十八歳④
「……私ったら、急に『モテる女』になっちゃったわ」
夜会を終えて自室に戻ったクレアは、鏡台の椅子に腰かけて呟いた。
鏡には装った自分が映っている。人より幼く見える顔は化粧のおかげで印象が引き締まっていて、希少な宝石のアクセサリーもデコルテを晒す型のドレスも不似合いではないと思う。
でも――。
「故郷に帰ったら女王様だし、ここに残っても誰もが羨む素敵な旦那様が全力で守ってくれるんですって。まあ、なんて素敵な人生なのかしら!」
でも、やっぱり口紅はもっと淡い色を選べばよかった。
夜会の前に鏡を見た時には馴染んでいたはずなのに、血の気が引いて青ざめた顔の中では唇だけが浮いて見える気がする。
「……っ、どうして?」
呟いた声はくぐもっていた。
「普通に恋をして、普通に家族を作って、普通に幸せになりたかっただけなのに。そのために一生懸命頑張ったのに、『王にふさわしく成長した』って何よ! 私、王様になりたいなんて一回も思ったことないのにっ! フレッドもフレッドよ! 『君は気づかなくていい』『守ってあげる』って、私は今も『何もできない子』のままだって……っ!」
望んでもいない栄誉は押し付けられて、望むささやかな幸せを得ることすらできない。
一番成長を褒めてほしかった人は、本音ではクレアがいつまでも無力な子どものままでいることを望んでいた。
これが、クレアの努力の結果なのだ。
自分が望んでいたものは何ひとつ手に入らないのだと思い知らされて、クレアはぼろぼろと大粒の涙を流した。
化粧を洗い流すような勢いで泣いたら、見た目に見苦しいのはもちろん、翌日の目は腫れ上がって物を見づらくなるし、頰はひりひりと痛むだろう。
考えを巡らす頭の中の理性的な自分を『うるさい』と怒鳴りつけて、クレアは鏡台に突っ伏して子どものように泣き続けた。
ひとしきり泣いてむくりと顔を上げると、化粧は崩れてどろどろに混ざり合っていた。下地が剥げて、目元や頬、鼻の頭が赤くなっているのが分かる。
「……顔、洗わなきゃ。浮腫まないように、ゆっくり湯船に浸かって――」
血行を良くしてから寝ないと、と考えた自分に、呆れて笑ってしまった。
ついさっき、どんなに努力を続けたところで報われないのだと思い知ったところなのに!
「……でも、普段することを止めて、明日腫れぼったい顔で後悔するのは嫌だわ」
これは『努力』というより『惰性』なのかもしれない。
流れに一度足を踏み入れてしまえば、立ち止まって抜け出すことにもまた覚悟が要るのだ。
翌朝早くからクレアは王都小離宮の図書室にこもり、歴史書を読み耽った。
もしかしたら歴史上にも似たような例があったかもしれないし、王朝交代後に生じた問題を見れば判断材料にできるかもしれない。
「……どうしても他の方法は無いのかしら」
クレアがバルトール女王として即位して、コルキアへの鉄の輸出を制限する。鉱山で実質的な強制労働をさせられているバルトール国民を救えるし、コルキアは戦争の準備が捗らずスヘンデルへの侵攻を諦める――かもしれない。
クレアがスヘンデルに残ることを選んでも、クレア無しでもレオカディア達のクーデターは成功するかもしれないし、鉄鉱石の採掘量はそれほど増えないかもしれないし、コルキアと戦争になってもスヘンデルが勝つかもしれない。……その過程でどれだけの人が死ぬかは分からないけれど。
全ては未知数だ、未来など誰にも分からない。歴史書から過去を学ぼうにもぴったり同じ例など存在しない。
「……ん? これ、賢王レオポルト一世の詩集ね。懐かしい」
ふと手に取ったのは『賢王』と讃えられるスヘンデル王国の名君が残した文章を彼の王妃が勝手にまとめた本、嫁いだばかりの頃にフレッドから薦められた本だった。
「前に読んだ時は……確か、途中から表現が難解になって、よく分からないから途中で読むのを止めたのよね」
記憶を辿りながら、前に目を通したところまでページをぱらぱらと繰る。次第に、紙のうちの墨が占める割合が増えて、余白が減っていく。
『北の氷河の奥底に潜む古の雪床のごとく彼女は柔らかな光を放つ。凍てつく手の霜を恐れる僕の臆病さよ! 触れ難き彼女は月、遠く天にありて、冷徹に僕を照らす。されどその笑みは咲き初めの薔薇に似て馥郁たる香が僕を和ます。悩ましき妻よ、哀れな僕に一片の慈悲を!』
「……今読んでもよく分からないわ」
妃の美しさを賛美していることだけは分かるが、これでは雪か月か花かも分からない。一言『あなたは綺麗だ』と言った方がずっと伝わりそうだ。
「ふふっ、『賢王なのに詩の才能は無いのが笑える』っていうのは、この部分のことだったのね。これじゃあ確かにフレッドがそう言うのも――……」
思わず口をついて出た言葉は、途切れた。
ああ、駄目だ。この本にも彼との思い出が染みついてしまっている。
教えてくれた時の彼の言葉、表情、声色、その全てをまだ覚えている。五年も共に過ごして思い出を共有して、好きになった人を、簡単に忘れられるわけがない。
それくらいクレアにとってフレッドが傍にいることは『当たり前』だったのに、そんな自分が、彼から離れて生きていけるのだろうか――。
クレアは決断から逃れるように、詩集の続きに目を落とした。
『どうにも気持ちの収まらない出来事があったので記す。とっくに済んだ話だが、エルネスティーヌの故国が滅んだ顛末を』
「え……?」
エルネスティーヌ妃の故国がレオポルト一世の在位中に滅んだことは、知っている。だが、その件に関するレオポルト一世の目立った事績は無いはずだ。
『少し前から身辺が煩わしかった。あの国が隣国に脅かされるようになってエルネスティーヌの兄は援軍を求める使者を寄越すようになった。国王親書の文面からは余裕が無くなっていき、やがて『肝心な時に手を貸さずに何のための結婚なのか』と僕を非難し、エルネスティーヌを『役立たず』と罵った。それでも僕は何もしなかった。『スヘンデルにも余裕は無い』という返信以外は』
仮にバルトールがコルキアの侵略に抗うつもりだったら、クレアにも同じように『スヘンデルから援軍を出せ』という書面が届いていたかもしれない。
『彼の国が戦争に負け、国を一つ呑み込んだ戦勝国はスヘンデルと地続きになってしまった。そのこと自体も厄介だが、政略結婚を申し入れてきたのは本当に勘弁してほしい。『エルネスティーヌと別れて新しい王妃を娶れ』だなんて。貴族たちは『亡国の姫を王妃にしておく利点は無い、教会がうるさくて離婚できないなら病死に見せかけて殺してしまえ』と言う』
「ひどい……」
『悩みに悩んだ。僕はスヘンデルの国王だ。たとえ押しつけられた国王稼業でも、僕の肩にはおびただしい数の命が乗っている。それを投げ捨てる選択はできない。国王は国の益となる行動をしなければならない』
国を守るために愛する女性を殺すか、彼女を守るために国と民を捨てるか。
確実に大切なものを失う選択の岐路に立たされた賢王は、ある決断をした。
『だから僕は、こう言った。――』
そこに記された『答え』を見て、クレアは目を見開いた。
「もう答えが出たの? クラウディア」
二日目の昼、ローゼンハイム公爵と迎賓館に滞在しているレオカディアを訪ねると、そこにはフレッドもいた。
真剣な顔で何かを話し合っていたらしい。
姉は、硬い表情でクレアを見やった。その顔が悲しんでいるように見えたのは妹の贔屓目だったのかもしれないけれど。
「ええ、姉様」
「まだ猶予は半日あるのに」
「大丈夫。よく考えて決めたことだから」
「……そう。それで、あなたはどうするの?」
試すような視線を向けられても、心を決めたクレアはもう怯まなかった。
「――私、バルトールに帰ります。私にしかできないことをするために」
いずれこの選択に後悔はするかもしれない。いいや、きっと必ず後悔する。正直なことを言えば、今だって迷ったままだ。
(でも、人の心は目に見えない。だから私は『迷っていないふり』をする。迷いのある指導者に率いられたい者はいないもの。皆を引っ張って迷わず正しい道に導いたら称賛されて、迷わず間違った道に引きずり込んだら自分の首で責任を取る、『人の上に立つ』とはそういうことなんでしょう)
王族だろうと庶民だろうと、個人の人格に大した差は無いし、差は適切な教育を受けることで埋められる。違いがあるのは『人』ではなく『役』にだ。
そして、クレアには、バルトール王女でありスヘンデルの護国卿の妻という特別な『役』が割り振られている。ならば、その『役』を精いっぱい演じねばなるまい。
「今までありがとう、フレッド」
クレアは傍らの夫に目をやった。
強張った顔の彼を見て、一瞬そこに途方に暮れた迷子の少年を幻視した。
ここにいるのは、三十路も超えて、大勢の人々の尊崇を集める立派な大人のはずなのに。
「今夜、私にあなたの時間をちょうだい?」
『最後の晩餐になるかもしれないから』と言うと、フレッドは目をぎゅっとつぶってから開き、短く『分かった』と答えた。




