十五歳③
「ガキを大人しく差し出して、後から事情を聞かれた時に『自分は庭で誰とも会わなかった』って言やぁいい。そうすればお前らの命は取らない」
白刃をちらつかせながら、隊服の男は距離を詰めてきた。
悠々と歩くそぶりは余裕すら感じさせる。クレアたちに抵抗されることなど考えてもいないのだろう。
「……まずいな。こっちは丸腰だ」
ブランカの言う通り、王都小離宮に入る際には武器類を預けることになっている。
だからこそ幼子を庭で遊ばせておくこともできるわけだが、そこを警備を任された隊員に襲われれば一溜りも無い。
「クレア、リリを連れて逃げてくれ」
「あなたはどうするの!?」
「昔、嗜み程度に剣術を教わったことはある。……嗜み程度だし、何年も剣を握ってすらいないが」
「駄目じゃない!」
暴漢から視線は切らずにクレアはリリアンネを抱えて後退った。今のままでは逃げるにも逃げられない。
「あなたはリリをどうするつもりなの? 娘を攫われてリーフェフット卿が黙ってるわけない。誘拐なんてれっきとした犯罪だもの、スヘンデル国軍や王都警備隊だって総力を尽くして追う。逃げ切れるわけがないわ」
「どうかねぇ? 閣下だって、厄介者がいなくなったら清々するだろ」
「……はぁ? 何を言って、」
リリアンネは父親に溺愛されている。
それをよく知るクレアには『いなくなったら清々する』という事実に反した言葉が、彼ら親子のことを指しているとはとても思えなかった。
本気で訝しんだ様子のクレアを見て、男は片眉を上げた。
「なんだ、バルトール人だから知らねえのか? そのガキは、サルサスの王子とエフェリーネ姫との子だって噂だ。孕んだ王女を押しつけられた閣下も、実の子ができりゃ他の男の娘のことは疎ましくなるだろうよ」
「っ、馬鹿なことを……!」
悲しい哉、その噂は確かにクレアも耳にしたことがあった。
『革命の混乱で隣国サルサスに攫われた王女が身を汚されずに済んだはずがない』『リーフェフット卿は旧王族の処遇に困った護国卿に命じられて彼女を娶っただけだ』『お二人ともお可哀想に』――本当に可哀想だと気遣うなら口を閉じるべきだろうに、随分と楽しそうに話す光景を見たことがあった。
「いま、なんていったの? リリは、おとうさまの子どもじゃない……?」
噂とは無責任な娯楽だ。『正義感』や『同情』や聞こえのいい何かの皮をかぶせて、平気で人を傷つける。
「そうだよ。お前のことなんか、誰も望んじゃ――」
「クレア、リリの耳を塞げ! 耳が腐るような戯言を抜かす口を、二度と開けないようにしてやる……っ!」
「おっと、」
ブランカは脱ぎ捨てた外套で男の視界を遮ると、容赦の無い足払いを仕掛けた。
その隙にクレアはリリアンネを胸に強く押しつけ、背中を向けて全速力で駆け出した。
踵のある靴を脱ぐ暇もない。走りにくい格好の上に子どもを抱えていてはすぐに追いつかれてしまうだろうが、それまでに何としてでも――。
「はやくっ、誰か、人がいる方に!」
回廊の大理石の床に靴の踵が叩きつけられて、コツコツと音を鳴らす。走るうちに乱れた衣服の裾を踏んで転びかけて、なんとか踏み留まる。
「ぐすっ、うそだもん……よそのこじゃないもん……っ」
「そうよ、リリ」
泣きべそをかいている温かく柔らかなものを落として、冷たい床に叩きつけるわけにはいかない。
子どもは大人に守られるものだ、守るべきものなのだ。
「意地悪な人が言ったことは全部嘘だから、忘れなさい」
「――嘘じゃねえよ」
「っ、もう来たの? しつこい男は嫌いよ」
寄る足音を聞いて、クレアは弾かれたように振り返った。
あまりにも早すぎる。足止めを買って出たブランカは無事だろうか。
否、今のクレアは彼を気にしている場合ではないのだろう。目の前の暴漢は、妨害をものともしないということだから。
「ガキがいなくなっても追っ手は来ない。俺が捕まることはない」
「私が夫に言うわ! フレッドだってリリのことを可愛がっているもの。あなたには絶対に正義の鉄槌が下る!」
「おいおい、夫の威を借りるしか能がないのか。ちょっとは頭を使ったらどうだよ、ハウトシュミットのお人形さんよ」
「なんですって」
じりじりと後退りながら時間稼ぎに言葉を交わすと、男は心の底からクレアを馬鹿にするように言い放った。
「俺がなんでそのガキを誘拐すると思う? 親が身代金を出さないのははっきりしてるのに」
「あなたの頭の中ではね。……まさか、」
両親が身代金を出さないと考えているなら、それ以外だ。
金以外の目的があるか、他に金を出す者がいるか――。
ふと思い浮かんだ考えに、クレアは背中に冷たいものが伝うのを感じた。
「スヘンデル王国の復活を望む勢力に渡す気……!?」
「なんだ、意外と勘がいいじゃねえか。そうだ、サルサス王家の血を引くスヘンデル最後の国王の孫娘だ。この上なく由緒正しい『お飾り』だろう? どこの陣営の手土産にしても重宝される」
ようやく悟った。
この男は本気でリリアンネがサルサス王子の子だと信じているのだろうが、。
問題は――それを信じたい者がいることの方だ。
噂は真偽不明と知った上で都合のいいお題目として利用する者もいるだろう。純粋に『王政に戻せば何かが変わる』と期待をかける者もいるだろう。
思惑は人それぞれだ。彼らに共通するのは『革命新政府が気に食わない』ということだけ。
「スヘンデルの中でのゴタゴタのことなんか、バルトール人には関係ねえだろ。深入りして無駄に怪我をしたいか?」
「……怪我をするのは嫌よ」
「なら、どうすればいいか分かるよな?」
「ええ」
とうとう壁際に追い詰められたクレアは、大きく息を吸った。
「誰か来て! 刃物を持った男が暴れているわ! リリアンネを攫ってクーデターを起こそうとしているテロリストよ!」
今のクレアにはよく分かっていた。
この男は卑劣なテロリストで、新政府の敵――フレッドの敵だということも。
男の目当てであるリリアンネは、少なくとも肉体的には傷つけられないだろうということも。
あとはこの男に『バルトールの王女を害すれば外交問題になるかもしれない』と考えるくらいの慎重さがあることを期待したいが――。
「痛っ!」
「クソアマ……っ!」
突き飛ばされて、体を壁に叩きつけられた。思ったよりも短絡的な相手を、怒らせてしまったのかもしれない。
「……ああ。あなたって、本当に頭が悪いのね」
「んだとっ!」
「私も頭が良いわけではないけど、頭のいい知り合いはたくさんいるもの。その人たちと比べれば分かるわ。あなたは推論に希望的観測を混ぜすぎる。自分の都合のいいものしか見ない。疑うことを知らない」
きっと『頭がいい』とか『賢い』とは単に知識量が多いことではないのだ。
多くを識っているから、一つの視点に縛られない。自分の考えに固執せずに別の可能性を探る。
他人より広い視野を持つことこそを『賢い』というのだろう。
「『噂通りだったらいいのにな』『追われなければいいのにな』『うまく取引相手が見つかって自分を厚遇してくれればいいのにな』って? そんなに全部上手くいくのは、あなたの妄想の中だけよ」
体勢を崩して床に膝をついたクレアは、男のことを睨み上げた。
「後先考えない短絡的な輩のことを『馬鹿』って言うのよ。常識だけど、ご存知なかった?」
「……そうかよ。それが馬鹿なお前の最期の言葉でいいんだな」
表情を消した男が剣を振り下ろすさまが、いやにゆっくり見えたとき――ようやく待ち望んでいた声を聞いた。
「伏せろ、クレア」
声には人に命じることに慣れた響きがあったから、クレアは咄嗟に従った。『そうすることが正しい』と無条件に思わされた。
リリアンネの小さな体に覆いかぶさって、低い姿勢を保持する。
暴漢の次の動きを警戒して目だけはそちらに向けていたから、その時見聞きした物は、クレアの記憶にこびりついた。
「ぎゃあっ!?」
情けない悲鳴を上げる男と、右肩に咲いた赤い花。
噎せ返るほど濃厚な鉄錆の匂い。
男が堪らず取り落とした剣が、大理石に叩きつけられたときの耳障りな音のことは、長く忘れられなかった。
「外したか。精度も威力もまだまだだね」
微かに煙を上げる金属製の短筒――拳銃を右手に構えたフレデリック・ハウトシュミットは、ただ淡々と言った。
いつもの彼のおどけたような口調も、うさんくさいほど愛想のいい笑顔も鳴りを潜めていた。
「い゛ぃ、痛え……っ、いてぇよ!」
「再装填も手間だな。改善が必要だ」
空薬莢を捨てたフレッドは、弾倉を器用に操作してから撃鉄を上げる。再び銃口は暴漢を真正面に捉えた。
「なに……っ、ひっ!」
「拳銃って知ってる? ああ、知らなくていいよ。どうせ君が使う機会は無いわけだし」
「ま、待て! 俺にだって事情がっ」
「それはそれは。さぞかし重い事情だったんだろうね。外患誘致の犯罪者になる前なら聞いてあげたよ。もう遅いけど」
「いやだ、撃つなぁっ!」
「僕は剣も体術もからっきしでさ、こんなちゃちな飛び道具に頼らないと自分の身すら守れない。頼みのこれもつくりが甘い試作品だから、的が動くとうっかり急所に当てる」
「たのむっ、まってくれ! おねがっ――」
カチリ、と硬質な音がした。
怯えて尻込む相手に向かって、フレッドは躊躇いなく引き金を引く。
弾丸に裂かれた隊服の太腿部からは、一際鮮やかな色の血が噴き出した。
床に倒れて痛みに泣き喚く男の鳩尾を、ぐりぐりと踏み躙って黙らせてから、フレッドは視線を巡らせた。
目が合うと、彼は花が綻ぶように笑った。
「クレア」
たとえ足元には血溜まりが広がっていても、仕立ての良い靴でそれを踏み越えても、彼には返り血の一つも飛んでいない。
惨状を感じさせないくらい見た目には綺麗なまま、まるで穢れを知らないおとぎ話の王子様みたいだ。
けれど――。
「怪我はない、か。よかった……!」
クレアを抱きしめた彼からは、白檀の香りに混じって血と汗と硝煙の匂いがした。




