10
その後は自分でも酷かったと思う。
感情が波立たないよう色々と抑えていたせいで普段に輪をかけて無表情だっただろうし、ミスこそしていないものの注意散漫であまり誉められた態度ではなかっただろう。
夕刻の鍛練は高位の(中佐以上だと聞いている)武官のみ仕事があれば顔を出さなくてもいいようで、文書の作成が終わらなかった矜牙軍師に付き合い私も出ることはしなかった。
そして今、今日のことを反省しつつ我ながら情けない足取りで外朝を歩いている最中である。
今夜は祠苑様も早く帰ると天術で連絡があったから、私もすぐにでも朱邸に戻り食事の準備をすべきなのだけど……どうにも、そんな気も起きないほど落ち込んでいるらしかった。
軍師に情けないところを初めて見られたというのもあるのかもしれない。
今までは一応、際どいところではあるかもしれないけれど色々と体裁は保てていたと思う。けれど今回ばかりは……
「はぁ……」
「はぁ……」
…………?
自分のものと同時に吐き出されたらしいため息に首を傾げつつ顔を上げる。
前を見ずとも気配で分かるから下を向いたまま歩いていたけれど、さっきの声は――
「やっぱり、陽峻」
向こうも自分以外のため息の主を探していたらしく、斜め後方から声をかければすぐに緑の瞳がこちらを映す。その表情は私が言えることでもないが物憂げだ。
小走りにかけよって隣に並ぶと、それも笑顔に変わったけれど。
「玲湶さん」
「今帰り?」
「そうなんです。玲湶さんもですか?」
「うん」
……なんだかとても久し振りだ。
それに、陽峻がなかなか気を抜けない軍ではなく、省に属する者だからだろうか。気を張る必要がないと思うだけでかなり気楽な気分になる。
現金なものだが先程までの重苦しい自責の念も薄れてきた。
「なんだかすごく久し振りですね」
そう思っていたところに全く同じことを言われてつい苦笑する。
「私もそう思っていたところだ。同じ敷地内で働いているのに、全然会わないから」
「まあ俺は殆ど武殿には行きませんから」
それはそうだろう。文官が武殿に来るなんてあり得ないと言っていい珍事だ。
それにしてもそう言えば――
「武殿に立ち寄らないのはともかく、陽峻は進士期間どうしているんだ?
他の進士と同じ様に幾つかの部署を回っているの?そのわりに姿を見ないけれど」
もしそうなら私が文殿を訪れた時に少しくらい見かけてもいいはずなのに。
そう思い聞いてみたのだが、その瞬間陽峻の表情がどっと疲れたものになった。
……悪いことを聞いてしまったらしい。
「……えっと、聞いたら不味かっただろうか」
「いえ、そうじゃないんですけど……はは…」
乾いた笑いにいよいよ心配になる。これは相当疲れているらしい。
「……実は進士期間の間、ずっと祠苑宰相の補佐官見習いとして傍に仕えることになりまして」
補佐官見習い。
ずっしりとその言葉が私にのし掛かってきて、一気に疲労感が襲った。
「……れ、玲湶さん?何だか遠い目になってますよ?」
「いや、気にしないで。それで、祠苑様の補佐官見習いだろう?」
「あ、はい。それでまあ、俺は新人という事もあってやっぱり使えないんですよね。
今日も大した手伝いも出来ず迷惑をかけてばかりで……すいません、愚痴になっちゃいました」
謝罪に首を横に振る。
それだけ大変なのだろうし、何だか同じ様な境遇に他人事とは思えない。
「私も似たようなものだよ。今日、軍師に情けないところを見られてしまったんだ。
普段もあまり役に立てていないから、未だに軍師付き補佐官見習いのままだし…」
「あはは、祠苑宰相が怒ってました。矜牙軍師でしたっけ?見る目がない、とか」
「祠苑様は………。まあ仕方ない事なんだ。軍師は凄い方だし、そんな人に私みたいなヒヨッコを認めてもらおうなんてことがそもそもの高望みだし」
「いえ、そんなことはありませんよ!」
私の情けない弱音に、陽峻は目線を強くして否定を返してくれた。
「玲湶さんは頑張ってますし、凄い人です。だからいつか認められる日が来るに決まってます」
「…ありがとう。でもそれは陽峻もだと思う。
最初は駄目でも、努力して段々出来るようになればそれで構わないと祠苑様もよく言っているから、きっと祠苑様も待っていてくださるんじゃないかな?」
「そう、ですかね……玲湶さんに対してだけなんじゃ」
思わぬ言葉につい瞬く。そして笑ってしまった。
「まさか」
「そうでもないと思いますけど…でも、頑張ります。
玲湶さんも頑張りましょう。それでお互い認められたらお祝いしましょう!」
「ふふ、いいかもしれない。何か食べに行ったりしたいね」
陽峻とは科挙で出会ったから、一緒に出掛けたりしたことがない。
と言うか今まで同年代とそういうことをしたこと自体なかったからその提案はとても魅力的で、私にとってかなりの動力源となった。
「決まりですね!あまり邸から出ないと宰相が言ってましたし、街を案内しますよ」
「……別に、全く出ない訳では」
「確かに食事の準備だとかで市には出かけるらしいですけど」
「…詳しすぎない?」
確かにその通りではあるのだが。
「宰相が言ってるんです」
「……………」
何も言い返せなかった。でもそれを置いても陽峻の申し出は嬉しいものだ。
「じゃあお言葉に甘えさせてもらう。楽しみにしているよ」
「お互いその日を早く迎えるために頑張りましょうね。
……それと、ひとつ聞きたいことがあるんですけど、いいですか?」
表情を真剣にした彼に私も楽しみな気持ちを一度落ち着かせる。
何だろう。とても深刻そうだけど。
「構わない。何?」
「えっと、やっぱり祠苑宰相が腹立たしそうに仰っているのを聞いたんですけど、軍内で玲湶さんへの風当たりが強いと。……大丈夫ですか?」
……何も話していない筈なのに、色々と知っている祠苑様がむしろ怖い。
まあその手段は何となく察している。たぶん私の【影】から聞き出しているんだろう。
五大家や位の高い貴族はそれぞれ小飼いの影を持っている。
彼らはよく訓練された隠密だから、私も気配を常に感じとるのは難しい。精々が今いるかいないかをうっすら悟る程度だ。
ちなみに今は傍に影はいない。たぶん陽峻と会って話しているから、遠慮してくれているのだろう。
それに護衛のために傍につけている祠苑様とは違って、私は精々が襲われた時の援護、他は情報収集のためだ。常日頃から傍におく必要はあまりなかった。
「今のところそれほど実害はないから心配ないよ。
少し浮いてしまっているなと思う程度だし、同じ部隊の火鉾の武官達は良くしてくれているから」
「俺の聞いた話と違うんですけど」
一体どんな話を聞いているのか。気にはなったが、精神衛生上悪いような予感がしたのでやめておいた。
「気のせいじゃないか?それより私も陽峻のことが心配だ。
軍師が処理した木簡を文殿や紅殿に運んでいるから、これで色々噂が耳に入ってきている」
陽峻は優秀で、貴族でもないただの民だ。最上級貴族も面倒な身分だけど、貴族でないというのもそれはそれで似たような苦労がつきまとうらしい。
「上官である祠苑様以外からも必要もない仕事を押し付けられていると聞く。
どこぞの体格のいい中年官吏とか、財のある若手官吏とか、家柄がいい同期の進士とか。
そのせいで祠苑様に任せられたこともしにくいんじゃない?」
「……あれ?玲湶、さん…?」
「?どうかしたの?」
何か恐ろしいものを見るような目で見られ、おかしいことを言っただろうかと首を傾げれば逆に陽峻の方が戸惑った様子でいる。
大体合っているはずなんだけど、間違えていただろうか。
「いえ、何でもありません。そうですよね、俺の空耳ですよね……たぶん祠苑宰相と一緒にいすぎてそう聞こえたんだと思います。
玲湶さんがそんなこと言うはずありませんし、うん、なんでもないです」
何故祠苑様の名前が出てくるのだろう。
何やら酷く納得した様子の彼に再び首を傾げる。
「気にしないでください。
それにしても何でそんなに詳しく知っているんですか?流石に配達で歩いているだけではそこまで分からないと思うんですけど」
「……耳はいい方なんだ」
不思議そうにする陽峻にはとりあえずそう言っておこう。
……私も祠苑様のことをとやかく言えないかもしれない。影にいくらか探らせた結果だし。
勿論いつもこんなことをしている訳ではないし、歩いていて耳にしたというのも本当だ。
耳にしたから、事実なのかを確かめるために探らせただけである。
「…何だか怪しいですけど、納得しておきます。心配してもらったことは嬉しいですし。
でも心配いりませんよ。この程度のこと自分でどうにかできないと、宰相補佐として認めてもらえそうにありませんし」
「でも不当な扱いを受け入れるのはよくないと思う。
そんなだからなめられるって、私もよく言われてるんだ」
基本的に陵亥に。
それに祠苑様も使えない人間はそのまま降格させるか切り捨てるかしたいだろう。
「そんなことを言ってくれる人がいるんですね。ちょっと安心しました。
玲湶さんは頑張りやさんですし、無理をしていないかとか俺も宰相も心配が絶えませんから」
「大丈夫だと言っているのに。貴方も祠苑様も、心配してくれるのはありがたいけれど、私はそんなに信用がないか、頼りないのだろうか」
「あはは、そういうことじゃないんですけど、似たようなものです。
玲湶さんの大丈夫はあんまりあてにならないって、宰相がよくボヤいてますし」
「…………」
一体祠苑様は職場で何をしているんだろう。
何だかとても心配になると同時に陽峻に対して申し訳なくなる。
「そんな顔しないで下さい。祠苑宰相は家族が心配なんですよ」
「家族……」
それはそれで勿体無い言葉だ。
「と言うか、今は陽峻の話をしていたはずだ。私のことはいい」
「あ、バレましたか?」
「………何だか、安心してきた」
「え?」
この感じ、陽峻は着々と祠苑様の影響を受けているらしい。ちょっと腹黒さが見え隠れしている。
本人はきょとんとしているけれど、実感がないのだろうか。
「まあ気にしないで。陽峻なら大丈夫だと感じただけだ」
「さっきの会話のどこでそう思ったのか全く分かりません」
「本人からしたらそういうものなんだと思う」
陽峻は着実に大官への道を歩んでいるということだ。
祠苑様の直属の部下として働いているんだから当たり前のことだけれど。
……でも、祠苑様の影響を受けすぎて陽峻が彼のようになってしまったらと思うと、少し不安だ。
「ただいま戻りました」
あれから道すがら仕事についてや上司について、そしてお互いについても色々と話していたらつい遅くなってしまった。
私は体力づくりのためとそもそも天術の扱いが不得手なこと、陽峻は貴族ではないことから二人とも外朝への移動手段は徒歩だ。話に熱中すればするほど、自然と歩みも遅くなってしまう。
気配を探る限り祠苑様は既に帰っているようだから、急いで食事の準備をしなければ。
「お帰り玲湶」
「……どうしたんですか?」
失礼だが、つい返事も忘れそう問いかけてしまう。
出迎えてくれた祠苑様の手には大根。
なんと言うか、顔が整っていてもやはり似合わないものは存在するのだと実感した。考えてみれば大根が似合う人はなかなかいないかもしれない。
陽峻も何だか違う気がするし、柳栄様は……微妙だ。陵亥が持っていてもおかしい、犀牙様は問題外、矜牙軍師は……考えることすら無礼に値する気がする。
「玲湶は最近遅くまであの軍師のもとに詰めているからな。私に何か力になれることは無いだろうかと考えてみたのだよ。今日の夕食は私が作るから、玲湶はゆっくりしていなさい」
そんなかなりどうでもいい考えは祠苑様の言葉にすぐに霧散した。
慌てて彼の手から大根を取り上げ首を横に振る。
「そんな、私のことは大丈夫です!全く疲れてもいませんし、祠苑様こそ休んでいて下さい」
「……やはり玲湶でも大根は似合わないな」
「祠苑様……」
全く同じ様な事を考えていたらしい彼に思わず脱力する。
でも似合っていなくて良かったかもしれない。似合うと言われても微妙だ。
「もう、ともかく私がやりますから」
「いや、それでは意味がない。
………そうだ、久しぶりに一緒に作らないか?そうすればお前もいくらか普段より負担が減るし、私もお前との時間を多く持てて嬉しい」
「食事の準備を一緒に、ですか?」
それは本当に久し振りの事だ。
私が拾われてすぐの頃、どうにかして祠苑様の役に立ちたくて、それでも無知な私は何もできなかった。
そんな私にすべてのことを丁寧に教えてくれたのが祠苑様だ。それは料理だってそう。
この邸には使用人の類いが一人もいない。
それは私が拾われる前からのことで、祠苑様が何から何まで他人に世話される事を嫌っているからだそうだ。
だから彼は料理が出来るし、繕い物や簡単な物の修繕まで、出来ないことはないのではないかと思うほど全てをこなす。
それ故その提案も不可能なものではないし、それに祠苑様と一緒に何かをするのはとても楽しくて幸せだから好きだ。
でも、祠苑様は疲れているのに、甘えてしまっていいのだろうか。
「……お前との時間を持ちたいと言うのは、私の我儘だ。聞いてもらえないか、玲湶」
私の迷いを察したのだろう、やわらかく微笑んだ祠苑様は私の頭を二、三度撫でた。
あたたかい手と言葉。そうされれば私はそれに抗うことはできないし、そうする気も起きはしない。
「……はい」
素早く官衣を自室で脱ぎ捨て厨へ向かえば、私が帰ってくる前にいくつか作り終えた品もあるらしい。
汁物はもう火からおろされているし、主品は最後の仕上げ程度、あとやるのは添え物などの簡単な料理ばかりだった。
「ごめんなさい、祠苑様にこんなに…」
「気にしなくて構わないよ。
本当はお前が帰ってくる頃には全て作り終えている予定だったんだが、久し振りだったから少し手間取ってしまった。陽峻ともう少し話していてよかったのだが」
「………」
どうして私が陽峻と話していたことを知っているのか。
問うことも馬鹿らしくなって天井の一点を軽く睨む。そこから微かに慌てた気配がした。
「そう睨むものではないよ。私が聞き出したのだからね」
「祠苑様、あまり私の影から近状を聞き出さないで下さい。
それに陽峻から色々と祠苑様が私のことを話していると聞きました」
大根を桂剥きにしようとする彼の手から包丁と共に奪い取り代わる。刃物の扱いは得意な方だ。
祠苑様は苦笑して調味料の準備を始めたけれど。
「別に影からばかり聞き出している訳ではない。私自身耳にする噂だ。
それに外朝には朱家門下の者も多く勤めているし、今お前の傍には永莉がいる。情報源には事欠かないのだよ」
「祠苑様、開き直っても駄目です」
主な情報源は永莉か。
後であまり漏らすなと言っておこう。私と祠苑様の板挟みになればいい。
どうせ最終的には祠苑様に従うのだからあまり意味のない事だけれど。
「やはり玲湶はこのまま流されてはくれないか」
「勿論です」
つい唇を尖らせる。子供っぽいとは思うけれど、祠苑様の前ではどうしても出てしまう癖だ。
「だが私は可愛い妹が不当な扱いを受けているのを知って平静でいられる男ではないつもりだ」
「……も、勿体無いお言葉です」
妹。その響きはとてもこそばゆくて、私を戸惑わせる。
私の反応にむしろ祠苑様は嬉しそうに楽しそうに笑うけれど。
「いいや、ただの事実だ。だから玲湶、何かあったら私に言いなさい。
あの頭の固い軍師が嫌ならすぐにどうにかしよう。いや、その前に実害が出ている愚にもつかない屑達の始末が先か」
「し、祠苑様!大丈夫ですから!」
うっかり喜びで意識が飛んでいたのが悪かった。祠苑様ならやりかねないから怖い。
慌てて止めれば至極残念そうな顔をされて、それがまたこちらを焦らせる。
どうしよう。矜牙軍師を護衛である私が危険にさらすかもしれない。
「軍師は素晴らしい方で、私も尊敬しています。
陽峻とも話しましたが、認められる事が今の私の目標なんです。
それで地位を確固たるものにして、皆様に恩返しがしたいんです」
「まだそんなことを……私はお前とこうして穏やかに過ごしているだけで、あの日お前と出会えたことがとても幸運だと思うよ」
「いいえ、それでは私の気がすまないんです」
祠苑様の言葉は嬉しい。でもそれでは割に合わないと思うのだ。
だって一緒に過ごせて幸運なのはきっと私の方で、ならば祠苑様の受け取っている幸福より絶対に私の受けとるそれの方が大きい筈で。
「なので、頑張りたいんです。
……祠苑様に応援されると、もっと頑張れます。出来れば、その、そうして心配してくださるより、励めとただ言っていただければ、それだけで…」
「玲湶……」
野菜の皮を剥く包丁に視線を落としたまま小さく呟く。
顔を見ながらこんな甘ったれたことを言うなんて出来るわけがなかった。ただそのせいで、反応が遅れた。
「し、祠苑様!?危ないです!私は刃物を持っているんですよ!?」
慌てて包丁を体から離したから、突然横から私を抱き締めた祠苑様が傷つくことはなかったけれど、やっぱり危ないものは危ない。
けれどそう苦言を呈しても彼は全く聞いていなかった。
「私は本当にいい妹を持った…」
……いや、もしかしたら聞いていないふりかもしれない。
そう思っても、でも顔が緩んでしまうのは止められなかった。
「……私も、祠苑様に拾っていただけて、貴方の家族にしていただけて……こんなに、幸せなことはありません」
たぶん私の一生分の幸運は、このために使われたかもしれない。
だとしても構わないくらい、私は今とても幸福だ。
私にとって大切なのは祠苑様と朱家に関わる皆と、私を認めてくれる人達だけ。その人達のために私は生きていく。
――だからこそ、私の心はこの程度で波立たない。
「何とか言ったらどうだ?」
木簡の配達と、頼まれた資料の調達。
そのために文殿に赴き丁度武殿に戻ってきたばかりのタイミングで、また邪魔が入った。
最近になって何かと五月蝿い他の隊の、名も知らない武官達。どれも官衣の丈は短い者ばかりで、誰一人として大した位階は持っていないようだった。
だからこそ子供のような行いをするのだろう。こんな者達を柳栄様が高い地位におくなど、あり得ないことだ。
「だんまりかよ。怯えた顔もしねぇで澄ましやがって」
背後から石が飛んできた。これも毎回邪魔だ。避けることは造作もないが、回廊などを歩いていると窓を割りそうで全てはたき落とすか手のひらで受け止めるかしなければいけない。それに何の関係もない武官にまで流れ弾が行きそうで、だからこの間は木々を足場に移動していたのだ。木の葉がいい隠れ蓑になるし、他人は間違ってもいないから投げられたものを放置しても怪我の心配がない。
けれど今は人気はないとは言え武殿内。対処しておいた方がいいだろう。
一歩横にずれて手で石を叩き落とす。思ったより大きかった。
「私は仕事中だ。それ以外の事にかまけている暇はないと、以前言ったはずだが」
本当に面倒な人間達。おかげでまた遅くなってしまう。
昨日失態を見せたからには、同じことを繰り返す訳にはいかないと言うのに。
「お高くとまりやがって。家の力で今の地位を手にした癖になぁ?」
「あの朱家だもんなぁ?」
ゲラゲラと耳障りな笑い声が回廊に響く。
何と言われても特に怒りは浮かばなかった。私にとって大切な人以外の言葉は、風と同じだ。そばを通り抜けても何も残らない。
「でも捨て子の身分で大したもんだよなぁ?どうやって当主に取り入ったんだよ」
「朱姓を名乗ってるのが薄汚い浮浪児なんてな。ホント、笑えるったらないぜ」
「その卑しい血が今じゃ朱家長姫だ、よかったなぁ、拾ってもらえて」
いつまでも話を聞いたところで無駄なようだ。
毎回思うが、この男達は言葉と言うものが通じない。それにこのままここにいては通行の邪魔だろう。見苦しいものを見せてしまっている。
「でもよぉ、今代の朱家当主も、なぁ?」
立ち去ってしまおうと踏み出しかけた足はその言葉にピタリと動きを止めた。
「親が不審な死を遂げて、弱冠十二で当主だろ?」
「なんかあるんじゃねぇかって、今でも噂だよな。
それに太子とも親しいんだ。他人に取り入るのが上手いんだろうな、捨て子と一緒で」
「おいおい、相手は宰相様だぜ?首ちょんぎられるぞ?」
「違いねぇな」
醜い笑い声がここまで憎らしく感じたことはあっただろうか。
「………黙れ」
「お、何だよ怒ったのか?」
「そりゃ飼い主を馬鹿にされればな。どうせ体も飼い主様に捧げてんだろ?」
下品に瞳をギラつかせた視線が身体を這う。酷く不愉快だった。
「あはははっ、俺も混ぜてほしいな、そりゃ」
「このお綺麗な顔がよがるとこを見てみてぇもんだぜ」
「そりゃあ当主も拾って手放さない訳だ」
「他の奴ともやってんじゃねぇの?将軍とも親しいんだろ、なぁ?」
「はははっ、朱家門下ともやってるかもしれねぇぜ?」
「すげぇなおい、生まれが違うだけあるってことだ」
そしてこれほどまでに他人を殺したいと思ったのは、久し振りだ。
何もこのタイミングでと、思わなくもない。けれど私の中でたぎる怒りと憎しみが殺意に変わり、どうしようもなく私の心は波立つのだ。そうして結局隠し通すことも出来ずに、醜い私が顔を出す。
「黙れと言っているのが聞こえないのか、下種が」




