第十話「鉄は熱いうちに打て?」
「? 電話かな」
メールならば短い着信で終わるが、無機質な音は鳴り止まない。鞄にしまっていた携帯電話を取り出そうと遥の懐から起き上がる和に、遥は隠す事なく眉を顰めながら、不満気な声をあげた。
「いいじゃないか後で折り返せば」
ぐ、と彼女の腰にまわした腕の力を込め放った言葉は、しかし和に一蹴される。緊急かもしれないでしょう、と言って当たり前のように彼の拘束を押しのけてしまえば、立ち上がって部屋の隅に置かれた鞄へと手を伸ばした。
遥はそんな彼女のうしろ姿を面白くないといった風情でみつめている。
和は、携帯電話を開けば、一瞬眉を動かす。遥からは表情が見えないものの、いつもの癖で無表情を貫いていた。内心では、嫌な予感が拭えない。
着信は、見知らぬ番号からであった。普段ならば間違い電話かいたずら電話だろうで済ますが、このタイミングが和にはいささか気になった。
しかし、携帯電話を手に持ったままかたまる暇は彼女にはない。先程までの遥との会話の流れを振り返れば、知り合いならば出ないのはおかしい。
「……知らない番号からって、出ても大丈夫と思う?」
下手に誤魔化せば妙な誤解を生む。和は結局、特にひっかかりがない自分を演じて遥へと振り返った。もちろんそんな彼女の言葉に何を疑うでもなく、遥は首を傾げてみせる。
「登録されてない番号なの?」
「うん。出ない方がいいかな?」
「危ないからその方がいいんじゃないかなあ」
「そっか。じゃあ、そうする」
遥の言葉にうなずいて、和は携帯電話を再度鞄に戻すと、片付けの続きをしてしまおうと台所へと向かった。しかしそれに遥は声をあげて抗議する。
「和! まだ充電済んでない!」
「いや別に今から帰ろうってわけじゃないんだからさ、片付け終わったらいくらでもひっついてていいから」
「一分一秒が惜しいの!」
「明日は二十四時間いっしょにいられるじゃん」
「明後日はいられないしその先一週間は離れ離れだよ」
和が食器を拭う為の布巾を手に取りつつ皿を持ち上げると遥は和の腰を抱えたまま屁理屈をこねる。和は心底呆れた様子で器用に作業を進める。ふたり分なのでたいした時間もかからずに終わるし、彼女はこうして遥がべったりと貼り付いた状態で物事を進める事に良いのか悪いのか慣れていた。そうして食器をあるべき場所にすべて戻し終えた時だった。
ふたり同時に見つめた先にあったもの。それは、和の鞄だ。
先程と同じく携帯電話が鳴り響き、作業を終えた和のため息を機械音が打ち消した。無意識に和と遥は目を丸くして顔を見合わせ、そっと遥から離れれば、今度は遥も不機嫌にはならなかった、和は再度鞄の中を探る。
「……」
わかってはいたが、先程と同じ番号だ。古典的な手だが、おそらく彼女が出ない限りこの電話は間を置いて鳴り続けるのだろう。
電源を切ってしまおうかとも考えたが、これから先番号を変えない限り急場しのぎにしかならない。いっそ着信拒否にでもすべきかと過ぎる。しかし、和はもちろん出会ったばかりの人間の中身を把握出来ると驕っていたわけではないが、強く逃げられれば追いかけたくなる性質を持ち合わせているのではないだろうかとあの短い邂逅で本能的に思った。そして和は、自身のこういった勘はそれほど的外れではない事もわかっていた。
『ていうか……これ和泉君に内緒にしてたらもっと面倒臭い事になりそう』
和にとって相手の性質が気になるのは、すべて遥に繋がっている。もしも彼の逆鱗に触れれば、相手はもちろんのこと、彼女自身もどういった仕置きを受けるかはまったくもってわからないのだ。彼の病的なまでの、とさすがに今は思うようになった、彼女に対する愛情は、彼女自身にも把握できない。
「……さっきと同じ電話番号?」
さすがに今までの考え事に数秒を要した和は、遥の目にも分かりやすくかたまっていて、和は素直にうん、と首肯する。遥はそんな彼女の答えに、眉を顰めた。遥を一瞥すると、和は通話ボタンを押した。その彼女の行動に遥がぎょっとする。
「ちょ」
「もしもし?」
遥の慌てた様子に手を上げて和が制すと、遥は多少苛立ちつつも彼女の意向に従った。
『よ。さっきはなんで出なかったわけ?』
「……どちらさまですか?」
和の言葉に、電話口の人物は軽快に笑った。
『真壁義和。わかってるくせにそういう事言っちゃうのはやっぱいいね』
「ああ、あなたでしたか。申し訳ないですが、声だけではどなたか本当にわかりませんでしたし、知らない番号からの着信は大体の人間が出ないだろうと思いますが」
やっぱり、と内心でため息を吐きつつ、和は正面に立つ恋人をちらと視界にうつす。遥は、まだどういった反応を示したら良いか手探りの状態なのだろう。困惑顔で和を見ている。
そんなふたりを他所に、真壁は楽しそうな声で会話を続けた。
『薫の携帯見たらあいつ、メアド登録してないのな』
「ああ、夏目はどうもメールが苦手のようですから」
『知ってるけど。俺のは一応登録させたんだぜ?』
「私も特に必要性をそこまで感じなかったものですから」
和の答えがお気に召したのか、ついに声をあげてけらけらと笑い出す真壁に、和は片眉を上げつつどうしたものかと思案する。番号を知られてしまった以上、選択はふたつにひとつだ。受け入れるか、拒絶するか。しかしそのどちらも、彼相手では無駄に思えた。なにせ大学も知られてしまっているのだ。真壁の様子から察するに、和の通う大学まで足を運ぶ事もそう厭わずにやってのけるだろう。電話をとりあえず受け入れておけば、直接訪れるという強硬手段は取られないかもしれない。けれど、着信を無視し続ければ結果は同じになるだろう。目の前の遥は、夏目という名前が出てからは、あからさまに不機嫌になっていて、今にも会話を断続させそうな勢いだった。
「……それでご用件は」
『ん? 別に。声聴こうかなと思っただけ』
「ではもう切っても?」
『もうちょっと会話したいんだけど』
あまりにも堂々たる男の態度に和はしばし無言になれば、ひとつの賭けに出ようと考える。ちらりと少しの距離を取る遥へと視線をやれば、携帯を持っていない左手で彼を招くようにちょいちょい、と動かした。遥はそれに首をかしげながらも、少しだけ緩和された雰囲気に和は内心安堵したが、これからの会話で彼がどう変化をするのかを考えればまったく油断できない状況だと思い直した。
それでも、和は行動に出た。
「はい」
にっこりと微笑みながら、和は耳から離した機械を遥へと差し出す。
「え? さっきから一体誰と電話してるの?」
微笑んで渡された携帯電話に困惑して遥が訊ねれば、和はううん、と呻りつつ首をかしげた。
「今日梓さんと会ったんだけど、そのときにいっしょにいたひと。夏目の友だちで、彼の携帯から私の番号知ったみたい」
「夏目君と番号交換してたの?」
「同じバイト先なんだからそりゃするでしょ」
思いもよらない角度から怒りを覚えられ和が呆れ顔で返答すれば、遥は納得しきれないまでも仕方がないと認めたようだった。
しかし、と手に取った物体を一瞥すると、ちらりと彼女へ視線を戻す。目の前に佇む恋人は、遥をただただ無表情でみつめていて、それ以上言葉を交わす事をあきらめた遥は、結局それを耳にあてた。
静かに、第一声をあげる。
「……もしもし」
『…………もしや和泉遥くん?』
相手方の声を確かめれば、和の目の前で遥の機嫌が目に見えて急降下する。まずい、と冷や汗を垂らしながら一歩後退しようとするも、遥はそれを許さなかった。素早く和の腕を掴むとそのまま部屋の奥へ進み机に携帯電話を置けばスピーカー機能をオンにする。遥はキャスター付きの椅子をひいて座ると、和を同じく横抱きにして自身の膝の上に座らせた。和は遥を見下ろしながら、しかし下からだというのに実に威圧的な視線を彼から向けられそれでも目を逸らせずにいた。
「あなた、和をどうしたいんですか?」
まさしく直球すぎる彼の質問に、電話口にいるであろう真壁は、一瞬言葉を失ったのか静寂が部屋を包んだ。しかし次には噴出すような音がスピーカーに届くと、男の笑い声が起こり、それはしばらく止まずに、遥は和を抱きしめたまま眉間に皺を寄せる。
『直球だなあ、あんた。……ま、わかってると思うけどさ、俺は笹森とお近づきになりたいんだよ。女として興味津々なの』
さも愉快そうに言う男に、遥の中で何かが臨界点を突破したようだ。
「他当たれよ、和は俺と結婚する」
淡々とした口調できっぱりと相手方に告げると、遥は携帯電話を切る。そうして無表情のまま、電話を操作すると、机に多少乱暴に捨て置いた。和は先程の彼が放った言葉に衝撃を覚えれば目を見開いてずっと彼を見下ろしている。
そんな和を遥は抱き上げれば、流れるような動作でベッドに押し倒した。いつものパターンはパターンだな、などと思考するのは、和の中に余裕があるようでいて実は微塵もそんなものがないからだ。現実逃避するのが無駄だとわかっていてもついつい走ってしまうのは、彼女の防衛本能によるものなのだろう。
押し倒されて無表情に彼女へ跨る恋人を見て、和もまた無表情を貫いていた。
「……着信拒否にしておいたから」
「うん、言わなくてもわかってる」
遥の口から出た言葉に、和は苦笑する。そうだろう、などと思うまでもなく、ああ着信拒否にしたなと確信を持って彼の手元を見ていた和は、別段、遥の行動に驚きもしなければ、非難する感情も生まれることはない。
そんな彼女を見て瞳を瞬かせた遥は、くしゃりと顔を歪ませれば、情けなく微笑んだ。
「もうちょっと余裕持てればいいんだけどね」
「……うんまあ、びっくりはしたけどね」
まさか結婚する宣言が飛び出るとは思わずかたまってしまったが、強い言葉でそれを拒否する理由もやはり和にはない。その前に結婚云々の話をしていたのもあって、驚きはしたもののしょうがないなあ、くらいにしか思っていなかった。
しかしそこまで考えて、和はふと気付く。ああ、案外自分も思ったよりいっしょにいたかったのかもしれない、と。
初めて彼と一定の距離に立たされて、感じたのは一抹の寂しさ。
そう、微塵もなかったといえば嘘になる。ひとりの時間をこよなく愛する彼女でも、やはり日常から彼が遠ざかるのは寂しかった。もちろん、遥と違って四六時中、恋人を想うなんて事はないが、ふとした瞬間に彼を思い出せば、隣にいない違和感に苦笑するくらいにはなっていた。和はそんな自分がらしくないと感じながらも、認めないのも格好悪いな、と心の中で自嘲する。
そんな事を考えているとは知らずに少し上の空になっている彼女に不満を覚えれば、遥は眉間に皺を寄せる。
「そもそもどこであんなの引っ掛けて来たのさ」
「ん? いやだから梓さんと今日久しぶりに会ったんだけどそのとき何人かいっしょに友だち連れて来ててね。それを知らずに行ったらなんか質問攻めにされて。そのなかのひとり」
「……ったく梓のヤツ、ずいぶん面倒なの引き当ててくれたもんだよ」
「別になにもどうもならないよ?」
「和にその気がないのはわかってるよ。そういう意味では心配してない」
でもね。
耳元で囁かれ、和の背筋がぞくり、と粟立った。
「俺のいない所で無理やりにでも迫られたら、と思うとね」
「さすがにそれは」
「ないって言い切れる? なんかかなり強引そうな男だったけど」
「うぐ!」
「絶対にふたりきりにならないように」
「イエッサー!」
ぴし、と和が力強く返事をすると、遥がくす、と微笑む。恐れていた事態は回避できるかもしれないと安心しかけたときだった。遥が和を見つめる視線を鋭くしたかと思うと、次には彼女の唇に遥のそれを重ねられる。
受け入れるか拒否するか判断する前に舌を滑り込められ、和が思わず目を瞑ると、遥は瞳だけで笑ってやがて自身も目を閉じた。
根から舌を絡め取られ強い力で吸われれば、もう何度となく覚えさせられている快楽を無理やり引っ張りだされるかのように、和の身体が反応する。それを待っていたかのように遥の手が彼女の鎖骨、くぼみをすっと確認するかのようになぞれば、まもなくしてゆっくりと和が着ているカットソーをめくる。
彼女の腹部を遥がそういった意思を明確にした仕草で撫で始めた。
「んっ……!」
「やらしいなあ。まだ核心ついてないよ?」
「……っちょっと、そのいつになくサドなキャラひっこめてくんない」
遥の少し凌虐めいた表情に思わず抵抗して呟けば、遥はふ、と笑んでみせる。和の頬に手の平を寄せれば、ゆっくりと撫でるように触れた。
「俺以外に和にこんなこと出来るヤツいないっていう再確認かな」
「いや、そんなことせずともね、元々ね」
「あと最近ちょっと和不足だったから今日はたくさん補充しようかと」
「いや、そんな項目ありませんし」
「俺がいかに和を好きか思い知って、和がいかに俺を好きか思い知って」
俺なしじゃいられなくなっちゃえばいいんだ。
そう言って口付けられた和は熱に浮かされたように乱暴な仕草で彼女を暴く遥を、拒絶しようとは思えなかった。
すべての行為を終えたら、少し寂しかったのだと口にしてみようかと考えて、しかしその後どうなってしまうのか想像するとやはりやめようかと竦んでしまう。
『でも結婚……うーん、結婚?』
がらにもなく真剣に考えてしまって、また上の空だと指摘された遥にますます熱情を注がれたのは果たして自業自得というのか。和は理不尽だと思わなくもなかった。




