第1話 婚約破棄と、帳簿のない国
悪役令嬢と呼ばれる役は、いつだって簡単だ。
誰かの罪を一身に背負い、物語の外へ追い出されるだけでいい。
――けれど、その先は?
追放された後、
その令嬢がどう生きるかを、誰も気にしない。
この物語は、
「断罪されたその後」から始まります。
魔法で無双もしません。
都合のいい奇跡も起きません。
あるのは、壊れかけの領地と、数字と、人だけ。
それでも。
何もしないよりは、ずっとマシでしょう?
これは、
“悪役”と呼ばれた令嬢が、
感情ではなく仕組みで世界を変えていく物語です。
王宮の謁見の間は、いつもより静かだった。
絨毯を踏む靴音が吸い込まれていく。天井の高みから降りるシャンデリアの光が、やけに冷たい。列席した貴族たちの視線だけが、ひそひそと動いている。
――呼び出しの理由は、分かっている。
私は、リリアーナ・フォン・グレイス。公爵家の長女にして、王太子アルベルト殿下の婚約者。
その肩書きが、今日ここで剥ぎ取られる。
玉座の前には、王太子、宰相、騎士団長、そして白いローブを纏った少女が立っていた。聖女セシリア。平民出身だというその存在は、王都で瞬く間に「救い」の象徴になった。
配置が綺麗すぎる。誰が見ても分かるように、舞台が整えられている。
(議論の余地はないわね)
私は一礼した。頭を下げる角度は礼儀通り。呼吸は乱れていない。心臓の音も、意外なほど静かだ。
王太子アルベルトは、私をまっすぐに見て――いや、見ているようで、実際には私の背後にいる「観衆」を見ていた。自分が正しいと証明される瞬間を、皆に見せつけたい顔だ。
「リリアーナ・フォン・グレイス。君との婚約を、ここに破棄する」
言葉が落ちる。貴族たちの息が、一斉に吸われた。
分かっていたはずなのに、胸の奥のどこかが、かすかに軋んだ。痛みというより、古い釘が抜かれる時の鈍い感覚に近い。
けれど私は顔に出さない。泣き顔は、彼らの望むご馳走になる。
「理由をお聞かせ願えますか、殿下」
自分の声が、思ったより落ち着いているのが可笑しい。王太子は、待ってましたとばかりに口角を上げた。
「君は冷たい。人の心が分からない」
「……」
「君は数字と書類ばかりを見て、民の苦しみに寄り添おうとしなかった。王妃となる者がそれでいいはずがない!」
ざわり、と空気が揺れる。頷く貴族がいる。小さく笑う者もいる。
その笑いがどこから来るのか、私はよく知っていた。彼らは「感情で語る」ことが好きだ。感情で語れば、責任を曖昧にできるから。
聖女セシリアは、私と目が合うと、困ったように眉を下げた。謝罪の気配がある。悪意はないのだろう。だが、善意だけで人は救えない。私が前の人生で何度も見てきた光景だ。
宰相グレゴールが咳払いをした。
「殿下のお言葉の通り、国民の心を理解するには、慈悲と温情が必要です。聖女セシリア殿は、その象徴としてふさわしい」
慈悲。温情。
それらは否定しない。だが、慈悲で倉庫に麦は増えない。
王太子は続ける。
「セシリアは祈りで病を癒し、民を笑顔にした。彼女のような者こそ、王妃となるべきだ。君は……君は、国の未来を計算でしか見ない」
(計算で、しか)
口の中でその言葉を転がす。計算を軽んじる者は、必ず誰かに尻拭いをさせる。私はその尻拭いを、ずっとしてきた。
――前の人生で。
胸の奥に、もうひとつの記憶が淡く重なる。蛍光灯の白い光、机の上に積まれた資料、赤字の補助金申請書。地方の小さな役所の企画課。人口減少、予算削減、利権、感情論。笑顔の裏で、数字が死んでいく世界。
だから私は、この世界に来てからも、数字を見た。帳簿を読み、税の流れを整え、支出の無駄を削り、備蓄を増やした。誰にも褒められなくても、必要だからやった。
王太子はそれを「冷たい」と言う。
私は一度だけ、深く息を吸った。
「殿下。私が行ったのは、国庫の収支の整理、地方領の備蓄の再配分、災害時の輸送路の確保です」
「ほら、そういうところだ。君はいつもそうやって、数字で語る!」
私は視線を上げた。怒りではなく、確認のために。
「数字で語らなければ、国は回りません。民の心を守るためにも」
その瞬間、貴族たちの間に、嫌な沈黙が生まれた。刺さったのだ。正論は、利権の皮膚を痛める。
王太子の頬が引きつった。彼はそれを笑みでごまかし、宣告する声を強くした。
「よって、リリアーナ・フォン・グレイスは婚約者の地位を失い、王都を去る。処分として――北部辺境、グレイス辺境伯領へ赴け」
北部辺境。
この国地図の端に、灰色で塗られたような寒冷地。凶作が続き、盗賊が出ると噂され、中央からは見捨てられた土地。辺境伯家は、数年前に当主が病死し、後継が不在だと聞いた。
追放ではない、と彼らは言うだろう。名目は「領地の立て直しのための派遣」。しかし実態は、厄介払い。
王都で二度と口を挟めない場所へ、私を飛ばす。
貴族たちがほっとしたように息を吐く。まるで、胸につかえていた棘が抜けたかのように。
セシリアは両手を胸元で握りしめ、小さく首を振った。可哀想だと思っている。……けれど、彼女は止めない。
(これで終わり、のつもりね)
私はもう一度、深く頭を下げた。
「承りました」
謁見の間のざわめきが、わずかに揺らいだ。
泣かない。叫ばない。悪態もつかない。
観衆が期待していた「悪役令嬢の醜態」は、そこにはない。
王太子が苛立ったように言う。
「反省はないのか? 君は――」
「反省する点があるとすれば、殿下に帳簿の読み方をお教えできなかったことです」
言ってしまった。ほんの少しだけ。私の中の冷えた部分が、舌を滑らせた。
宰相が咳払いを重ね、騎士団長が眉をひそめる。貴族たちの間に、面白がる笑いと、青ざめる気配が混じった。
王太子は言葉を失い、顔を赤くする。けれどもう、舞台の結末は決まっている。彼は怒鳴る代わりに手を振った。
「連れて行け!」
私は回廊へ出た。
扉が閉まると、王宮の音が遠のく。代わりに聞こえたのは、自分の呼吸と、窓の外を渡る風の音だった。
……不思議なくらい、軽い。
私の護送役として、若い騎士が二人ついた。形式上は「護衛」だが、実態は監視だろう。彼らは私を警戒している。私が泣いて取り乱し、暴れるのを想像しているのかもしれない。
けれど私は泣かない。泣くより先に、頭が動いていた。
(北部辺境に行けば、王都の利権からは離れられる)
(つまり、現場で自由に手が打てる)
(……これは左遷じゃない。裁量権の塊だ)
心臓のあたりに、熱が灯る。恐怖ではない。久しぶりに感じる、仕事の高揚に近い感覚。
前の人生でも、どうしようもない赤字の町に配属された時、私は同じ気持ちだった。
「こちらが、処分に関する書面です」
騎士の一人が、封蝋のついた書類を差し出した。私は受け取り、歩きながら封を切る。中には、辺境伯領の引き継ぎ資料の束が――あるはずだった。
ところが。
紙は薄い。枚数も少ない。中身を確認して、私は思わず足を止めた。
人口――不明。
税収――推定。
備蓄――記録なし。
負債――「各所に借り入れあり」とだけ。
帳簿が、ない。
私は紙をめくる。どこまでめくっても、数字が出てこない。出てくるのは「おそらく」「だろう」「前例に倣い」といった、曖昧な言葉ばかりだ。
騎士が不安そうに尋ねる。
「……いかがされましたか、リリアーナ様」
「いいえ。思ったより、分かりやすいだけよ」
私は紙束を閉じた。口元が、勝手に上がるのを止められない。
(なるほど。帳簿のない国。)
(この国が壊れる理由が――よく分かったわ)
王都は「心」を語り、辺境を切り捨てた。
だが心は、腹が満たされて初めて穏やかになる。
帳簿もなく、備蓄もなく、制度も歪んだまま――そのツケは必ず、誰かの暮らしに落ちる。
なら、私はやることをやるだけだ。
追放先が地獄なら、地獄のルールを作り替える。
壊れているなら、直す。
帳簿がないなら、作る。
回廊の窓から見える空は、冬の色をしていた。
その冷たさが、私にはむしろ心地よかった。
「出発の準備を。今夜のうちに王都を出ます」
「今夜、ですか?」
「ええ。先延ばしにする理由がないもの」
騎士たちが慌てて動く。
私は歩き出した。振り返らない。
王宮の奥で、誰かが笑っている気配がした。
けれど、その笑い声はもう遠い。
北部辺境伯領。
帳簿のない土地。
そこで私は――この国の「当たり前」を、ひっくり返す。
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