3 希望と絶望の間
山形市の中心街――七日町にある済州会病院は、五年前に建て替えられた。内装や外観は綺麗かつ機能的で、病院というよりは富裕層専用の老人ホームのようだった。また、新しくなったことを機にこの病院は最先端医療を取り入れ、つい一ヶ月前にはテレビにも特集されるほど注目を集めている。山形市内には国立大学の医学部があるものの、最近では済州会病院を頼る患者が増えてきていて――吾朗にメールをしてきた折島もそのうちの一人だった。
吾朗が折島の病室を訪れたのは、午前十時ぐらいで後回しに出来る依頼は午後にこなすことにして、彼の依頼を最優先していた。それは、彼が言っていたことが頭に引っかかっていたことと、自分の嫌な予感が正しいかもしれないという読みが、吾朗の本能を揺さぶったからで――さらに彼のことを優先しないと後悔してしまうかもしれない、そう思ったからだった。
吾朗は、病院の入り口を通り過ぎ病室へと向かう。彼の手には葉月が準備してくれた見舞い用の花が握られている。年が明けてすぐの一月三日とあって、病院は静かで時折見舞いに来た人と吾朗はすれ違った。
病院の廊下を歩き、折島が入院している五階の個室部屋の前まで来ると、ノックをしたあとドアを開けた――その途端、吾朗の目に飛び込んできたのは右手に点滴が刺さっている折島の姿で弱々しく見えた。
折島は目を開けて天井を見ていたが、吾朗が入室したのに気づいたのか、顔を吾朗に向けて言った。
「あっ、人見さん……おはようございます」
「おはようございます」
吾朗は声をだすと、軽く頭を下げた。それから折島の様子を伺う。彼の顔は先日よりもさらに痩せこけ手首は鉛筆のように細く見えた。
「すみませんね。お正月だというのに」
「いえ、とんでもない。あの、これどうぞ」
吾朗はそう言うと、手にしていたお見舞いの花をテーブルに置き笑みを浮かべた。「わざわざありがとうございます。お花はいいですね。気分が明るくなります。あ……話が長くなりますので下にあるイスを使ってください」
「わかりました。では……よいしょっと」
吾朗は丸イスに腰を降ろすと、さり気なく室内を見回しながら話の切り出し方を思案しはじめる。彼はあきらかに病人で――しかも命に関わるような病気を患っているのは間違いない。折島の表情、体、点滴が落ちる様子を見つめると死へのカウントダウンが近づいているのは考えるまでもないだろう。その彼が依頼したいこととは何か。
吾朗は疑問が顔にでないように気をつけながら、いつもの調子で訊ねた。
「それで、折島さん……依頼したいことは?」
「はい。それもそうですが……先に先日のお礼を言わせてください。こないだは人見さんがいてくれたおかげでなんとか朝まで耐えることができました。大変感謝しております」
折島がゆっくりと頭を下げる。
「私はそんなに感謝されるようなことは……でもよかったですね。息子さんにプレゼントを渡せたんですね」
「はい。元妻も息子も私を見直したようで喜んでくれたようですが、今更という感じも否めませんが」
「そうですかねぇ」
吾朗は言葉に詰まり呟くように言ってから数秒間――二人の間に沈黙が流れた。さらに、重苦しい雰囲気が漂う。
「私はあと三ヶ月で死にます」
静かな病室に折島の声が響いた。彼は先日ちょっとそろそろ寝ますからと言ったような軽い口調で自分の死を口にする。
吾朗は今まで生きてきた中で、自分の抱いた直感が当たったことにはじめて悔いを覚えた。
「癌です。最初は肺癌でしたが、転移していき、今では全身が癌に侵されてます。こうして理性を保ちながら話をできるのも時間の問題でしょう。ですから、早急にお呼びしました。早速ですが、お願いしたいのはこちらです」
折島はベッドの隣にある備え付けのテーブルの引き出しから、大量の封筒を取り出し吾朗に渡した。
封筒の中央には『大空へ』とボールペンで書かれた文字があり、吾朗は封筒の中身が手紙であるのはすぐに察しがついた。
折島は微かに頬を緩めるとゆっくりと話しはじめる。
「これは息子に渡したい手紙です。全部で十一枚あります」
「十一枚……ですか?」
吾朗は呟きながら封筒の枚数を確認する。
「私からの依頼はこの手紙を息子に届けてほしいということです。毎年、十二月二十四日の誕生日にです。二十歳になるまでずっと……」
「毎年ですか……ん??でもですよ、そうすると十枚でいいのでは?以前、息子さんはたしかに十歳だったと言ってましたよね」
吾朗は変わった依頼を前にしながらも、冷静に訊ねた。
「ええ。そうです。ただ、一番上にある封筒に関しては私が死んだときに渡して欲しいのですあとは上から順に渡していただければ大丈夫です。私は息子のことを愛してますけど、今まで何もしてこなかった。やれなかった。だから、せめてこうして自分の命が尽きてもお前のことを思ってると伝えつづけたくてですね」
「そのお気持ちはわかりますが……つまり、この依頼は十年間つづくということですね」
「はい。そうです」
「そんな大役を自分に任せていいんですか?あの、うちは……」吾朗は迷いながらも本音をさらけだしつづけた。「大きい会社ではありませんし、個人企業で……つい先日までは家賃すら払えないくらいどうしようもない会社だったんですよ。そんな会社が十年後も生き残っている保証はないんですけど。いや……十年後まで代行屋をつづけていられるかどうか自信がないのが正直な気持ちです。だから、こうした大切なことは弁護士とかそういう専門の方にお願いしたほうがいいのではないですか?」
「あなただからこそ、お願いしてるんですよ」
「いや、ちょっと待ってください。そんな数回会っただけの人間を信用すると言うのですか?」
「もちろんです。人見さんは信用できます。あなたはきっと私の依頼をやり遂げてくれるはずです。当然、報酬は多めに支払います。五百万でどうでしょうか。それ以上に欲しいと言うのなら生命保険のお金も人見さんに入るよう手続きします」
「ちょっと待ってください。お金じゃないんですよ。こうした大役を自分が引き受けられるか自信がないんです。折島さんの魂のメッセージを、大切な手紙を十年も息子さんに届けられるか不安しかないんです」
いつもお金で動く吾朗だったが、流石に今回は気が重く首を縦に動かす気にはなれなかった。
無論――五百万という大金は魅力だし、喉から手がでるくらい欲しい。だか、十年後、いや一年後の自分すら見通せない中でこの依頼をやり遂げる自信は一ミリもなかった。もしかすると、お酒の飲み過ぎで体を壊し生死を彷徨ったり、トラブルに巻き込まれ代行屋を辞めることだってあり得る。ただでさえ、最近は命の保証すらない事態に遭遇したのだから――
「人見さん。よろしいですか……ゴホ……」
折島は牧師のように優しい眼差しを吾朗にむけるとつづけた。「私はあなたが代行屋だからという理由でお願いしているわけではなく、あなたという人間に依頼しているのです。たとえ、失礼な話ですが人見代行が潰れたとしてもあなたならやっていただけると信じています。それはあなたと会ったあの日、一緒にいて話をしてわかったことで、私は自分の直感を信じてます」
折島は疑いようもない強い口調で吾朗に訴えた。
「折島さんは他に頼れる人はいないんですか?家族、兄弟、会社の人とか……」
「家族はいません。会社はすでに辞めました」
「ちなみにお仕事はどんなことを?」
「不動産です。賃貸から売買、管理まで幅広くしていました。まあ、元はそれで妻に迷惑をかけたんですけどね」
「その会社の同僚とかそういう人には頼れないんですか?」
吾朗は望みが薄いとわかっていながらも訊ねた。
「いい人たちではありますけど……ちょっと信用となると……」
「たしかに自分の知り合いにも不動産の営業マンはいますけど、そいつはお酒、お金、女にだらしないですね。まあ……人のことは言えないですけど」
吾朗は自虐的に言った。
「よくご存知で。否定はしません。私も昔はそうでしたからね」
「そうは見えませんけど」
「今はね……でも昔は本当に狂っていました。きっとそのツケがこうして回ってきたのでしょう。世の中にはどうしてあんなにいい人がこんなにも早く死んでと悔やむことが多々ありますけど……私に限っては悪いやつが早死にするのは当然だと……特に元妻はそう思うでしょう」
折島と元妻との間に何があったのか、吾朗には全く想像がつかなかったが、少なくとも折島が過去に自分が犯したことを反省しているのは痛いほど吾朗には伝わってきていた。
「あの……最後ということなら、奥さんにお願いするというのはどうですか?」
「不可能ですよ。もう連絡しないでくれと言われてますし、再婚も控えてるようで……」
「病気のことは知ってるんですか?」
「言ってません」
折島が力なく首を横にする。
「だったら病気のことを伝えたら、気が変わるかもしれませんよ。あなたはあとわずかで亡くなるわけで……それを聞いたら奥さんだってじゃあってなって、息子さんもあなたに会いたいとなるかもしれない。今、あなたは不可能だと思ってあきらめてますけど、最後までチャレンジしましょうよ。命がある限り最後まで全うすべきです」
「わかってます。わかっているんですけど……彼女は本当に私のことを毛嫌いしてましてね。嫌われるようなことをした自分が悪いんですけど……」
「だったら手紙を渡すことは置いといて……自分が奥さんに会うのはどうでしょうか?折島さんの現状を伝えて考えてもらう。さらに、息子さんと会えるようにしてもらうことも伝えます」
「そんな……こと」
「会いたいですよね?」
「もちろん……会って抱きしめたい」
折島は声を詰まらせた。今にも涙がこぼれそうな瞳に、吾朗は胸が熱くなる。きっと彼は、息子と対面できるその幸せなひとときをイメージしているのだろう。
「わかりました。ひとまず、手紙の件は保留にします。それで、私が奥さんを説得できなかったときは前向きに依頼を引き受ける検討をします。それでどうですか?」
「逆に、そんなお願いをしてしまっていいのでしょうか?申し訳ない」
「大丈夫ですよ。では、とりあえずこれは返します」
吾朗は手にしていた封筒の束を折島に渡す。
「きっと上手くいくはずですよ。頑張りますから、折島さんも……」
吾朗はうかつにも少しでも長く生きてくださいという言葉が口から出そうになったが、その励ましは酷なような気がしてとっさに口を結んだ。
「やはりあなたを信じてよかった。私は最後まで希望を持ち続けられる。幸せだな。人見さんには本当に励まされてばかりだ。ハハハ」
希望――。
吾朗は希望を抱かせて良かったのか素直に喜べなかった。期待をしなければ落ち込むことはないだろうし、自分は変に期待させるようなことを言ったのではないかと、後悔が頭を過ぎった。しかも、希望から絶望に落とされたそのときのショックを思うと軽率すぎたかもしれない。
それでも、吾朗は少し表情に覇気が戻った折島を見て覚悟を決めていた。彼が生きている間に息子に会えるように、十年間息子に手紙が届くように自分の命をかけるつもりで仕事をしようと。
「質問してもいいですか?」
吾朗は友達と話すような軽い口調で訊ねる。気づくと時計の針は十一時を過ぎていた。もうすぐ食事の時間か、もしくは検温などで看護師が来る時間かもしれない。
「どうぞ、どうぞ」
「息子さんの名前はどう読むのでしょうか」
吾朗は封筒に指を差しながら訊ねた。
「ああ……そらです。大きく広い空のような男になってほしい、大きい空を飛び回るような元気な男になってほしいと思いましてね。私がつけました。私が息子にしてあげたことは名前をつけたぐらいかもしれません。キラキラネームですかね」
「いえ……とてもいい名前だと思いますよ」
「ありがとうございます」
吾朗は満足そうに笑う折島を見つめながらあの日の夜のことを思い出した。
そうか――。折島が寝言で口にした『そら』は夢の中で息子と会っていたからなのか。 さらに、彼は病室から見える空を眺めながらいつも息子に思いを馳せていたに違いないだろう。
「大空か……いい名前だな……うん。いい名前だ」
吾朗は心からそう思いながら頷いていた。




