王の名前を
《馬鹿も休み休み言え愚妹。当人が知らぬ、現実に在り得ぬものを、どうやっ……》
悪霊の王の言葉を途切れさせたのは、少女の頬を伝う涙だった。
「貴方の恨み憎しみの根源は、名前が無いことです」
違和感はあった。指輪を手に入れ、堕天使を召喚しても、悪霊の眉間の皺は消えていなかった。本人は自覚してなくとも。復讐が本懐でないことを、妹は察したのだ。
堕天使はおろか、万物にある名前が、彼には与えられなかった。「何者でもない」と言う蓮さえも持つものが。後世に自分を伝る名はなく、口に上ることも無い。
今まで彼は、蓮を“下郎”、ソロモンを“愚妹”と称し、固有名詞で呼ぶことを避けてきた。名を持たぬ世界でただ一人の人間の劣等感故に。
「だから、わたくしが貴方に名前をつけましょう。悪霊の王ではない、わたくしの兄としての、古代イスラエル王の名前を。古式に則り、親であるダビデとバドから字を拝領しました」
まるで戴冠の儀に臨むが如く厳かに、ソロモンは宣言した。
「今より貴方の名前は、“ダヴィニヤ”です」
悪霊――ダヴィニヤに常に刻まれていた眉間の皺が消えた。汲み尽くせぬ井戸のように溢れ出していた憎悪が、急に枯渇したようだった。憑いていた怒りも憎しみも、彼を見捨てて去っていった。
《あぁ……そうか……》
悪霊の王は初めて、己の求めていたものの存在と、それが手に入ったことを知った。
《俺が恥を晒してまで求めていたものは、これだったのか……》
ダヴィニヤ、ダヴィニヤ、ダヴィニヤと、何度と無く反芻する。
「いかが?」
《…………良い名だ》
指輪が自然に指を抜け、小さな音を立てて床に転がった。自身が、ダヴィニヤと云う名を正解と認めたからに他ならない。
名を持たぬ亡霊に名付け、認めさせる。だがそれは計算や打算から発せられたものではない。
妹は指輪には目もくれず、兄ダヴィニヤから目を逸らさなかった。
「古代イスラエル王の名に賭けて、全ての書物に兄ダヴィニヤの名を遺すことを誓います」
だが兄は静かに首を振り、妹の宣誓を辞退した。
《名前を知る者がいる。それ以上は贅沢だ》
険の取れた悪霊の王はひどく秀麗で、儚げに見えた。
《――やってくれ》
「で、ですが」
妹は躊躇する。
《良いのだ。罪の清算はしなければならぬ。神に逆らいし永劫の地獄に堕ちるとも》
強い決意を見て取り、妹は問う。これまで何度となく繰り返された言葉とともに。
「あ、悪霊、汝に問う。――汝の名は、ダヴィニヤであるか?」
《然り。我はダビデ王を父に持ち、バド・シェバを母に。そしてソロモンを妹とする長子、ダヴィニヤである!》
名前を言い当てられた悪霊は、その力を失う。
「兄様……」
最後に、妹の頭を撫でる。温かさも重さも感じない手に、少女は確かに意思を感じた。
《迷惑をかけたな、エディデア》
未練が尽きたのか、亡霊の姿は光に包まれ、急速にぼやけてゆく。いつの間にか争いをやめ、こちらを見ていた団体の中の、ただ一人の人間を見つめる。
《居須磨蓮。まさか我が怨念を潰したのが、お前のような男とはな》
台詞に反して憎悪も悔恨もない、むしろ楽しげな口調で背理に言葉を紡ぐ。
《指輪と妹を任せたぞ》
「え? ……あ、ああ」
訳が分からないままに了解する。
《……さらばだ》
そう遺して、姿は消滅した。六十余りの堕天使たちも、後に続くように還ってゆく。
見届けると、蓮の堕天使も帰還を始めた。
『余らの役目は終わりであるな』
デカラビアが、
『まへっ、しょーがねえ。また使われてやっか』
フォルネウスが、
『楽シメタゾ、戦友。次ノ戦場デ共ニ駆ケヨウゾ!』
ハルファスが、
『ばべるノ塔以来ノ良イ余興デアッタ』
ベリアルが、
『はてさて、これから指輪の主は2人ということになるのかのう?』
アスモデウスが。
思い思いの言葉を残し、味方した堕天使も消える。真鍮の指輪が輝き始めた。暖かな光が視界を埋め尽くす。その時連は、
【よくやった】
という暖かな声を聞いた。先に、ソロモン王が来た際の【救え】と同じ人物の声。
声の主が大天使ミカエルであり、救え、というのは悪霊の王のことだったのだろう、と今なら分かる。
次の瞬間には、元の神無市に戻っていた。2人は廃虚の病院の中にいた。
蓮はソロモン王に近寄った。
「あいつ……名前が欲しかったのか。俺じゃあ絶対に救えなかったな」
堕天使の軍勢を相手に一歩も退かなかった蓮だったが、真の解決は導き出せぬものだった。
そこに、現実における自分の限界を見たような気がした。
「まあ、イデアが付けた名前を気に入ったんなら良かった良かった。お蔭で万事解決だ」
内心の混乱を隠して努めて明るく少女に話しかける。
だが妹は、つけたのが譬えどんな名であっても、兄は気に入ってくれたのではないかと思った。自分が兄の立場だったらそう考えたのではないか。
その仮定は、非現実的なものではない。ただ、生まれてくる順番が逆でさえあれば、ソロモンは兄の境遇だったに違いないのだから。
思いは言葉にはしなかった。現代人であり、巻き込まれただけの蓮に伝えても反応に困るだけだろう。彼に与えるものは別にある。涙を拭い、黒い指輪を拾った。少年に差し出す。
「これで、レンが正式な指輪の継承者です」
だが少年は、それを拒絶した。
「駄目だよ。だって、決着をつけたのはイデアじゃないか。黒い指輪の主は君だ」
断られるとは夢にも思っていなかったソロモンは慌てた。
「え? だってわたくしには資格が……」
「それを言うなら、俺だってニアピン賞で貰ったんだから、正統じゃない。多分さ、君は資格を取り戻したんだよ。だから指輪が還ってきた。それでいいんじゃないかな」
言いたいことが正確に伝わったかどうかは分からない。だが確かに、ソロモンは失っていた時間が戻ってきたように感じていた。
「……そうですわね。そう思うことにいたしましょう」
素直に了解し、指輪を填める。指輪は大人しく収まり、拒否することはなかった。
「さあ! 後始末を始めますわよ! 堕天使を扱き使ってやりますわ。レンも指輪の所有権者なのですから、キリキリ働きなさい!」
「おいおい、また堕天使たちに恨まれるぞ」
蓮は苦笑しながら頷いた。
「さすがに、無い名前を当てることはできないワケ」
いったいいつから息を吹き返し、傍観していたのか。三船玲が苦笑交じりに呟いた。
* * * * *
「ふああ……」
蓮はリビングで起床した。のそのそと服を着替える。
「外が暗いな。今日は曇りか」
カーテン越しに光が入ってこないのを見て呟く。今までは「本の棺桶」の暗さにも不満はなかったのだが、いつの間にやら起きて陽の光を浴びるのが習慣になっていた。ソロモンがいなくなり、部屋が空いた現在も続いている。机には閉じられたままの本。
「……ほとんど読まなかったな」
疲れていたせいもある。だが最大の要因は、本から先に進もうと考えたからだった。決定的だったのは、少女が兄に名前をつけてみせたこと。
最後にものを言ったのは知識でも知恵でもなく。心だった。
「俺もあんな風になれるのかな」
右手の真鍮の指輪を見て呟く。結局、この指輪を受け取ることをソロモン王は固辞した。
『早いであるな』
デカラビアがゲームをしていたが、幾分退屈そうだ。協力者の少女はもういない。
「どうせ不老なんだから、ゆっくりしていけば良かったのに」
あれからソロモンは堕天使を使って街を修復して回った。
モラクスという堕天使が、口から何でも出して直してしまった。ぶよぶよの白いゼリーのようなものを吐き出すと、それが思い通りの物質になるのだと言う。“万能芽”とか言っていたが、詳しいことは分からなかった。そして事実、本棚や車、ビルに至るまで簡単に修復してしまった。
だが、超常ではあっても神ならぬ者の所業。失った命は戻らない。昨日の死者223人は、事故の犠牲者として記憶を改ざんしたらしい。その中には、白谷などの知り合いも含まれる。死んだ者には気の毒だが、あの規模の苦難にしては奇跡的に少ない犠牲者だったと言える。
磯蔵詠は例外だった。バエルとなって新たな命を得た彼女は、“磯蔵詠”として生活することを選んだ。どこにでも存在できる彼女は、その特異な力故に人間と変わらぬ生活ができるだろう。指輪の力を使えば、バエルの力を制限することはできる。だが、悪用はしないだろう。
――明日は自分の足で学校へ行ってみようか。
そう言う詠はどこか晴れ晴れとしていた。堕天使となった詠がどのくらい生きるのか、どのような生涯を送ることになるのか、まだ分からない。だが、トラブルがあれば手助けするつもりでいる。
ソロモンは昨日の内に“やることができた”と言い残して帰っていった。蓮はとことん付き合うつもりだったので、些か拍子抜けしてしまった。
「せっかく現代に興味を持ってたのに。第一どこに“帰る”ってんだ」
指輪は彼女を過去に送還しなかった。ソロモン王は現代に取り残される仕儀となったわけだが、少女に落胆している様子は見られなかった。
嵐のような一日が去り、平凡で平穏な日常が戻ってきた。埋没していると、右手に鈍く光る品さえなければ、あの出来事は夢ではなかったかとさえ疑いたくなってくる。
「まあ、自分から変わっていくしかないよな。世界がそうそう変わるわけ無いんだから」
来週、両親が戻って来る。多数の死者を出したニュースに腰を抜かし、「もう1人暮らしはさせておけない」とのお達しだった。いずれにしろ、ソロモン王を匿っておける猶予はもうなかった。
「いってきます」
傘を手に、玄関を出る。
「雨が降ったら、また湿度が……」
家を出てすぐ、異変に気づいた。家の横に見慣れぬ建造物がある。住宅地にあるとは思えないほど巨大なそれは、イスラエル風の建築様式で、家と言うよりも宮殿だった。噴水が涼しさを演出し、門は豪華なアーチ状、バラのガーデンもある。そこだけ日本から切り取られたような具合だった。
天気は快晴である。暗かったのは曇っていたからではなく、隣の大きな建物のせいで陽が差し込んでいなかったからだった。心当たりは一人しかいない。
「遅いですわよ、レン!」
謂われなく叱咤したのは、得意顔で仁王立ちする少女。隣にはどこかで見覚えのある白馬がいる。
「これは、何やらかした?」
帰ってきたのなら家に入ればいいのに、と思っていると、
「1つの良い報せと1つの悪い報せがあります」
いつもの言い回し。
「じゃ、じゃあ、良い報せから」
「遷都いたしました。わたくしは今日よりレンのお隣さんです」
大仰な用語を持ち出す古代イスラエル王。
「本当はこの三倍ぐらいゆとりのある宮殿が欲しかったのですが」
無茶を言う少女。ふと、連は気づきたくなかった疑問に行き着いてしまった。
「昨日の今日でどうやって不動産なんか取得したんだ」
百歩譲って時間に余裕があったとしても、この文字通り浮世離れした少女に、煩雑な土地の売買ができたとは思えない。ソロモンは黒い指輪をかざしてみせた。
「シトリーに記憶の改竄をしてもらいました。元の土地の持ち主には、キチンと対価を払っていますわよ。昨日隠し離宮の幾つかを回って、金品を回収しましたから」
そそくさと姿を消したのは、これの準備のためだったらしい。
「指輪の力をそんなことに使っていいのか?」
「良いに決まってます。真鍮の指輪の持ち主として、レンを正しく導くと兄様に約束したのですから!」
「いや、あれは手のかかる妹を任された気分だったんだが……」
受け取り方が正反対だったようだ。
「じゃ、悪い方は?」
「肝心の、報酬に約束していた本ですが。隠し離宮の魔術的防衛が思いのほか強固で突破できません」
思い出す。ソロモンを匿う際、離宮に隠した古書を幾つか譲り受ける約束をしていた。
「そんなの、いつでもいいけど」
「いいえ、契約の遅滞は魔術師の沽券に関わります! さあ行きましょう!」
いきなり手を差しのべた。強引に馬に乗せる。
「ま、待て待て! 今からか? 平日だぞ? それにパスポートだって持ってない……」
「セーレーの馬ならば、空も国境もありません!」
馬は空高く舞い上がる。
「まったく。その離宮とやら、強力な罠でも仕掛けてたのか?」
「はい。あの隠し離宮は、若気の至りで少々魔術的防衛に力を入れ込みすぎて。守護者に据えた“アルス・ノヴァ”が本気を出したら、大地の半分が消し飛んでしまいます」
「……途中下車したいんだけど、いいか?」
「心配無用、わたくしとレンが揃えばできないことなどありませんわ!」
楽しくて仕方ない様子の古代イスラエル王。
「まだ騒がしい日が続きそうだなあ。それもいいか」
蓮はこの王様に振り回されることを楽しもうと決めた。
「大事なことを忘れておりました。レンの魔術名を決めなければ!」
魔術師は“ソロモン”などのように二つ名を持ち、契約などの際にはそちらの名前を使用する。時と場合によっては本名よりも重要な意味合いがあった。
「いや、別にいいよ。素人だし」
指輪から「借り物」の知識を得たに過ぎない蓮としては、魔術師を名乗ることに抵抗があった。
「神より遣わされし指輪の持ち主が、適当をしてはいけません。神罰が下りますわよ」
あながち誇張でもない。
「わたくしが考えて差し上げますわ。優雅で力強くてレンに相応しい、次期魔術王の名前を!」
これにて完結です。読んでくださった方、ありがとうございました(/・ω・)/




