第一話 雨のち晴れ
1.悪夢
その日は、ごく普通の日だった。学校からの帰り道。夕暮れの街には、家路を急ぐ人々の姿があった。少女は歩道を歩きながらぼんやりと明日の予定を考えていた。帰ったら、何をしよう。夕飯は何だろう。そういえば、友達にメールの返事をしていなかった。そんな、どうでもいいことばかりだった。
横断歩道の前で足を止める。信号は赤。隣には、小さな男の子が立っていた。母親らしき女性は少し離れた場所で、買い物袋の中を探っている。やがて、信号が青に変わった。人々が歩き始める。少女も一歩を踏み出した。
そのとき「キキィィッ!」
けたたましいブレーキ音が、街の空気を切り裂いた。交差点に一台のトラックが突っ込んでくる。運転手の顔が見えた。必死にハンドルを切っている。けれど、間に合わない。周囲から悲鳴が上がった。人々が逃げ惑う中、少女は視界の端に小さな影を見つけた。男の子だった。突然のことに状況を理解できなかったのか、男の子は横断歩道の真ん中で立ち尽くしていた。トラックが迫る。このままでは、間に合わない。考えるよりも先に、少女の体が動いていた。
「危ない!」
少女は地面を蹴った。男の子の小さな体を、両腕で力いっぱい突き飛ばす。男の子が歩道へ転がるのが見えた。よかった。そう思った瞬間だった。衝撃。体が宙に浮いた。何が起きたのかすぐには理解できなかった。ただ、空が見えた。夕焼けに染まった空が、ゆっくりと回転している。次の瞬間、全身に激痛が走った。息ができない。声も出ない。指先ひとつ、思うように動かせなかった。遠くで誰かが叫んでいる。誰かが駆け寄ってくる足音が聞こえる。
「誰か、救急車を! 早く!」
視線を動かすと、先ほどの男の子が母親に抱きしめられながら、こちらを見ていた。泣いていた。怪我はないようだった。少女は、ほんの少しだけ安心した。よかった。本当に、よかった。もしあの子が死んでいたら。そう考えると、胸が苦しくなった。けれど、不思議だった。自分が死ぬかもしれないというのに、恐怖よりも先に、そんなことを考えていた。ああ。でも。まだ、やりたいことがあったのに。友達に返事をしていない。明日の授業の準備もしていない。楽しみにしていた約束だってある。こんなところで終わるなんて、思っていなかった。視界がぼやけていく。誰かが自分の名前を呼んでいる気がした。何かを伝えようと唇を動かす。大丈夫だよ。あの子は無事だから。そう言いたかった。けれど声にならなかった。指先から少しずつ感覚が消えていく。夕焼けが滲む。周囲の音が遠ざかっていく。最後に浮かんだのは明日もきっと、いつもどおりの日が来るのだという何の根拠もない考えだった。明日になればまた目が覚める。そうしたら今日のことを誰かに話そう。怖かったねと笑い合おう。そしていつもどおりの毎日を過ごすのだ。
(そんな明日はもう来ない)
「……っ!」
少女は息を呑んで目を覚ました。
見慣れた天井。聞き慣れた時計の音。窓から差し込む朝日。どれもいつもどおりだった。ハルはしばらくの間ベッドの上で呆然としていた。胸が激しく上下している。喉が渇いていた。額にはじっとりと汗が滲んでいる。
「……なんだ今の」
口から漏れた声は自分でも驚くほどかすれていた。夢。そう夢だ。トラックに轢かれる夢。知らない男の子を助ける夢。そして自分が死んでしまう夢。どれも現実に起こったことではない。そもそもハルは交通事故に遭ったことなど一度もない。あんなふうに誰かを助けた覚えもない。なのに。あの光景はあまりにも鮮明だった。耳に残るブレーキ音。体を襲った衝撃。夕焼けの色。そして助けた男の子の泣き顔。まるで自分が本当に体験した出来事のようだった。
(変な夢)
ハルは小さく呟くと額の汗を拭った。考えても仕方がない。そう結論づけてベッドから降りる。制服に着替え朝食を済ませ鞄を持つ。玄関を出る頃には夢のことも少しずつ頭の片隅へ追いやられていた。今日もいつもどおりの一日が始まる。ハルはそう思っていた。少なくともそのときは。
2. いつもどおりの日常
教室は朝から騒がしかった。
「なあ昨日のニュース見た?」
「ニュース? 何の?」
「駅前のビルが崩れたやつ。あれ見てないのかよ」
席に着いたハルの耳にクラスメイトたちの会話が飛び込んでくる。駅前のビル。崩壊。その物騒な単語にハルは思わず顔を上げた。
「ビルが崩れたってどういうこと?」
ハルが尋ねると近くの男子生徒が待ってましたとばかりにスマートフォンを取り出した。
「これ。昨日の夜のニュース」
画面には崩れ落ちた建物の映像が映っていた。建物の中央付近が大きくえぐられ周囲には瓦礫が散乱している。その周辺を警察や消防の車両が取り囲んでいた。
「昨日午後6時ごろ駅前にある商業ビルの一部が突然崩落しました。現場に居合わせた目撃者によりますと崩落の直前正体不明の人物が奇妙な道具を使用していたとの情報が」
「奇妙な道具?」
「そう。目撃者の話だとそいつが変な道具を振ったらビルの壁が切り取られたみたいになったんだってさ」
「そんなのあり得る?」
「俺に聞くなよ。だからニュースになってるんだろ」
男子生徒は画面を拡大した。崩落した建物の断面は火災や爆発によって壊れたというよりも何かで切り取られたかのように滑らかだった。
「テロとか?」
「分かんねえ。でもけが人も出たらしいぞ」
「犯人捕まったの?」
「まだ。警察が捜してるって」
教室のあちこちで似たような話題が広がっていた。怖がる者。面白半分に犯人の正体を推測する者。自分には関係ないと興味を失う者。反応はさまざまだった。
ハルも最初は単なる物騒なニュースだと思っていた。けれど画面に映った建物の断面がなぜか頭から離れなかった。まるで世界の一部だけを切り取ったような。そんな不自然な光景だった。
「まあ俺たちが気にしても仕方ないだろ」
クラスメイトがスマートフォンをしまう。
「どうせそのうち捕まるって」
「そうだね」
ハルも頷いた。(今は授業に集中しよう)
そう思って教科書を開く。やがてチャイムが鳴り教師が教室に入ってきた。いつもどおりの授業。いつもどおりの休み時間。いつもどおりの昼食。何事もなく時間が過ぎていく。朝のニュースも夢のことも時間が経つにつれて意識から薄れていった。
そして放課後。ハルはいつもどおりの帰り道を歩いていた。このときの彼女はまだ知らなかった。昨日のニュースで報じられた事件が決して遠い世界の出来事ではないことを。
3. 狩人
夕方。人通りの多い商店街に男が一人歩いていた。黒い上着にくたびれた靴。特別目立つ格好ではない。顔つきも服装も街中にいくらでもいそうな男だった。ただしその目だけは違った。男の目には退屈がこびりついていた。何を見ても面白くない。何をしても満たされない。そんな人間特有の乾ききった目だった。
(つまんねえな)
男「ノワキ」は欠伸を噛み殺した。目の前を人々が行き交う。買い物袋を提げた主婦。友人と笑い合う学生。スマートフォンを見ながら歩く会社員。誰もが自分の生活を送っている。誰もが明日も同じ日常が続くと信じている。ノワキはそれが気に入らなかった。自分だけが退屈している。自分だけがこの世界に飽き飽きしている。
(ならば)
少しくらい面白いことがあってもいいだろう。
「せっかくこんなもんをもらったんだ」
ノワキは上着のポケットから一本のカッターを取り出した。黒い樹脂製の柄に金属の刃。ホームセンターにでも行けばいくらでも売っていそうなありふれた道具だった。
しかし、その刃は普通のものではない。
神器「ステンシル」。世界の仕組みに干渉する異常な力を宿した道具だ。
ノワキは親指でスライダーを押し刃を少しだけ繰り出した。
昨日これを使ってビルの壁を切り取ったときの感覚を思い出す。
大した力は必要なかった。
ただ切り取ると決めてカッターを動かした。
それだけで建物の一部が切り離された。
そして建物は崩れ落ちた。
悲鳴。
逃げ惑う人々。
崩壊する建物。
あの光景はなかなか悪くなかった。
だが一度見てしまえば終わりだ。
同じことを繰り返してもすぐに飽きてしまう。
「もっとこう……」
ノワキは周囲を見渡した。
もっと派手に。
もっと大きく。
もっと面白く。
そのとき一人の男がノワキのすぐ横を通り過ぎようとした。
何も知らない顔。
何も疑っていない顔。
ノワキは笑った。
「なあおっさん」
「……ん?」
呼び止められた男が振り返る。
「今暇?」
「は? いや俺は」
「そっか。じゃあちょっと付き合ってよ」
ノワキは手にしたカッターを持ち上げた。男が目を見開く。
「な何だそれ……」
「見てのお楽しみ」
ノワキは男の腕に向けて刃を走らせた。
次の瞬間。
男の腕が音もなく切り裂かれた。
「え」
男が自分の腕を見下ろす。自分の腕が地面に落ちる。遅れて断面から赤い血が浮かぶ。
「ううわああっ!」
男の悲鳴が商店街に響いた。
周囲の人々が一斉に振り返る。ノワキはその様子を眺めながら心底楽しそうに笑っていた。
(そうそうそれだよ!)
恐怖。
混乱。
理解できないものを前にした人間の顔。
それこそがノワキの求めていたものだった。
彼はもう一度カッターを構えた。
今度は逃げ遅れた女性へ向けて。
女性は尻もちをついたまま迫り来る刃先を見つめていた。
逃げなければ。
そう思っているのに体が動かない。
ノワキが笑う。
「じゃあ次は」
「やめて!」
ハルの声が響いた。
ノワキが振り返る。
そこには鞄を肩にかけたハルが立っていた。目の前の光景を見て足がすくんでいた。倒れた男。怯える女性。逃げ惑う人々。そして片手にカッターを持った男。
何が起きているのかすぐには理解できなかった。
けれど一つだけ分かった。
このままではあの女性が殺される。
(どうすればいい)
(逃げた方がいい)
(誰かを呼んだほうがいい)
(警察に電話すればいい)
頭の中ではいくつもの考えが浮かんでいた。
それでも体はその場から動かなかった。
目の前の女性を置いて逃げることができなかった。
ノワキはしばらくハルを眺めていた。そしてにたりと笑った。
「へえ正義の味方ってやつ?」
「違う……!」
「じゃあ何だよ」
ノワキはカッターの刃を少しだけ伸ばした。
「何の力もないくせに何で出てきた?」
その言葉にハルは答えられなかった。何の力もない。そのとおりだった。格闘技を習っているわけではない。喧嘩が強いわけでもない。ましてやあんな得体の知れない道具を相手にどう戦えばいいのかも分からない。
それでも。
「……だって」
ハルは拳を握りしめた。
「目の前で人が殺されそうになってるから……!」
一瞬ノワキの表情から笑みが消えた。
次の瞬間彼は声を上げて笑った。
「あははっ最高だなお前!」
ノワキはカッターを構えた。
「いいぜ。そこまで言うならまずはお前から遊んでやるよ」
ハルの背筋に冷たいものが走った。
逃げろ。
頭の中で誰かが叫んでいた。
今すぐ逃げろ。
相手は危険だ。
自分には勝てない。
けれど体が動かなかった。
ノワキが一歩踏み出す。
ハルが一歩後ずさる。
さらに一歩。
背中が建物の壁にぶつかった。
「どうした? さっきまでの威勢はどこ行ったんだ?」
「……っ」
「ほら逃げろよ。逃げられるもんならな」
ノワキが手首を返した。
ハルは反射的に身をよじった。頬のすぐ横を見えない刃が通り過ぎる。背後の壁に一本の線が走った。
次の瞬間。
壁の一部が音もなく崩れ落ちた。
「……うそ」
ハルの顔から血の気が引いた。触れてもいない壁が切られた。あのカッターは普通じゃない。
逃げなければ。
そう思った瞬間足元が崩れた。ノワキが地面を切り取っていたのだ。
「きゃっ!」
バランスを崩したハルはその場に倒れ込んだ。鞄が転がり教科書が散らばる。立ち上がろうとする。しかし恐怖で足に力が入らない。ノワキが近づいてきた。ゆっくりと。逃げることのできない獲物を楽しむように。
「何だ。もう終わりか?」
ハルは必死に後ずさった。
「ややめて……」
「やめて?」
ノワキは楽しそうに首を傾げた。
「お前が始めたんだろ?」
「そんな……」
「だったら最後まで付き合えよ」
ノワキがハルの前にしゃがみ込んだ。片手に持ったカッターの刃が夕日に照らされて鈍く光る。ハルはその刃から目を離せなかった。
「なあ。こいつに切られるってのはどんな感じなんだろうな?」
「……っ」
「俺このカッターで建物を切ったことはあるけどさ。こういうのは初めてなんだよ」
ノワキはまるで新しい玩具を試すかのような口調で言った。
「ちょっと試させてくれよ」
刃先がハルの腹部へ向けられる。
「やめて……!」
ハルはノワキの手を押し返そうとした。だが間に合わなかった。ノワキの腕が動く。鋭い痛みが腹部を貫いた。
「……っ、あ」
息が止まった。何をされたのか理解できなかった。ただ腹の奥に熱いものが広がっていく。視線を落とす。自分の服に赤い染みが広がっていた。ノワキの手には血のついたカッターが握られている。
(あれ)
声が震えた。膝から力が抜ける。ハルはその場に崩れ落ちた。腹部を押さえる。手のひらがぬるりと濡れた。
「うそ……」
痛い。息が苦しい。どうすればいいのか分からない。頭が真っ白だった。
(嫌だ)
(死にたくない)
(まだやりたいことがある)
今日だっていつもどおりの一日で終わるはずだった。友達と話して。授業を受けて。家に帰って。明日も同じように過ごすはずだった。それなのに。どうして。どうして自分がこんな目に遭わなければならないのだろう。
「おいおい泣いてんのか?」
ノワキが顔を覗き込んできた。
「安心しろよ。すぐ終わらせてやるから」
カッターの刃先が再び持ち上がる。今度はハルの首元へ。
ハルは逃げようとした。けれど体が動かない。立ち上がる力もない。腹部から流れ出す血が地面を赤く染めていく。
(もう駄目なのだろうか)
(誰も助けに来ない)
(誰も自分を救ってはくれない)
(ここで終わるのだろうか)
(何も分からないまま)
(何もできないまま)
ハルは唇を噛みしめた。
嫌だ。
嫌だ。
嫌だ。
まだ死にたくない。
その瞬間だった。
4. 覚醒
あなたの本当の力に気づく時が来たわ。さあ自分の本当の姿を見せなさい。
心の奥底から誰かが叫んだ。
生きたい。
このまま終わりたくない。
誰かを助けたい。
自分の目の前で誰かが傷つくのを見たくない。
もう何もできずに終わるのは嫌だ。
その願いに応えるように。ハルの内側で何かが目を覚ました。
そして世界が止まったように見えた。
風の音も。人々の悲鳴も。ノワキの笑い声も。すべてが遠ざかっていく。
ハルはゆっくりと目を開いた。
首元に迫っていたカッターの刃が目の前にある。けれど不思議なことに恐怖はなかった。代わりに奇妙な感覚があった。自分の体がいつもよりもずっと軽い。周囲の景色が異様なほど鮮明に見える。ノワキの指先の動き。肩の傾き。足の位置。カッターを振り下ろす軌道。それらすべてが手に取るように分かった。どう動けば避けられるのか。どこに踏み込めば相手の懐に入れるのか。どうすれば相手の攻撃を止められるのか。考えるよりも先に答えが浮かんでくる。知らないはずのことが分かる。できるはずのないことが気配をまとう。頭の奥で何かが目を覚ました。
自分の体。自分の筋肉。自分の視覚。自分の反応速度。そのすべてが今までとは違うものに感じられた。まるで自分自身という存在の可能性が目の前に広がっていくようだった。
ハルの手が自然と動いた。
カッターの刃先を紙一重でかわす。
「……は?」
ノワキの目が見開かれた。
ハルは床に手をついて体を起こした。腹部にはまだ激痛が残っている。視界も少しずつ暗くなっていた。それでも。今なら動ける。
ハルは地面を蹴った。自分でも驚くほど体が軽かった。一瞬で距離が縮まる。ノワキが慌ててカッターを振り直した。だが遅い。ハルは体を沈め刃先の下をくぐり抜ける。そしてノワキの懐に飛び込んだ。
「なっ!」
ハルの拳がノワキの腹部に叩き込まれた。
「ぐっ……!?」
ノワキの体がくの字に折れる。そのまま後方へ吹き飛び路上に転がった。
ハル自身が何よりも驚いていた。今自分が何をしたのか。どうやって動いたのか。まるで分からない。ただ一つだけ確かなことがあった。さっきまでとは何かが違う。自分の中で何かが変わってしまった。
「な何だ今の……」
ノワキが腹を押さえながら立ち上がった。
先ほどまでの余裕は消えていた。
彼はハルを睨みつける。
「お前……何をした?」
「わ、私にも分からない……」
ハルは自分の手を見つめた。震えている。腹部からは今も血が流れていた。痛みは消えていない。むしろ少しでも気を抜けばその場に倒れてしまいそうだった。それでもさっきまでのように何もできずに震えているわけではなかった。自分の意思で体を動かせる。自分の力で相手の攻撃を止められる。それが信じられなかった。
ノワキの表情が変わった。
「まあいい」
彼はカッターを握り直した。
「たまたまだ。偶然うまく当たっただけだろ」
言い聞かせるように呟くとノワキは再び構えた。
「次で終わりにしてやる」
カッターの刃が横薙ぎに振られる。ハルは身をかがめてかわした。刃先が背後の看板を切り裂く。金属製の看板がまるで紙のように分断された。普通なら避けることさえ難しい一撃。しかしハルには見えていた。ノワキがどこを狙っているのか。次にどちらへ動くのか。どうすれば攻撃を受けずに近づけるのか。
ハルは横へ跳びノワキの腕をくぐり抜けた。
「ちっ!」
ノワキが振り返る。
その動きすら遅く見えた。
ハルは地面を蹴った。
そしてノワキの腕を両手でつかむ。力任せに引き寄せ体勢を崩す。続けて足を払った。
「うおっ!?」
ノワキが地面に倒れる。カッターが手から離れ路上を滑った。
ハルはそれを見た。これを奪えば。そう考えた瞬間ノワキが叫んだ。
「ふざけんな!」
ノワキは地面に手をつき立ち上がろうとした。ハルがカッターへ手を伸ばす。しかし、ノワキのほうが早かった。彼はカッターを拾い上げると怒りに任せて刃を振った。
「死ねぇっ!」
刃先がハルへと迫る。
ハルはもう目を閉じなかった。
右へ半歩。
刃先をかわす。
踏み込む。
ノワキの腕を押さえる。
そして拳を振り抜いた。
「どりゃああああああああああああああああ」
鈍い音が響いた。
ノワキの体が大きく傾きそのまま地面へ倒れ込む。今度は立ち上がらなかった。カッターが彼の手から転がり落ちる。商店街に静寂が戻った。
ハルはその場に立ち尽くしていた。荒い呼吸。震える指先。心臓が今にも飛び出しそうなほど激しく脈打っている。腹部の傷がずきずきと痛んだ。服は血で濡れ足元には赤い滴が落ちている。いつまでも立っていられる状態ではなかった。それでもハルは倒れなかった。
目の前には倒れたノワキ。少し離れた場所にはカッター型の神器。そして周囲には呆然とこちらを見つめる人々がいた。
誰も何も言わなかった。
やがて先ほど襲われていた女性がおそるおそる立ち上がった。
「あ、あの……」
ハルははっと顔を上げた。
「大丈夫、ですか?」
自分でも驚くほどか細い声だった。
女性は何度も頷いた。
「は、はい……ありがとうございます!」
「いえ、」
ハルは自分の手を見つめた。
「私に何が起きたんだろう……」
本当に分からなかった。さっきまで自分は何もできなかった。怖くて動けなくて死を覚悟していた。腹部を刺されもう助からないと思った。それなのに。どうしてあんな動きができたのだろう。どうしてあの男に勝てたのだろう。自分の中にこんな力が眠っていたのだろうか。
ハルはゆっくりと拳を握った。そのとき。頭の奥で微かな違和感が走った。何かが自分の内側にある。それは今まで一度も感じたことのないものだった。名前も。正体も。使い方も分からない。ただ確かにそこに存在していた。
ハルは顔を上げた。夕暮れの空が目に映る。朝の夢で見たあの夕焼けと同じ色だった。
「何なのこれ」
誰に向けたわけでもなくハルは呟いた。
答える者はいない。
遠くからサイレンの音が近づいてくる。ようやく誰かが警察を呼んだのだろう。ハルはその場から動けなかった。今日もいつもどおりの一日で終わるはずだった。けれどその日を境に。彼女の日常は少しずつ形を変えていくことになる。そして彼女自身もまだ知らない。自分が何者なのか。なぜあの夢を見たのか。そして目覚めた力がこの世界の秘密とどう結びついているのか。その答えを知る日はまだ遠い。
そしてハルはその場に倒れた。




