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第二話 ハルの覚悟

1病室での目覚め

 消毒液の匂いがした。どこかで嗅いだことのある、冷たくて無機質な匂い。ハルはゆっくりと瞼を持ち上げた。天井は白い。朝の自室の天井とは違う、どこか冷たい質感の白だった。体が鉛のように重い。指先を動かそうとするだけで全身に微かな痛みが走る。とりあえず、生きているらしい。


「気づいたかい?」


声がした。ハルは首を動かして声の方向を見る。ベッドのそばにあった椅子に、一人の男が座っていた。黒い短髪。毛先にほんの少しだけ混じった紫色。整った顔立ちに穏やかな目をしていた。制服ではない。黒いインナーに見慣れない徽章のついた外套を羽織っている。


(誰)


ハルの口から漏れた声はひどくかすれていた。喉が渇いて張り付いている。


「大丈夫?水、飲むかい?」


男は尤もな質問を無視してサイドテーブルのコップを手に取った。ストローをハルの口元へと差し出す。ハルは素直にそれを啜った。冷たい水が喉を通り抜けていく感覚が少しずつハルの意識を現実に戻していった。


「ありがとうございます」


「まだ寝てていいよ。体は本調子じゃないだろうし」


男の口調は穏やかだった。知らない人間だが、おそらく敵ではないことはなんとなくわかる。


「あの暴れていたカッターの男は」


ハルが問うと、男は少しだけ目を細めた。


「ああ。あのカッターを持っていた人かい? 彼ならもう警察に引き渡したよ。心配しなくていい」


記憶が蘇る。夕暮れの商店街。悲鳴。迫ってくる刃。そして腹部を貫かれた熱と痛み。ハルは反射的に自分の腹部を触った。制服ではなく薄い病衣だった。その下の肌には包帯が巻かれているはずだった。


(刺されたはず)


確かにあの時、刺されたのだ。血が溢れて力が抜けていった。それなのに。


「なんで、治ってるの」


「傷はほとんど塞がってる。昨日の今日でそれだけ元気なら心配なさそうだね」


男は笑った。


「君の名前はハル、だよね?」


「なんでそれを」


「鞄に入っていた学生証で分かったんだ。あと住所も、ソラガオカ高校の女子生徒で児童養護施設 ひだまりの家で暮らす18歳」


(勝手に鞄を漁られた)


文句を言う余裕は今のハルにはなかった。それよりも気になることがあった。


「あのカッター。何だったんですか」


男の表情から少しだけ笑みが消れた。


「あれはね、神器だよ」


男は真っ直ぐにハルを見つめた。


「世界の仕組みを無視して命令を押し付ける、異常な力を持った道具のことだよ」


ハルはその言葉を咀嚼した。世界の仕組みを無視する。命令を押し付ける。あのカッターで壁を切り、地面を切り、自分の体を切り裂いた。確かにあれはただのカッターじゃなかった。


「僕の名前はアラシ。一応、そういうのを回収して管理する組織の人間だよ」


「組織?」


「SSA。セーフティング・セイクリッド・アーティファクト。長い名前だけど、要するに神器を取り締まる警察みたいなものかな」


アラシはポケットから何かを取り出した。黒いカードだ。表面には見慣れない紋章が刻まれている。


「昨日のニュース、見たかい? 駅前のビルが崩れたやつ」


「見ました。でもあれって」


「あれも神器のせいだよ。あのカッターの持ち主がやったんだ」


アラシは淡々と言った。


「君が倒した。僕たちが現場に駆け付ける前に町の人を救ってくれて、ありがとう。でもね、君はただの高校生、ノワキの捜索に時間をかけてしまい、現場でことが起きる前に間に合わなかった僕らに責任があるとはいえ、自分の命を投げ出すようなことはしないでくれ」


ハルは自分の手を見つめた。昨日の感覚を思い出そうとする。世界がスローモーションになり、ノワキの動きがすべて見えた。あの奇妙な力。自分の中に何かが目覚めた感覚。


「私はあの時、誰かの声を聴いたんです。そしてその声が聞こえた後、世界がゆっくりになって好きなように体を動かせて、」


アラシの目が少しだけ細まった。


「感じるんだね」


「はい。何かが……目覚めたみたいで」


アラシはしばらく黙ってハルを見つめていた。やがて小さく息を吐いた。


「君の中に宿っているのは、たぶん神器と同じ類いの力だよ。ただし道具じゃなくて、君自身の中にあるんだ」


「私自身の中に」


「詳しいことはまだ僕にも分からないんだ。ごめんね。だけどあのカッターと同じように、世界の仕組みに干渉する力を持っている。それだけは確かだよ」


アラシは立ち上がった。


「とりあえず今は休んで。3日後あたりになったら、また話の続きをするためにここへ来るよ」


それだけ言うとアラシは病室を出ていった。残されたハルは白い天井を見上げた。昨日までの自分には戻れない。そんな予感がしていた。


幕間 孤児院の院長


病院の個室に、穏やかな香りが漂っていた。

ドアが開くと、少しやつれた女性が立っていた。髪に白いものが混じり、長年の労働を物語るシワが目の端に刻まれている。


「院長先生」


ハルはベッドの上から体を起こした。


「ハル、大丈夫だったの? 連絡を受けて飛んできたんだけど、もう元気そうね」


院長は安堵の息を漏らし、ベッドの横の椅子に腰を下ろした。


「ご心配おかけしました。もう平気です」


「本当に? 包帯はまだ巻いてるのに」


院長の手が、そっとハルの手に重ねられた。その温かさに、ハルは小さく微笑んだ。


「あなたは小さい頃から、困っている人を見ると放っておけない子だったものね。変わらないわ」


「そう、でしょうか」


「ええ。」


院長は少し声を落とした。

「あなたは本当に強い子よ。でも、無理はしないで。私はあなたを、娘のように思っているのよ」


ハルは目を見開いた。いつも厳しくも優しく接してくれていた院長。けれど、ここまで直接的な言葉を聞いたのは初めてだった。


「……ありがとうございます」


ハルの目頭が熱くなった。


「でもねハル。何があっても自分を大切にしなさい。自分が死んだら、元も子もないんだから」


院長の言葉に、ハルは静かに頷いた。


「はい、気を付けます、、」


「気を付けますじゃない、どれだけ心配したか、」


院長は目を細めたがその表情は穏やかだった。


「さあもうゆっくりお休み。また見に来るからね」


院長は立ち上がり背中を向けた。


「先生」


ハルが呼び止めた。院長が振り返る。


「私、生きててよかったです」


院長は少し驚いたような顔をしてから優しく笑った。


「そうかい。それならよかったよ」


ドアが閉まる。静かな病室に戻った。

ハルは白い天井を見上げた。院長の温かい手の感触がまだ残っている。

(私には帰る場所がある。守ってくれる人がいる)

それが少しだけ心強かった。

*


2. SSAの扉


翌日。ハルは予想よりも早く退院することになった。傷はほとんど塞がっていた。医師も驚くほどの回復速度だったらしい。病院の前には黒い車が停まっていた。運転席にはアラシがいる。


「さ、乗ってくれ」


ハルは後部座席に滑り込んだ。車内は静かだった。街の景色が窓の外を流れていく。昨日まで見ていたはずの街がどこか違って見えた。


「どこに行くんですか」


「SSAの支部だよ。ここから車で30分ほどのところにあるんだ」


アラシはハンドルを握りながら答えた。


「心配しないで。ただ話を聞いてもらうだけだから」


言葉とは裏腹にアラシからはどうしてかはわからないけれど、どこか緊迫した雰囲気を感じた。


「ただ話を聞くだけなら、なんでそんなに緊張してるんですか」


ハルが言うとアラシは苦笑した。


「鋭いね。まあそうだね。君の力は普通じゃない。組織としても色々と確認したいことがあるんだ」


アラシの言葉にハルは黙った。自分の力。昨日の戦い。そして夢。頭の中には疑問が渦巻いていた。でも一つだけ確かなことがあった。もう元の日常には戻れない。車は市街地を抜け、郊外へと向かっていた。ハルの新しい物語が始まろうとしていた。


車が停まったのは古い洋館の前だった。街の喧騒から離れた場所にひっそりと建っている。外壁は白く、窓枠は黒。見た目はただの古い建物だが、どこか威圧感があった。


「ここがSSAの支部ですか」


「そうだよ。見た目は古いけど、中はしっかりしてるから」


アラシは車を降りると玄関の扉を開けた。中に入ると広いロビーがあった。大理石の床に高い天井。いくつかの扉が並んでいる。


「あ、アラシ。戻ったんだね」


声がした。ロビーの隅にいた男がこちらに歩いてくる。小柄な体に大きなフード付きの外套。長い前髪で顔半分が隠れている。淡い灰青色の目だけが覗いていた。


「ライ。彼女がハルだよ。昨日話したよね」


「ああ。例の子ね」


ライと呼ばれた男はハルをじっと見た。その視線にハルは少し居心地が悪くなった。


「あの、こんにちは」


「こんにちは。僕はライ」


ライの声は小さく少し震えていた。けれど目だけは真剣だった。


「ハルです。こんにちわ!」


ライは小さく頭を下げた。その仕草はどこか不安そうだった。


「さて、とりあえず会議室に行こうか」


アラシに促されハルは歩き出した。新しい場所。新しい人たち。胸の奥がざわざわする。でも不思議と足は前に進んだ。


会議室の扉を開けると、誰かが座っていた。


「君がハル?」


一人の女性?のような人物がこちらによって来た。黒髪のハーフツイン。茶色い目。白黒の地雷系風ブラウスに膝下スカート。外見はどう見ても女性だ、しかしなぜか声は低い。


「男の人?」


「まじ?俺のこと最初から気づいたやつ初めてだわ、俺はユキヤ、よろしくな」


頭が混乱しそうだ、最近はやりの女装男子?というやつなのか?なんにしても顔がとんでもなく整っている。

うーん、ちょっと嫉妬しそう。


「まあ、とりあえず座って。説明するよ」


アラシがテーブルの上の書類を叩いた。ハルは空いている椅子に座った。アラシが向かい側に座り他のメンバーも席につく。


「いきなり本題に写るけど、ハル、君の中に宿っている力についてだ」


アラシは真剣な目でハルを見た。


「僕たちが調べたところ、君の力は神器と同じ性質を持っている。ただし道具じゃなくて、君自身の中に宿っているんだ」


「私自身の中に」


「そう、今まで見つかった神器はすべて生物ではない何かしらの形を持ったものだった。でも君は違う。君自身が神器なんだ」


ハルは自分の手を見つめた。昨日の感覚。世界がスローモーションになり、すべてが見えた。このまえの戦い。自分の中に目覚めた力。恐怖はあった。けれどそれ以上に目の前の人をたすけたいという気持ちがあふれ出していた。


3. 交渉


「僕らは君の正体を完全に把握できていない。君の力は危険なのか、そして君は一体何なのか。君の中の力はどうなるのか。もし君が敵になった場合、僕らも止められないかもしれない」


会議室の空気が重くなる。


「だから君はSSAの管理下に置かれることになる。これは正式な措置だ。君は安全な場所で一生保護される。生活は国が保証する。でも」


アラシは言葉を切り、ハルの目を真っ直ぐに見た。


「二度と外には出られない。実質的な監禁だ」


沈黙が会議室を支配した。


ユキヤが小声で吐露する。


「酷い話だな。高校生の女の子に」


「仕方ないだろ。上層部はハルという存在を危険視している」


ライが俯いたまま言った。


「私、どうしたら、」


ハルは静かに言った。


「嫌」


顔を上げる。その瞳には決意が宿っていた。


「そんなの嫌!私は私が何なのかを知りたい!私の中のあの声が何なのか、この手で確かめたい。そしてこんなふざけた力で傷つく人がいて、私がそれ守れるなら、この力で人を、守りたい!だから戦わせてください。お願いします!」


ユキヤが目を丸くした。


「無茶言うな。君も見ただろう?あの人知を超えた力を。そもそも一般人がまともにやりあえるような代物じゃねえんだ。軽々しく人を守りたいだなんて、」


「知ってます。でも、私は逃げたくないんです。孤児院の院長への恩返しもできてないし、私の正体も分からないままで、一生箱の中に閉じ込められるなんて嫌です。そして、この力が誰かを助けられるのなら、そのためなら命だって懸けます。!」


アラシは黙ってハルを見ていた。


(なんだろう。この子から懐かしい雰囲気を感じるな……)


胸の奥がざわつく。遠い記憶。かつて自分が守れなかった人たち。戦場で失った仲間の顔が脳裏をよぎる。


(ああ、あいつらと一緒なんだ。強い意志を持った瞳。自分の運命を諦めない瞳)


アラシは小さく息を吐いた。


「分かった」


全員が顔を上げた。


「ハル、君をSSAの正式な隊員として迎えよう。ただし条件がある」


「条件?」


「高校を卒業するまでは普通に学校生活を送ること。その間、放課後に僕と訓練を行う。卒業してからが本格的な活動になる」


ユキヤが驚いた顔で言った。


「隊長、正気かよ? そんなこと上に言っても通してくれないだろ。だいたい、こんな少女を前線に出すなんて」


「僕が上に掛け合うから任せておいて」


アラシは穏やかに、しかし有無を言わせない声で言った。


「ハルの力は僕たちにとって大きな戦力になる。それに、彼女自身の意思を尊重するべきだ」


ライが少し笑いながら口を開く


「結局、なんだかんだ言ってアラシ隊長も情に弱いですよね」


ユキヤは肩をすくめた。


「はあ、隊長がそう言うなら仕方ないな」


「ありがとうございます。みなさん」


ハルは深く頭を下げた。


アラシは優しく微笑んだ。


「これからよろしく、ハル。君の力、そして君自身のことを一緒に探していこう」


4. 日常と訓練


それからの日々は忙しくも風のように過ぎていった。


朝はいつもどおり高校へ行く。制服に着替え、友達と話し、授業を受ける。昼休みには屋上で弁当を食べる。何事もない普通の高校生活。


放課後、校門を出ると黒い車が待っていた。


「今日はどうだい? 授業」


運転席のアラシが微笑む。


「普通でしたよ。数学のテストが返ってきて赤点ギリギリでしたけど」


「それは大変だね。後で教えようか?」


「隊長の意地悪、からかわないでくださいよ」


アラシはハルの返事を聞いて少し笑った


車はSSAの支部へ向かう。到着すると裏庭で訓練が始まる。


「今日は回避訓練だ。僕の攻撃を全部避けてみて」


アラシが構える。


「はい」


ハルも構える。アラシの手元からナイフが飛んでくる。紙一重でかわす。次、次、次。連続攻撃。ハルは息を切らしながらも避け続けた。


「いいね。だいぶ慣れてきた」


アラシが手を止める。


「でもまだ遅いです。もっと速く動けるはずなんですけど」


「焦らないで。訓練で体を壊していたらわけないよ」


「分かってます。でも、もっと強くなりたいんです」


ハルの瞳には強い光が宿っていた。


アラシは優しく笑った。


「そうだね。でも今日はここまでにしよう。明日も学校があるんだから」


「はい」


ハルは息を整えながら頷いた。夕暮れの空がオレンジ色に染まっている。日常と非日常の狭間で、ハルの毎日は回り始めていた。


高校卒業まで、あと3か月。その間に力を磨き、自分の正体を知る手がかりを探す。そして卒業したら、本格的に戦いに身を投じる。


ハルは決意を新たに拳を握った。


(絶対に強くなってみせる)


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