脳裏世界/物質世界
――今から十五年前。
一人の天才的科学者によって、この秩序立った物質世界の裏側にもう一つの世界が開かれる。
『脳裏世界』
特異点とも呼ばれた技術”窓”の開発により、人類は精神だけが存在する世界の観測に成功。
”窓”を通して人を見ることにより、その人が持つ考えや思想を理解することが可能となった。
その成果は精神・心理学を数世代先にまで推し進めると言われ、事実として多くの人々が抱えた問題を解決していくことになる。
精神疾患や精神哲学、そして犯罪心理を始めとした普遍的行動論理。
数々の精神学的難問と、混沌たる人間の思考に一つの解をもたらした”窓”は、『神の目』とすら呼称されるに至った。
だが、そんな躍進も長く続くことはなかった。
栄光の軌跡は一転し、その名を惨慄の記憶として人々の心に刻みつけていく。
きっかけは一つの研究テーマ『脳裏インターネット融合論』
SNSを代表とした人々の精神が表面化するインターネットと、精神のみが存在する脳裏世界。
その二つを題材とした研究テーマは当時、実現不可能と目されながらも密かな関心を集めていた。
インターネット上に脳裏世界を反映させることができれば、”窓”を通さずとも観測が可能となる。
それはつまり、これまで個人への観測を限界としていた技術が、不特定多数を対象に含むことも可能となるのだ。
これまで以上に膨大な情報量が得られることは、想像に難くない。
少なくない研究支援を受けたこのテーマはその期待に答え――いや答えてしまい、インターネットと脳裏世界はついに邂逅することとなる。
問題はすぐに浮き彫りとなった。
人々の悪意と感情がぶち撒かれるインターネットと、精神のみで完結する脳裏世界。
両者の親和性は、皮肉にも”理想的”すぎた。
脳裏世界は急速に影響力を拡大し、人々がその危険性を指摘する頃には既に、物質世界へと影響を出し始めていた。
始めは平均睡眠時間の増加という形で現れた。
しかしそれは留まるところを知らずに伸びてゆき、ストレス指数との相関関係を示すようになって初めて、脳裏世界の影響であることが分かった。
それと同時に行方不明者も増加。
その大多数が睡眠時間の極大化した休眠となった人々であることの調べがつくまで、そう多くの時間はかからなかった。
文字通りの『蒸発』
痕跡すら残さず物質世界での生が終わり、脳裏世界へと引き摺りこまれる現象に人々は恐れ、慄いた。
物質世界と表裏一体とまで成った脳裏世界は、インターネットという枠組みすらも超え、人間のストレスを糧に肥大化していってしまう。
脳裏世界の際限ない肥大化を抑止するため。
人々の蒸発を防ぐため。
物質世界と脳裏世界の境界に立ち、失われた精神秩序を守る者たち。
人々は彼らのことを『脳裏清掃員』と呼ぶ。
用語解説
●脳裏世界
精神が主体となった世界。物質が主体の現実世界とは対であり、その存在は十五年前に公となった。脳裏世界には大きく分けて個人心象と世界心象の二つがある。
●“窓”
一般的な窓とは異なり、特異点とすら呼ばれる精神を覗き見る“窓”を指す。その技術解釈は未だ一般的には不明であり、原理は分かっていない。物体としてはガラス片のような形をしており、“窓”を通して人を覗き込むことで人の精神を見ることができる。応用技術がいくつも開発されている。世界的にも類を見ない程有名な発明のはずだが、開発者である天才的科学者が誰なのか、文献すらも残っていない。
●脳裏インターネット融合論
十五年前に発案された、数多くある“窓”に関する論文の一つ。多くが解釈困難な技術を前に頓挫する中、多くの研究支援を受けることで実現させてしまった災厄の研究テーマ。問題が浮き彫りになり始めると共に世間の目も厳しくなり、戦犯扱いすら受けることとなった。研究チームは既に解体され、消息を絶っている。
●休眠
過剰なストレスによって心が歪み、極限状態となった者が陥る身体的異常。心理的負担によって睡眠時間が徐々に伸び、最終的には目を覚まさなくなってしまう。現在では『睡眠評価レベル』として五段階の評価基準が設けられている。
●蒸発
人が忽然といなくなってしまう現象。現在ではそのほとんどが休眠へと陥った人々に起きるため、脳裏世界と関連性の強いことが分かっている。蒸発した者が元に戻ることはなく、故に早期の対応が脳裏清掃員に求められる。
●脳裏清掃員
脳裏世界における様々な事象に対応すべく、正式な職業として認められた者達。国直轄の脳裏対策局を除いて大抵の者は個人事務所を構えているか所属しており、一般の人々から依頼を受けて個人心象に潜る。世界心象での仕事は国によって一元管理されており、政府から個人事務所に依頼されることもある。とても危険かつ“適正”が必要なため、その数は極めて少ない。




