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第二章:上水道配管伸縮性向上緊急工事および維持管理予算執行稟議

【起案日】 令和〇年 七月一九日

【宛 先】 市教育委員会 施設管理課長 鶴見昭宏 殿

【差出人】 市役所 都市整備部 施設課 神林洋平(※起案協力:見晴台中学校 理科教諭 御子柴哲)

【件 名】 見晴台中学校上水道配管伸縮性向上緊急工事および定期延長維持管理予算執行稟議

【要 旨】

見晴台中学校における継続的な北側水平変位(スライド現象)に伴い、現在敷設されている硬質塩化ビニル製の上水道引き込み管が物理的牽引の限界点に達しており、近日中の破断および大規模漏水が確実な状況である。

つきましては、本年度夏期休業期間を利用し、地中埋設管を一部地上へ露出させた上で、「伸縮許容量十メートル」の特注ステンレス製フレキシブルジョイントを導入する緊急工事を実施する。また、当該変位現象の終息時期が不明であるため、次年度以降も毎夏期休業に「フレキシブル管を数メートルずつ継ぎ足す」工事を、本校における恒久的なインフラ維持管理費として予算化されたい。


【添付資料:校舎基礎部変位観測記録(起点日:五月一〇日)】

・観測日数:七一日

・累積移動距離:七一・〇〇センチメートル

「日付のセルをセンチメートルに変換しただけの表を添付資料と呼ぶなクソが!!」


七月中旬。うだるような熱気が窓ガラスを叩く市役所一階、都市整備部のフロアに、施設課の神林洋平の鋭い怒声が響き渡った。

周囲の職員たちが「また見晴台中学校の件か」と書類から目を逸らす中、神林はデスクに置かれたFAX用紙を睨みつけ、耳に押し当てたスマートフォンに向かって吐き捨てた。


『定数変化を侮るな。七十日間、寸分違わず等速直線運動を続ける構造物という異常性を、視覚的な直線のグラフで叩きつけることこそが行政手続きにおける最大の説得材料になる』

電話の向こうの御子柴哲は、感情の起伏を完全にフラットにした声で応じてくる。


「説得材料になる前に俺の神経が削られてんだよ! 毎回毎回、クイズみたいな無駄な行を足すな!」

神林は引き出しを乱暴に開け、常備しているガスター10のシートを指で強く押し込んだ。稟議書の決裁ルートを強引にねじ曲げるたび、彼の内臓は使い古された雑巾のようにギリギリと絞り上げられる。


『内臓の収縮より、今は塩ビ管の膨張を心配してくれ』

御子柴の声が、一段階冷たさを増した。

『五月の発覚から七十一センチの移動だ。地中から基礎に伸びている上水道の配管が、弓の弦のように限界まで引き伸ばされている。継ぎ手のフランジ部分からは既に水滴が滲み出している状態だ。完全に引きちぎれるまで、持ってあと一週間というところだろう。夏休みに突入した直後に、緊急工事をねじ込めるか』


「……やるしかないだろ。すでに地元の管工事組合には声をかけて、ありったけのステンレス製フレキシブルジョイントをかき集めさせてる。今日の午後、現場の最終確認に行くから、お前も立ち会え」

『了解した』


ツーツーという無機質な電子音を聞きながら、神林はスマホをデスクに投げ出し、汗ばんだネクタイを緩めた。

「なんで俺が、歩くコンクリートの箱に水を飲ませるための土木工事をやらなきゃならないんだ……」


   *


見晴台中学校の裏庭。

ジリジリとアスファルトを焦がすような凶悪な日差しの中、神林はハンカチで滝のように流れる汗を拭いながら、校舎の基礎部分を見下ろしていた。


「……なぁ、御子柴。マジで限界じゃないか、これ」

「私もそう報告したはずだが」


神林の隣で、白衣姿の御子柴は無表情に腕を組んでいた。

本来であれば垂直に地中から校舎へ向かって伸びているはずの灰色の塩化ビニル管が、ピーンと張った状態で斜めに傾斜している。管の表面には細かい亀裂が白く浮き上がり、ジョイントの隙間からは「チーッ」という微かな音と共に、水道水が霧状に噴き出していた。

数千トンの中学校が、毎日一センチずつ移動する力。それに引っ張られ続けているのだ。よく今まで破断せずに持ち堪えたと、塩ビ管の耐久性に理不尽な拍手を送りたくなる惨状だった。


「電気の方はどうなってる?」

神林が上を見上げながら尋ねると、背後に控えていた校務技術員の茂木健吉が、首に巻いたタオルで汗を拭いながら答えた。


「電気はひとまずクリアしました。先月、電力会社の人を拝み倒しましてね。電柱から校舎への引き込み線を、異例の長さでだらんと弛ませて結線してもらったんです。『台風が来たら断線するぞ、みっともない』とひどく怒られましたが、権藤校長に『地盤沈下で校舎が少し傾いているため、安全マージンを最大限取ってくれ』と強引に一筆書いてもらいまして」


茂木が指さす先、空を見上げると、ぶ太い黒いケーブルが、不自然なほどのU字カーブを描いて校舎の屋上へと繋がっている。

「なるほど、電線は『空中の余裕』で対応したわけか。茂木さん、ファインプレーだ」

神林が感心したように頷く。


「ええ。ですが、地中に埋まっている水道とガスは、弛ませる余裕なんてありません。特に水道は、御子柴先生の言う通り、もう今日明日にでもパーンと弾け飛んでもおかしくない状態です」

茂木の顔が真剣なものになる。


「ガスについては後回しだ。まずは『水』だ」

御子柴が、神林の方へ向き直った。

「人間は水がなければ死ぬ。ましてやこれから夏本番だ。部活動で登校している生徒たちから水分を奪えば、熱中症でバタバタと倒れるぞ。神林、業者の手配はどうなっている」


「手配はした。だがな、御子柴」

神林は胃の辺りを押さえながら、顔をしかめた。

「お前が要求した『十メートル伸び縮みする特注のフレキシブル管』ってのは、本来免震構造のビルなんかで使う代物だぞ。普通は地中のピットに隠すもんだ。それを地上に露出させて、トグロを巻かせるように設置するなんて……景観もクソもない。教育委員会が首を縦に振ると思うか?」


「振らせるのがお前の仕事だろう」

御子柴は、白衣のポケットから小瓶を取り出し、神林に放り投げた。

「ほら、第一三共胃腸薬だ。ガスター10とトレードしてやる。教育委員会の鶴見さんは前例主義で頭が固いが、『マスコミの報道』という言葉には極端にアレルギー反応を示す。そこを突け」


「……お前、昔から他人に一番厄介な実務を丸投げする才能だけは天才的だな!」

神林は受け取った小瓶をポケットに突っ込み、代わりに自分の胃薬のシートを御子柴に押し付けた。


   *


その頃、御子柴もまた、学内政治という名の泥沼の戦場で疲弊していた。

市役所の神林が外で予算をもぎ取る戦いをしている間、御子柴は内側で、事情を知らない同僚教員たちの不満を力技で鎮圧しなければならない。非論理的な感情論をぶつけられるたび、彼の消化器官は塩酸のプールに沈められるような重苦しい疲労感を覚えるのだ。


「御子柴先生! ちょっとどういうことですか!」

放課後の職員室。ドスドスと足音を荒立てて御子柴のデスクにやってきたのは、体育教師で水泳部顧問の大門だった。彼は真っ黒に日焼けした顔を紅潮させ、怒りを露わにしている。


「夏休みに入って早々、大規模な水道管の改修工事が入るってプリントが回ってきましたよ! 断水になる日もあるって、ふざけないでください! プールの授業や水泳部の練習はどうなるんですか!」

大門の怒鳴り声に、周囲の教員たちも「そうだそうだ」「吹奏楽部だって困る」「トイレが使えないなんて」と同調の声を上げ始める。


御子柴は、手元のパソコンで入力していた観測データの画面を最小化し、ゆっくりと立ち上がった。

「大門先生。声が大きすぎます。酸素の無駄遣いですよ」

「なんだと!」


「地盤沈下の影響により、本校の上水道引き込み管は物理的な破断寸前です」

御子柴は、仏頂面のまま、極めて事務的なトーンで事実を告げた。

「今すぐ工事を行わなければ、配管が破裂し、校舎の裏に数十メートルの水柱が上がります。そうなれば、プールどころか、この学校全体の機能が数ヶ月にわたって完全停止します。それでも工事を延期しろと仰るなら、対策本部長である校長に直接具申してください」


「そ、それは……しかし、夏休みの部活の給水はどうするんだ!」

「それについては、すでに手を打ってあります」

御子柴は、デスクの中から業者との契約書を取り出し、大門の胸に押し付けた。


「ウォーターサーバーのレンタル業者と契約し、各階の廊下および体育館に計二十台を緊急設置させました。費用は『地盤沈下対策予備費』から捻出済みです。プールの水については、断水日を避けて事前に満水にしておくよう、茂木さんに指示してあります。……他に何か不満がありますか?」


大門は、契約書と御子柴の冷たい顔を交互に見比べ、ぐぬぬと唸り声を上げた。

「わ、わかったよ! ウォーターサーバーがあれば、熱中症対策にはなる……だが、工事の騒音はどうするんだ! 授業の補習に影響が……」


「大門先生。インフラの維持と、多少の騒音。どちらが『生徒の命』に直結するか、体育教師であるあなたが一番よく理解しているはずですが」

御子柴の低い、凄みのある声に、大門は完全に言葉を失い、「……チッ、わかったよ!」と捨て台詞を残して自分のデスクへ戻っていった。


御子柴は小さく息を吐き、椅子に座り直した。

ポケットの中にある、神林からトレードしたガスター10のシートを指先で押し出す。

『……まったく。物理学の真理を追究するより、現状維持を望む同僚を黙らせる方がよほど骨が折れる。神林の奴も、今頃地獄を見ているだろうな』


   *


その頃。市役所、教育委員会の会議室。

御子柴の予想通り、神林は地獄の釜の底で抗弁を続けていた。


「か、神林くん……君は、私をからかっているのかね?」

施設管理課長の鶴見昭宏は、神経質そうに銀縁眼鏡をズラしながら、神林が提出した稟議書を震える指で弾いた。

「地盤沈下対策とはいえ、『上水道配管の定期延長メンテナンス』というのは一体どういう冗談だ! 毎年夏休みに配管を数メートルずつ継ぎ足すなどという前例は、全国の学校を探してもどこにもない! そもそも、地上に十メートルものフレキシブル管を露出させてトグロを巻かせるなど、学校の景観としてあり得ん!」


「景観の問題ではありません、鶴見課長」

神林は机に身を乗り出し、切実な、そしてドスを効かせた声を出した。

「見晴台中学校の地盤変位は、想定を遥かに超える異常な速度で進行しています。もしこのまま放置すれば、夏休みに入る前に上水道の配管は完全に破断します。真夏の炎天下で、部活動や補習に来ている生徒たち三百人の飲み水が消滅し、トイレの水も流せなくなるんです。手洗いもうがいもできない。熱中症による救急搬送、脱水症状で生徒がバタバタと倒れる……想像してみてください」


神林は、鶴見の目から逃げられないように顔を近づけた。

「マスコミは必ず飛びつきますよ。『教育委員会は、配管破裂の危機を事前に把握していながら、見栄えや前例を気にして工事を見送り、生徒を命の危険に晒した』と。……市長の首どころか、鶴見課長、あなたがマイクを向けられて謝罪会見をする羽目になりますよ」


鶴見の顔から、さっと血の気が引いた。

「そ、そんなことは言っていない! 私はただ、前例がないと……!」


「前例がない異常事態だからこそ、特例措置が必要なんです!」

神林は畳み掛けた。

「特注のフレキシブル管を導入し、毎年の夏休みに『継ぎ足し工事』を行う。これしか、恒久的に水を供給し続ける物理的な手段はありません。生徒の生命と教育環境の確保を最優先に考える鶴見課長であれば、ご英断いただけると信じております」


鶴見はハンカチを取り出し、滝のように流れる額の脂汗を拭った。

「生徒の安全……そうだな。教育環境の確保は何よりも優先されねばならん。マスコミに騒がれては市長の首も飛ぶ」

彼はぶつぶつと呟きながら、決死の覚悟で万年筆を握り、稟議書に決済のサインを書き殴った。


「予算はなんとか災害対応の予備費から捻出しよう。だが神林くん! くれぐれも業者には内密にやるように伝えてくれよ。地盤沈下で学校が動いているなんて噂が広まれば、それこそ大パニックだ!」

「ご安心ください。あくまで『特殊な耐震強化工事』として処理します」


神林は深く一礼し、稟議書をひったくるようにして会議室を飛び出した。

胃粘膜の犠牲と引き換えに、彼は生徒たちの命綱である「水」を確保するための、数百万の緊急予算執行許可を握りしめていた。


   *


八月上旬。夏期休業に入った見晴台中学校。

蝉の鳴き声がやかましく響く裏庭で、大規模な水道管の改修工事が行われていた。

重機が唸りを上げ、地中に埋まっていた古い塩ビ管を掘り起こし、根元で切断する。そこに接続されたのは、地元の管工事組合に泣きついて特注で作らせた、直径十センチ以上ある巨大なステンレス製のフレキシブルジョイント管だった。

さらに、冬場の凍結や夏場の水温上昇を防ぐため、配管の周囲には分厚い断熱材グラスウールがぐるぐると巻き付けられ、銀色の耐候テープで厳重にテーピングされている。


「いやあ、神林さん。私も三十年水道屋をやってますが、こんな仕事は初めてですよ」

ヘルメットを被った配管業者の親方が、呆れたように笑いながら汗を拭った。

「いくら地盤が緩いからって、十メートルも伸び縮みするジャバラ管を地上に転がしておくなんて。しかもこの断熱材の分厚さ。完全に『巨大な銀色のイモムシ』ですよ、これ」


「背に腹は代えられんのですよ、親方」

現場監督として立ち会っていた権藤校長が、苦虫を噛み潰したような顔で言った。

「景観よりも実利です。生徒たちが安全に水を飲めるなら、銀色のイモムシだろうが何だろうが飼い慣らすしかありません」


「まあ、役所が金を出すって言うなら文句はありませんがね」

親方は不思議そうに校舎の壁を見上げた。

「しかし、本当に動いてるんですかねえ、このデカい建物が。音一つしないのに」

「気のせいです。ただの局地的な地盤のズレですよ」

神林が間髪入れずにごまかした。


工事は三日で完了した。

地中の本管から地上へと飛び出した太い銀色のイモムシは、まるで校舎に命を供給する巨大なへその緒のように、何重にもトグロを巻いて校舎の外壁に接続されている。

校舎が一日一センチ移動するたびに、そのトグロがミリ単位で微かに動き、管が少しずつ伸びていく仕様だ。


「見事な物理的パッチ処理だ」

工事が終わり、静寂を取り戻した夕暮れの裏庭で、御子柴が満足そうに頷いた。

「これで、向こう数年間は水道管が破断する心配はない。トグロが伸び切ったら、また神林に予算を取らせて継ぎ足せばいい」


「お前なぁ……本当に毎年俺にあの稟議書を書かせる気か?」

隣に立つ神林が、恨めしそうに御子柴を睨んだ。

「鶴見課長を騙し続けるのも限界があるぞ。今年は『初期対策の予備費』で通ったが、来年以降『配管が足りなくなったから継ぎ足す』なんて予算要求、市の監査が入ったら一発でアウトだぞ。維持補修費の名目で書類をどう偽装するか、今から胃が痛い」


「そこをなんとかするのが、優秀な行政マンの腕の見せ所だろう」

御子柴はフッと口角を上げ、白衣のポケットから薬の瓶を取り出して神林に押し付けた。


「それに、神林。水と電気のクリアは、あくまで序章に過ぎない」

御子柴は、フレキシブル管の隣に埋設されている、黄色い警告テープが巻かれた配管――『都市ガス』の管を見つめた。

崖までの残距離、20.54メートル。行政上の死まで、残り1,754日。


「上水道はゴムやステンレスのジャバラでごまかせる。最悪、破断して水漏れしても周囲が水浸しになるだけだ。電気は弛ませればいい。だが、ガスはそうはいかない」

御子柴の言葉に、神林の顔からスッと血の気が引いた。


「ガス管にフレキシブルジョイントを使って、もし移動の負荷で亀裂が入ったら……」

「ああ。漏れ出したガスに引火し、給食室が吹き飛ぶ。大惨事だ」


御子柴は冷徹な声で告げた。

「遅くとも秋口には限界が来て、ガス管は破断する。タイムリミットは迫っているぞ」


神林は、空を仰いで深く、深いため息をついた。

「……おい、御子柴。俺たち、一体何と戦ってるんだ?」

「決まっているだろう。不条理だ」


水と電気のインフラ防衛戦は、大人たちの力技と事務手続きによって辛くも勝利を収めた。

だが、彼らが直面している「基礎単位の不条理」は、まだその牙のほんの一部を剥いただけに過ぎなかった。

次は、最も危険で厄介な、ガスと給食の維持という命懸けの実務が彼らを待ち受けていた。

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