【借切の中庭】
激しい雨風の中、旧領主邸の中庭にはネェツアークが1人佇んでいました。
激しく降り出した雨の中、ネェツアークは枯れたコスモス畑を前に佇む。
実体ではないアプリコットに『禁術』についてをネェツアークが尋ねている内に
『アプリコットの記憶』と『実際の事実』に、多少の齟齬がある事が判明した。
そして何より、アプリコット自身は、禁術をかけられた時の詳細な記憶を失っている事に、ネェツアークの言葉で気がついた。
結果、おそらく意識と感情のバランスが崩れて、意識体であるアプリコットは旧領主邸から姿を消した。
「アプリコット殿の意識は、あちらに戻ったんだな。雨も降ってきたし、どうするかな」
ネェツアークは取りあえず、靄も少し収まったので、金色のカエルを呼び戻そうと指を鳴らそうとした。
―――だが、長く器用な指先に力を入れ鳴らす寸前で止めた。
「指を、鳴らさないのかね?」
厳かな老人の声が、激しい雨音にも関わらずネェツアークの耳に入ってきた。
鳴らそうとした指を解き、上げていた手も下ろす。
「君の使い魔に大変興味があったのだが。私には見せて貰えんのかね?」
そこまで言われて、ネェツアークは漸く声の発信源の方を向く。
罠が縦横無尽に張り巡られている筈の旧領主邸の中庭。
中でも、一番過密に罠が仕掛けられている場所の噴水。
その噴水の縁に老人が、雨に打たれながらも厳かな雰囲気を醸し出し、1人座っていた。
皺に埋もれながらも叡智に満ちた顔。
白い髭を穏やかな口元に蓄え、上等にしか見えない毛皮のガウンを羽織り、杖に両手を乗せて、老人は王座に座するように縁に腰掛けていた。
「見知らぬ翁殿、あんたどこから来なさった」
ネェツアークは老人の質問には答えず、質問で返した。
"質問に質問で返す"
それは失礼であるとネェツアーク自身が、アルスに指導した事もある非礼な振る舞い。
そんな非礼を厳かな老人にしてしまうほど、ネェツアークは噴水に座する"存在"がいけ好かなかったのである。
「フフッ、禁術も使いこなす賢者殿は、この翁に使い魔の事すら話す事が出来ないくらい、吝嗇でいらっしゃるようだ」
一般的に見たならば、この老人―――翁の笑顔は好好爺にしか見えない。
けれど、ネェツアークはどうしてもいけ好かないのだ。
心のそこにある知識と経験が、警鐘を喧しいほど鳴らしている。
"この翁を決して侮ってはいけない"と。
そして、ネェツアークの"使い魔"として存在をこの世界に留めている、"同士"をこの翁にあわせてはいけないとも、心の警鐘は注意を打ち鳴らしてもいた。
「ワシも漸く形を得たばかりでね、この体に流れ込んでくる"記憶"の多さに手一杯だ。どうしてこの体でここにいるか、その記憶をこうやって座りながら頭の中から探しだすのに、今は忙しい。フフッ、私も君と同じく答えが答えになってないな」
翁は土砂降りの雨の中でも、実に楽しそうに笑った。
「だが、記憶がまだ戻らずとも、吝嗇な賢者殿を"おちょくる"事は出来る」
翁がそう言うと、ネェツアークが魔法を呼び出す仕草と同じ様に、指をパチリと弾く。
雷鳴が轟き、旧領主邸に一筋雷が落ちて、衝撃が走る。
「折角"罠"を作動させないようにしたってのに!」
落雷はネェツアークに向かって落ちたのではなく、今まで起動させなかった罠の1つに落ちていた。
魔法の検知機能が働き、罠がネェツアークに向かって起動する。
クロスボゥから弓矢が発射され、ネェツアークに向かって飛ぶ。
(―――罠が"獣"用じゃない!)
矢の飛んでくる高さは、野生の獣を仕留める低さではなく、成人の人間の胸に位置に向かって飛んでくる。
矢が足元なら跳躍に自信があるので、跳んでか交わそうと考えていたネェツアークは急いで考えを切り替えて
「っとお!」
思わず声を出して身を屈めた。
濡れた芝生に直に手をつけた瞬間、ネェツアークの後方にある枯れたコスモス畑に矢がドンドンドンと数本刺さった。
「先程腰を痛めたとか言っていたが、大丈夫かい?」
「暇な方だなあ、そんな頃からいたのかよ」
煽る様な口ぶりにもフフッ、と翁はまた笑うだけで、賢者は舌打ちをした。
「その笑い癖、イラつくから止めてもらえると、三十路の若人はいいんですけどねえ」
ネェツアークはスっとその場に立ち上がり、コートの内側から投げナイフを取り出し、構えた。
噴水の縁に座する翁はその姿見ても微動だにせず、またネェツアークが魔法を使う時と同じ様に指を弾く仕草に構え、楽しそうに語りを続ける。
「おや、面妖な事を言う。ワシに流れ込んでいる記憶の中には、吝嗇な賢者殿が"アッハッハッハ"と笑っては、親友と呼べる美しい人物を大層苛立たせては、もう1人の日に焼けた大男の友人と説教されている姿がある。
吝嗇の賢者殿、君の笑いも十分人を不快にさせているのに、どうしてワシが責められねばならぬ?」
さんざめく雨音と視界を遮るの雨粒の中、翁の声は不思議とよく響き、口元をにいいっと上げたのが、ネェツアークは分かる。
「王都にいる貴婦人の記憶からか」
そして翁が語る記憶はアルセンの母堂、バルサム・パドリックのものだというのも理解した。
「名前はまだ分からぬが、大きな綺麗な息子がいるのに、まだ小娘のような姿の女の記憶しか何故か詳細に入ってこぬのでなぁ。
不可解な人も増えたものよな。"年をとれぬ人"も、この時代にはいるのか」
その時老人が持つ杖に、ネェツアーク のナイフが"カッ"という響いた音と共に刺さった。
「人の親友の"母親"を不可解なんて言葉で表現せんでもらおうか。翁殿、彼女は親友の母である以外、何者でもない」
雨に濡れた眼鏡のレンズの奥にある鳶色の瞳は、鋭い。
「何か、ワシの表現が気にくわなかったかね、吝嗇の賢者殿?。"人外"のワシにも時の概念はある。そして、人の前に姿を現す時は、ワシという"存在"似合わせて相応しくしっかり老いる。年を取らないなど、人外をも超えた化け」
ザッザッザッザッとネェツアークの足が数度踏み込み、腕を振る。
翁が言い終える前に、立て続けに投げナイフを踏み込む度に繰り出していた。
「―――君は本当に賢者かね?」
パチリとネェツアークが弾く指と同じ音を、翁は響かせる。
弾く音と共に、雨空から落下している雨粒達が集合し、球体になり、そこにネェツアークが投げたナイフが吸い込まれ、停止した。
「ああ、禁術使ってまで人間辞めた"ウサギの賢者"だ」
ナイフを投げ終えた手を大きく振り上げると、翁に届くことのなかった武器達は一斉に水の球体から引き抜かれ、ネェツアークの手元に戻った。
先程の鎌鼬を呼び出した時と同じように、ナイフには錦糸が結びついている。
「フフッ、人間を辞めたと言う割に、姿はこれでもかと言うくらい人間ではないかね。まあ、それは"ワシ"がこの世界に姿を現したせいでもあるのか」
翁はもう一度指を弾くと、水の球体は次々と地面にバシャリバシャリと音をたて、飛沫をあげて落ちた。
自分と同じ魔法の所作を行う翁を眺めて、ネェツアークは舌打ちをしてナイフを一度しまう。
「魔力を与えないと事態が動かないとはいえ、世界的に、やっかいなもんを本格的に起こしちまったもんだ」
「しかし呼んだの"人間"、お前たちだ」
どうやら舌打ちしたのが気に食わなかったらしい、翁はすぐに言い返して来た。
「ワシ等という"存在"は、君等人間が都合良く作った代物だ。
勝手に名前を与え、過分な力もつけさせた。長い年月、ワシ等をそういう風に扱っておいて、いざとなったら倒そうとしたり、封印しようとしたり、こちらが余程迷惑だ」
「―――翁殿、あんた、人間に怒ってるのか」
ネェツアークは再びナイフを取り出して、準備運動のように長い器用な 指でクルクルと回している。
「フフッ、怒っているというべきかどうかもわからん。
だがワシ等に、お前達が勝手に刻んだの存在定義の1つを教えよう。"人間の敵"だ」
翁は再び、ネェツアークと同じ仕草で指をパチリと鳴らす。
ドンッと言う音と地響きと共に、また1つの落雷。
検知器が罠を向ける存在を確認し作動を始めようとする―――。
「アッハッハッハッハ!だったら、翁殿!。この豪雨と共に、一緒に"罠"の嵐をを味わおう!」
口元は不貞不貞しく笑みを刻み、高らかな笑い声をあげてネェツアークはナイフを様々な罠の起動部位に投げつけた。
そしてまずは翁が起動させた罠――――紅蓮の炎を纏った鞭を、今度は大胆に体を動かしてネェツアークは避けた。
その際、また数個の罠が連動し、カチっカチっカチっカチっとスイッチが入る。
「もう一度尋ねるが、君は本当に賢者なのかね?。罠はワシという存在を認識出来―――」
「―――出来るんだなぁ、これがっ!!」
"ない"と言う翁の言葉を掻き消すような高らかな声でネェツアーク言い、ナイフを投げて、自由になった両手をバッバッバッと色んな形に組み合わせ、最後に空を2本の指で横に切った。
次の瞬間、翁の杖に刺さっていたナイフが"生きたウサギ"に変わり、翁の足元にポテリと落ちる。
この世界の検知器の仕組みとして、標的最優先は"農作物を荒らす生き物"。
検知器が標的の照準変更可能な物をネェツアークから"ウサギ"にかえる。
「小賢しい!」
翁の憎々しげな声を出したと同時に、様々な罠が起動した。
物理的・魔術的なものによる罠が、ネェツアークと翁の足元にある"魔法で出て来たウサギ"と次々襲いかかる。
罠が標的を狙う対比としては、ネェツアークに向かって4分の1、生きたウサギに向かっては4分の3と言った具合。
ネェツアークは、ウサギさながらの俊敏な動きで、襲ってくる罠を避けながら中庭を走り回る。
そして走り回りながら、次々とまた罠を起動させ、罠は噴水の縁に座る翁の足元にいる"ウサギ"へと向かう。
土砂降りの中、激しい雨脚に視界を遮られながらも、噴水の方へと向かう様々な罠をネェツアークは確認しながら、次々と罠を起動させて行く。
噴水の縁に座る翁は、やはりネェツアークと同じ"魔法を繰り出す"動きで、魔法を次々と繰り出し、罠を全て回避していた。
「あらあら、"人の魔力"だからっ出し惜しみしないで使ってくれるっと!」
中庭の端、回廊まで来て石畳に手をつき、体を見事に反転のカーブさせてネェツアークはまた中庭の方へと駆けて行く。
全ての罠を起動させる如く、縦横無尽にをネェツアークは愛用の長いコートを翻し更に駆け回る。
「何が狙いだね、吝嗇の賢者殿?。こうやって罠を魔法で防がせて、魔力を消耗させようというのかね?。
言っておくがワシの魔力は、まだまだ尽きぬ。この中庭の罠を全てを起動させるのを、あと100遍繰り返しても、な」
噴水の縁に座りながら、指を弾きつつ、相変わらず魔術でもって全ての罠を防いで、翁はネェツアークに告げる。
「それにほれ、こうすれば罠は全て」
翁は指を弾きつつ杖をもちあげる。
杖は持ち上げた瞬間に、切っ先だけが剣になり、その真下には、ネェツアークの魔法で作られたウサギがいた。
「吝嗇の賢者殿に向かう!」
「可愛らしい小動物をイジメてはいけないなぁ」
今度はネェツアークが、足元を狙うトラバサミを跳躍して避けながら指を弾いた。
パチリという音と共に、ウサギが"ナイフ"の姿に戻るが、翁は構わず杖を振り下ろして、ナイフと杖の切っ先が衝突した。
ザアアアアという雨音の中、キィイイインという金属音が響き渡り、ナイフは杖に弾かれ、雨に濡れた芝生の上をクルクルと激しく回転して―――
「―――おかえりっと!」
中庭を走り回る、ネェツアークが待ってましたとばかりに弾き飛んだ先で回収して、また走る。
そして翁の方を見て、ネェツアークは"ニィイイイイッ"とそれは憎たらしく笑った。
「―――吝嗇の賢者殿の美しいご友人の気持ちが、少しばかりわかりましたぞ。これは確かに腹立たしい」
翁がギリッと杖を握り、軋む音がした。
しかし、罠は全てネェツアークの方へと向かうこととなった。
カチカチカチと音をたてて様々な罠が、ネェツアークに照準を切り替える。
(―――あの"3つの罠"と、そして)
ネェツアークは噴水の縁に腰掛ける翁を今一度、見た。
罠の照準が切り替わる音を、激しい雨脚の中から選りすぐり聞き出し、既に起動したり、発射された罠をネェツアークは避け る為に中庭を駆ける。
中庭は既に起動した罠の残骸で溢れかえっており、まともな足場の方が少なくなっていた。
(考えてる事が当たっていれば)
カチカチカチと3つの罠が起動した音を、ネェツアークは捉えた。
残っている罠は、大変大掛かりな魔法で石の隕石の魔法"メーティオ"の劣化版だと中庭を逃げながら確認していた。
(―――くる!)
ネェツアークはまた急激なカーブをして、逃げる方向を――翁がいる噴水方へと変えた。
「翁殿、この罠をもって"ネェツアーク・サクスフォーンの魔力"から吸いとった魔力は品切れにして貰うよ!」
ネェツアークは高く跳躍をして、翁のすぐ横をすり抜け―――噴水の中へとバシャリ!と音をたてて飛び込んだ。
(ん?!こいつは―――?)
水の中に飛び込んだ、瞬間、その"底"にある物に気がついた。
(ま、取り合えず、"今"はそれ処じゃないかな)
直ぐに、現状を思い出し、自分の目論見の成果が"来る"のを待つ。
―――罠は"ネェツアーク"を追いかけて一斉に"噴水"に向かって作動を始めた。
「本当に小賢しい吝嗇漢めがああ!」
翁は一度だけ指を弾き、次の瞬間には老人に相応しくない機敏さで立ち上がり、杖を―――"細剣に姿を変えた杖"を構えた。
その後方で"ぶはっ!"と声を出し、ザバァっと大量の水を滴らせながら噴水の中からネェツアークが、上半身を出す。
そしてすぐに振り返り、翁が細剣と魔術をつかい、見事に"噴水"を守り抜く姿を確認した。
(私の魔力が尽きて"アルセン"のモーションと魔術に切り換えた!)
水に濡れて重たい衣服ながらも、ネェツアークは軽やかに噴水から立ち上がり同時に、指を弾く。
すると愛用のコートや衣服から、余分な水分がザッと音を出して抜け出した。
「流石、私のキングスお手製"英雄"の服♪」
ネェツアークが上機嫌でそう言い終えた時、翁が最後の罠の岩を細剣で突き崩した。
細剣に形を変えた杖―――細剣をビュッと鳴らし、翁は刃についた土塊を振るい落とす。
ネェツアークは少しだけ苦虫を噛み潰したような顔で、噴水の対極にいる翁の後ろ姿と仕草を眺め、濡れた前髪を掻きあげた。
(爺のくせに忌々しい程、アルセンと同じ動きをし やがる)
「―――フフッ、久しく激昂させて貰ったわ」
翁は振り返りながら、細剣でパンパンと自分の手の平を叩いていた。
―――ネェツアーク、あなたはいい加減にしなさい!。グランドールもです!。
自分を唯一叱り飛ばせる、年下で親友である、アルセンが"激昂"した時の様子を思い出させる程同じ翁の「仕草」であった。
「私の"魔力"を使う時は、そんな仕草まで真似をしなかったのに翁殿」
翁は細剣を手の平から下ろし、再び杖のように支えに使う。
「―――何、正直に言おうか。ワシはお前さんが"いけ好かん"のよ。
小刀の賢者・ネェツアーク・サクスフォーン。
だから極力真似をしたくないのさ、努力をしてでもな」
そして流れ取り込んだ記憶から、噴水の対極にいる鳶色の髪に瞳をもった青年の部分を拾い上げ、見据えて言う。
その翁の言葉を聞いて、ネェツアークは口角をグイッと上げた。
「アッハッハッハッ。―――そいつは奇遇だ。私も翁殿、あんたがいけ好かん」
笑い声をあげ、ネェツアークは不貞不貞しさ満載で、腕を組んだ。
翁の顔が怒りに歪み、杖を持っていない方の手で思わず顔面を抑え、苦笑する。
「フフッ、旅人と契約をしてこの力を手にしたはいいがいかんな。
高等な魔術や能力も真似る事も出来るが―――感情までもがこうも、ありありと流れ込んでくるとは」
「その感じだと、かなーり"アルセン"は怒っているんだろうね。いやはや、よく真似できていますよ、翁殿!」
腕を組んだまま、ネェツアークはウンウンと、かなり態とらしく頷いた。
「フフッ、そう言うことなら乗ってやろう!」
翁は細剣を腰のベルトに素早く仕舞い、噴水の縁を蹴りネェツアークに飛びかかって来た。
(あなたはいい加減に、本当にいい加減にしなさい!)
翁の言葉より、記憶のアルセンの怒りの声の方がネェツアークの頭に響いた。
(久しぶりに"アルセン"と組み手といきますか!)
腰を落とし、足の幅を開き、ネェツアークは"アルセン"との組み手を"楽しむ"事にする。
飛び上がった翁が最初に繰り出して来たのは、ネェツアークの"記憶"にある通り、鋭い蹴 りであった。
それをネェツアークは体を捻り難無く避けると、翁は着地したやいなや、大地をそのまま蹴り、肘を尖らせて打ち込んでくる。
翁が打ち込む肘をネェツアークは後方に摺り足で下がり、胸に直撃する寸前で手の平で受け止め、パンっと音が当たりに響いた。
(で、確か次にくるのが)
ネェツアークがそんな事を悠長に考えている間に、翁は当たらなかった肘を引き、即座に体を反転させ
("裏拳"がくるっと!)
ネェツアークの顔の側面を狙った、拳の裏面で打撃する裏拳を、自分肘を上げて、バシリっという音をたて、受け止める。
「―――ふむ、記憶が落ち着いてきて分かったが、この戦い。ワシの方がハンディキャップが多いようだ」
翁が、抑揚がある聞き応えがある声でそんな事を言う。
ネェツアークは肘で裏拳を受け止めたまま、翁の言葉で口元に笑みを刻んだ。
「ああ、そうだろうなんせ気の優しい"軍学校の天使アルセン・パドリック"に"組み手"を仕込んだのは、私だからね」
肘で裏拳を受け止めたまま、スッと体の芯に体重を落とし、軸足となる方をネェツアークはザーッと濡れた芝生に滑らせ止める。
「打撃はな、凝ったのより"正拳突き"が一番き効くのさ。こうやってな!」
ネェツアークがドンッ!と翁の腹に真っ直ぐに拳をめり込ませた。翁の体が、後方に吹き飛ぶ。
だが吹き飛んだ翁を見て、ネェツアークは舌打ちをした。
「翁殿、大袈裟にバックステップし過ぎだろ」
正拳突きが"決まった"場合、人はその場に崩れ落ちるように前向きに倒れる。
"吹き飛ぶ"という現象事態、既に衝撃を避け、流しているという事になっていて―――翁はダメージを受けていない。
吹き飛んだように後ろに跳び、翁は濡れた芝生の上にズザザザーと音をたて、見事に着地していた。
「―――フフッ、これも吝嗇の賢者殿が、綺麗な友人に教えた事ではないかね?。
"本物の拳で打ち込まれたなら、受けてはならな い。流れに従い、力を受け流しなさい"とな」
翁は後ろに手を組み、実に楽しそうに笑った。
「あらあ、アルセンはやっぱり良い教え子で良い教官な訳だわ。
こちらが押さえて欲しい教えのポイントを、しっかり把握してくれている」
先程まで武道家のように構えていたネェツアークの姿勢は、既に何時もの不貞不貞しい態度に戻っていた。
「ふむ、この記憶の主はスピードも魔力も上等だが…どうも吝嗇の賢者殿の相手はイケないらしい」
まだまだ雨が降り荒む中、翁はアルセンの動きを選んだを己自身を嘲笑していた。
「アルセン・パドリックには"友愛"や"尊敬"そして"心配"が、ネェツアーク・サクスフォーン、グランドール・マクガフィン。この2人相手に、心の奥底で溢れかえっておる」
そして腰にさしていた細剣を取り出し、再び杖の形に戻して体の支えという、本来の使い方に戻す。
ネェツアークは己を嘲笑う翁を見て、少しだけ不貞不貞しい態度を解く。
「意外だなぁ。翁さんなら"友愛などくだらない"ぐらい、言いそうな気がしたけれど」
「フフッ、吝嗇の賢者殿。ワシ等のような存在にも、"想う相手"はおるのよ。
もし想う相手に危害を与えよう者がいるなら、例え自分の存在を塵に返してでも害する者を滅する。
そう想う相手を、消すような攻撃は出来ないのは、力を借りた上でも当たり前の事だ。余計な言葉かもしれんが、この綺麗な友人を大事にしてあげてはどうかな?」
「―――デッカいお世話だ」
ネェツアークは悪態をついたが、朗々と語る翁の存在の定義は"人間の敵"であるはずなのに、相手を想う気持ちは、ある意味、下手な人間よりも純粋に透き通っていると認めざるえなかった。
「だが、その点をついて言えば、吝嗇の賢者殿。
そなたの力は本当に、ネェツアーク・サクスフォーンに対し、"攻撃"しやすかったぞ」
そして、今度は明らかに翁はネェツアークを嘲笑った。
「まるで自分では死ねないが、死ねるチャンスを待っているみたいだったぞ。
例え今自分が消えても、周りが仕方ないと考えて納得してくれる、そんな出来事を心の隅で望んでいる」
だがネェツアークはそれを笑って受け入れた。
全て正解だったから。
「アッハッハッハッ、翁殿。私は腹は黒くはないけど、心に"闇"ぐらいあるんだなぁ」
"仕方なしに死ねたらいい"
そんな気持ちを抱いていることに、全く後ろめたさも、罪の意識も抱いていない。
"生きる"ということに余りに不貞不貞しい、そんな態度。
ネェツアークの顔は土砂降りの雨の中、底抜けに明るい笑顔だった。
その時自然の雷鳴が轟き、翁もカッカッカッカッと口を大きく開いて笑った。
「―――何たる"傲慢"。記憶を見える限り見渡せば、吝嗇の賢者がこの世界から消えたのなら、創世から携わった血族達たちすら、泪を流すというに」
翁は杖を握る手にギュッと力を注ぐと、また杖は形を変え始める。
「まず古の女神末裔が泣くだろう。
己が立てた誓いをかなぐり捨て、慈悲深き美しき男が泣くだろう。
吝嗇の賢者を止める為、闇と炎を受け止めた大男が泣くだろう。豪胆で民を愛する国王が泣くだろう」
翁の杖は―――貴婦人が持つような、絢爛豪華な扇子となった。
"―――友が泣く"
翁が例えを出して、何度そう宣言をしても、ネェツアークの笑顔の形を崩さなかった。
少しつまらなそうな表情を浮かべ、形を変えた杖―――扇子をバッと器用に広げ、叡智とシワに溢れた顔を、翁は貴婦人の所作と同じ様に半分隠した。
「―――フン、所詮"禁術"に逃げた出した狡兎に過ぎんと言うわけか、ん?」
そして、ふと思い付いた様に、鳶色の賢者の吸いとった記憶の隅に、大切に置かれている、静かに佇み、弔いの祈りを捧げ続ける異国の人を付け足した。
「この"友"が一番哀れか。この世界で、漸く因果も運命も業も何も関係ない。
今、吝嗇の賢者が身に着けている衣を、優しき月明かりのような心をもって仕立て上げた"友"」
僅かではあるが、賢者の目許がピクリと動いていた。
本当は、堪えようとしていたのが、堪えきれずに動いていたのが、判る。
「――――フフッ、滑稽だな。
何やかんやで、吝嗇の賢者殿は、"普通"を最も恋い焦がれているというわけだ」
「ああ、"普通"という事に恋い焦がれているよ。
そして、"普通"が続く世であって欲しいと、普通の世界の為に命を賭した"妻"と"義妹"の為に、この身体は捧げんとならん」
そう言って、雨によって少し下がった眼鏡をクイっと上げる。
賢者の口元から笑みは消えていた。
"彼女等"を語る時、不貞不貞しく笑える余裕は、まだネェツアークにはない。
翁は広げていた扇子を"バシリ!"と雨音の中でも響き渡る大きな音と共に畳む。
「フフッ、初めて賢者らしい事をほざきながらも、"受け入れ許される死"を未だに求めるとは、何と愚かしく、"傲慢"な気持ち。
―――いや、その傲慢さに故に我等の"主"の弟君は、君主の眷属である我等ではなく、"賢者ネェツアーク・サクスフォーン"に助力を求めたか。
兄に似た傲慢さを持つ、人に」
初めて翁がネェツアークの名前を呼び、かつてバルサムが
"稽古をつけてあげましょう"
と言った時と同じ様に扇子を華麗とも見える仕草で、舞わす。
"ドンドンドンドン"と音をたて、中庭の大地が蠢き始め、ネェツアークは振動の波を足元で体感する。
「この年を取らぬ不可思議な貴婦人、並みの魔力の持ち主ではないな。
記憶を手繰り寄せながらも魔法を使うのも、ワシでも困難だ」
過去の経験で、まだ大地に足をつけていた方が安全とネェツアークは分かっていた。
だが、親友の最愛の母をまた"不可思議"と罵った人外の存在が本当にいけ好かなかったので、
「セリサンセウムの稀代の魔術師、バルサム・パドリックの術を"物忘れ"した爺さんが使いこなせると思うなよ!」
と大地を蹴り、翁に向かった。
大地から足を離し、高く跳躍したネェツアークを見て翁は歯を見せて笑う。
「いいや、思い出したぞ賢者殿!。ワシはかつてのセラフィムの君主の1人にして、【暁に輝ける子星の天使】を支えた【ベルゼブル】。
そして、この世界において"地獄の君主"が1人!」
ネェツアークの記憶と同じバルサムの動きで、翁―――ベルゼブルは扇子を翻し、人の腕の太さがある土の蛇が、雨に濡れた大地から4匹飛び出てきた。
そして未だに宙にあるネェツアークの体を四方から囲むように、大地から続く身を伸ばす。
宙に身を置きながらも、ネェツアークはベルゼブルが使った"昔バルサムが使った術"と今の自分の実力なら、対処出来ると判断出来た。
「こい、獅子の頭を持つ風の精霊"アリエル!"」
精霊の名を口に出した瞬間、緑色の小さな獅子の姿をした風の精霊が旋風と共にネェツアークの肩に現れた。
「――――アリエル、蛇を頼む!」
ネェツアークはナイフを投げようと宙で構える最中、4匹の土の蛇が牙を出し、食らいつく寸前。
アリエルは獅子の牙と風の力をもって、ネェツアークの周りを円を描くように飛び、土の蛇の頭を次々に粉砕した。
頭を無くした、土の蛇の胴体はボトボトとその場に墜ち、役目を終えたアリエルは消える。
「とりあえず、一度"絵本"にひっこんでくれっ!」
ナイフを投げる―――が其処にベルゼブルの姿はない。
「―――"断る"」
ネェツアークの眼前にベルゼブルの、老獪と叡智に満ちた地獄の君主の顔があった。
そして扇子から細剣に形を変えた"武器"が愛用のコートごと、賢者の左肩を貫く。
「――――つぅ!」
ネェツアークが顔を歪めた瞬間、ベルゼブルは"不本意"といった面もちで肩から細剣を引き抜き、形状は再び"扇子"に戻る。
貫かれた左肩を押さえ、辛うじて倒れる事なく、ネェツアークは、ほぼ泥となった庭に膝をついて着地した。
ベルゼブルは僅かに遅れ着地し、忌々しいそうに、扇子に戻った自分の武器を見つめる。
「フフッ、名前を思い出したワシの力すら押さえて、記憶ですら仲間を庇おうとは、小賢しいな"アルセン・パドリック"。―――だが、気に入った。"とても"な」
ベルゼブルが肩を押さえて蹲るネェツアークに、扇子を構えた。
「セリサンセウム王国・最高峰の賢者に敬意をワシなり評して、名家パドリック母子の2名をの力をもって、倒そう―――。
そう考えていたが、どうやら心置きなく力を貸してくれるのは、稀代の魔術師バルサム・パドリック殿だけらしい。
魔剣の英雄殿は、どうやら友人に感化されて吝嗇なようだ」
友人を評するベルゼブルを前に、ネェツアークはゆっくり立ち上がる。
貫かれた左肩を抑える右手は、既に戦う為にナイフを握っていた。
「アッハッハッハッ。アルセンは頑張り屋さんだからね。"記憶"すら、きっと努力するだろうさ―――!」
ネェツアークが、如何にも"一矢報いる"といった形でナイフを投げた。
ただナイフの切っ先はベルゼブルには向いていない。
「何を見当違いな方向へ―――!?」
初めこそ嘲笑おうと頬を引き上げたベルゼブルだが、賢者が投げた方向に鋭い視線を向けた。
「―――そうでも、ないだろ?。"高所の神"ベルゼブルを受け入れた存在が、記憶を戻す前から、必死に守っていた場所だ」
"カッ"と音がして、ベルゼブルが初め座っていた噴水の縁にナイフが刺さる。
「親友の母が貶されて、激昂したふりをして、肩を貫かれたのは予定外だけど、油断させるのには十分役にたった」
肩の痛みに耐えながらも、不貞不貞しい笑顔がネェツアークに戻っている。
ナイフを刺した噴水の縁の場所から、空間に白い線のひび割れが広がり始めた。
「―――小賢しい!またしても謀り、"場所"を奪うか人!」
ベルゼブルが"ギリリッ"と歯が軋む程噛み合わせ、怒りにませて扇子を舞うように手首を捻らせる。
「"予想外"と言うなら、更に予想外に、稀代の魔術師の本気の魔術を受けて、切り刻まれて手足を引きちぎられるがいい!」
扇子の先に、荒れ狂う風の球体が数個浮かぶ。
「トルネードでトルソー(頭・手・足がない、胴体だけの彫像)にされちゃあ堪らんね」
少しだけ、冷や汗を浮かべてネェツアークはナイフを投げた噴水の方を見る。
ナイフは徐々にひび割れを広げているがまだ完璧ではない。
「再び謀り、居場所を奪おうとした事を、後悔するがいい!」
ベルゼブルが扇子を持った腕を振り上げ、風の球体が凄まじい勢いでネェツアークに迫る。
「"稀代の魔術師"の"名前"に、異議あり!にゃ~♪」
―――ナイフが作ったひび割れを"外"から打ち破り、ずぶ濡れな礼装のライが噴水から姿を現した。




