という気持ちが湧き上がったライが進み出て、アプリコットの左手を握りしめる。

「ありがとう。晩餐会の時は、ミステリアスな無口な女性騎士ばかり思っていたのに、存外面白いお姉さんだったんだね」

視界を腕で塞いだまま、ライに握られた手を握り返しながら、アプリコットは礼を言う。

喋らない方が良いと治癒術師に言われながらも、領主の口は止まらない。

ライは丁寧にアプリコットとの会話に応え、話を続けている。

(―――言葉を出していないと"自分"を保てない状態になってきたか)

ネェツアークが鳶色の瞳を鋭くした時、またアプリコットが"友"に向かって口を開く。

「"賢者ネェツアーク・サクスフォーン"。心配かけてすまない。

これを伝えたなら、少しは安心するだろうか、"アプリコット・ビネガーは受け入れる"事にした」

ライがこれには反応する。先程のベルゼブルとの戦いで、ネェツアークが口にしていた言葉。

"アプリコットさんがある事を受け入れるか―――。

それともエリファスさんが、覚悟を決めた、その時だね"

(いったい、何なんだにゃ?)

ライにはよく分からないけれど、アプリコットの手は細かく震えている。

きっと直接アプリコットの肌に触れているライにしか分からない、そんな小さな震えだった。

そしてライはアプリコットが、それを誰にも悟られたくないのも、判ったので表情を崩さず、女性領主の手を握っていた。

「アプリコットさん。それは確かに有り難い事だが、私に教えてもいい事なのか?」

ネェツアークは表情を険しくするが、どうして賢者が表情を険しくするのか、どうしてこの会話が今されているのか、ライにも、そしてリコにも解らなかった。

「エリファスは、覚悟を決めたみたいだから。なら私は受け入れようと思う」

ライにしか分からない震えを続けながら、アプリコットはネェツアークに"大事な事"を伝えた。

リコはリコで"ウサギの賢者"の本当の名前に驚いていた。

(ウサギの賢者殿が、"ネェツアーク・サクスフォーン"。

リリィちゃんはあの"英雄"の血族であるのに、でも、それでも、一緒に暮らしているの?)

セリサンセウム王国には、4人の英雄がいるとされている。

そして活躍した10数年前、それぞれに渾名(あだな)も国民から親しみを込められて、呼ばれてもいた。

"魔剣のアルセン・パドリック"

"大剣のグランドール・マクガフィン"

"小刀のネェツアーク・サクスフォーン"

そして最後の1人は、王国最上級の秘密として名前を伏せられていた。

―――最後の1人はいない者だとも、噂があった。

どうしていないのか?。

それはネェツアーク・サクスフォーンに(まこと)しやかつけられているもう1つの渾名に関係している。

"英雄殺しの英雄ネェツアーク"

そしてリコが、リリィの治癒術師になるにあたり、国家機密の1つとして知っている事があった。

"ネェツアークが殺した(かもしれない)英雄の実の妹の子どもがリリィである"という事実。

("ウサギの賢者殿"は親切な第三者なのだとばかり考えていた)

グランドールとアルセンと親しくしているのは、

"亡くなった英雄の仲間の縁者であるリリィを、ウサギの賢者が慈しみを持って育てているから"

そんな"好意的な考え"をリコは持っていた。

「リコリス、リコさん」

リコを呼んだのは、アプリコットだった。

視界を塞いでおきながらも、リコの視線が自分に向けられたのを感じ取ってから、アプリコットはゆっくりと口を開いた。

「色んな記憶や情報が貴女の中で、貴女を今、悩ましている事でしょう。

特に貴女の目の前にいる、鳶色の髪と瞳をもった男に関しては、貴女だけが知っている事情を含めたなら、本当に不可思議でしかないでしょう」

息をするのも苦しそうなアプリコットが、リコに向かって言葉をかける。

そして、それはそこまでしてネェツアークを庇う、昔ながらの友のようにも聞こえた。

「ええ、本当に不可解で仕方ありません」

自分でも悪いと思っていながらも、リコはネェツアークに鋭い視線を向けてしまっていた。

もしかしたら、目の前にいる男は"慈愛"などではなく、ある罪の"贖罪"の為だけに、あの可愛らしい少女の面倒を見ているだけかもしれない。

そんな考えが、どうしてもリコの頭の中に浮かび頭を占める。

ネェツアークはリコの鋭い視線を、不貞不貞しく笑っている表情で受け止めていた。

そして右足を左の膝にのせ、右肘を右足の上におき、姿勢を歪ませて右手で頬杖をつく。

「まだ残っているんだねぇ。

そして、久しぶりだ"英雄殺しネェツアーク"の渾名を知っている人は」

右顔半分を長く器用そうな五指がある手で隠しながら語る、ネェツアークの鳶色の瞳は、リコが慄然とするくらい暗い色を宿していた。

「―――賢者殿?」

そこには"覇王"がいる。

仁や徳ではなく、策や武を持って"今の居場所"を手に入れた男―――英雄殺しネェツアーク・サクスフォーンがいた。

("怖い")

リコが脅えの表情をしてネェツアークから一歩遠のいた瞬間、賢者は冷たく笑って―――暗い眼を止めた。

そして、"安心した顔"になる。

「うん、それで良い。恐れて、軽蔑しておくれ。

英雄殺しのネェツアークはそういった"忌避される人"でないと、ならないんだ。

この国の人々に慕われる英雄は、"アルセン・パドリック"と"グランドール・マクガフィン"だけで良い」

そう言うと、ネェツアークは今まで態度が"冗談"、とでもいう様に微笑み、姿勢を真っ直ぐ正し、負傷した左肩を指差した。

「さ、私の名前がわかったところで治療をちゃちゃっとお願いしようか?。リコリス・ラベル殿」

「―――ネェツアーク殿」

アプリコットはまた横から割って入ってきて、少し呆れたように賢者を諫める様に名を呼んだ。

「にゃ~、領主さん大丈夫にゃ~。リコにゃんだって、"ウサギの賢者殿"が、わざと悪ぶっているのぐらいわかっているにゃ~」

ライがアプリコットの手をまだ握りしめながら、言葉をかける。

「じゃなきゃ、あのお人好しのオッチャン英雄と腹黒軍人貴族英雄が、まだ友だちなんてやってないにゃ~」

「思えばあの2人は、もう部屋に戻っているんだよね?」

"英雄殺し"と"穏やかな賢者"の、ギャップに気持ちが追いついていけてないリコを見て、

(まだ話かけるのは悪いか)

と、ネェツアークは視線をライとアプリコットの方へと向けていた。

「にゃ~、何もなければ戻っているハズにゃ~」

ライはそう言うと、チロリと猫のようにアプリコットの方を見てから少し考え、

「ワチシはディンファレ様の指示で別行動になったから、正直な所は詳しく分からないにゃ~」

とアプリコットがいる前で、正直にライは話した。

すると、苦しげに呼吸をしているアプリコットの口角が辛うじて上がるのをライ、ネェツアーク、そして気持ちが落ち着いてきたらしいリコの順番で気がつく。

「―――ライさんは、本当に優しいなぁ。

別に私に気遣って、本当の事なんて言わなくてもいいのに。

きっと孤高な稀代の魔術師殿も、そんな所に癒されたに違いない」

「にゃ~」

ライが振り返り、ネェツアークとリコを見る。

ネェツアークはライの表情に浮かぶ"不安"という物を初めて見た。

そしてライの不安に関しては、心当たりが多すぎた。

(どうして領主さんはこんなにも、色んな事がわかってしまうにゃ~?)

「面倒臭いから直球(ストレート)に尋ねよう。"アプリコット"と"エリファス"に禁術を施したのは、誰だ?。

しかも、記憶する量をズラしたりとまあ色々と手間をかける事を、きっちり順序よくこなしていらっしゃる。

正直に言って、片付けが苦手な私には向かないし、出来ない禁術のやり方だ」

「にゃ~、ワチシもお片付け苦手にゃ~。だからいつも、ちゃんとしているリコにゃん助けて貰って、一緒にやっているにゃ」

ネェツアークが至極真面目に言った後に、ライはライなりに共感出来るらしい所で意見を出している。

「ライちゃん、ネェツアーク様が真面目に」

英雄殺しであるかもしれないが、"英雄"という冠を持った"人"である事には変わりのないネェツアークに、リコは礼節を持って態度を改める。

「―――リコさん、今はこの姿だか"ウサギの賢者"として接してもらうと私は助かる。

実に"不本意"に、この姿に戻らされているに過ぎないんでね」

ネェツアークはリコに言ってから、何かに気がついたように2人の女性騎士を見比べた。

(ワチシもお片付け苦手にゃ~)

ライが言っていた事が、ネェツアークの琴線に響く。

(だからいつも、ちゃんとしているリコにゃんに助けて貰って、一緒にやっているにゃ)

「ちゃんとしている人と、一緒に―――する?」

それから質問に応えようとする"意識と記憶の雪崩"に、体調を崩しているアプリコットを見つめた。

仮面の貴族は、息も絶え絶えと言った様子で、口だけをやっと小さく開いた。

「さっきのネェツアーク殿の質問に答るよ。やっと思い出した、私には"禁術をかけられた時の記憶がない"」

小さい声だが、はっきりと答えてくれる。

「あんたには記憶が無いんだね?わかった。

ただ、アプリコットさん。もう暫く考えさせてくれないか?。

その後、もう一度質問させて欲しい。リコさん、すまないが今の内に治癒術を頼むよ」

「は、はい」

ウサギの姿の時には出さない張りのある声をだし、ネェツアークは鳶色の瞳を閉じる。

左の肩に癒しの力を感じながら、ネェツアークは考える。


(1つの見え方に囚われたら、ダメだ。仕掛け絵本みたいに1つの作品の中に"複数"ある絵を探さないと)


"賢者さまっ、また本を読み散らかして!。だから探し物が見つかりにくいんですよ!"

不意に、"探し物"という言葉で強気な緑色の瞳で、リリィがネェツアークの頭の中に現れて、思わず閉じていた鳶色の瞳を開く。


"絵本も辞典もゴチャゴチャにし過ぎです!。あー、これ、私の仕掛け絵本じゃないですか!?"

元気の良いリリィの声が頭の中で響く度に、ネェツアークの左肩の痛みは引いていく。


実際はリコの術の賜物なのだろうが、癒されるのと共にリリィという少女が自分の"調査"を応援しているような気がしてならなかった。

(いや、実際"ウサギの賢者"を応援してくれているんだ。リリィを忘れるな。あの子が待ってる)

英雄に纏ろう忌まわしい過去に囚われないで、生活を共に出来る少女の存在を愛おしく思ってしまっている事を、改めて実感する。

「にゃ~、賢者殿どうして急に機嫌よくなったにゃ?。"笑ってる"にゃ」

ライが柔和に、アプリコットの手をまだ握ったまま微笑んだ。

「賢者様、治癒術は完了しました。本調子まではまだ時間がかかりますが、一通りの事はこなせると思います。治癒術がこんなに早く効くなんて、初めてです」

「リコさん、ありがとう。実は、かなり癒しの相乗効果がある事を思い出してね」

ネェツアークは少しだけ人を惑わすような、特に婦人に対して魅力的な笑顔を浮かべてから、顔を引き締めた。

そして、立ち上がり治った左腕をぐるぐると回してから小さく頷く。

「もうちょっと、考えるからアプリコットさんの方を頼むよ」

ネェツアークは腕をシャツの袖に通す。

シャツは血のシミがあるが、しっかりともう一度身につけた。

それを作ってくれた友人も、英雄の過去など露ほども気にせず、人の姿もウサギの姿も受け入れて巻き尺で採寸して、"普通"の話をし、自分の帰りを王都でまっているのも思い出した。


"人の姿になる必要はないはずだと話は伺っています。

でも、どんな事態になっても私は、ネェツアーク様を信じています。

調査を無事に終えて、怪我などをしないでの、お帰りをお待ちしております"


―――無傷じゃなくて、ごめんね。キングス。


心配性の優しい仕立屋の親友を想って、声に出さずに心から詫びた。

「こうなったら、何が何で笑って帰れるようにしてやる」

ネェツアークが呟くのに、リコとライが驚いて顔を見合わせている。

愛用のコートにも袖を通して、この部屋にやってきた時と同じ姿になった。

「さてと、さっさとウサギに戻れるように、考えて"動かなければ"ならんね」

ネェツアークはまず拳と掌をぶつけて、パシンという心地好い乾いた音が領主の部屋に広がった。

「にゃ~。賢者殿、何か気合いが入ったにゃ?。良い音にゃ♪」

音に関しては敏感なライが、ネェツアークが響かせた音について誉めた。

「そうか?其処まで意識はしてなかったが。よし、活入れついでだ」

ネェツアークはどうせだからと、2回ほど今度は両手掌を合わせてパンッパンっと乾いた音を響かせた。

「確か異国の魔除けでしか、確か柏手(かしわで)、でしたか?」

リコも話題にのってくれて、話がスムーズに進む。

(ああ、そうだ。ロブロウでの禁術で感じた違和感は、これなんだな)

エリファスをリコに

アプリコットをライに

ネェツアークはそんな風に置き換えて、考えてみる。

(ライさん―――アプリコットさん側には禁術の力をもって、"戦う力"を伸びるように仕向けた。ただ、細かい部分というか、デリケートな部類に関する記憶等は、アプリコットさんの中には極力"残らないよう"に設定されている。

何より、アプリコットさんが"傷付かないように")

アプリコット―――彼女が元来飄々としていたり、さっぱりとした気質もあるのだろう。

しかし、いくらなんでも"気にしなさすぎた"部分を数回、ウサギのぬいぐるみの時点でネェツアークは目撃していた。

(多分、気にしないんじゃなくて、"相手にしない"ように暗示も入っていたのかな)

だが、それが"歪み"を産む。

彼女の母、シネラリアは、顔がケロイドに覆われている娘へと、あらゆる"下げる言葉"を注いでいるのは伺えた。

そして、公衆の社交の場においても自分の子供を"落とす"発言はあった。

(でも、アプリコットさんは、親の"非常識"にも思える言葉にも気づけなかった)

親は"子"に、親という"人""に育てて貰う。

その関係は互いに近すぎて、揉めたり喧嘩するのが当たり前。

しかし、そうやって"距離感"という物を学んだり、姿や思考が似ている相手ではあるが、親と子は別の"生き物"なんだと気がつける有り難い機会の"塊"の関係。

(ただ、アプリコットさんと大奥様の場合は、面倒臭いな。アプリコットさんは"母上は自分を愛していながらも、憎んでしまう"心情を知ってしまっている)

“母様ハ、アプリコットヲ愛シテイル。ダケド、上手ク言ウニ言エナイ立場ナンダ”

領主の孫と嫁の間をそれなりに穏便に取り持とうとしたが、娘は母からの責めを"受け入れてしまう"事しか出来なかった。

(そしてそれが多分、貴族の4人の処刑に繋がる一端になるはずなんだが。

しかし、どうして今更処刑をするまでのことに?。アプリコット殿が領主になったから?)

「賢者様、考えが纏まりましたか?」

リコが遠慮がちに、ネェツアークに語りかける。

そこで、ネェツアークは置き換えて考えていた事を思い出した。

(ああ、そうか、そうなんだな。エリファスさんが、ロブロウに"帰って"きたから)

「いいや。リコさん、賢者"殿"で構わないから。それと、ありがとう」

ネェツアークが片手をあげて、リコに"あることに気づいた事"への感謝を示す。

「え?」

リコにしては珍しく青い瞳を丸くして、綺麗なその顔にキョトンとした表情を披露した。

(何事も"悪意を気にしないように"と、アプリコット殿が禁術に合わせて暗示をかけられたとエリファスさん―――エリファスは知っていた。

彼女が招かれた半年前のロブロウは、それはひどかったらしいからな)

『前に、本当に偶にあったらしいんですけれど、領主からの使いで、関所に迎えにきたのがビネガー家の"召使い"だと解ると、余りにも尊大な態度をとったお客様もいらっしゃったので』

『大丈夫です、その貴族の方はもう二度とロブロウには、いらっしゃいませんから』

(エリファス自身が、農業研修のグランドール達がロブロウに到着した時に説明していた事は、事実)

アプリコットは"傷つける悪意"を気にしないという暗示を禁術と共に受けていたと仮定するにしても、傍目みたらどんなものだろう。

実の母からの怨嗟(えんさ)の捌け口扱いをうけ、親戚から嫌みを言われてながらの領主の役目。

(いや、それだけじゃないか)

ロブロウの領民の意識、無意識のジェンダー格差がしっかりと根付いている。

『今の領主様は"代理"で"女"であるけれど、上手いこと民の心を掴んでやってくれています』

グランドールがボヤき、前領主も頭を痛めていた、領民にしっかりと根付いてしまっている思想。

(―――こんな事を普通に言っていたらしい、ん?。"心を掴む?")

ネェツアークはまた考えの歩みを止める。

(女性を無意識に、基本的に下に見ている人達が、"心を掴んでやっている"なんて表現するか?。"仕方なく従ってます"のほうがまだしっくりくる)

その時、アプリコットが激しく咳き込んだ。

「領主さん、大丈夫にゃ?!」

ライが思わず立ち上がり、アプリコットの背中を摩る。

ネェツアークはアプリコットの荒い息と、真っ白に見える肌に、ひた隠しにしていたアプリコットの腕の震えを見つける。

リコも、その震えに気がついた。

「ライちゃん、ちょっとどいて」

リコがライと場所を変わり、アプリコットの首に指をあてたり

「失礼します!」

と聴診器を素早く取り出して、衣服の胸元を開いて所々に当てる。

「にゃ~、リコにゃん、領主さん、どこが悪いにゃ?」

ライが心配そうに声を出す。

「わからない。病気とか、そう言ったものじゃないみたい何だけれど。

もし、禁術の副作用等なら私の治癒術じゃどうにも出来ない」

リコは悔しそうに、それでも甲斐甲斐しくアプリコットの咳き込む背中を撫でる。

「リコさん、もしかしたら見当違いかもしれないが―――私に代わってもらおうか」

賢者がリコの肩に手を置く。

有無を言わせない"圧力"を感じ、リコは無言で場所を空けると、ネェツアークはコートの両腕の袖を捲り上げて、逞しい腕を出した。

「―――恐らく、吐瀉するから盥の用意を」

「わかりました」

「大した事をするわけじゃないが」

そう言ってライがしていたように、ネェツアークはアプリコットの背中を摩り始めた。

ただし、丹念に、少し力が強すぎないかと思えるぐらいの様子でアプリコットの背中を摩る。

(もし、アプリコットさんに記憶が戻ってきているなら、"処刑"の執行の場面を目の当たりにした時の様子も今、纏めて来ているはずだ)

―――かつて、少年時代のネェツアークが処刑を目の当たりにし、アプリコットと同じように震えが止まらず、咳を繰り返していた。

人の命を無理やり絶つ、その瞬間が目蓋の裏に焼き付いて。

「すまない、もど」

アプリコットが本当に吐きもどそうとする事に、リコは驚きながらも、ネェツアークに用意していた盥を差し出した。

「ああ、吐いたら少しはスッキリする。大丈夫、大丈夫だからな」

ネェツアークが差し出した盥にアプリコットは、吐き戻した。

そして、戻した事で涙腺が刺激され、アプリコットは泪を流していた。

「今、初めて一遍にきた4人分の悪意の感情や、断末魔向き合いによく耐えた。アプリコットさんは、頑張った」

ネェツアークはかつて少年の自分を介抱してくれた人物を思い出しながら、今度は同じようにアプリコットを自分なりの言葉をかけて励ます。


『"頑張ったね"、アプリコット』

もう、誰だか忘れてしまったけれども、同じように大きな手で自分の背を撫でられた記憶がアプリコットの記憶を包み込む。


『必ず、アプリコットを迎えにくる』


"旅人"の、お兄さんの声。


「あ、あああああああ!」

アプリコットは咽び泣き、泪を流しながら喋り続ける。

 

「誰にも認められないことだと覚悟していた。

エリファスと話して、女性領主を軽視する領民の心を恐怖に震わせ、気にくわないからと母の心を乱す叔母達を一掃する人攫いの確証を手にいれて、処断してやった。

叔母達の顔を見ても、処刑の報告に震える領民の心を見ても何も怖い事はなかった。

私は、もう、自分の心が鈍くなりすぎているものだと、そう思っていた。

その実、私の心は、知らない、何かに守られていた」

ネェツアークは、無言で力強く泣き叫ぶアプリコットの背中を撫でる。

「にゃー、領主さん、アプリコットさんは鈍くなんかないにゃ~。

リリィちゃん、貴女の事が凄く大好きだって話していたにゃ~。

"ちょっとケンカも出来るくらい仲良しになったんですよ!"

って、凄い自慢されたにゃ~」

少女の名前を聞いた途端、アプリコットの体の震えは止まりネェツアークも、摩る手を止める。


「リリィ、ちゃん」

―――あの少女に、どこか懐かしいものを感じていた。


かつて、自分の気持ちを"希望"に繋ぎ止めてくれた、あの人が、アプリコットの記憶の中に帰って来る。

色んな人に、色んな形で守られていた。

「この地に、ロブロウに、お祖父様とエリファス以外、私に、アプリコット・ビネガーに味方などいないと考えていたのに」

小さな雫が、寝台のシーツを濡らした。

「その人物は、アプリコットさんの――――いや、"ロブロウ領主"の傍らにいて、心がダメージを受けない程度に心が鈍くなるように。

ことある事に"禁術"の力を強めたり、弱めたり"調節"の役目を担っていた。

あくまでも、"領主"としての職務を王都からみても"アプリコット・ビネガー"が、余計な感情に振り回されず、見事にこなしているように見せる為に」

そう言って、最後に2回トントンとアプリコットの肩をネェツアークは叩いた。

「ロブロウで行われた禁術は、2人の人物が協力し、行っていたってわけだ。

禁術を行った2人も、リコさんとライさんの関係のように苦手な所は、カバーしあって、信頼しあっていた事だろう」

痺れを切らしたリコが、ネェツアークの語りの間に入ってきていた。

「いったい、どなたとどなたなんです?。

禁術を使われた事は、国に報告しなければなりません」

リコはアプリコットが十分に落ち着いたと確認する為、ネェツアークとの間に入りはだけていた胸元を直した。

「そうか、丁度リコさんもライさんも、その人には"逢えないし、出逢ってはいない"んだ」

ネェツアークは"今、気がついた"といった風に少し下がっていた愛用の丸眼鏡を、中指で押し上げた。

「にゃ~?ワチシ達が、"出逢ってもいない人物"なわけだにゃ?」

人差し指を顎に当てつつ、ウーンと考えているがライは思い当たらないらしい。

「もしも今回のような事態が起きなかったら、一番にリコさんもライさんも出逢っているはずの人だよ。

一番に領地と領主様の事を考えてる。

だけれども、存在の証明と扱われるのに"影"のように声を出すことはない」

「執事の"ロック"なんですね?」

アプリコットが絞り出すように、"影"の名前を口を出す。

リコとライは知らない人物と名前に、顔を見合わせた。

賢者は無言で頷いてから、自分の解釈を話し始める。

「恐らく、あなたの祖父ピーン・ビネガーが禁術を発動させて、ロックさんはその利き具合を調節したんだろう」

常に影のように側にいて、領主に向かって"毒"や"棘"の言葉を吐かれたなら、それを誤魔化す為に"禁術"という"麻酔"を使う。

禁術でもって心を痺れさせ、決して、領主が傷付く事がないように。

(もしかしたら、ロックさん自身が4人の貴族の処刑を望んでいたかもしれない)

「もしかしたら、叔母様達の処断をすると決めた時、私の覚悟を揺るがないようにしてくれたのはロックかもしれない」

ネェツアークが考えているのと同じ頃に、アプリコットもその考えに辿り着いた。

「ロックさんの、"影"の忠誠はあくまでも、ロブロウの為に尽力を尽くす"領主"であって、その家族にむけられるものではない」

ネェツアークがアプリコットにかける言葉は、昔からの知己―――グランドールやアルセンに話しかける物と、同じものになっている。

「それもあると思うけれど、自惚れもあるかもしれないけれど、聞いて欲しい。

昔ね、まだお祖父様が領主の頃、ロックに言われた事があった。

"お嬢様の姿は奥様に似ているかもしれませんが、中身は本当にお祖父様、領主様にそっくりでございますね"って」

年老いた老執事にとっては、幼少の頃、身寄りなく傾いていくセリサンセウムという国の中。

家族も血の繋がりのある縁者も全てがいない。

そんなロックに、手を差し伸べてくれた、ピーン・ビネガーが世に2人といないと恩人なのだろう。

「そう言えば、お祖父様は確かに賢かったけれど、片付けたり整理整頓って凄く苦手だったわ。


そして、そこに関してはロックに全てを委ねていた」


"アプリコット、ロックを見かけなかったかい?"

"おーい、ロック!"

"ありがとう、ロック"

"ロック、スマン、ゴメン、悪かった!もう無茶はしないからっ!"


敬愛する祖父の穏やかだった時の姿は、いつも心腹の執事を側に置いていたのをアプリコットは思い出す。

「私もお祖父様が大好きだったから、今更ながら思い出した。

お祖父様は何かとロックを呼んでいては、ロックは―――笑顔で"はい、何で御座いましょう旦那様"って。

呼ばれて1度も、嫌そうな顔をしたのを見たことがなかった」

ピーン・ビネガーという人を本当に良く知っている、執事のロック。

「にゃ~、ロックさんて人は領主さんのお爺ちゃんが、大好きだったんだにゃ~」

どことなく、境遇が似ているライがしんみりと呟く。

「もしかしたら、本当のロックさんは片付けや整頓が得意じゃなかったかもしれませんね。

敬愛する初代領主様を助けたい、役にたちたい、そんな気持ちであったかもしれない。

でも、初代領主様の役に立てるのなら、ロックさんにとってそれは、喜びになっていたでしょう。

共に同じ時を過ごせるだけでも幸せにな事に気付ける、ロックさんは初代領主さまとの敬虔(けいけん)な関係を、本当に大切になさっていたのですね」

リコはそう言うと、少しだけ祈るように手を合わせた。

「それは何に対しての祈りかな?」

ネェツアークが再び椅子に腰掛けて、脚を組んで座る。

少々柄が悪いのと―――賢者の中に苛立ちがあるのが、女性陣には分かった。

「にゃ~、リコにゃんの優しい気持ちを侮辱するなら、ワチシが許さんにゃ~」

ライの瞳孔が縦に長くなり、鋭くなって賢者を睨む。

するとネェツアークはニヤリと笑って、組んでいた脚を下ろした。

「そう、ロックさんも今のライさんみたいな気持ちになったんだよ。

自分の大恩人である領主が、思いを込めて、守ってきた事を蔑ろにするな。

"領主ピーン・ビネガーが懸命に守ってきた領地を乱すような事をするな"って。

例えそれが敬愛するピーン・ビネガーの血を継いだ娘達であってもね」

早速治った左肩と、無事だった右肩を併せて竦め、ネェツアークは今度は不貞不貞しく笑った。

「もう少し穏やかな例え方するにゃ~。あと、ワチシの気持ちも例えに使うにゃ~。

アルセン様が、細剣で貫きたくなる気持ちが凄くわかるにゃ~」

ライが瞳を戻しながら文句を言う。

「何時までも、主人と執事の良い話を聞きたい気持ちはわからなくはないけど、時は進んでしまったからね。

しかも、結構とんでもないほうに進みかけている。

できれば、穏やかな余生をロックさんに送って貰いたかったし、"旦那様"もそうだったろうさ」

ネェツアークは目を閉じて、腕を組む。賢者が話を進めようとしているのが、リコにも分かった。

だから、彼女も自分の意見と言葉を続けた。

「ロックさんにとって大事なのは、どこまでいっても"ピーン・ビネガー"様なんですね。

アプリコットさんは、その敬愛する主な意志や考えを継いだ者。

そして同じではないと解ってはいるのでしょうけれど、限りなく"ピーン・ビネガー"と近い心の持ち主になったアプリコットさんが、傷付くのを見過ごせなかった」

リコは"気の毒"と思ってはいけないと考えながらも、アプリコットを見つめて心を痛めていた。

アプリコットは気の毒と思われても仕方ないと、同情されることを受け入れていた。

「そういう解釈なら、"禁術"をお祖父様に進めたのもロックなのかもしれないな。

お祖父様は、私が泣いてる姿を見て心を痛めていた。

そのお祖父様を見て、ロックは"ピーン・ビネガーの憂い"を止めたいと思ってただろう」

「そんな卑屈な考え方はしなさんな。あんたらしくない」

ネェツアークが、アプリコットの言葉を止める。

女性領主は寝台から身を起こし、ケロイドの皮膚の中でも精悍に輝く瞳をネェツアークに向ける。

だがその精悍な瞳の中に、"ピーン・ビネガーとロックの関係への嫉妬"があるのを賢者は見逃さなかった。

「あんたのその言い方だと、

"ロックはピーン・ビネガー気持ちの安らぎの為だけにアプリコットを禁術をかけた"

みたいな取り方しとるだろ」

「あの、スミマセン。また私、何だか配慮にかける発言をしましたよね?」

そこにリコが申し訳ないという言葉を貼り付けたような表情で、割って入り込み、アプリコットは目に見えてわかる程、口元に苦笑いを浮かべていた。

"ロックさんにとって大事で大切なのは、どこまでいってもピーン・ビネガー様なんですね"

先程のリコの発言は、アプリコットの心に小さな棘を刺していた。

「いや、実際羨ましいと考えていたから―――。

図星を突かれて、辛かったってところだな。

それに、お祖父様とロックの縁があったからこそ、私は、そこそこ強くなれた」

そう言うと、アプリコットは寝台から、ゆっくりと立ち上がる。

「にゃ~、大丈夫かにゃ?」

ライは心配そうに声をかけると、アプリコットはニッと笑って見せてから確りと自分の脚で立った。

それからウーンと、両手を合わせて伸びをする。

「―――わっ」

しかし伸ばしきった所で手を離すと、体のバランスを崩し、よろけるアプリコットの腕を、ネェツアークが素早く立ち上がり掴んだ。

「すまない」

「体動かして、不安を払拭したい気持ちは分からなくもない。私も吐いた後は、暴れたもんだ」

謝るアプリコットに、ネェツアークは苦笑して腕を離した。

「まずは"ありがとう"、こけてしまう所だった。全く不思議なもんだなぁ。

ウサギの賢者殿とは似ているようで似ていなかったり、けれど変な所で似ている。

それとも、私が勝手に"禁術"を使った同士の仲間と考えてしまっているだけなのかな」

アプリコットがケロイドの顔を、火傷の残る手を右手で押さえながらこちらも小さく笑った。

ネェツアークは少しだけ残念そうにコートの中から、ハンカチにくるんだ枯れたコスモスの葉を出した。

「あんたは禁術の副作用で体調が落ち着かない中、色々と情報をくれてはいた。

けれど、どうしてもエリファスの事は、はぐらかそう、いや、"避けよう"としている。

アプリコットさん、あんたは私が禁術を使っている事に気がついてから、"同じ"とか"仲間"と何かに気づいて欲しいみたいに言っていたな」

ネェツアークの話を聞きながら、アプリコットは枯れたコスモスの葉を手にとり―――指先で潰した。

リコとライが息を飲んで、アプリコットを見詰めた。

「貴方達の前じゃ、"面白い女領主アプリコット"でいたかったんだけどなぁ」

アプリコットの指先で潰した枯れたコスモスの葉は、塵となって領主の部屋の床へと落ちる。

その瞳は、先程のネェツアークと同じく暗い色となっている。

―――4人の貴族を策に拠って処断し、女性というだけで軽視する領民の心を血族の死をもって縛り"掴んだ"。

「体調を崩してしまう程の罪悪感もあったが、"すっきりした"という気持ちもあったわけだ」

ネェツアークは、ハンカチをコートにしまいながら言う。

「ええ、命を奪う行為の恐ろしさと、人の心を縛するその力に心を奪われそうにもなったけれど、それを止めてくれたのは、"命を奪われた筈"のエリファスだった」

「"エリファス"は、彼女は"本当は"どういった存在なんだ?」

直ぐ、ネェツアークが切り返して尋ねる。

「確かに、体もこの世界に存在した事があったはずだと分かる。

私も彼女の存在の"違和感"に覚えられたのは、自分に禁術をかけた後、ロブロウにきてからだ」

ロブロウに入って、久しぶりにエリファスと(まみ)えた時、リリィに抱えられて、ぬいぐるみのふりをしているのに、思わず瞬きして彼女を見つめてしまっていた。

ウサギの賢者以外、何者も彼女を"2代目傭兵銃の兄弟 エリファス・ザヘト"という存在を疑わずに会話し、見つめていた。

確かな存在。だから、彼女はこの世界に在るのは普通の事。

だけど、その存在に"違和感"が拭えない。

けれど、その事については尋ねる事をネェツアークは、彼女の存在を認めている

"王都から共にきた仲間"

には出来ないままで、ここまで来てしまっていた。

そして、ネェツアークが抱えるエリファスへの違和感が通じるのは目の前にいる"禁術を受け入れた人"だけなのだろう。

「何の不文律に縛られて、エリファスの存在をあんたは"守って"いるんだ?」

アプリコットはまだ暗い目のまま、微笑んだ。

「そこはあなたと一緒。"守る為に、大切な人を殺してしまった"への贖罪。

とは言っても、小さな女の子にはどうしようも出来なかった事でもあるんだけどね」

「女の子?」

丁度、中庭で泣いていた幼いアプリコットの姿が、ネェツアークの中で重なる。

アプリコットが精悍な瞳を一度閉じて開くと、暗さはもう消えていた。

「それに言ったでしょう?。私は"禁術を施された時の記憶"がない」

アプリコットは少しだけ忌々しそうに、自分の頭を指で弾いた。

「ああ、それは聞いた。それなら禁術がかかったと自覚がある時から、教えてくれないか?」

ネェツアークに言われて、アプリコットは再びベッドの方に足を向け、枕元に置いてある梅の華が飾り細工が彫られた仮面を手にとった。

仮面を身につけて、そして堅く目を閉じる。

「自覚じゃなくて悪いんだけど、ネェツアーク殿と旧領主邸から別れて、晩餐会で倒れてから流れ込んでくる記憶の中で見つけた。

やっぱり禁術を施された前後の記憶はない。

ただ禁術が終わった後の方から幼い少女のエリファスの姿と、このケロイドがあった事も流れ込んでくる記憶で見つけた。ああ、それと」

ネェツアークが魔術を使う時みたいに、アプリコットも指をパチンと弾いた。

「お祖父様の禁術の間に他にもう1人、"人が増えた"。

確か、エリファスの師匠となる人。お年を召した方だったけれど、お祖父様程ではない。銃の兄弟のジュリアン・ザヘト殿」

「ジュリアン・ザヘト―――初代の"銃の兄弟"の方。先代の国王陛下が決起軍を作った際に活躍された方ですよね?。

でも故あって途中から従軍なさらず、それきりだと先代陛下の自伝には記録がありましたが」

ウサギの賢者―――ネェツアークから、ロブロウに赴く事にはなろうとは考えもしなかった頃に"銃の兄弟"について調べものを依頼されていたリコが、滑らかにアプリコットの言葉に応えた。

「私はアプリコット殿が、

"エリファスはちょうど怪我をした私の為に、お祖父様が買った仮面の商人のキャラバンにいたのよ。

彼等は王国の各地にキャラバンで移動していて、エリファスはそこにいる商人の護衛をしていた人が、縁があって引き取っていた孤児だった"

っというのを中庭で聞いたかな」

ネェツアークが、アプリコットが言った言葉は、彼女の抑揚のまま、"物真似"を披露したので、女性陣はビックリして鳶色の髪と瞳をもった賢者を見上げた。

「にゃ~、凄いにゃ~。どっからどこまで領主さんが言ったのか、直ぐわかったにゃ~」

ライがパチクリと瞬きを繰り返しながら言うのを、リコとアプリコットがウンウンと頷く。

「アッハッハッハ。日頃の趣味がデバ―――人間観察なもんで、興味があった事への記憶力はいいつもりなんだよ~」

何か怪しい単語を吐き出しかけながら、ネェツアークは話を切り替えるようにアプリコットを真面目な顔をして見詰めた。

「アプリコットさん、あんたは私に"ネェツアークにそう言った記憶"はあるかい?」

アプリコットは先程の物真似に感心した顔から、一気に苦虫を噛み潰したような表情を口元だけで表現した。

「"ない"。私は禁術で守られてもいるが、ご都合良く記憶を改竄されてもいるみたい」

「それはお祖父様でる領主や、初代の銃の兄弟、そしてロックさんの"思いやり"だったかもしれないな」

ネェツアークが慰めるようにアプリコットに言葉をかけて、まだ濡れている鳶色の髪をガシガシて掻いた。

「でも、どうして改竄したなんかしてるにゃ?」

「多分"幼い女の子には堪えられない出来事"があったのではないのかしら」

ライの疑問にリコが遠慮がちに応えると、アプリコットは黙って頷いた。

「確かに、今の私なら大人の人なら受け入れられるが、小さな女の子にはキッツイ内容かもしれない。それに、殿方にも」

少しだけネェツアークが苛立っているのを見抜いて、アプリコットは小さく笑って告白する。

「思い出したよ。もう、冬が終わろうとしていた暖かい日。

私が兄達から置いてきぼりにされて1人であそんでいた時、母、シネラリアから尋ねられていたんだ」


―――ねぇ、アプリコット。あなた、妹は欲しくない?。


「悩みに悩み抜いた顔で、平坦な声で母上が私に訊くんだ」

アプリコットは仮面を付けたまま、腕を組んで寝台に腰掛ける。

「だから、私は―――」

いつも少し物悲しい瞳で母に見つめられ

時には、アプリコットには理由の分からない言葉をぶつけられて

―――どうして、"あの方"と同じ顔で。

時に祖母や叔母という女性達に似ている事を詰られ。

アプリコット・ビネガーはそんな"女"達の顔に似ていて。

妹とは"女"であって。

また疎まれ詰られ、からかわれる命が、この世界に産まれる事を

「だから、だから、私は」

組む腕に指を食い込ませて、祖父や執事達が隠してくれていた"記憶"をアプリコットは見つけた。


―――妹なんて、いらない。


「私は、母に、シネラリアにそう答えた」



「私は"妹"を殺していた」

アプリコットの仮面の隙間から、口元に涙が伝っていた。

「―――失礼致します!」

突如リコは大きな声と共に移動し、治癒を行う為にビネガー家の主治医から渡されていた、一族のカルテを開いた。

「―――っ」

シネラリアのカルテを開き、捲る動きが止まる。

リコは、出来ればアプリコットに"それは思い込みである"と伝えてあげたかった。

カルテに記された堕胎の時期の胎児の月齢。

アプリコットの年齢、どこかに矛盾がないか、リコは青い瞳に涙を溜めながら探した。

古い日に焼けた紙に昔記された記録に、リコは白く綺麗な指をあて、アプリコットの心を"救える"文字を懸命に探す。

「どうして、どうして自分の娘に―――そんな事を―――」

どうしてだか、リコの瞳にも涙が溢れ出て古いカルテにポツポツとシミを作る。

「にゃ―――。リコにゃん、泣かないで」

ライが涙を流しカルテを見るリコを後ろから、抱き留めた。

「どうして、どうして、小さな子どもの、赤ん坊の命を、心が弱っていたからって、だからって」

リコは震え、涙を流す。

怒りより、慈しみに溢れた悲しみが止まらなくて―――。

――――パチン。

指を弾く音が、雨音が響く部屋の中を突き抜ける。

「ネェツアーク、"様"」

リコが涙を流したまま振り返ると、ネェツアークは薄く笑って椅子に座っている。

「私が言った事、リコさん覚えているかい?」


"貴女の力が必要だ、《恋に一番近いようで、一番遠い心》そんな心を持った、貴女の才能が"


リコは金色のカエルが言った事をはっきり覚えていて、ネェツアークに向かって頷いた。

「恋の様に強く心を震わせながらも、気持ちは慈しみでしかない。

その優しく気高い心は、恋の為ではなく、慈しむ愛の為に」

ネェツアークが歌うように唱えると再び指を鳴らし、パチリと言う音を響かせた。

リコがまたフっとまた金色のカエルと対峙していた時と同じ様に、その場に崩れ落ちそうになるのを今度はライが支えた。

「にゃ~!、ヒトデナシ賢者、この前の時といい今といい、リコにゃんに何してくれているにゃ~!」

ライがリコを支えながら、正に噛みつくと言った様子でネェツアークに向かって叫ぶように言う。

その次の瞬間、眼前に金色のカエルが姿を現していた。

「にゃ~?!」

ライは驚いて、思わずリコを抱えたまま尻餅を絨毯の床の上にペタンとついてしまう。

ネェツアークは椅子から立ち上がり、泪を流すアプリコットを横目で少しだけ見て、口元をキツく締めて通り過ぎた。

そして座り込むリコとライの側により、

「すまない」

と声をかけてから、リコの涙の跡が残るカルテにネェツアークは長い指先で撫でる。

「子どもの性別が解るまで育った上でか。シネラリア大奥様も、辛かっただろうね」

そう言って、またシネラリアのカルテを捲り、進める。

「たが、幼い娘に"仲間"という"意識"を求めたわけじゃないだろうが、酷だな。

まだ"女"ではなく"子ども"だったろうに」

独り言のように呟き、次はアプリコットのカルテのページを開いていた。

「にゃ~!ヒトデナシ賢者!。いつまでリコにゃんとワチシを放置するんだにゃ!」

「アッハッハッハ、個人的には"ヒトデナシ"は嬉しいねえ~。私は一刻も早く"ウサギ"に戻りたいんでね」

カルテから視線を外さず、ライの非難の言葉に答えたが、最後の方は本心を滲ませていた。

「それにただ放置をしている訳でもないんだよ。"カエル"、どうだい?」

漸く鳶色の瞳だけを動かし、リコとライとそして"使い魔"であるはずの金色のカエルに、友人に語りかけるように言葉をかける。

「にゃ~?カエルさんにゃ?」

ライが"カエル"と言った途端に金色のカエルは宙に浮くのを止め、リコの白い治癒術師の衣装の胸元の上に、ポテリと降りた。

そして僅かに金色の体を輝かせ、リコをジッと見つめていた。

「カエルさん、何をしているにゃ?」

「リコさんなら、私はいけると思うんだけどね~」

ライの質問に答えにならない言葉を返した時、ネェツアークは、2つのカルテを睨むようにして見比べていた。

そして賢者が舌打ちをしたのを、ライは耳にする。

「皮肉な偶然ってレベルか。でも、この確かに方法なら"エリファス"はこの世界なら、存在出来来てしまうわけになるのかな」

ネェツアークが開いていたカルテはシネラリアの、アプリコットを懐妊した初期を記したページと、アプリコットの幼年期のページだった。

「ゲコッ」

金色のカエルが、ネェツアークに呼び掛ける様に鳴き声を上げた。

賢者はカルテを閉じて、この男にしては珍しく整頓して"家族のカルテ"を、リコが纏めていたように元に戻す。

金色のカエルがリコの胸元から離れて、ネェツアークの肩に戻る。

"使い魔"は何かを伝達するサインを送るように再びまた小さく輝き、賢者は腕を君で、少し黙考する。

目を閉じたままゆっくりと口を開き、ライに尋ねた。

「ライさん、1つ質問がある。もしも、リコさんが命を落とすことになったら、勿論君は私を許さないよね?」

「ワチシが死んでも、あんたの事を切り裂いてやるにゃ」

即答の言葉に、ネェツアークは口の端を上げて、鳶色の瞳を開いた。

「―――大変に結構な答えだ」

ネェツアークは、仮面の隙間から未だに泪を流し続けるアプリコットの前に立った。

「どういう皮肉な縁か分からないけれど、アプリコットさん。

私と貴女、まるで名前が2つ並んだように同じ様な縁が出来ている」

ネェツアークが指をパチンと弾いて、足元に六芒星と五芒星が合わさった魔法陣が浮かび上がる。

そして黒と白の旋風につつまれて―――ウサギの姿をした賢者が宙に浮いた姿で現れて、仮面を着けたままの貴族は顔を上げた。

「ウサギの姿に、戻れるの?」

アプリコット、ライが驚きに満ちた瞳で"ウサギの賢者"の姿を見つめた。

「戻っているわけじゃない。あんたと一緒だ、無理をして、色んな約束をして、"化けて"いるんだよ、"仮面の貴族さま"」

可愛らしいという形容とは程遠い、口角を禍々しく釣り上げ、ウサギは笑った。

「―――え」

ウサギの賢者が爪をバチリと弾いて、旋風と共に鳶色の瞳と髪をもった"人"に戻る。

「ウサギも仮面の貴族も、仮の装い―――"フェイク"に過ぎない。

アンタも気がついて貰おうか、アプリコット・ビネガー」

賢者の長く器用な右手の指先が、領主の梅の華の細工が施された仮面を指先に引っ掻ける様に掴み、一気に引き剥がす。

銀色の仮面は宙をクルクルと回転し、"カーン"という音がして壁にぶつかり領主の部屋に引かれた絨毯の上に落下音を吸収され、カンと音を立てて落ちる。

アプリコットが自分の顔をケロイドに包まれた右手で抑えようとするのを、ネェツアークの大きな手が痕を隠す様にして掴んだ。


「凝ったカラクリをしてくれたもんだっ!」

ネェツアークが忌々しげに呟いた先には、額に僅かに細い傷跡があるだけの、滑らかな肌をした女性がいた。

「にゃあ!ケロイドないにゃ!」

「ええっ!」

ライの言葉に一番驚いたのは、"アプリコット"だった。

「禁術の際に記憶を無くさせておいた、もう1つの理由だ。

アプリコットさんの顔は、本当はケロイドに覆われて何かいなかったのを隠す為だ」

ネェツアークがアプリコットのケロイドに覆われた手を握ったまま―――エリファスを感じさせる顔の持ち主と、ライに向かって宣言する。

アプリコットはネェツアークに掴まれていない、左手で自分の顔を触れ、凹凸のない自身の素肌を未だに信じられないといった風に指先で撫でている。

(顔は似ているが、全くそっくりというわけではないか―――やはり、"あちら"はもう"覚悟をしてしまっている"のだな)

この場ではエリファスの顔を唯一知っているネェツアークは、まだ驚きの表情に満ちている女性領主の顔を観察していた。

「にゃ~!。でも、仮面を外した時でも領主さんの顔にはケロイドあったにゃ!」

ライが意識を失ったままのリコを支えながら、ネェツアークに疑問の言葉を投げかける。

「ああ、そりゃ幼少の頃からかけていた暗示と思い込みと、アプリコットさんの自身の魔力の賜物だ。

あと、もしかしたら、異国を廻るキャラバンの護衛をしていた初代"銃の兄弟"のザヘト殿が変瞼(へんれん)の技術を、暗示に盛り込んだかもしれない」

「"ヘンレン"とは何ですか?」

アプリコットは未だに信じられないと言った顔で、ネェツアークを見上げていた。

「私も"面"が好きな友人の部屋で、資料を見た記憶があるだけなんだがね。

東の方にある国の舞踊で、何枚もの面を、それこそ目に止まらない速さで面を変えながら舞う物があるそうだ。

友人曰わく"瞬きをした瞬間に面が変わってしまっている"らしい。

あんたが異国の術を使える片鱗、切っ掛けも多分同じ時に作られていたんだろう」

「―――瞬きをした瞬間」

アプリコットはそう言ってから、まだ握りしめられているケロイドに覆われている自分の右手を見つめようとする。

だが今度は、ネェツアークの空いてる手で視界を遮られた。

「悪いね、多分右手のケロイドを見ることが変瞼擬きの魔術を行ってしまう"スイッチ"何だろうと思う。ちょいと、失礼するよ」

掴んだ右手を離し、ネェツアークは先程コートに仕舞った、枯れたコスモスの葉を包んでいたハンカチを取り出す。

それを使って、器用に片手でアプリコットのケロイドに覆われた右手を包み込んだ。

それから視界を覆っていた手を、アプリコットからハズす。

「にゃー、でもヒトデナシ賢者殿。

意識を失った時でさえも、ケロイドは仮面の下にしっかりあったわけにゃ。

それが今はどうしてないにゃ?」

ライはすっかり人の姿の賢者の呼び方は"ヒトデナシ"と定着させている。

だがネェツアークは大して気にする様子もなく、肩を竦めて笑う。

「それこそ変な言い方かもしれないが、日々の"努力の賜物"だよ。

アプリコットさんは仮面を身につける際、かならず右手のケロイドが視界に入る。

ケロイドを見る度に、暗示によって仕掛けられた"変瞼"の魔術が働く。

仮面をつけていたとしても、生活をしていれば右手のケロイドは視界に入る。

その度に変瞼の暗示は働いて、顔はケロイドと言う"仮面"に覆われていった」

ネェツアークは指先で自分の顔を指差しながら言って、アプリコットを見た。

アプリコットは以前、口元しか分からなかった笑みを、顔全体に浮かべて、眩しそうにネェツアークを見つめた。

「毎日の習性、多分体が条件反射で覚えて、体調を崩した時でさえも"変瞼"を私はしてしまっていたのね」

ハンカチに覆われた右手を見詰めながら、ネェツアークは更に言葉を付け加えた。

「"変瞼"の仮面をハズす度に行うにしても、イメージがあった方がしやすいだろうからね。もしかしたら、右手のケロイドがあったからこそ、初代の領主殿と銃の兄弟はアプリコットさんに仮面を授けたのかもしれない」

ネェツアークに言われて、アプリコットは思い当たる事があったらしい。

「右手のケロイドは、確かお茶の支度をしていた時に母の側によった時、熱湯がかかってしまった。その際に、出来てしまったもののはずです」

不思議とアプリコットは、今はハンカチに包まれたケロイドにまみれた右手を愛おしそうに見詰めた。

「丁度、秋の季節も深まって、まだ祖父が領主をしていた時期で。

ロブロウの秋祭りに領主の孫である兄達と祖父、それに華やかな事がお好きな叔母様達が行ってしまって。

まだ幼い私と両親だけが旧領主邸の中庭にいて、兄達もいなくて私は両親を独り占めに出来ていた事を凄く嬉しかったのを覚えています。

母が丹誠込めて育てたコスモスは、とても綺麗に咲いていました。

"アプリコット、お母様がコスモスを中庭に植えたのは、旦那様、貴女のお父様が好きなお花だからよ"って。

女の子同士の内緒話みたいに、機嫌良く話してくれて」

ケロイドを負った話となるはずなのだが、アプリコットの語る口調は幸せな思い出話そのものだった。

「紅茶を入れる為に、火の精霊を呼び出してポットを温めようとした時、火の精霊が機嫌が悪かったのか、少し暴れてポットが倒れて、私の右手に熱湯がかかりました。

幼い私は泣いて、母は驚いて悲鳴を出したのを覚えています。

けれどもその後母も父も、とっても心配してくれて、そう、私の事を"遠慮なく"心配してくれて」

「"遠慮なく、心配"ってなんだにゃ?。親がちっちゃい子の心配するのに、何を遠慮しちまう事があるにゃ?」

人の感情の淀みに、ライは鋭敏に何かを嗅ぎ取り、言葉を挟んだ。

だがアプリコットは諦めたような微笑みを浮かべ、感情を波立てる事なくライの言葉に応える。

「自分の親戚をこういうのもなんですが、それこそ、そう揚げ足取りやこちらを"攻める材料"になる事ばかり嗅ぎ回る方達でした。

特に母、シネラリアを攻める材料を捜すのをお好みのようでした。

子どもが失敗をしたならば、それは親の責任と言わんばかりで。

そして愛情を持って抱きしめようものなら、過保護であると―――」

「そういった話なら、省いて貰ってかまわないか?」

ネェツアークがばっさりと斬って捨てて、アプリコットは小さく、そうねと頷いた。

「ケロイドを負った、あの時は"つまらない親戚"は秋祭りにはそんなに合わなかった。

私は記憶に残る中で本当に愛されていたんだと実感出来た、最高の思い出だった」

周りを憚る事なく注がれる愛情に、少女は初めこそ火傷の痛みに涙を流していたが、直ぐに笑顔になった。

「私が、笑ったら、父も母も笑った。手当てをしながら、普通の、当たり前の家族のように"幸せ"を実感出来た」

「それは、確かに"秋の日"の出来事だったんだね?」

不意にネェツアークが、確認をするように口を挟んだ。

「ええ、それは確かです。"ロブロウが誇る渓谷が、それは見事に色付いていた"と帰ってきたお祖父様の土産話として伺いました。

確か、キャラバンが来ていて、冬の間にもう一度ロブロウに逗留するという連絡を、ロックがお祖父様に申し上げるのも」

一度言葉を切り、アプリコットはケロイドがない左手を拳にして、こめかみを数度叩き確信するよう深く頷いた。

「思い出しました。記憶を改竄はされているかもしれませんが、今は頭の中に、その時の会話を思い出す事も出来ています」

アプリコットの目だけはケロイドの有る無しに拘わらず、精悍な輝きを持って答えた。

確信に満ちた女性領主の言葉に、ネェツアークは腕を組んで、そして先程片付けたビネガー家のカルテの方に視線を投げ、そして目を閉じた。

ネェツアークが、何かについて"悩んでいる"のがライにもアプリコットにも、見てわかった。

ただそれを2人の女性は、尋ねる事が出来ない。

余りに、ネェツアークが"悲しそうな顔"をしていたから。

「幼いアプリコットさんは、そのケロイドの話が出来た経緯は、お祖父様のピーン様やロックさんにもなさったよね?」

絞り出すようにして、ネェツアークが目を閉じたまま、また1つアプリコットに尋ねた。

「はい、まず帰ってきた私を見たロックが気付きましたから。

けれど、叔母様達は疲れているからと先に帰られていて。

五月蝿い叔母様方がいなかったので、父も母を気遣う言葉をかけ、私も笑っていたのでお祖父様は大事になさいとだけ。

いつも奥に控えている、お祖母様も、機嫌がいいとロックが伝えてきてくれて。

珍しく家族水入らずという感じで、私のケロイドの火傷となった事以外は本当に、普通に幸せな日だったんですよ、ネェツアーク殿」

アプリコットの"普通に幸せ"と言う言葉をネェツアークは耳にして、漸く鳶色の瞳を開いた。

「成る程、本当にその手のケロイドが全ての"スイッチ"になってしまっていたわけだ」

ネェツアークが残念そうに且つ、申し訳ないと言った様子で言うと、腹を据えると言った感じで息を深く吐く。

突如ネェツアークは姿勢を正し、靴の踵を鳴らし、ザッとアプリコットの前に跪いた。

ライは驚いたが、アプリコットは何かを察したように、表情を崩さず"領主の貴族"として凛と寝台に座りに直す。

「ロブロウ領主様、右手を失礼致します」

アプリコットは跪く賢者の請いに無言で頷き、ハンカチに包まれた右手を跪くき下げられている、鳶色の頭に向かって差し出した。

「ありがとうございます」

ネェツアークが厳かな声を出して、ハンカチに包まれたアプリコットの右手を両手に握りしめ、ケロイドのある方を額につけた。

賢者が小さく"スゥ"と息を吸う音が、雨音をすり抜け響き、言葉が続く。

「畏れ多くも、セリサンセウム王国の"智慧"を務める賢者として、西の領地を治めるロブロウ領主様に申し上げたき進言があります」

アプリコットが完璧な貴族の所作で、黙礼し頷く。

「承りましょう」

ライは嘗て、一度だけこれと似たような"儀式"を見た。

だが、それは"人と精霊"との間の事で―――。

ライが呆然としながらも、賢者と貴族のやり取りは続く。

「申し上げます。遥か遠く幾つかの巡り合わせと、悪意無き悪意の辻褄と合わせに、ロブロウという地が消失する危機に陥っております。

何の因果か、この地、地獄の太守が1人に愛されてしまっている様子です。

我が知略とあざとき策をもって、食い止めたいと思い、進言いたします」

ネェツアークがハンカチにくるまれた右手を額に当てながら進言する言葉に、アプリコットはまた静かに頷いた。

「セリサンセウム王国が賢者、ネェツアーク・サクスフォーン。

そして大戦の4英雄が1人小刀のネェツアーク。

あなたが練った策がうねり、ロブロウの地を揺るがそうとも。

如何なる結末を迎えようとも、ロブロウが領主、アプリコット・ビネガーが全ての結末を"受け入れましょう"。

貴方の策に乗っ取り、ロブロウの地を護りなさい。

では血の契約を―――」

「人同士で、そんな事出来る――にゃ?」

ライが思わず呟いた言葉は、領主の手を額に当てたネェツアークの耳に入り、賢者―――不貞不貞しく笑った。

鳶色の髪と瞳を持った賢者は笑った口元に、自身の右手の親指の"腹"を笑みを刻む材料となっている、鋭い歯で噛み切った。

「我が血を持って、ロブロウの地を護る契約を記します」

紅い血の雫が、ネェツアークの親指の先から落ちて球体となって領主の部屋の絨毯に落ちるように見えた瞬間―――小さな紅い球体は宙に伸びた。

伸びた血の雫は、まるで紅いインクのように宙に様々な文言を刻んでいく。

(やっぱり、おばあちゃんの時と一緒だにゃ)

呆然としながら見つめるライの前で、ロブロウ領主と賢者との"血の契約"は進んで行く。

ネェツアークから血の雫が垂れるたび、紅のインク達は何かの文言を宙に刻みつづける。

「領主様、契約認証の血を」

幾らかの文言が、アプリコットとネェツアークの周りの宙を埋め尽くした後、ネェツアークは額に領主の右手を額につけたまま、左手でコートからナイフを一本取り出して領主に捧げた。

「いいえ、私も自分の力で血を」

そう言って、アプリコットは自分の左手の人差し指を口元に持っていき、小さく息を吸い、カリっと少しだけ身を刻む音を立て、

「っつ」

という痛みの声と共に、血が人差し指の指先から、鮮血を滴らせる。

アプリコットの唇が鮮やかな紅色になったのを、ライが少しだけ見惚れた時、溢れ出た血の雫が宙に舞い落ちて、やはり紅いインクのように宙に様々な文言を刻んでいく。

そしてそれは確認するようにネェツアークの血の文字をなぞり、重なっていった。

最後の血の一文字が重なった時、ネェツアークとアプリコットの2人を丸い円の陣が囲む。

「アプリコット・ビネガー。血の認証を」

契約を初めてからこの時初めて、ネェツアークはアプリコットのケロイドの右手をつけていた顔を上げた。

「まだ、引き返せますよ」

ネェツアークが小さな声で、アプリコットに囁いた。

「その(そそのか)しも含めての血の契約ですか?」

アプリコットは迷わず気高く、自分で噛み切った人差し指の指先ネェツアークに差し出す。

「―――世界を敵に回してでも、大切な人を護らなかった男の戯れ言です」

ネェツアークはアプリコットの 血がしたたる人差し指に、自分の血が滲む親指を重ねた。

互いの指が、血と血が混ざりあった時、ネェツアーク、アプリコットを囲む円が旋風を巻き起こし円の中に更なる"陣"を描き始める。

(にゃ?!ワチシの知ってる魔法陣じゃない?!)

ライが記憶しているシトロンが行った"血の契約"の魔法陣は、円の中に<直線>が伸びて六芒星が画かれていたものだった。

ネェツアークとアプリコットがいる魔法陣の中に画かれ始めているのは、緩やかなカーブを描く<曲線>だった。

陰陽(インヤン)?!」

ライが習性である語尾をつけるのも忘れて、思わず口に出した魔法陣は白い勾玉と黒い勾玉が合わさったような図形―――異国の魔術を代表する象徴(シンボル)だった。

旋風が更に吹き荒れて、部屋の中にあったものが散乱する。

「りっ、リコにゃん!にゃっ!」

慌ててリコを庇うように抱えなおすライの頭に、固い何かが当たる。

(いっ、痛いにゃ~)

それでも、部屋は魔法陣が巻き起こす旋風に乗って物が飛び交う。

陰陽の魔法陣は、ネェツアークとアプリコットによって画かれた血文字により囲われ、その中に賢者と領主は互いに目を逸らさず"契約"を交わし続けている様子だ。

「あ゛に゛ゃ゛!」

再びライの頭に何かがぶつかって、ライはリコを懸命に庇いながら少しだけ"べそ"をかく。

(にゃ~、リコにゃ~ん)

涙を浮かべながら、"姉"のように慕い意識を失ったままのリコをギュッとまた護るようにライが抱きしめた時、一冊の分厚い何かがライの目の前に"ドサリ"と落下した。

(何にゃ?)

それはリコもネェツアークも眺めた―――ビネガー家の主治医が記したという、アプリコットの母・シネラリア・ビネガーのカルテだった。

旋風によって、ページがバラバラと凄まじい勢いでめくられていく。

ネェツアークが苦悶したページを過ぎ、リコが慈しみに溢れた涙でシミを作ったページも凄い勢いで過ぎていく。

(あれは―――)

ライの直感と鋭い動体視力で、最後のページで、今までの文字とは質感が違ったのが判る。

荒れ狂う旋風の中、ライはリコを護り抱えたまま、シネラリアのカルテに手を伸ばす。

(もう、ちょっと、にゃ!)

黒い爪化粧をしたライの指がカルテに届き、一気にズッと床に音を立て側に引き寄せた。

大切な友の体を支えながら、ライは最後のカルテのページを開く。

そこにあったのは、カルテに貼り付けられ破かれた古い日記の1ページ。

"幸せなあの日に芽生えた、この命がどうかまず、姉になるであろうあの子に受け入れられますように"

恐らく、シネラリアの文字であろう。

「―――ネェツアーク様が、"ケロイドがスイッチになった"というのはこういった意味だったのね」

「リコにゃん?!」

庇うように抱えられていたリコが、小さく声を出し、薄く目を開いたことに、ライが驚きと喜びの声をあげた。

「リコにゃん、気がついたにゃ?」

ライの声にリコは弱々しく微笑み、まだ激しい旋風の中頷いて、ライから護られていた体をゆっくりと起こす。

「意識は、ずっとこの"部屋"にあったの。

けれど、私の意識が、よくは分からないんだけど、幼い姿になっている私の意識が、体に戻る事が出来なくて」

リコはそれだけ言うと、ライが引き寄せたカルテに手を伸ばした。

「このシネラリアさんの気持ちと、消えてしまうはずだった命を助けたい、小さな姿のまま思っていたら。

私の目の前に、空色の瞳をした小さな男の子が

"私の腹心の伴侶を救ってくれるなら"

―――そう言われて、私の背中を推してくれて、"戻って"きたの」

「にゃ~、ワチシにはチンプンカンプンだけど、良かったにゃ~。


リコにゃんが、無事で良かったにゃ~」

ライがそう言って涙を流し、リコを抱きしめる後で、もう一つ涙を流す存在があった。

いつの間にかネェツアークから離れた金色のカエルが、一粒だけ大きな涙を流し、リコの背中を押したという存在なき少年を見送っていた。

「―――ライちゃん、"契約"が終わるわ」

リコが居住まいを正し、ライもそれに続く。

旋風は徐々に大人しくなり、宙に浮かんでいた血の文字も最後に一度光り、後は細かく砕けて粒子のようになり消えていく。

そして最後の血文字が消えた時、ネェツアークとアプリコットの囲んでいた陰陽の魔法陣がシュッと煙をあげて一瞬形を残した後、溶け込む様に消えた。

やがて"魔法"と呼べるような気配が、領主の部屋から消え去った。

「血の契約違える事がないように、賢者殿」

「身命を賭して」

アプリコットが厳かに命じ、ネェツアークが領主の右手を額から外し、深く頭を垂れて命を受けた。

姿勢を正したリコとライも、厳かな雰囲気で"血の契約"が終わるのを感じとれた。

―――次の瞬間、

「あ~疲れたっ!帰って、アルセンとグランドールを1つの寝台に押し込んで、寝るぞぉ~!」

「お疲れ様~、私も寝れたら寝るわ!。明日っていうか、今日は多分大変だし~」

ネェツアークとアプリコットが互いに両手をあげて"うーん"と伸びをし、そのまま、今度は互いに両手を"パーン"っと重ね合わせた。

リコとライの顔が、明らかに引きつる。

「リコにゃん、ワチシ、もう1回、あのヒトデナシ賢者に平手打ち食らわしたいにゃあ~」

「―――ライちゃん、奇遇ね、私もよ」

金色のカエルが、2人の女性騎士の後ろでゲコッといつもの様に鳴いた。


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