第12話 帳簿を、私の手から離す
その朝、私は炭筆を握らなかった。
代わりに、執務室の隅に立ち、机の前に座るミレイアの背中を見ていた。
小さな肩が、少しだけ緊張で上がっている。
「……では、昨日分の作業報告を読み上げます」
彼女の声は、まだ硬い。
けれど、逃げてはいなかった。
人口台帳、作業割当表、保存食の在庫一覧。
紙は粗く、字も完璧ではない。だが、内容は正確だった。
代官ハロルドと作業責任者たちが、椅子や壁際に集まって聞いている。
全員が、ミレイアを見ていた。
(視線が、私じゃない)
それだけで、この場の意味は大きい。
「薪の在庫は、想定より一割少ないです」
「理由は?」
私ではなく、ハロルドが問い返す。
「乾燥が不十分な分を、使用不可にしました」
「……判断としては?」
「正しい」
ハロルドが頷いた。
私は口を挟まなかった。
評価も、修正も、今は必要ない。
会議が終わると、ミレイアは深く息を吐いた。
「……間違ってませんでしたか」
「ええ」
私は即答した。
「あなたの判断です」
彼女は一瞬、驚いた顔をした。
それから、ゆっくりと笑う。
「……よかった」
その言葉は、安堵というより責任を引き受けた者の声だった。
午後、私は作業場を回った。
指示は出さない。質問が来たら、答えるだけ。
「次は、どこを直せば?」
「あなたなら、どこが一番危ないと思う?」
「……あそこ、です」
「なら、そこから」
判断を返す。
現場に、現場の意思を残す。
前世で何度も見た失敗が、頭をよぎる。
有能なトップが、全部を抱え込む組織は、必ず潰れる。
(私は、長くここにいるつもりはない)
その前提で、作らなければならない。
夕方、執務室に戻ると、ハロルドが待っていた。
「……本日からの件ですが」
「帳簿の管理、ですね」
「はい。正直に言えば……不安です」
彼は視線を落とす。
その不安は、責任を持つ側のものだ。
「だから、三層にします」
私は机に紙を広げた。
「現場帳簿」
「管理帳簿」
「提出帳簿」
「現場は簡潔でいい。嘘がなければ」
「管理は、責任者が見る」
「提出は、私が責任を持つ」
ハロルドは、しばらく紙を見つめていた。
「……つまり」
「私がいなくても、回る形です」
彼は、ゆっくりと息を吐いた。
「……覚悟が、おありなのですね」
「ええ。でないと、改革は残りません」
夜、ミレイアが帳簿をまとめて持ってきた。
いつもより、紙束が重い。
「……今日は、全部私が書きました」
「ありがとう」
「……正直、怖かったです」
彼女は正直だ。
だから、私は嘘をつかない。
「間違えてもいい」
「でも、隠すのはだめ」
「それだけ守れば、大丈夫」
ミレイアは、炭筆を強く握った。
「……はい」
帳簿の表紙に、彼女は小さく名前を書いた。
――記録担当:ミレイア
それを見て、私は少しだけ胸が熱くなる。
(帳簿を、私の手から離した)
(でも、失ったわけじゃない)
責任が分散し、判断が共有される。
それは、私がいなくなっても、この領地が生きるということだ。
窓の外では、今日も焚き火が灯っている。
誰かが指示しなくても、人は動いていた。
私は執務机に戻り、別の紙を取り出す。
そこに書いたのは、短い一文。
――後継設計(未定)
この改革は、もう“私のもの”ではない。
だからこそ――
簡単には、壊れない。
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