結び目
そうこうしていると、それほど厚くない壁の向こう側から今度は重厚なドタドタ音が近づきだす。
その音を聞いて素早く涙を拭い去ると同時に「ドガンッ」というまたも大きな音と共にドアが開け放たれた。
「ン無事かねぃ!!??ジミィっくぅ~~~~~ん!!」
そこにはタコがいた。
涙痕が少し残ったヘナヘナな目元と、恐らく「くぅ~ん」のまま限界まで突き出されたであろうカサカサの唇。
白髪のショートポニーテールを後ろに纏め、白髭すらも携えた老年のジジィが、ルパン三世もビックリする程の見事な空中平泳ぎ姿勢のまま突進してくる。
その姿と不愉快なあだ名を聞かされた真衣は、先ほどまであった涙腺すらもどこへやら…
怒りの鬼神が目覚めようとしていた。
「だぁれがジミィじゃ!クソジジイィ!!」
真衣はその鬼神が趣くままに右足を振り上げ、その不愉快な顔面の進行方向へと突き出す。
既に方向修正不可能となっていた平泳ぎ艦隊は、目の前の”足裏”という岩礁に為す術はなく、見事脆弱な船首部位から座礁。
代償として真っ赤な足裏マークを顔面に刻み込み、そのまま垂直落下する形で海底へと撃沈した。
「ぶぉっふぁ……げ、元気そうで何より…だぁ。真衣ぃ……」
最後の力を振り絞った沈没船はそう言葉を言い残しながら、痛々しい赤いマークを半分見せて右親指をサムズアップ。
全てを出し切ったタイタニック号はその言葉を最後に、ガクッという擬音が付きそうなほど見事な脱力を見せ、以降浮上することはないのであった……
その一連が終わってようやく、顔を見せるアキラ。
先ほど出て行く時の様子とは打って変わり、冷静な小走りで部屋へと入ってきた。
「あ~ぁあ。だ~から言ったのに。ねえちゃんもねえちゃんだぜ?ねえちゃんを助けたのはじいちゃんだってのによ~」
「あ!ごめん。つい…」
アキラに指摘され、ようやくそのことへと思い至る。
確かにあの状況から助け出せるような人は、真衣の知る限り”博士”しかいない。
(…でもさ?それを差し引いてもさっきのは許せないじゃんね?普通にセクハラだし)
真衣が自分との協議を進めている間にも、アキラは「お~い。じいちゃ~ん。無事かぁ」とやる気なさげな掛け声と共に肩を揺さぶっている。
それでようやく活力を戻したのか、老年はハッと目を覚ますと年齢を感じさせぬ軽やかさで立ち上がった。
そのまま家柄の良い紳士かのように、軽く品の良い所作で身なりを整えていく。
――だが、残念ながら鼻血が出ていては締まりがない。
一歩及ばずパントマイム役者に成り下がったジジィは、噴き出た鼻血を人差し指で擦り、わざとらしい吐息をつきながら言った。
「ふぃ~。危ない危ない。もう少しで三途の向こうにいるばあさんから、手を取られるところじゃった」
「「いやあんた生涯独身だろ」」
面白くもない、分かりきったボケには姉弟揃ってのツッコミが炸裂。
すると暫定認知症気味のジジィはわざとらしく「タハァ」という吐息を漏らし、自分のおでこを叩いてみせた。
コッテコテの茶番に付き合わされた真衣達は揃って特大の溜息をつき、諦観の意を共有することになってしまうのだった。
(これはほっといたら夜までやりかねんぞ…コイツ)
真衣はさっさと話題を変えるべく、次のボケが入る前に話しを進めることにした。
「博士。ありがとうございました。脳裏世界から助けて頂いたみたいで」
「うん?あ~まぁ確かに?儂も今回ちょ~っと頑張っちゃってはみたけどさ~?まぁ~でも今回はアキラの功績の方が大きいと思うよ~?」
「アキラが?」
疑問を感じた表情そのままにアキラを見やると、そこには少し斜め上に視線をズラす少年。
なんだか顔が赤いような気もするが気のせいだろうか?
「いや、それがね?儂もびっくりしたのよ。電話口から急にアキラが出たかと思ったら、べ~っしょべしょな声で『ねえちゃんが~』って――」
「ちょぉい!じいちゃん!!ねえちゃんには言わないって約束したじゃん!てかそんな情けない声出してねぇっての!」
少々誇張も入っているのであろう、博士の演技がかった言葉。
それを真っ赤な顔にしたアキラが取っ組み合いを挑み、否定する。
アキラの必死な様子を見た博士はここぞとばかりに、より演技がかった声と共に続きで煽り、同時に取っ組み合いをも器用にいなしていた。
打つ手なしのアキラは更に沸騰した顔を突き付けながら、無謀にも弱小なパンチを振りかざす。
いつもからあった、何気ない日常の一コマ。
そんな二人の様子を眺めていた真衣は段々と笑いが込み上げ、堪えきれず小さな笑い声をあげてしまった。
真衣の珍しい姿に二人は争いの手を止め、キョトンとした顔を見合わせる。
一人の笑い声だけが響くようになった部屋の中で――二人は柔らかい、安堵した表情を浮かべるのだった。
――――――――――
ひとしきり笑いきると、冷静な脳の部分では今回の件を整理し始めていた。
「そういえば博士。今回の依頼対象はやっぱり、自我崩壊を起こしてしまったんでしょうか?」
その言葉に先ほどまでの飄々としたジジィの雰囲気は也を潜め、少しだけ真面目な科学者としての博士が顔を覗かせた。
「うむ…儂もアキラの連絡を受けてから十分程で駆け付けたが、その時既に心象は崩れ去って依頼対象は蒸発。脳裏心象体のみが居座っておったの。まだ生まれたてで”管理者権限”も支配されきっておらんかったから助かったわい」
博士から突き付けられる『蒸発』という現実。
それはつまり依頼に失敗し、男の子を助けられなかったということに他ならない。
少しの沈黙が重苦しい空気を作り、まるで真衣を攻め立てるかのように重圧としてのしかかる。
罪悪感に胸が支配されかけたところで、ふと、小さな疑問が沸いてきた。
「ん?十分で来れたんですか?事務所からはどう頑張っても三十分はかかると思ってましたけど」
「え、あ~うん。お、おほん。あ~ほら、真衣に任せたとはいえちょっとばかし心配でな?まぁ儂も手が空いたところだったし近場に散歩しておったわけよ」
――珍しい
真衣に任せられる仕事は博士が事前調査を行い、危険度の低かったものを見繕ってもらっている。
だからこそ、今まで『任せた仕事が心配になった』なんて聞いたこともなかった。
確かに今回、イレギュラー的な重度の統合失調症と心象生物が現れたことで、多少危険度はいつもより高かったかもしれない。
だがそれでも、今までの業務範疇内から漏れる程のものではない。
ただ一点、心象切除後に自我崩壊が起きてしまった、最大のイレギュラーを除けば
いくら博士と言えど、自我崩壊の時期を完全に予見できるわけではないはず。
そもそも事前調査の段階でその僅かな可能性でもあったのならば、真衣に任せてくるはずもない。
「でもほんと、じいちゃん近くに居なかったら割とマジで危なかったよな~。ねえちゃんの精神が完全に沈んじゃった後じゃ、引き上げることなんてできないし」
「いや~ほんまそれな?じいちゃんの冴え渡る勘ってやつよなぁ。まぁ日頃から徳積んどるおかげか、ばあさんからの啓示があったってぇわけよ…」
またもやおちゃらけ始めた博士が南無のポーズをしながら、居もしない架空のばあさんに向かって感謝を告げ始めた。
その姿はなんともいい角度で鏡に反射した室内灯が後光のように差し込み、なんだか言いようのない”イラッ”を感じさせてくる。
――怪しい
この事件には何か隠された真実があると、家政婦仕込みの血が騒ぎだす。
こんなズボラな男の徳なんかより、余程女の勘の方が宛になる。
丁度その時…南無ポーズのままブツクサ喋っていたジジィの姿に飽きてきたのか、アキラが口火を切ることとなった。
「でもさ~。じいちゃんが診断ミスるなんて初めて見たよな~」
その言葉に、博士は南無ポーズのままビクッと肩をはねさせ、動きが止まる。
アキラが言葉を繋ぐ一瞬しかない合間にも、博士の額からは滝のような汗が滴り始める。
(ん?これは図星か?)
「ほら、じいちゃん今回軽度な統合失調症って話だったじゃん?ねえちゃんも心象の中で言ってたけど、結構重度っぽかったんだぜ?大変だったんだからなぁ?…ってあれ。じいちゃん、聞いてる?」
少しの間をおいても返答がなかったことで、「聞いてなかった」という最後の堤防すらもアキラによって取り壊された。
そうしてようやく観念したのか、そのウザったらしい南無ポーズをやめるとそのまま揉み手ポーズへと移行したジジィ。
そいつは情けない声を出しながらも、聞き捨てならない言い訳をこぼし始めた。
「あ、いやぁ~ね?ほら儂、最近政府の依頼入っちゃって~手が離せなかったじゃぁないの。ね?それで~その依頼日程が重なっちゃって。現地調査する前に依頼日程になっちゃってたんだよねぇうん。あ、だから実はそれ、依頼主からの聴き取りだけで作った調査ほ――」
「「それを先に言わんかい!!!」」
二人の声が重なり、次の瞬間には鈍い衝撃音が部屋に響いた。
もはや言い訳の余地すらも必要なかろう。
判決は有罪。執行も即日。
姉弟のダブルキックがジジィの華奢な身体を同時に打ち抜き、吹っ飛んだ老体は空を舞っていた。
その威力は申し分なく、まるでギャグマンガのような吹っ飛び方をした博士は「面目ない~」という声の尾を吹き飛んだ軌跡に乗せ――開け放たれたままだったドアの外へと見事な身体ンクシュートを決めることとなった。
それを見送ったアキラは「フンッ!」という荒々しい鼻息を吐き、ドアを乱暴に閉め出す。
これにて、元凶となった罪人ジジィは島流しの刑執行完了である。
直後、情けない「あぁあぁぁ…」というか細い声と共に非常に控えめなノック音が響いた。
だがアキラはプイッとそこから顔を背け、仁王立ちで罪人の帰還を許さずにいた。
そんな弟の姿に――真衣の溜飲はほんの少しだけ、下がることとなったのだった。
「アキラ」
「ん?どうしたの?」
未だ仁王立ちを続けるアキラが少し身体を傾け、首だけでこちらを見やる。
博士は兎も角――今回はこんな小さな身体が必死になってくれたおかげで助かったのだ。
少しばかり…日頃からも伝えられていない感謝を告げたって、バチは当たらないだろう。
「ありがとね。私を助けてくれて。これからも頼りにしてる」
しばらくの間、アキラはポカンとした顔のままこちらを眺めていた。
だが、その意味が次第に溶け込んできたのだろう。
先ほど博士と取っ組み合いをしていた時にも負けず劣らずな赤面沸騰を見せ、わなわなと口は言葉を探し、小さな瞳孔を泳がせ始める。
「わ、ば…んな!ば、ばばバッカじゃねーの!!こんなの大したことしてねーし!!いやぜんっぜん!そうぜんっぜんねえちゃんの事心配してたとか!そんなことねぇし!!」
こちらに向き直りながら差した指をぷるぷると震えさせ、可愛らしいほど茹った深紅で少年はその頬を染め上げる。
「へ、へーんだ!その様子ならもう元気そうじゃん。ったく人騒がせなねーちゃんだなぁ!あー、マジで。マジで!時間無駄にした~!」
少年はそのまま捨て台詞を吐きながら乱暴にドアをあけ、後ろ向きに舌をベーッと突き出しながらこちらを威嚇してきた。
――あぁ、本当に。本当に素直じゃなく、生意気たらしい愚弟だ。
同じ血は通っておらずとも、この不器用で不完全な弟に棣鄂の情を捧げ続けると、ここに誓おう。
……そう。
唐突に開いたドアの隙間から顔だけを覗かせ、こちらの様子を伺うような邪気の塊とは違って…
ドア枠の端には、まるで『ムンクの叫び』から抜け出したかのような妖怪がこちらをガン見していた。
愛弟と入れ替わるように、その邪老は入室の機会を虎視眈々と狙っている。
そして幸運にもタイミングを見つけ出してしまい…ヌルリとその軟体に堕ちた身体を滑り込ませようとしてきた。
だが、その望みは儚くも潰える。
義父の存在など露ほども気づかなかった息子の手によって、開かれたドアが「バシンッ」と叩き閉じられたのだ。
シンッと静かになった部屋の外では、扉に張り付いたままの”気配”が残り続けている。
(……うん。あいつはもう少し、反省させることにしようか)
心に確固たる決意をした真衣は、未だ気配残る扉の向こうを意識の外へと追いやり、久方ぶりの惰眠へと身を沈めるのだった。




