4 幸せと愛
翌週の土曜日――吾朗は成人の日の三連休を利用して折島の元妻を訪ねようとしていた。この日は朝から雪が降り、明日の成人式は大雪の予報がでている。
吾朗は車を飛ばし目的のマンションを目指す。
折島の元妻――佳代子は山形市内に住んでいるが市街地からは離れたところにいて、吾朗の事務所からは三十分ほどかかる。
折島の話によると、彼女は小学校の教師をしているようで、土曜日の午前中なら自宅にいる可能性が高いとのことだった。ただ、大空がバスケットをしているので、練習があるときは見に行っている可能性も否めない、とも口にしていた。
吾朗はハンドルを握りながら、佳代子の在宅を祈る。折島の命の灯は日を重ねるごとに確実に消えかかり、時間がないことは明白だ。あと三ヶ月――と本人は言っているもののそれはあくまで長くともという言葉がつき、いつどうなってもおかしくはない。今、折島は息子に会えるかもしれないというわずかな希望を生きる糧にしながら、延命治療を受けているのを思えば、吾朗は折島の希望を裏切ってはいけないと言い聞かせていた。
しばらく車を走らせていると、佳代子が住むマンションが視界に入ってくる。
吾朗は、そのマンションの近くに路上駐車したあと、車から降り彼女のマンションへと足を動かした。幸いなことにオートロックはなく、誰でも自由に入ることができる。エントランスには子供用の小さな自転車や遊具があり、このマンションがファミリー向けだと考えるまでもなかった。
佳代子はこのマンションの三階に住んでいて、吾朗は確認のためエントランスにある郵便受けに目を向けた。
三〇二号室――小園佳代子、大空。
近頃では、郵便ポストに自分の名前をだす人が減っているが、佳代子は教師という仕事柄もあってか律儀に自分と息子のフルネームを表示している。
吾朗はあらためてこのマンションに佳代子が住んでいるのを確かめると、階段をのぼっていく。彼のジャケットの懐には今日の為に作った偽物の名刺があり、今日は代行屋人見吾朗ではなく、山形不動産サービス人見吾朗として佳代子に会うつもりだった。
自分はあくまで折島の元同僚であり、心配した会社の同僚が折島の今の現状を伝えようとするほうが話が上手くいくかもしれないと、吾朗が考えた策略だ。代行屋という肩書よりも、同僚のほうが信用してもらえるだろうし、きっと聞く耳を持ってくれるだろうそう吾朗は確信している。いくら、別れたとはいえ一度は愛を誓った元夫があと僅かで死んでしまうとわかれば、態度も軟化するに違いないだろう。
吾朗は頭の中で上手くいく方法を考えながらゆっくりと足を動かし部屋の前まで辿り着くと、迷わずインターホンを押した。インターホンはカメラ付きではなく、声が聞こえるだけの古いタイプだ。
「はい」
少し尖った、警戒心のある声が吾朗の耳に届く。声の主が佳代子であるのは間違いない。午前十時過ぎという時間から考えると、もしかすると家事で忙しくそうした中の来訪に不機嫌になっているのかもしれない。
「あの、私……人見といいまして折島さんのことで少しお話があって伺ったんですが」
「……」
吾朗の問いかけに相手からの返事がない。折島の名前を聞いて、警戒心が高まっているのだろう。
「あの――」
「少しお待ちください」
吾朗は言葉を遮られ焦りがあったが、唐突に玄関が開いた。
「おはようございます。私、山形不動産サービスで折島さんと同僚だった人見と言います」
吾朗は流れるように名刺ケースから偽物の名刺を取り出し、佳代子に渡した。
彼女は怪訝そうな表情を滲ませながら、名刺を受け取ると吾朗を見つめる。佳代子はロングヘアで背が低い。吾朗を見つめてくる二つの瞳は大きく、四十歳には見えないくらい童顔だった。
「あの、玄関を閉めてもらってもいいですか。誰かにあまり見られたくないので」
「あ……すみません」
吾朗は、玄関ドアを閉め足元に目を落としたとき、男性用の革靴があることに気づいた。これはおそらく、再婚相手の靴でもしかすると今ここにいるのかもしれない。
「大変申し訳ありませんが、ここでお話をしてもいいですか?ちょっと、人が来てまして」
佳代子が背を向けている扉に首を捻りながら言った。
「はい。構いません」
吾朗は頭を下げ、自分の勘が当たっていることを確信する。
「それでお話というのは……」
「はい。元旦那さんの、折島さんのことでしてね」
「はあ」
「私と彼は同期でして、よくご飯に行ったり公私ともに仲良くしてたんですが、つい二ヶ月前に仕事を辞めましてね……で、その理由を聞いたら折島さん、病気だったんです。しかも癌で、余命があと僅かとのことでした」
吾朗は間をあけると、神妙そうな顔つきでさらにつづけた。「それで、折島さんは亡くなる前に一度大空くんに会いたいと言ってましてね。だったら、私が同期のよしみで力になるって約束したんです。それで、こうして伺いました」
吾朗は懇願するように言ったものの、佳代子は表情を変えずに話を聞いていた。その彼女の態度から、吾朗は同僚というのが嘘だと見抜かれているのではないかそう思いはじめ、腋の下には嫌な汗が流れていた。
しばらくの沈黙が流れたあと佳代子は耳を疑うような言葉を口にした。
「私……知っていました。彼が病気なのを」
「え?そうなんですか?」
「こないだプレゼントを渡してくれたときのあの顔を見ればわかります。随分、痩せてましたから。彼は昔、ラグビーをしていたので体ががっしりしてたんです。それがあんなに小さくなれば病気を疑いますよ」
「そうでしたか……ですよね。だったら、息子さんと会わせるのは前向きに考えているんですね?」
「まさか……それはありえません」
佳代子が吾朗の前で初めて笑みを見せた。しかし、その表情は嬉しい楽しい笑みではなく嘲笑いのように吾朗は感じた。
「ありえないとは何故ですか?」
「私と大空があの人から何をされたか知らないんですか?」
「詳しい話は……でも折島さんはあなたに大変迷惑をかけたと悔やんでました」
「今さらですか……」
「もし、よかったら教えていただけませんか?」
吾朗はいつもの興味心から躊躇いなく訊ねた。
「まあ、いいでしょう。彼と結婚したとき彼は不動産の営業を辞めたあとで無職でした。私たちはでき婚だったんです。それで大空が産まれるまであの人は仕事をはじめると言っていたんですが、仕事をコロコロ変えては長続きしない人で……結局、自分で不動産の会社をすることにしたんです。人から雇われていなければ上手くいくと言って。私はもちろん反対しました。いくら資格を持って、経験があってもこれから産まれてくる子供のことを考えると、借金をしてまで会社をやる必要はないと思ったからです。でも、あの人は頑固だし、上手くいくように頑張るからと頭を下げられて……渋々了承しました。それがいけなかったですね。あのとき止めていればよかった」佳代子は溜息を吐くとさらにつづけた。「私は教師ですから、もしあの人がダメでもなんとかなるかなと思ったんです。しかも、会社を設立したときは怖いくらい売上が良くて、大空が産まれてから三年ぐらいは順調でした。あの人は仕事が忙しくても、大空に愛情を注いでくれたしいい父親でした。うん……あの頃は幸せでしたね」
「順調にいっていたはずが、転落したのは何故ですか?」
「離婚したのは大空が五歳のときです」
「五歳……ということは……あっ、不動産バブルがはじけたときですね」
「はい。そうです」佳代子は力なく頷く。「あのときは大打撃を受け、それで借金を抱えましてすぐに倒産しました。でも、それは仕方のないことだと私は思いましたよ。人生は失敗したらやり直せばいい、そう思いますからね。それに不況のあおりをうけたのは社会全体でしたし、本当に仕方がないと割り切ってました。ただ、あの人はそれからが駄目だった。人が狂ったように頭がおかしくなり、私のお金でギャンブル三昧。他に女まで作ってすっちゃかめっちゃかで……思い出したくもないです」
「佳代子は辛い思いをしたんですね」
「まあ、唯一の救いはあの人は大空だけには手をあげたり暴言をはいたりせず、変わらない愛情で接してくれたことで……でもね、大空は私たちが喧嘩してるのを見ているからきっと嫌な思いをしてるはずなんです」
吾朗は涙ぐみながら話す佳代子に何も言えずに直立したままだった。
たしかに――折島が彼女にしたことは良くないことだ。もしかすると、事業に失敗した折島以上に佳代子の方が傷ついたかもしれない。ただ、それでも吾朗は折島が大空を何よりも愛していることが佳代子の言葉から伝わってきていた。彼はどんなに生活が荒れようが、仕事が上手くいかなくても大空だけには優しく愛情を注いでいたのだ。
それにしても――と吾朗はふと思った。佳代子は今まで話してきて一度も折島のことを名前で呼ばず、あの人とか彼という言葉を使っていて、いかにも関わりたくないことが伝わってくる。いくら元夫とはいえ、別れてしまえば赤の他人だそう割り切っているのだろうか。もしくは、折島が言っていたように佳代子は再婚を控えているので、昔の男のことなどどうでもいいと思っているのかもしれない。
「そういうことがあって辛い思いをしたのはわかりますが……彼はもうすぐ死にます。その彼に最後ぐらいいい思いをさせても――」
「大空はいい思いをしません。逆にあの人に会ったことでパニックに陥るかもしれません。死人に会わせるのは心に傷を負わせるようなものだし、いいことが一つもない」
佳代子は吾朗の言葉を遮りはっきり言った。
「でも、大空くんの気持ちはどうなんでしょう?本当は折島さんに会いたいかもしれない」 「大空の気持ち?失礼ですけどあなたお子さんは?」
「いえ……いません」
「ご結婚は?」
「一度もないです」
吾朗は佳代子の職務質問に声をすぼませた。
「あのね……子供は子供なんです。十歳の男の子に自分で決める気持ちはない。だから、親である私が決めるんです」
「そうでしょうかねえ……昔と違って今の子はみんな意志がはっきりしてそうですけど」吾朗は顎に手を当てながら言うとさらにつづけた。「そういえば再婚することに大空くんはなにも言ってないんですか?」
「再婚の話もあの人から聞いたんですね?」
「ええ。全てとは言いませんがある程度は」
「元々、父親がほしいと言ってきたのは大空です。だからこそ私も一歩踏み出せたんですよ」
「なるほど。いくらシングルマザーが多くても、父親はほしいですよね……」
「大空は新しい夫と仲良くしていますし、幸せにしています」
もし、今の言葉を折島が聞いたらどう思うだろうか。それは良かった――と寛大な心で目を細めるだろうか。それとも今後の治療を辞めるくらい絶望的になるのか。
いずれにしても、吾朗はこの話は折島にしないようにして心に留めておかなければならないと決める。死ぬ間際までナイフを突きつける必要はないのだから――。
「再婚はいつ頃されるんですか?」
「三月の日取りのいい日を考えてます」
「三月……ですか」
吾朗は呟くとあることが頭を掠めた。三月といえば折島の命のタイムリミットだ。これが偶然ならば、なんと酷なことか。
「ですから、大空とあの人が会うことは二度とありません。会わせることは絶対ありません。いくら、あの人が死ぬと言っても過去は消えませんし、無理です」
「過去は消えません。でも、あなた方は結婚するとき、愛を誓ったんですよね?誓った愛は壊れたかもしれないけど少しは歩み寄ってもいいと思いますけど」
「あの人との結婚は失敗でした」
「そんな断言しなくとも……否定は良くないですよ。さっきあなたは幸せなときもあったと言っていたじゃないですか」
「結局は結果なんですよ。あなたは幸せとか愛とかきれいな言葉を並べますけど、今あの人がここにいないのなら失敗ということです」
吾朗は、佳代子の言葉にああ言えばこう言うの応酬がつづきそうで戸惑いを感じていた。彼女は何が何でも折島と息子を会わせる気はないようだ。死ぬのなら勝手にどうぞ、私たちにはもう関係ないのよと――。
これが離婚した夫婦のあり方なのだろうか。離婚した途端にここまで関係は冷え切るものなのか。吾朗は考えれば考えるほど、結婚などしないほうがいいと確信を抱いていた。
「私は折島さんから託されていたので、ここであきらめるわけにはいきません。彼には時間がないのが現状です」
「あの、人見さん。あなたは本当にあの人の会社の同僚なんですか?」
佳代子が突然、疑惑の目を吾朗に向ける。
「といいますと……?」
「正直、あの人の友人や同僚の人でこんなに親身になってくれる人がいるのかなと思いましてね。まあ、名刺にある電話にすればすぐにわかるんでしょうけど」
「えっ。あ……いや、それはちょっと……」
吾朗は痛いところを突かれ、目が泳いだ。教師というのは人の嘘を簡単に見抜く力があるのかもしれない。それに、子供に対して嘘を吐くことは悪だと教えてるに違いないだろう。このままではいずれにしても、いい返事はもらえない。だがしかし――諦めるわけにはいかないし、次に会ったときのことも考えなければならない。もはや、この女性には駆け引きなど通用しないことは明白であり、正攻法で戦うほうが好転するかもしれない。
吾朗はとっさに頭を働かせて、結論を導き出すと米搗き飛蝗で頭を下げた。
「大変、申し訳ありません。実は私はこういうものでして……」
吾朗はおそるおそる人見代行の名刺をだし、佳代子に手渡した。
「代行屋さん……やっぱりそうでしたか。でもどうして?」
「ゲーム機を購入するときに一緒に並びましてね。それでいろいろと……」
「そうでしたか。奇妙な出会いですね」
「折島さんかは今、済州会病院に入院してます。もし気が変わりましたら、会いに行ってください」
「何を言われても私の気持ちは変わりませんよ。そう伝えてください。はっきりと……期待を持たせるほうがよくないですから、はっきりとお断りします。でも……そうですね」佳代子は軽く息を吐くと、小声で言った。「あの人に今までご苦労さまでした、お疲れさまでしたと伝えてください」
「それはあなたが直接言う言葉ですよ」
「私にはできません。今の……これから結婚する人に失礼ですから」
佳代子は首を横に振った。
「佳代子さん……私はね、諦めが悪いんですよ。また来ます。折島さんが生きている間は何度でも伺います」
「無駄です。私は頑固ですから。あの人と同じでね」
佳代子の声をよそに、吾朗は頭を下げると玄関ドアを開け外に出る。
ドアが完全に閉まるのを見届けたあと、深く息を吐きネクタイを緩めた。それから吾朗は、足を動かしはじめエントランスをくぐり車まで向かおうとしたその瞬間――急に背中に突き刺さるような視線を感じ勢いよく振り返った。だが、周囲には誰も見当たらない。それでも吾朗は、誰かに見られているような気がして顔をあげると、マンションのベランダが視界に入った。そして、何気なく三階の左から二番目――佳代子の部屋を凝視した。すると、白いレースカーテンが揺れたように吾朗は思えた。佳代子の新しい夫が見ていたのだろうか。つい長話をしてしまったから心配になってもおかしくはないだろう。あのカーテンの向こうには幸せな家族がいる。一方、病院には死が目前に迫っている男がわずかな希望を胸に必死に生きようとしている。自分は折島に余計なことをしてしまったのかもしれない。希望など抱かせたのは間違いだった。なんてことをしてしまったのだろう。
吾朗は佳代子を上手く説得できなかったことよりも、折島に対して申し訳なさがこみあがり同時に、後悔していた。気づくといつの間にかパラパラと雪が降りはじめている。
吾朗は足元の灰色のアスファルトが、白く染まっているのを見ながら虚しい気持ちに苛まれていた。




