第5話 名前を書くという仕事
紙は、思った以上に足りなかった。
正確には、紙そのものよりも「書く」という行為に慣れた人間が、ほとんどいなかった。
執務室の机に並べた簡易な申告用紙を前に、私は小さく息を吐く。
項目は最低限だ。名前、年齢、家族構成、できる仕事。たったそれだけ。
だが、その「名前を書く」という行為が、領民たちを立ち止まらせていた。
「……字が、書けなくて」
「問題ありません。口頭で構いません」
私はそう答え、横に立つ少女に視線を向けた。
「ミレイア、お願い」
「はい!」
彼女は元気よく返事をし、炭筆を握った。
昨日、倉庫整理を手伝っていた孤児の一人だ。読み書きができると分かり、私が半ば強引に連れてきた。
年は十六。痩せているが、目は澄んでいる。
紙に向かう姿勢が、少し誇らしげなのが印象的だった。
「お名前をどうぞ」
「……トム」
「年齢は?」
「四十と、少し」
ミレイアが書き取る。
それを、トムはじっと見つめていた。まるで、自分の存在が紙に定着する瞬間を、初めて目にするかのように。
(そうか)
胸の奥で、何かが腑に落ちる。
この人たちは、数字以前に「記録されたことがない」のだ。
名前を書かれない人間は、管理されない。
管理されない人間は、切り捨てられる。
それは前世でも、今世でも同じだった。
申告は、思った以上に時間がかかった。
だが、誰も途中で帰ろうとはしない。順番を待ち、紙を覗き込み、時には不安そうに質問をする。
「これを書いたら、何が変わるんだ?」
「すぐには、何も」
私は正直に答えた。
「でも、あなたが“ここにいる”ことは、残ります」
その答えに、誰かが小さく笑った。
馬鹿にした笑いではない。少し照れたような、不思議な響きの笑いだった。
昼過ぎ、申告は一段落した。
紙の束は、予想以上に分厚い。
(人口、想定より多い)
(そして、働ける人間も)
老人と子どもが多いのは事実だが、完全に働けないわけではない。
軽作業、裁縫、修繕、見張り。役割はいくらでもある。
私は紙を整理しながら、代官ハロルドに言った。
「明日から、簡単な仕事の割り振りをします」
「仕事……ですか」
「ええ。無償ではありません。食料か、最低限の賃金を出します」
彼は一瞬、驚いた顔をした。
「今まで、そういうことは……」
「だから、今まで通りでは続かないんです」
はっきり言うと、ハロルドは苦笑した。
反論はない。反論できるだけの実績が、もうない。
その日の夕方、私は集落を歩いた。
豪雪に備えて、壊れた屋根を直す家。薪を割る老人。子どもたちが、遠巻きにこちらを見ている。
その中の一人が、勇気を振り絞ったように近づいてきた。
「……お嬢様」
「リリアーナでいいわ」
「じゃあ……リリアーナ様。本当に、冬を越せるの?」
率直な質問だ。
私は少し考え、正直に答える。
「分からない」
「……」
「でも、越えるための準備はする。何もしないより、ずっといい」
子どもは黙り込み、それから小さく頷いた。
「それなら……いいや」
その言葉が、胸に残った。
完璧な保証など、誰にもできない。だが、向き合う姿勢は伝わる。
夜、執務室で紙を広げる。
人口、年齢、技能。
数字が、ようやく形を持ち始めている。
その時、扉が控えめにノックされた。
「入って」
顔を出したのは、ミレイアだった。
「……その、今日の分です」
差し出されたのは、きちんと束ねられた申告用紙。
文字はまだ拙いが、丁寧だ。
「ありがとう。助かったわ」
「いえ……その……」
彼女は少し迷い、それから言った。
「……明日も、来てもいいですか」
私は一瞬、驚いた。
だがすぐに頷く。
「もちろん。むしろ、お願いしたい」
「……はい!」
その顔が、ぱっと明るくなる。
役割を与えられるということが、人をここまで変えるのかと、改めて思う。
ミレイアが去った後、私は一人で帳簿を眺めた。
(名前を書くという仕事)
(それは、存在を認めるということ)
この領地では、それが欠けていた。
だから、人も物も、簡単に消えていった。
私は炭筆を取り、表紙に大きく書く。
――グレイス辺境伯領 人口台帳(仮)
仮でいい。
未完成でいい。
だが、ここに書かれた名前は、もう“なかったこと”にはさせない。
窓の外で、風が唸る。
冬は近い。
それでも、帳簿の中には、確かに“人”がいた。
それだけで、この領地はまた一歩、生き延びる方向へ進んでいる。




