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第三章:都市ガス供給網完全切断および調理設備電化改修事案

【起案日】 令和〇年 一〇月〇五日

【宛 先】 市教育委員会 施設管理課長 鶴見昭宏 殿

【差出人】 市役所 都市整備部 施設課 神林洋平(※起案協力:見晴台中学校 理科教諭 御子柴哲)

【件 名】 都市ガス供給網完全切断および調理設備電化改修事案

【要 旨】

見晴台中学校における継続的な北側水平変位に伴い、地中埋設の都市ガス本管(鋼管)への過剰な応力集中が確認された。近日中の配管破断、およびそれに伴う大規模な爆発・火災リスクがレッドゾーンに達している。

つきましては、校舎内への都市ガス供給を即日物理的に遮断する。理科室等の実験用および冬季暖房用熱源については、代替措置として校舎外壁への「プロパンガスボンベ直接緊結(特注耐震ラック施工)」にて対応する。

また、都市ガス遮断に伴う給食室の熱源喪失を補填するため、補正予算(災害対応予備費)による業務用IH厨房機器への全面刷新を要求する。本件は爆発事故回避と衛生的な食事提供に直結するため、即日決済されたい。


【添付資料:校舎基礎部変位観測記録(起点日:五月一〇日)】

・観測日数:一四八日

・累積移動距離:一四八・〇〇センチメートル

「比例グラフのX軸とY軸をそのまま文章にして送ってくるなクソが!!」


十月上旬。秋の涼風が吹き始めた市役所一階、都市整備部のフロアに、施設課の神林洋平の怒鳴り声が響いた。

周囲の職員たちが「また見晴台中学校の件で発作が起きた」とモニターに視線を固定する中、神林はデスクに置かれたFAX用紙を親の仇のように睨みつけ、スマートフォンに向かって吐き捨てた。


『百四十八日で百四十八センチ。これ以上美しい等速直線運動の証明はない。行政の書類において、疑いようのない相関関係の提示は必須事項だ』

電話の向こうの御子柴哲は、感情の起伏を完全にフラットにした声で応じてくる。


「証明の前に俺の理性が崩壊するわ! 小学生でもわかる一次関数の計算結果を、いちいち報告書の末尾にドヤ顔で添付するな!」

神林は引き出しを乱暴に開け、胃薬のボトルから錠剤を取り出した。未執行予算の組み替えという曲芸を強いられるたび、彼の消化器官は強酸性の泥水で満たされるような不快感に襲われる。


『理性の崩壊より、鋼管の破断を恐れろ』

御子柴の声が、一段階冷たさを増した。

『五月の発覚から一メートル半近い移動だ。地中から基礎に伸びている都市ガスの鋼管が、限界を超えてひしゃげている。継ぎ手のフランジ部分からは既にチーッという異音が漏れ始めている。完全に引きちぎれるまで、持ってあと数日だ』


「……数日だと?」

神林の背筋に、嫌な汗が流れた。

「おい、夏の水漏れとはワケが違うぞ。ガス管が千切れたら……」


『地中から噴き出した高圧の都市ガスに、給食室の火気や漏電火花が引火する。数千トンのコンクリートの塊が、三百人の生徒を乗せたまま巨大な火柱を上げて吹き飛ぶ。今日の放課後、現場に来い』


ツーツーという電子音を聞きながら、神林はスマホをデスクに投げ出し、重い頭を抱え込んだ。

「……なんで俺が、爆弾処理班の指揮まで執らなきゃならないんだ」


   *


見晴台中学校の裏庭。

秋の冷たい風が吹き抜ける中、神林はスーツの袖をまくり上げ、校舎の基礎部分を凝視していた。


「……なぁ、御子柴。マジでヤバい音がしてないか、これ」

「私は観測事実しか口にしない」


神林の隣で、白衣姿の御子柴は無表情に腕を組んでいた。

彼らの足元にあるのは、地面から突き出し、校舎の基礎部分へと繋がっている太い鋼管――都市ガスの引き込み管だ。

本来垂直であるべきその鉄の管は、校舎の移動に引きずられ、斜め四十五度近い異様な角度にまでひしゃげている。地際のアスファルトは無惨に砕け散り、配管のフランジ(継ぎ手)部分からは、「チーッ……」という微かな、しかし確実にガスが漏れ出している嫌な音が聞こえていた。

巨大なコンクリートの塊が摩擦を無視して進む異常な推力。それに鋼管が耐え続けられるはずがない。


「止めろ! 今すぐガス会社の緊急車両を呼んで、元栓を完全封鎖しろ! 爆発してからじゃ遅いんだぞ!」

神林が悲鳴のように叫ぶと、御子柴の背後に控えていた校務技術員の茂木健吉が、顎に手を当てて困ったように言った。


「神林さん。ガスの元栓を閉めるのは簡単ですが、そうすると給食室の火が使えなくなります。それに、もうすぐストーブの季節です。理科の実験で使うガスバーナーも全滅ですよ」


「だからって、ガス管を繋いでおくわけにはいかないだろうが! お前ら、自分が巨大な時限爆弾の上に乗って授業してるって自覚あるのか!?」

「自覚はある。だから今日中に切断する」御子柴は即答した。「その上で、代替熱源の確保手続きを頼む」


「代替の熱源って……どうすんだよ。ガス会社が鋼管のフレキシブル特注品なんて認めるわけがないぞ」

「配管を地面から引くのは諦める。外壁にプロパンガスの巨大なボンベを十数本用意し、鋼鉄のバンドとアンカーボルトで直接緊結する」


「……は?」

神林は自分の耳を疑った。

「外壁に……ぶら下げる? プロパンガスを?」


「そうだ」御子柴は真顔で頷いた。

「地面から管を引くから千切れる。なら、熱源を校舎という移動体の上に一緒に乗せてしまえばいい。ボンベごと校舎が動くなら、配管への負荷はゼロだ」


「お前、頭おかしいだろ!」

神林は思わず立ち上がり、御子柴に詰め寄った。

「中学校の校舎の壁に、プロパンガスを鈴なりにぶら下げるだと!? それこそ正真正銘の『移動式爆弾』じゃないか! 万が一落下したらどうするんだ!」


「お任せください、神林さん!」

突然、茂木が腕まくりをして満面の笑みで前に出た。

「落下なんか絶対にさせませんよ! 鉄工所の親父と相談して、H鋼と極太のボルトを組み合わせて、絶対に外れないステンレス製の特注ラックを外壁に溶接しますから! なんかこう、宇宙船のブースターみたいでカッコいい仕上がりになる予定です!」

「カッコよさの問題じゃねえよ! 中学校がロケットになってどうするんだ!」

異常事態に順応しすぎた校務技術員のノリノリの提案に、神林は突っ込みの処理落ちを起こしかけていた。


「問題は給食室だ」

御子柴は、神林の抗議を完全に無視して話を進めた。

「プロパンガスでは火力が足りない。給食室の熱源は、電気に頼るしかない。業務用IH厨房機器への全面刷新だ」


「給食室を丸ごとIH化しろって言うのか!?」

「そうだ。電線にはまだ弛みの余裕がある。ガスを使わずに給食を作るには、それしか方法がない」

御子柴は、神林の肩をポンと叩いた。

「夏に数百万使ったばかりだが、数千万円規模の補正予算が必要になる。鶴見さんを説得してこい」


「……お前なぁ」

神林は、空を仰いで深く、深いため息をついた。

「俺、この学校の担当になってから、着実に死期が近づいている気がするんだが」

「安心しろ。私の消化器官も限界に近い」


御子柴は、白衣の上から胃の辺りをそっと押さえた。

「これから私は、給食室の栄養教諭と権藤校長を説得しに行かなければならない。お前はさっさと市役所へ戻れ」


   *


その日の夕方。

御子柴は、学内政治という名の沼の底に立っていた。

インフラの物理的限界よりも、変化を嫌う人間の感情をコントロールする方が、よほど彼の精神を消耗させる。


「給食室をオール電化!? そんなの絶対に反対です!」

給食室の責任者であるベテラン栄養教諭の丸山は、御子柴の提案を聞くや否や、調理用の巨大なお玉を握りしめて激怒した。

「ガス火ならではの強い火力がなきゃ、美味しい炒め物も揚げ物も作れないんですよ! 今月の献立だって全部決まっているのに、いきなりIHに変えろだなんて、現場の苦労を何だと思ってるんですか!」


丸山の背後では、他の調理員たちも「そうだそうだ」とエプロン姿で不満の声を上げている。

御子柴は、胃の奥がキリキリと捻り上げられるのを感じた。


「丸山先生」

御子柴は、仏頂面のまま極めて事務的に告げた。

「ガス火の美味しさと引き換えに、給食室が吹き飛んで全員が黒焦げになるリスクを許容できますか」


「ば、爆発……」

「配管は限界です。明日から毎日冷たい弁当を持参させるか、それともIHで調理した温かい給食を食べさせるか。栄養教諭としてご判断ください」


「ぐっ……生徒のためと言われたら……」

丸山は悔しそうにお玉を下げた。冷徹な事実と「生徒のため」という無敵のカードの前に、現場の不満は強制的に鎮圧された。


続いて、御子柴は校長室の扉を叩いた。

事無かれ主義の権藤校長と島田教頭が、御子柴の提出した『都市ガス切断およびIH化緊急工事決裁書』を見て、案の定、顔面を蒼白にしていた。


「み、御子柴くん! 給食室の全面IH化って、予算が数千万円単位になるぞ! 夏に水道工事をやったばかりなのに、教育委員会がこんな稟議を通すわけがない!」

「校舎の外壁にプロパンガスをぶら下げるなんて、見た目が物騒すぎる! 保護者からクレームが来たらどうするんだ!」


「クレームで済めば御の字です」

御子柴は冷たく言い放った。

「ガスが爆発して生徒が死ねば、クレームでは済みません。校長と教頭は、間違いなく業務上過失致死で逮捕されます。……校長。これは地盤沈下に伴う不可抗力です。あなたは被害者として、堂々と教育委員会に予算を要求すればいいんです」


「逮捕……」

権藤校長はブルッと身震いし、震える手で決裁印を稟議書に押し付けた。

「わかった……! この件は、すべて市役所の神林くんに何とかしてもらうよう頼んでくれ! 私からは直接鶴見課長には言いづらい!」


(このタヌキ親父め)

御子柴は内心で毒を吐きながらも、「承知いたしました」と一礼し、校長室を後にした。


   *


翌日の午前十時。市役所、教育委員会の会議室。

神林は、施設管理課長の鶴見昭宏と向かい合っていた。

夏の上水道工事の稟議を通した時よりも、鶴見の顔色はさらに悪化し、神経質そうな銀縁眼鏡の奥の目は血走っていた。


「神林くん……君は、私を殺す気かね?」

鶴見は、机の上に置かれた『給食室IH化緊急改修工事』の稟議書を震える手で指さした。


「夏に、上水道の特注ジャバラ管で数百万の予備費を使わせたばかりじゃないか! 今度は給食室のオール電化で数千万!? 前例がない! そもそも、地盤沈下でガスが使えないなら、保護者に頼んで毎日弁当持参にしてもらえばいいだろう! なぜそこまで大掛かりな工事が必要なんだ!」

鶴見の怒鳴り声が会議室に響く。彼もまた、議会への説明と予算の付け替えで精神をすり減らす中間管理職なのだ。


だが、今日の神林は退かなかった。御子柴から突きつけられた「爆発の危機」という絶対的なファクトが、彼の公務員としてのリミッターを解除していた。


「鶴見課長。お言葉ですが、弁当持参への切り替えは極めて危険です」

神林は机に両手をつき、鶴見をギロリと睨みつけた。

「もし、各家庭から持参した弁当の保管状況が悪く、校内で集団食中毒が発生したらどうなりますか?」


「しょ、食中毒……」

「マスコミは必ずこう報じますよ。『教育委員会は、地盤沈下によるガス漏れの危険性を放置した挙句、給食の提供を停止。その結果、生徒に不衛生な弁当を持参させ、集団食中毒を引き起こした』と。……市長の首どころか、鶴見課長、あなたのクビが物理的に飛びますよ」


鶴見の顔から、さっと血の気が引いた。


「極論ではありません。危機管理です」

神林は声を張り上げた。

「都市ガスの配管は、今日にでも破断する寸前なんです。もしガス爆発が起きれば、見晴台中学校の生徒三百人が死にます! 弁当で食中毒を出すか、ガス爆発で学校ごと吹き飛ばすか! どちらの責任を取るおつもりですか!」


会議室は、水を打ったように静まり返った。

神林の言葉は、公務員としての完全な「脅迫」だった。だが、その根底には「生徒の命を守る」という大義名分が強固な岩盤のように敷き詰められている。

鶴見は、口をパクパクと開閉させた後、ハンカチで滝のように流れる額の汗を拭った。


「……わかった。わかったよ、神林くん」

鶴見は、震える手で決裁印を引き寄せた。

「災害対応の予備費と、次年度の修繕予算の前倒しでなんとかする。だが、外壁にプロパンガスをぶら下げる件だけは、絶対に消防の監査に通るように頑丈にやれよ! 頼むから、これ以上私を脅さないでくれ!」


「ご英断、感謝いたします」

神林は深く一礼し、稟議書をひったくるようにして会議室を飛び出した。

胃粘膜の代償として、彼は給食室のIH化と、ガス配管切断の許可をもぎ取ったのだ。


   *


その週末、見晴台中学校では前代未聞の突貫工事が行われた。

重機が入り、都市ガス管の本管が物理的に完全切断された。代わりに、校舎の北側外壁には、茂木と地元の鉄工所が溶接して作った強固なステンレス製のラックが取り付けられ、そこに銀色の巨大なプロパンガスボンベが十数本、ズラリと鈴なりに固定された。

その光景は、控えめに言ってもSF映画に出てくるディストピア的な要塞だった。


「すげー! なにこれ、校舎にロケットブースターついてる!」

「これで学校ごと空飛ぶのかな!」

月曜日の朝、登校してきた生徒たちは、外壁のプロパンガス群を見て呑気にはしゃいでいた。彼らは、自分たちの学び舎が「毎日一センチ動いている」ことなど知る由もない。


一方、給食室では最新式の業務用IH調理器が搬入され、丸山をはじめとする調理員たちが戸惑いながらも、安全な電気の熱源で温かい給食を作り始めていた。


御子柴と神林は、校舎の裏手で缶コーヒーを飲みながら、その外壁のボンベ群を見上げていた。


「見事なものだろう。これでガス爆発の危険は去り、温かい給食も維持された。お前の行政ハックの賜物だ」

御子柴が珍しく褒め言葉を口にすると、神林は缶コーヒーを握りしめたまま、ギリッと歯を食いしばった。


「……俺、この数ヶ月で寿命が十年縮んだ気がするぞ」

神林は、胃の辺りをさすりながら、静かに、しかし深い怒りを込めて呟いた。

「こんなクソみたいなバグの尻拭いのために、鶴見課長を脅迫する羽目になるなんてな」


「頼もしいな」

御子柴は無表情のまま缶コーヒーを飲み干した。


崖までの残距離、19.77メートル。

行政上の死まで、残り1,677日。


水、電気、ガス。三つのインフラ防衛戦は、大人たちの力技と事務手続きによって辛くも勝利を収めた。

だが、彼らが直面している「基礎単位の不条理」は、休むことなく進行を続けている。

次は、最も危険で厄介な、重力に依存するインフラ――「下水」という名の、命懸けの防衛戦が彼らを待ち受けていた。

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