■■■と真衣
懐かしい香りが鼻をくすぐり、私はゆっくりと目を開ける。
伝統的日本家屋を思わせる水墨画の描かれた襖に、繊細な木細工を飾る虹梁。
そして、開け放された床柱の先には見事な日本庭園。
田舎の屋敷を思わせる少し広い間取りの部屋と庭先が、ぼんやりと霞がかったように広がっていた。
畳敷きが放つ干し草と染土の香りを鼻腔一杯に拾い上げ、ゆっくりと肩を降ろしながら深呼吸をする。
知らない家財道具、記憶にない部屋、懐かしい香り。
ちぐはぐな感覚に少し戸惑いながらも、無条件の安心感に心は落ち着いていった。
しばらくぼーっと部屋を眺めていると…襖が静かに開かれ、一人の女性が入ってきた。
顔全体は白い靄が揺らめいて見えないが、それは見事な着物を着こなしている。
背丈は驚くほどの長身…いや、これは自分の目線が低いだけのようだ。
誰なのかは全く分からない。しかし不思議と、その姿には親しみを感じられた。
「■■?■■■■■■、■■■■■■■■?■■■■■■■■■■■■■」
女性の声は深海から届くかのように分厚いフィルターがかかっており、何を話しているのか聞き取ることができない。
でもその聞き覚えの無い声色からは暖かさばかりが心を絆し、感情が溢れかえりそうになってしまう。
女性はそのままゆっくりと、下に向けていた右手を挙げ、人差し指を向ける。
それは私の後ろを指さしているようだった。
その先を目で追うと背後に部屋の続きは無く、漆黒の世界が広がっていた。
漆黒の世界にはこれまた不思議なことに、一本の年季が入った右腕が差し出されている。
漆黒の世界に生えた、肘先からしかない腕。
違和感しかない光景だった。
しかしその見慣れた年季が入った右腕を、私は迷いなくがっしりと握りしめる。
細身な右腕はその見た目に反してがっしりと右手を握り返し、力強く引っ張り上げてゆく。
その瞬間――私の内懐に堅く結ばれていた後帯からは何かが抜け落ち、置いて行かれるような欠落を覚えた。
それと共に低かった目線は急速な成長を始める。
一瞬の成長はすぐに終わりを迎え、欠落した感覚も嘘だったかのように消えてなくなっていった。
年季が入った右手は水面に浮かび上がるような、ゆっくりとした速度で私を引っ張り上げる。
それは決して手離さない力強さがあり、同時に包まれるような抱擁力をも兼ね備えていた。
その安心感に、私の意識は次第にまどろんでいく。
”大切だった何か”はもう遠い過去となり、あらがえない流れに意識と共に霧散してしまう。
――それでも、私は……
――――――――――
カチッ……カチッ……カチッ……カチッ……
今時珍しい聞きなれた丸時計が刻む秒針の音と共に、真衣は目を覚ます。
築四十年は超えるであろう木造一軒家の天井に、涙ぐましい近代的シーリングライトとカーテンレースの装飾。
未だ目覚めない思考のまま、少ない脳のリソースがここを『自分の部屋だ』と認識する。
身体を起こしながらふと、ベッドの隣へと目を向ける。
そこにはいつもなら無い簡素なゲーミングチェアと、座る少年。
少年はマンガ本をだらしなく膝上に脱力し、眠っているようだった。
はねた癖毛。光に晒されるとほのかにグラデーションが入る程度の赤栗毛。
――そして、少し吊り上がった生意気な目元。
「…アキラ」
小さな声に反応した少年は「フガッ」という情けない返事漏らす。
そして起き上がった真衣を見て、驚いたように目をこすった。
「ね、ねえちゃん!!起きたのか!体調はどうだ!?待ってろ今じいちゃん呼んでくる!」
少年は一方的にそうまくし立てると、椅子を押し倒さんばかりの勢いで立ち上がる。
その小さな瞳孔で真衣の顔をサッと一瞬だけ確かめると、次の瞬間には「ドカンッバタンッ」という派手な音を立てながら部屋を飛び出してしまう。
そのままあまり厚くない壁の向こう側からは、文字通りの軽いドタドタ音が遠のいていった。
あとに残されたのは、無惨にも地面に犬神家することになってしまったマンガ本と、クルクル減速しながらも回り続けるゲーミングチェア。
真衣はその様子をただぼんやりと、意味もなく目で追っていた。
そうして視線を追っているうちに、段々と霞んでいた意識は焦点を取り戻してゆく。
「私…そういえば脳裏世界で――」
――記憶がフラッシュバックのように、一瞬にして恐怖と絶望を伴って蘇る。
身体は震え、嫌な汗が滴り落ち、とめどない戦慄の記憶から無意識の内に抱え込むような形で自分を抱きしめていた。
「フーッ……フーッ……」
恐怖によって荒くなった息が、正常な空気の循環を妨げる。
過呼吸となった身体は危機を察知して感覚が鋭敏となり、抱きしめられた腕の中から湿った温いものを見つけ出した。
それをきっかけとして、真衣は徐々に力を緩めていく。
そこには、体温によって人肌まで暖められてしまったぬるいおしぼりがあった。
おそらくアキラが定期的に額へと置き、看病してくれていたのだろう。
今はもうぬるくなってしまったおしぼりを手に、緩い力でぎゅっと握りしめる。
するとじわっとした心地良い湿り気が、指先から全身へと駆け巡っていった。
真衣はその感覚にただ任せていると、次第に心は平静さを取り戻し始めた。
「私、帰ってきたんだ…」
その言葉は実感を持って自分の耳へと届いた。
ピンッと張り続けていた緊張の糸は一気に緩み始め、移り変わった安堵が涙腺を刺激する。
とめどない感情の奔出に小さな嗚咽を堪えることができず…真衣はただ、その場で静かにうなだれるばかりだった。




