第2話 辺境到着、数字よりも寒さが深刻でした
王都を出た馬車は、想像以上に揺れた。
舗装された道が途切れ、土と石がむき出しになるにつれて、車輪は容赦なく跳ねる。窓の外を流れる景色から、徐々に人の気配が消えていった。
――辺境、という言葉は伊達じゃない。
同行する騎士は四名。護衛という名の監視役だ。彼らは必要以上に口を開かず、私の一挙一動を観察している。逃げ出すとも、暴れるとも思っていないだろうに、それでも“仕事”なのだろう。
夜営は粗末だった。
焚き火の熱よりも、風の冷たさの方が勝っている。毛布を重ねても、骨の奥に寒さが染み込んでくる。
(気候条件、想定より厳しい)
頭の中で、無意識にメモを取る。
この寒さでは、作物の種類を選ばないと即死だ。冬越しの備蓄がなければ、領民は確実に減る。
……帳簿どころの問題じゃない。
三日目、ついに目的地が見えた。
グレイス辺境伯領の中心地――そう呼ぶには、あまりにも小さな集落だった。
石造りの門は欠け、見張り台には人影がない。壁の外では、痩せた畑が風に晒されている。畑というより、諦めの跡に近い。
馬車が止まると、数人の住民が恐る恐る顔を出した。
衣服は古く、修繕の跡だらけ。子どもは少ない。老人が多い。……典型的な、衰退地域。
「辺境伯代理、リリアーナ・フォン・グレイス様のご到着だ!」
騎士が声を張るが、反応は薄い。
拍手も歓声もない。ただ、困惑と警戒が混じった視線が集まるだけだ。
その中から、一人の男が前に出た。
年の頃は五十前後。腹が出て、顔色が悪い。服は比較的まともだが、目が落ち着かない。
「わ、私は代官のハロルドでございます……」
名乗りながら、額の汗を拭う仕草が早すぎる。
ああ、分かりやすい。
「本日より、こちらを預かることになりました。リリアーナです」
私は軽く頷いた。
ハロルドは安堵したように息を吐いたが、その目の奥にあるのは歓迎ではなく、警戒と計算だ。
通された館は、かつては立派だったのだろう。
だが今は、壁にひびが入り、暖炉も半分しか機能していない。使用人の姿もまばらだ。
「こちらが……執務室となります」
執務室、と呼ばれた部屋には、机が一つと椅子が二脚。書棚は空に近い。
書類は――予想通り、ない。
私は上着を脱ぎ、椅子に腰掛けた。
「まず、現状を教えてください。人口、税収、備蓄、負債」
「え、ええ……その……」
ハロルドの視線が泳ぐ。
口を開き、閉じ、また開く。
「細かい数字は……今は把握しておらず……」
「把握していない?」
「い、いえ、その、前任の辺境伯様が亡くなられてから、混乱が続いておりまして……」
なるほど。万能な言い訳だ。
私は頷き、声を荒げない。
「では、把握している範囲で構いません」
「税収は……年によって変動しますし……」
「備蓄は?」
「冬を越せるかどうか、毎年、運次第で……」
私は深く息を吸った。
怒りはない。ただ、確信が強まる。
(これは“管理されていない”んじゃない)
(“管理する気がない”)
前世でも見た。数字を曖昧にする者は、責任を取らない。
そして、その皺寄せは必ず弱いところに落ちる。
「では質問を変えましょう」
私は顔を上げた。
「この領地で、餓死者は出ていますか」
「……」
沈黙。
ハロルドは唇を噛み、目を伏せた。
「去年の冬に、数名……ですが、仕方のないことかと……」
「仕方がない?」
「天候が悪く、作物が……」
「天候は理由になりません」
自分でも驚くほど、はっきりと言葉が出た。
部屋の空気が、一瞬で凍る。
「天候は、毎年起こります。予測もできます。対策も可能です」
「し、しかし……」
「対策をしなかった。それだけです」
ハロルドの額から、汗が一筋落ちた。
私は責めたいわけではない。だが、事実は事実だ。
この領地は、壊れている。
だが、壊れているなら――直せる。
「今日から、私が指揮を執ります」
私は静かに言った。
「まずは全住民の把握。食料の在庫確認。倉庫の開放」
「倉庫を……?」
「ええ。飢える前に使うために、備蓄はあります」
ハロルドが慌てる。
「し、しかし、それでは――」
「記録がないなら、今日から作ればいい」
私は立ち上がった。
窓の外では、冷たい風が畑を撫でている。
「この領地は、数字以前に寒すぎる」
「……は?」
「凍えると、人は考える余裕を失います」
前世で、冬の仮設住宅を回った時と同じだ。
人は理屈では動かない。まず生き延びる環境が必要だ。
「ここでは、感情論は通じません」
私はハロルドを見下ろした。
「通じるのは、生き残れるかどうか。それだけです」
その瞬間、扉がノックされた。
若い騎士が顔を出す。
「リリアーナ様。領民の一部が……不安がっておりまして」
「そうでしょうね」
私は小さく頷いた。
「では、行きましょう。現場を見ないと、話にならない」
館を出ると、冷たい空気が肺を刺した。
領民たちが集まっている。怯え、疑い、諦め――様々な感情が混じった視線。
私は一歩前に出た。
「私は、あなた達を見捨てるために来たのではありません」
声を張らない。それでも、静まり返る。
「この土地は厳しい。でも、立て直せます」
「……本当か?」
誰かが小さく呟いた。
私は頷いた。
「少なくとも、今より悪くはしません」
約束としては控えめだ。
だが、嘘ではない。
王都では“冷たい女”と呼ばれた私が、今ここに立っている。
帳簿のない領地。寒すぎる土地。壊れた仕組み。
条件は最悪。
――だからこそ、やりがいがある。
(まずは、生き延びる)
(改革は、その次)
辺境の風が、私の髪を揺らした。
ここから始まる。
この地獄の立て直しを。




