第四章:校内排水機構機能不全に伴う臨時屋外排泄施設設置事案
【起案日】 令和〇+一年一月一七日
【宛 先】 市教育委員会 施設管理課長 鶴見昭宏 殿
【差出人】 市役所 都市整備部 施設課 神林洋平(※起案協力:見晴台中学校 理科教諭 御子柴哲)
【件 名】 校内排水機構機能不全に伴う臨時屋外排泄施設設置事案
【要 旨】
見晴台中学校における継続的な北側水平スライド現象に伴い、校舎と地中下水本管との勾配(傾斜角)に致命的な狂いが生じている。現在、汚水が正常に自然流下しない「逆勾配」の状態に陥りつつあり、近日中に校舎一階手洗い場および便器からの汚水・排泄物の深刻な逆流が確実視される。
つきましては、本日をもって「校舎内のすべてのトイレ」を物理的に完全封鎖する。
代替措置として、地盤変位の影響を受けないグラウンド(南側非移動エリア)に、「大型自己完結型バイオトイレ(微生物処理式・配管不要)」を十二基緊急設置するため、補正予算(公衆衛生環境維持費)三千六百万円の即日決済を要求する。本件は生徒の健康被害(感染症等)および、校舎の深刻な汚染回避に直結する事案である。
【添付資料:校舎基礎部変位観測記録(起点日:五月一〇日)】
・観測日数:二五三日
・累積移動距離:二五三・〇〇センチメートル
一月中旬。寒風が吹きすさぶ見晴台中学校の校舎一階。
理科教師の御子柴哲は、床下点検口の前にしゃがみ込み、冷え切ったコンクリートの臭いと、微かに混じる別の異臭に顔をしかめていた。
「御子柴先生! 見てください、このスライダー!」
点検口から這い出してきた校務技術員の茂木健吉は、作業着を泥と正体不明の汚水で茶色く汚しながらも、手にした懐中電灯で床下の暗がりを照らし、なぜか満面の笑みで叫んだ。
「下水管の接続部に、太さの違う塩ビ管を入れ子にして、塩コショウの容器みたいにスライドして伸びる自作の『伸縮ソケット』を噛ませてみたんです。シリコングリスをたっぷり塗ったんで、校舎が動いても一日一センチなら綺麗に滑って伸びますよ! 水漏れもパテでガチガチに固めました! 我ながら完璧な魔改造です!」
白衣姿の御子柴は、茂木が懐中電灯で照らすその「自作スライダー配管」を無表情で見つめた。
以前の茂木は、切れた蛍光灯の交換や花壇の草むしりがメインの温厚な作業員だった。しかし、この異常事態が発覚して以来、彼は完全に水を得た魚、あるいは狂気のエンジニアと化していた。
数千トンのコンクリートが動くという物理法則のバグに対し、彼はホームセンターで買ってきた資材と鉄パイプの溶接だけで、あの手この手で校舎を魔改造し、インフラを死守しようと奔走している。
「茂木さん。あなたの技術力と創意工夫には、ノーベル工学賞をあげたいくらいだ」
御子柴は淡々と、しかし心からの敬意を込めて言った。
「だが、致命的な欠陥が一つある。水は、下から上へは流れないということだ」
茂木の笑顔が、ピタリと止まった。
「上水やガスは『圧力』で押し出されるから、管が伸びても届く。だが下水は違う。重力による『自然流下』だ」
御子柴は白衣のポケットからホワイトボードマーカーを取り出し、点検口の裏蓋のベニヤ板にスラスラと図解を描き始めた。
「五月の発覚から八ヶ月。校舎はすでに崖に向かって二・五メートル以上移動している。下水管の勾配(傾斜)は完全にフラットになり、昨日からはついに『逆勾配(上り坂)』に突入した。茂木さんがどんなに素晴らしい伸縮管を作ろうと、排泄物は地中の本管へ向かわず、校舎側に留まり続ける」
「……ああっ!」
茂木は頭を抱えた。
「そうか、パイプが伸びても、出口の方が高くなっちまったら流れない……! どうしましょう、先生。なら、各個室のトイレの下に小型の電動ドレンポンプを仕込んで、強制的に圧送するシステムを組みますか!?」
茂木の魔改造のアイデアは止まらない。
「ポンプの故障率と、詰まった時の惨状を想像してみてください。……校舎内に、汚物の雨が降りますよ」
御子柴の容赦ないシミュレーションに、茂木は顔面を蒼白にして口を噤んだ。
「限界です。本日をもって、既存の下水配管は放棄します。校舎内のトイレはすべて物理的に封鎖してください」
*
その日の放課後。
緊急で開かれた職員会議は、阿鼻叫喚の様相を呈していた。
「校舎のトイレを全面封鎖!? 冗談じゃない!」
体育教師の大門が、机を叩いて立ち上がった。
「真冬ですよ!? 休み時間のたびに、三百人の生徒にコートを着せて、いちいち外のグラウンドまで行けと言うんですか!」
「そうだ! 女子生徒からの不満は計り知れません!」
学年主任の長谷川も、眉を吊り上げて同調した。
「生理中の女子への配慮が全く足りていません! だいたい、外の仮設トイレなんて臭くて不衛生に決まってるじゃないですか! どうしてそんな無計画な……」
職員室の前方に立つ御子柴は、教員たちの不満の矢面に立たされながらも、仏頂面のままピクリとも表情を変えなかった。彼の胃袋は、同僚たちの感情的で非論理的なクレームによってキリキリと捻り上げられていたが、ポケットの中の第一三共胃腸薬を指でなぞることで精神的な均衡を保っていた。
「先生方の懸念はごもっともです。では、代替案をお聞きしたい」
御子柴は静かに、よく通る声で会議室を一瞥した。
「このまま使用を続ければ、明日の昼休みには、一階の教職員用トイレと生徒用トイレの便器から、三百人分の排泄物が逆流し、噴水のように溢れ出します。生徒に外を歩かせるか、校舎を巨大な汚物槽にするか。二つに一つです。長谷川先生、あなたの教室にバケツを用意しましょうか?」
その圧倒的な「物理的ファクト」と冷酷な二択の前に、抗議の声を上げていた教員たちは一瞬で黙り込んだ。誰も、糞尿の海を掃除したくはない。
「し、しかしだな、御子柴先生」
教頭の島田が、校長の顔色を窺いながらおずおずと口を開いた。
「仮設トイレと言っても、工事現場にあるような臭くて暗いアレだろう? さすがに教育環境として保護者からのクレームが……教育委員会もなんて言うか。それに費用だってバカにならないだろう」
「その点については、すでに『地盤沈下対策本部長』である権藤校長から、私に全権委任の決裁をいただいております」
御子柴は、懐から一枚の書類を取り出し、バンッと黒板に貼り付けた。
「原因不明の事態に際し、すべての業者手配および市役所との折衝は、私が校長の代理として行う。……でしたね、校長?」
話を振られた権藤校長は、ビクッと肩を震わせた。
事無かれ主義の権藤は、他の教員から文句を言われるのも、教育委員会に言い訳をするのも嫌なのだ。だからこそ、「特命」という名目で、面倒な実務とヘイトの矛先をすべて御子柴に丸投げしているのである。
「うむ……。緊急事態ゆえ、御子柴くんの専門的知見を尊重する。私も苦渋の決断なのだよ」
校長がもっともらしく頷くと、他の教員たちはそれ以上何も言えなくなった。
「ご安心ください。工事現場の臭いトイレなど用意しません」
御子柴は淡々と説明を続けた。
「市役所施設課の神林に、災害用の『大型自己完結型バイオトイレ』を十二基、緊急予算で引っ張らせるよう手配済みです。水も下水管も不要。おがくずと特殊な好気性微生物の力で、排泄物を水と二酸化炭素に分解する最新のハイテク機器です。便座にはヒーターが完備され、照明も明るく、嫌な臭いも一切しません。……価格は一基あたり約三百万円。総額で三千六百万円の代物です」
「さ、さんぜんろっぴゃくまん!?」
島田教頭が椅子から転げ落ちそうになった。
「ええ。行政の折衝は神林がきっちりやってくれます。明日の朝一番でグラウンドに搬入されます」
御子柴は一礼し、「では、私は茂木さんと封鎖作業がありますので」と、会議室を後にした。
文句を言う同僚を沈黙させ、泥被りは校長の名の下に神林へトスする。学内政治の防衛線は、御子柴の胃壁の犠牲の上に成り立っていた。
*
翌日の午前十時。市役所、教育委員会の会議室。
神林洋平は、施設管理課長の鶴見昭宏と向かい合っていた。
秋の給食室IH化の稟議を通した時よりも、鶴見の顔色はさらに悪化し、もはや透明に近い白さになっていた。
「神林くん……君は、私をショック死させる気かね?」
鶴見は、机の上に置かれた『臨時屋外排泄施設設置事案』の稟議書を震える手で指さした。
「夏に水道のジャバラ管で数百万! 秋に給食室のオール電化で数千万! 今度はグラウンドにバイオトイレを並べるために三千六百万円!? 冬のボーナスどころか、教育委員会の修繕予算を全部吹き飛ばす気か! だいたい、地盤沈下でトイレが使えないなら、仮設の汲み取り式トイレをリースすれば済む話だろう! なぜ一基三百万もする高級品を買う必要があるんだ!」
鶴見の悲痛な叫び声が会議室に響く。
だが、今日の神林も一歩も退かなかった。御子柴から叩き込まれた「逆勾配による逆流の危機」という絶対的なファクトが、彼を冷徹なマシーンへと変えていた。
「鶴見課長。お言葉ですが、汲み取り式トイレは『汲み取り作業』が必要です。バキュームカーを定期的に手配するランニングコストと、悪臭による周辺住民からのクレーム対応、どちらが安上がりだとお思いですか?」
神林は机に両手をつき、鶴見をギロリと睨みつけた。
「それに、今この瞬間も、見晴台中学校の下水管は逆勾配になっています。もし稟議を渋って校舎内のトイレの使用が継続されれば……鶴見課長、ご自身のデスクの足元から、三百人分の汚水と排泄物が噴き出してきたらどうしますか?」
「ひっ……! そ、想像させないでくれ!」
鶴見は顔を覆って身震いした。
「マスコミは必ずこう報じますよ。『教育委員会は、地盤沈下による下水管逆流の危険性を放置した挙句、生徒を汚物まみれの校舎で勉強させた。衛生管理の完全なる欠如』と。……市長の首どころか、鶴見課長、あなたのクビが物理的に飛びますよ」
神林の「マスコミ」と「市長の首」というキラーフレーズのコンボに、鶴見は完全にノックアウトされた。
「わ、わかった! わかったよ、神林くん! 災害予備費を全額突っ込んで何とかする! だから頼む、これ以上私を汚物の恐怖で脅さないでくれ!」
鶴見は、震える手で決裁印を引き寄せ、稟議書にバンッとハンコを押し付けた。
「ご英断、感謝いたします」
神林は深く一礼し、稟議書をひったくるようにして会議室を飛び出した。
胃の激痛と引き換えに、彼は三百人の生徒の尊厳と公衆衛生を守るための三千六百万円の予算をもぎ取ったのだ。
*
その週末、見晴台中学校のグラウンドの端(ここは岩盤上ではなく、土のグラウンドであるため移動していない安全地帯だ)に、トラックで運ばれてきた十二基の真新しいログハウス風の大型バイオトイレがズラリと並んだ。
「なんだこれ、キャンプ場かよ!」
「えー、外のトイレとか絶対ムリー! 寒ーい!」
月曜の朝、登校してきた生徒たちは、グラウンドの異様な光景と、校舎のトイレに張られた『使用禁止』のバリケードを見てブーブーと文句を言い始めた。
二年生の男子生徒数人が、登校指導に立っていた御子柴を取り囲んだ。
「御子柴先生! これマジで俺ら、休み時間のたびに外まで行くの? 超めんどくさいんだけど。なんで校舎のトイレ直せないの?」
生意気盛りの生徒の不満。
御子柴は無表情のまま、生徒たちを見下ろした。
「不満を口にして酸素とカロリーを消費するのは勝手だが、現状の物理的課題は一ミリも解決しないぞ」
「えっ……」
「校舎の基礎が沈下し、下水管が使い物にならなくなった。そのまま使えば、お前たちの汚物が校舎中に逆流する。それよりマシだろう」
御子柴は、冷徹な事実だけを叩きつけた。
「それに、あのバイオトイレは一基三百万する最新の科学技術の結晶だ。中にあるオガクズに微生物が棲んでいて、お前たちの排泄物を分解する。水洗トイレよりよほど衛生的で、便座も温かい。……文句を言う前に、実際にその目で最新のバイオテクノロジーを観察してこい。これは理科のフィールドワークの一環だ」
「り、理科のフィールドワーク……」
御子柴のあまりにも堂々とした(かつ理不尽な)論破に、生徒たちは顔を見合わせ、恐る恐るバイオトイレの中へと入っていった。
数分後。
「うわ、マジだ! 全然臭くねえ!」
「便座あったかーい! 校舎の古いトイレよりめっちゃ綺麗じゃん!」
中から、予想外の歓声が上がった。
そこへ、工具箱を持った校務技術員の茂木が満面の笑みでやってきた。
「おーい、みんな。使い方を教えるぞ」
茂木はバイオトイレの裏側に回り、手動のハンドルを握った。
「このトイレはな、用を足した後に、このハンドルを三十回ぐるぐる回すんだ。そうすると、中のオガクズと微生物が空気に触れて混ざって、汚物を綺麗に水と二酸化炭素に分解してくれる。ただ流すだけじゃない、自分たちで微生物を育てるんだぞ。面白えだろ?」
「なにそれ! 俺が回す!」
「あ、ずるい! 私も回したい!」
男子生徒も女子生徒も、最新技術と「自分でハンドルを回して処理する」というギミックに目を輝かせ、我先にとハンドルに群がった。
「よしよし、いいぞ。でも寒空の下で待つのは辛いからな。おじさんがこれから、このトイレの前に木材で立派な屋根付きのウッドデッキを作ってやる。待ってる間も雪や雨に濡れないようにな!」
茂木が宣言すると、生徒たちから「茂木さんスゲー!」「俺も手伝う!」と歓声が上がった。
御子柴は少し離れた場所で、腕を組んでその光景を眺めていた。
そこへ、一台の市役所の公用車が停まり、施設課の神林が疲れ切った顔で降りてきた。
「……おい、御子柴。なんだあの光景は」
神林は、生徒たちと茂木がワイワイとバイオトイレの周りに集まっているのを見て、呆れたように言った。
「俺が鶴見課長を汚物の恐怖で脅して、血反吐を吐きながら予算をもぎ取ってきた三千六百万円の仮設トイレが、完全にふれあい動物園かキャンプ場のアクティビティになってるじゃないか」
「若者の適応力というやつだ。それに、茂木さんのエンターテイナーとしての才能の賜物だな」
御子柴は、仏頂面のまま微かに口角を上げた。
かつてはただ蛍光灯を替え、落ち葉を掃くだけの孤独な作業員だった茂木。だが今、彼は「動く校舎のインフラを守るチーフエンジニア」として、生徒たちから絶大なリスペクトを集めている。
不便を強いられているはずの生徒たちも、茂木の手伝いと称して工具箱を運び、ウッドデッキの木材を押さえ、微生物のためのオガクズを補充し、この「異常な日常」をたくましくエンジョイし始めていた。
「とりあえず、下水の問題はこれで凌げる。電気、水、ガス、トイレ。生命維持に必要なインフラの対処療法は、これで一通りコンプリートだ」
御子柴は、コンクリートの犬走りの隙間に視線を落とした。
崖までの残距離、18.72メートル。行政上の死まで、残り1,572日。
校舎は今日も、音もなく、振動もなく、一日一センチの等速直線運動を続けている。
「だが、神林。これはあくまで時間を稼いだだけだ。根本的なタイムリミットは一秒も延びていない」
御子柴の冷たい声に、神林は再び胃の辺りを押さえた。
「あと約四年と三ヶ月で、校舎は法的限界ラインである崖の手前三メートルに到達し、建築基準法上使用不可となる。完全に封鎖され、生徒たちは学び舎を失う」
御子柴は神林を振り返り、決定的な宣告を下した。
「それまでに、この広い敷地内の『動いていない安全な場所(グラウンド南側)』に、新しい校舎を完全に建て直し、旧校舎を撤去しなければならない。……行政のスピードで、間に合うか?」
神林は、力なく乾いた笑い声を漏らした。
「公立中学校の新築建て替えを、四年ちょっとで完了させるだと? 予算の確保、地質調査、基本設計、実施設計、入札、そして施工……通常ならどんなに早くても七、八年はかかる巨大プロジェクトだぞ。それを四年でやれって?」
「四年ではない。建設に約三年、旧校舎の解体と撤去に一年はかかる。つまり、実質的なタイムリミットは『今すぐ』だ。この現象が発覚した時点である程度シミュレーションはしていただろ、鶴見さんを脅しに行け」
大人たちによる、不条理なバグとの戦い。
対処療法的なインフラ維持のフェーズは終わり、次はいよいよ、数十億の予算と行政の壁をぶち抜く「新校舎建設」という、終わりなき折衝の地獄が口を開けて待っていた。




