11*
仕事が一区切りして息を吐く。
ふと視線をずらし机の端に置かれた茶器と菓子を見つめれば、出された時には湯気を立てていた茶は少し冷めてしまっていた。
「……遅いな」
用事を言いつけ文殿にやってから数十分。普段ならばもう戻っていていい頃だ。
「………」
そこまで考えて頭を抱えたくなる。
何が遅い、だ。まるであの女が手伝うことが当然のような物言いではないか。
馬鹿らしくなって一気に茶を呷り菓子を咀嚼する。
……冷めても美味いと感じてしまうのが少々――いいや、かなり癪だった。
残りの仕事に手をつけようとしても必要な資料がないのでは片付ける気も起きない。仕方なく別の物を漁ろうとして手を止める。
――むしろこれは、好機なのではないだろうか。
現在補佐官見習いとして自らの下についている女はまだ戻らない。これはある意味立派な怠慢であり、それを俺が咎めることは上官として当然の事だ。少々強引な気がしなくもないが、そこには目を瞑ろう。
そうと決まれば話は早い。
立ち上がり、面倒ではあるが柳栄のもとへ。視界の端に空の茶器が映ったが、それには見ないふりをした。
「柳栄、いるか」
恐らくこの時間は最低限机仕事をしているだろうと踏んではいたが、その予測は当たっていたらしい。
書き物をしていた奴は顔を上げ、返事も聞かずに入室した俺を認め眉を上げる。
「あれ、珍しい」
「邪魔をするぞ」
普段俺の室で柳栄がしているように休憩と来客用を兼ねた椅子に座れば、ここぞとばかりに目の前の男は仕事を放りだして対座した。これだから俺にばかり書類仕事が回ってくるのだ。
だが今はその話ではない。説教したいのはやまやまだが仕方なく目を瞑る。
「柳栄、あの女を補佐官から外せ」
「あはは、どうしたの藪から棒に」
「どこがだ。同じことを何度言ったと思っている」
「まあそうかもね」
飄々と俺の言葉を認め、柳栄は不思議そうに首を傾げた。
「でもさ、わざわざ俺の室にまで来てそれを言うなんて、何かあった?」
「木簡の配達から戻らん。もう文殿にやってから二十分は経過している。これは職務怠慢なのではないか?」
俺の言葉に奴は半眼になりため息を吐く。そうしたいのはこっちだ。
「あのさ、一時間とかならともかくそれくらいで職務怠慢はないから」
「それは俺とて分かっている。
だがあの女、恐らく使いの最中何かしているぞ。この間も頭に葉をつけていたしな」
「葉を?………あー。あれね…」
苦々しい表情をする目の前の男は何か心当たりでもあるのだろうか。
乱暴に頭を掻きじっとりと俺を見つめてくる。まるで俺が悪いかのような視線だが、どう考えても俺は無関係だろう。
「あれについては玲湶に非は無いよ」
「……お前、前から思っていたがあの女に肩入れしすぎていないか?」
「お、ヤキモチ?」
「真面目に聞け馬鹿者」
本当に疲れる奴だ。だから仕事でもなければここを訪れるのは嫌だというのに。
それに耐え足を運んでも結果がこれだ。しかし最早諦め席を立とうとしたその瞬間、柳栄の雰囲気が真剣味を帯びる。
「矜牙ってば、どうしてそう玲湶を認めようとしないかなぁ。仕事も出来るし強いし、これ以上ない人事だよ?」
「…いい加減誤魔化すな。お前は分かっているだろう」
目の前のこいつは俺の全ての事情を知っている。
他の者達のように事実の断片や、事実無根の薄っぺらい虚偽などではなく、全ての真実を。
ならば俺があの女を拒む理由も十分わかるだろうに。
「他人のことが信用できない、だっけ?そういやそんなこと言ってたね、君は。
でもそれで言ったら俺とか、他の火鉾の武官達はどうなの?」
「………分かっていることをわざわざ聞くな、馬鹿者。
お前はまあ、曲がりなりにも気を許した仲だ。特に問題はない」
「わぁ嬉しい言葉」
「真面目に聞け大馬鹿者が。
そして他の者達とは実際のところ関わりは薄い。精々が一日の業務報告や鍛練時の会話、長くて数日で済む討伐の軍議と護衛程度だ。
だが補佐官は違う。火鉾の武官としては構わんが、四六時中傍にいられるなど御免だ」
友人である柳栄だとて長く共に過ごすでもなく時折関わる程度。その距離感が俺にとっての最良だ。
最低限他者と関わることなく、静かに日々を過ごしていく。それが俺が己に課したもの。
だがあの女が補佐官としてつけばその均衡が崩れてしまう。
「ふーん」
だが柳栄は意味深に笑みを深め、ただそう呟いた。
苛立ちと同時に微かな違和感を感じ俺がそれを問いただす寸前に、奴は再び口を開く。
「何だか矜牙、らしくないね」
突拍子もない言葉に俺は眉をよせた。
「どういう意味だ」
「うん?そのままだよ。いつもの君なら、そんな風に視野を狭めない。
もっと多方面から事態を見て、理路整然と理屈を並べて俺に意見するでしょ。
そんな自分の感情だけで意固地になって否定ばかりを示すなんて、らしくない」
「……」
柳栄の言葉に、思い当たる節が無いわけではなかった。だがそれでも。
「あの女は五大家の――それも、朱家の人間だろう」
「それも矜牙らしくない。後々盛大に後悔するからやめておいた方がいいと思うけど?」
「……これ以上話しても無駄なようだな」
「それは俺もそう思う」
互いの意見は平行線だ。いや、柳栄の何かを含んだような物言いからいって奴の方にはまだ色々と思惑がありそうだが――情報が少なすぎる。それを読み取ることができない以上、これ以上は時間の無駄だ。
踵を返した俺の背に、柳栄からまた一言、声がかかった。
「矜牙」
仕方なく立ち止まる。
これ以上何があるというのか。何を言われたとして、俺の意見は変わらないというのに。
「もう少し見ていてもいいかと思ったけど、玲湶の効果が予想以上だからもうやめるよ。それに玲湶も大変みたいだし」
俺には全く理解できない、したくもない内容をつらつらと述べ、柳栄は一言俺に命じた。
「ここから君の室に戻るとき、武殿の西側通路を通って行くといい。面白いものが見られるからさ」
「……誰が通るか」
「これは上司命令だから従わないと駄目ですー。まあそういう訳だから、よろしくね」
「何がだ!」
苛立ち紛れに音を立てて室の戸を閉めてから舌打ちする。だがそれでも足が西側へと向かってしまうのは――別に、命令だからだ。
それにしても何だ、あの女の効果というのは。俺は別に何一つ変わらないし、変わるはずもない。
あんな女一人がいたところで俺が揺らぐはずもなく――いいや、それでは女を補佐官と認めない理由と矛盾してしまう。だが認めることも癪だ。
大体大変などと、それでも諦めない向こうが悪い。確かに意味もなく…と言うか必要以上に動かせたり言葉をかけなかったりしてはいるが、文句を言わないあちらがいけないのだ。
俺が茶をのみ休憩している間もなんだかんだと動いているのには、俺だって少しは……………だから、何か文句の一つでも言えばいい。
そうすれば俺とて鬼ではない。少し体を休ませるくらい……いや、何を考えているのだ。
それに絶対にあの女は配達の最中に何かしている。昨日の木の葉などがいい証拠だ。
戻りも少し遅くなっているし……いや、元々があり得ない程速すぎたのだから、むしろこれでいいと言えばいいのだが。
「……って、いい訳がないだろう」
自分の思考に自分で苛立ってつい呟く。あぁくそ、本当に調子が狂う。
「………、…が………う…?」
そんな時向かう方向から声がして、俺は眉をひそめた。
西側は武器庫などが多く、また文殿などの他の建物とも距離があるためここを歩く者は滅多にいない。しかし声を聞く限りこの先には少なくとも複数の人間がいるようだ。
柳栄が言った面白いもの、というのはこれのことなのか。
分からないがともかく俺の存在に気づかれることのないように息を殺す。まあこれも上位の武官ならば意味のない行為となってしまうのだが。
「昨日もその前もちょこまかと逃げやがって、俺達をコケにするのもいい加減にしろ」
あまりいい気分にはならない男のがさつな声。
喧嘩か。そう思い止めようとして、囲まれている人間の持つ特徴的な銀につい柱の陰に隠れた。
改めてバレないように窺えば間違いなく俺の補佐官見習いの地位についているここ数日間で見慣れてしまった顔があった。
何をしているんだと、思わず苦々しく思う。と言うか、柳栄の言っていたのはまさかこれか?
見たところ火鉾所属ではない他の隊の尉官五人に囲まれているあの女は、第三者である俺の目から見ても明らかなほどの侮蔑と嘲笑に晒されていた。
「何とか言ったらどうだ?」
「だんまりかよ。怯えた顔もしねぇで澄ましやがって」
女の背後から石が飛ぶ。
それを見もせずに一歩横にずれて手で石を叩き落とした女は普段通りの無表情だった。
傷がついたのだろう、その手から僅かに血が流れてもその顔が痛みを示すことは無い。
「私は仕事中だ。それ以外の事にかまけている暇はないと、以前言ったはずだが」
―――以前。
そして先程男の一人が言った、昨日もその前もという言葉。
「お高くとまりやがって。家の力で今の地位を手にした癖になぁ?」
「あの朱家だもんなぁ?」
ゲラゲラと耳障りな笑い声が回廊に響く。
家の力などと、女はきちんと地位に見合う実力を持っているというのに。
だがそんなものより余程、後に続く言葉が悪意を纏って静かな回廊に響き俺は息を呑んだ。
「でも捨て子の身分で大したもんだよなぁ?どうやって当主に取り入ったんだよ」
「朱姓を名乗ってるのが薄汚い浮浪児なんてな。ホント、笑えるったらないぜ」
「その卑しい血が今じゃ朱家長姫だ、よかったなぁ、拾ってもらえて」
捨て子。浮浪児。卑しい血。
それに対して女はちらとも反論する様子を見せなかった。ではそれは、真実だということか。
不意にいつか柳栄と永莉が言っていた言葉が蘇る。
――玲湶は周囲に傅かれるの全然慣れてないよ。
正直軍内で上官として周りの人間から敬われるのも居心地悪いんじゃないかな――
――玲湶様は外の者が何を言おうと間違いなく我らが朱家の長姫――
それらはまさかこの事を示唆していたとでも言うのか。
ぐるぐると思考が回る。
その間にこれ以上この場にいても時間の無駄とでも判断したのか、それとも向けられる悪意を厭ってか、女が立ち去ろうと足を動かしかける。
「でもよぉ、今代の朱家当主も、なぁ?」
だがその言葉に、女の足はピタリと動きを止めた。
「親が不審な死を遂げて、弱冠十二で当主だろ?」
「なんかあるんじゃねぇかって、今でも噂だよな。
それに太子とも親しいんだ。他人に取り入るのが上手いんだろうな、捨て子と一緒で」
「おいおい、相手は宰相様だぜ?首ちょんぎられるぞ?」
「違いねぇな」
聞いているだけで胸が悪くなる言葉。それも本人のみでなくその家の者にまで。
流石にこれ以上黙って見ていることも出来ずに柱の陰から出ようとして、次に響いた声に動きが止まった。
「………黙れ」
普段の澄んだ声とは比べ物にならない音に、俺はそれが女から発せられたものだと理解するのに時間を要した。
「お、何だよ怒ったのか?」
「そりゃ飼い主を馬鹿にされればな。どうせ体も飼い主様に捧げてんだろ?」
「あはははっ、俺も混ぜてほしいな、そりゃ」
「このお綺麗な顔がよがるとこを見てみてぇもんだぜ」
「そりゃあ当主も拾って手放さない訳だ」
「他の奴ともやってんじゃねぇの?将軍とも親しいんだろ、なぁ?」
「はははっ、朱家門下ともやってるかもしれねぇぜ?」
「すげぇなおい、生まれが違うだけあるってことだ」
女の様子をどう勘違いしたのか更に調子づく男達。それに返ったのは圧倒的な殺意だった。
「黙れと言っているのが聞こえないのか、下種が」
ミシリと、建物が音をたてたのは俺の幻聴か。
こちらに背を向けている女の表情は見ることが出来ない。
その容貌は今怒りに燃えているのか、それとも依然として凪いだままなのか。
だが天術しか能がなく武術の心得を持たない俺では、この空気の中ろくに動くことも出来そうにない。―――いいや、それは男達も同様か。
「ヒッ……!」
一様に怯えを見せる男達。そのうちの一人に近づいて、女はその胸倉を乱雑に掴む。
「……今まで私は、私に対する言葉にはどれも目を瞑ってきた」
まるで囁くようだというのにしっかりとこの場にいる全員に届く、昏い声。
「仕事の邪魔をするように道を阻まれても、今日の様に石を投げられても私はそうした。
それは私にとってその程度の事だからだ。それこそさっきも言っていたな。拾われた卑しい捨て子と。そうだ。その通り。だが……私が朱家に拾われて、何年経つと思っている?この程度の事は今更どうということも無い。もう慣れた」
正統な血をひかない、どこの誰とも知れぬ子供が貴族――それも五大家の直系として迎え入れられる。
それに伴ういくつもの出来事が女を襲ったのだろう。それは想像に難くない。
だからこそすべて流すことが出来たというのか。まるで何も感じていないように、その片鱗すら見せず。
「けれどお前達はひとつだけ、してはいけないことをした。
朱家を愚弄すること、我等が当主を軽んじること。
私は私をどう扱われようと興味の欠片も持たないが、朱家に対しては違う。
いっそここで殺してしまいたいくらいだが――職務中だ。さっさと失せろ。そして、次は無い」
次の瞬間には女ははじめと同様乱暴にその手を離した。
間近で怒りをぶつけられた男はそのまま座り込み、周囲を囲んでいた者達も恐れたように女を窺っている。
それに一切の興味を抱いていないような平坦な声で、女はもう一度繰り返した。
「失せろ」
それを皮切りとしたように男達は一目散に走り去って行った。
後には陰に身を潜めたままの俺と、相変わらず立ち尽くした女だけが残される。
だが、俺はこの状況でどうすればいいというのだ。
今までの話で分かってしまった。柳栄が俺に向けて放った数々の言葉の意味が。それを知ってのこのこと顔を出せる程俺の面の皮は厚くない。
「………お見苦しいところを、お見せしました」
だが、そう言えば目の前の女は志宇も敵わない実力を持つ武官なのだ。
ならば先程までいた尉官達のように俺の気配を察することが出来ない訳はなく。
こちらに背を向けていた女は目を見張る程のスピードで振り向き膝をついて頭を垂れる。
「……別に、構わん。顔を上げろ」
「いえ。軍師がおいでになられていたことはとうの昔から分かっておりましたが、相手に冷静に対処することが出来ず不快な思いを」
「それはお前の方だろう……いや、いいから、顔を上げろ。立て」
「………このままで、お許し下さい」
どうやっても女が立ち上がる様子は見られなかった。
だが今回の事に――いいや、今回の事にも、女に非はない。
それを自覚したばかりの俺にとって頭を下げられたままの会話は苦痛でしかないものだ。
「では俺もそうするか?」
「……っいえ、何をおっしゃられますか」
「お前が立たんのだから仕方がない。それが嫌ならさっさと立ってこっちを見ろ」
「………かしこまりました」
強要するようになってしまったが、女は諦めたらしい。
ゆっくりと立ち上がって顔を上げる。その時普段との僅かな、けれど確かに存在する差異につい眉をあげた。
「………お前、瞳が…?」
まるで隠すように伏せられた瞳。普段はまっすぐにこちらを見つめる菫色だったはずのそれは、今では炯炯と輝く橙に染まっている。
俺の指摘に女はすぐに瞳を手のひらで覆い俯いた。
「お見苦しいものをお見せしてしまい申し訳ありません」
「……おい、まさかさっきああしていたのもそれを気にしての事か?」
「はい。どうにも感情が強く波打つと色が変わってしまいまして…すぐに元通りになりますから、お目汚しとなりますがそれまで……」
女の言葉は心底自らの瞳の色を醜く異常なものであると思っていることが伝わってくるものだった。
確かに感情で瞳が色を変えるなど聞いたことは無いし、不思議な輝きを放つその瞳は少々目立つかもしれない。だが、俺にしてみればそんなものはどうという程のものでもなかった。
「お前は俺がそんな色程度で他人を判断するような人間だとでも言いたいのか?」
「いえ、その様な事は決して…!ですがやはり気味が悪いですし、進んで見たいと思うようなものではありませんから」
「そんなものに構う程俺は暇ではない。己の補佐官の目が紫だろうと橙だろうとその両方だろうとどうでもいいだろう」
俺からすれば至極尤もな事を告げれば、女は心底驚いたように俺を見つめた。
大体今はそんな事よりも大事なことがある。
「とりあえず室に戻る。行くぞ」
「……は、い」
まだ呆然として瞳を瞬かせる女を連れ、俺はともかく出来る限り早足で軍師の室へと向かった。
これまでの話を少し手直ししました。
一番修正を入れた部分は管鮑の交わり1で、それ以外の話の大まかな流れとしてはそのままですし、登場人物に対しても変更点はありません。




