沈んだ船の怒り
翌朝、二人で地元の図書館に向かった。
海沿いの町の図書館は、小さかった。でも郷土資料のコーナーが充実していた。
受付の司書さんに聞いた。
「江戸時代末期に、この海域で沈んだ廻船の記録を調べたいんですが」
司書さんは少し考えてから、奥から古い冊子を持ってきてくれた。
「これに載っているかもしれません。地域の海難事故の記録です」
冊子を開いた。
手書きの文字で、海難事故の記録が並んでいた。
朝倉が素早くページをめくった。
「あった」
俺は覗き込んだ。
安政三年、七月。廻船「若潮丸」、沖合にて沈没。乗組員十二名、積み荷とともに海底に没す。嵐によるものとされたが、目撃者の証言によれば——
続きを朝倉が読み上げた。
「目撃者の証言によれば、沈没前に別の船が接近していたという。しかし該当する船は発見されず、正式な記録には嵐による沈没として処理された」
「やはり、故意に沈められた可能性があったのか」と俺は言った。
「そう思う。でも——証明できなかった。正式には嵐のせいにされた」朝倉はページを続けた。「積み荷は——江戸に向けた商品が大量に積まれていた。金額が相当だったと書いてある」
「金のために、沈められたのか」
「たぶん」朝倉はノートに書き写した。「ひどい話だ」
「でもなぜ今月から怒りが強くなったのか、まだ分からないな」
「もう少し調べてみる」
次に、地域の歴史資料館に行った。
海沿いの、小さな資料館だった。
係の人に事情を話すと、快く協力してくれた。
「若潮丸のことを調べているんですね」係の人は言った。「今月、別の方も同じことを調べていましたよ」
朝倉が顔を上げた。
「誰が来たんですか」
「地元の建設会社の方です。開発計画があって、あの海域の調査をしているとおっしゃっていた」
「開発計画?」と俺は聞いた。
「はい。あの沖合に、海洋リゾート施設を作る計画があるそうで。基礎工事のための海底調査を来月から始めると言っていました」
朝倉は俺を見た。
俺も朝倉を見た。
「それが、きっかけだ」朝倉は静かに言った。
「開発計画の話が出てから、怒りが強くなった」
「沈んでいる船の上に、施設を建てようとしている」
「若潮丸の乗組員たちが——また何かに奪われると感じているのかもしれない」
資料館を出た。
海が見えた。
昨日と同じ海だった。でも今は、怒りの理由が分かっていた。
「どうすればいいんだ」と俺は聞いた。
「開発を止めることはできない」朝倉は言った。「でも——若潮丸の乗組員たちを、送ってあげることはできるかもしれない」
「送り出せるのか。海の底にいる者を」
「場所が陸じゃなくて海、というだけだ」朝倉は沖を見た。「でも——一人じゃ無理だ。海の中の者を呼び出すには、水に関係する力が必要だ」
「凛か」俺は言った。
「水無瀬家の血がある。水に縁がある家だから」朝倉は頷いた。「凛に頼もう」
「今から来られるか」
「電話してみる」
朝倉が凛に電話した。
3コールで出た。
「朝倉先輩、どうしましたか」凛の声が弾んでいた。
「お願いがある。今日、来られるか」
「今日ですか。午後なら大丈夫です。どこに来ればいいですか」
朝倉が場所を伝えた。
「海ですか」凛の声が変わった。「何かあったんですか」
「ある。来てから話す」
「分かりました。急いで行きます」
待つ間、二人で砂浜にいた。
昨日と同じ場所だったが、今日は波打ち際に近づかなかった。
少し離れた場所から、沖を見ていた。
暗い海が、ゆっくりと揺れていた。
「怖いか」と俺は聞いた。
「怖い」朝倉は正直に言った。「昨日の感覚が、まだある。でも——向き合わないといけない」
「凛が来れば、大丈夫か」
「たぶん。でも——凛だけじゃ足りないかもしれない」
「何が足りない」
「あの怒りを、受け止める人間が必要だ。乗組員たちの怒りを——ちゃんと聞ける人間が」朝倉は俺を見た。「私が聞く。地下のものの記憶があるから、受け止められると思う。でも——」
「でも?」
「昨日みたいなことが、また起きるかもしれない。引き込もうとするかもしれない」
「その時は、また引っ張る」
「それに頼っていいのか」
「頼れ」俺は言った。「そのためにいる」
朝倉はしばらく俺を見ていた。
「湊、怖くないのか」
「怖い。でも——詩音が向き合うなら、俺も向き合う。それだけだ」
一時間後、凛が来た。
息を切らしていた。
「走ってきました」凛は言った。
「急がなくてよかったのに」と朝倉が言った。
「急ぎました。先輩が呼ぶときは、大事なときだから」凛は海を見た。「あの海域、色が違いますね」
「見えるか」
「見えます。暗い。でも——怒っている感じが、すごくします」凛は顔を引き締めた。「どうすればいいですか」
朝倉が説明した。
若潮丸のこと。故意に沈められた可能性があること。開発計画が、怒りを大きくしたこと。
凛は全部、真剣に聞いた。
「私が何をすればいいですか」と凛は聞いた。
「水無瀬家の言葉で、海の底にいる者を呼び出してほしい」朝倉は言った。「私が話を聞く。そして——送り出す」
「呼び出すことは、できると思います」凛は海を見た。「でも先輩、昨日引き込まれかけたと言っていた。今日も危ないんじゃ」
「危ないかもしれない。でも——湊がいる」
「桐島先輩が?」凛は俺を見た。
「昨日も、引っ張ってもらった」朝倉は静かに言った。「また頼む」
俺は頷いた。
「頼め」
凛は少し心配そうな顔をしたが、頷いた。
「分かりました。やります」
三人で波打ち際に立った。
暗い沖を、正面に見た。
風が吹いた。
海の匂いが濃くなった。
凛が目を閉じた。
深呼吸を一つ。
それから、言葉を唱え始めた。
水無瀬家の言葉だった。地下の神を封じたときとも、木の怪異を封じたときとも違う言葉。もっと柔らかくて、でも力があった。
海に向かって、呼びかけるような言葉だった。
沖の暗い部分が、動いた。
波の流れとは違う動き方だった。
内側から、膨らむように。
低い音が大きくなった。
地鳴りのような音が、砂浜全体に響いた。
「来てる」朝倉は小声で言った。
俺は朝倉の隣に立った。
朝倉の腕を掴んだ。昨日のように、引き込まれそうになっても引っ張れるように。
朝倉は俺の手を感じて、少し落ち着いたようだった。
波が変わった。
砂浜に打ち寄せる波が、ゆっくりになった。
まるで、時間が緩んだみたいに。
朝倉が口を開いた。
「聞こえているか」朝倉は海に向かって言った。「あなたたちの怒りを、聞きに来た」
海が、低く唸った。
「答えてほしい。あなたたちは、故意に沈められたのか」
波が、一度大きく来た。
俺は朝倉を引き寄せた。波は二人の足元を濡らして、引いた。
「そうなんだな」朝倉は続けた。「誰かに、沈められた」
また唸り声が来た。
今度は、言葉に聞こえた。
俺には聞き取れなかった。でも朝倉は聞こえたらしかった。
「金のために、沈められた。十二人が、海の底に連れて行かれた」朝倉は繰り返した。「ずっと怒っていたんだな。正式な記録には、嵐のせいにされた。誰も、本当のことを知らなかった」
海が、静かになった。
静かになったのに、重さが増した。
怒りが、凝縮したみたいだった。
「今、その場所に施設が建てられようとしている」朝倉は続けた。「また奪われると思っているのか」
低い音が、最大になった。
砂浜が、微かに揺れた。
凛が唱える言葉を、少し大きくした。
朝倉が、深く息を吸った。
「怒りは正当だ」朝倉は言った。「故意に沈められた。誰にも知られないまま、海の底にいた。怒って当然だ」
海が、少し静かになった。
話を聞いてもらっている、と感じたのかもしれない。
「でも——施設を建てる人たちは、あなたたちを沈めた者たちじゃない。百七十年後の、別の人間たちだ」朝倉は静かに言った。「怒りをぶつける相手が、違う」
海がまた唸った。
「でも——本当のことを、伝えることはできる」朝倉は続けた。「あなたたちが、嵐ではなく故意に沈められたことを。十二人が、海の底で正義を求めていることを」
波が、また来た。
今度は穏やかだった。
引き込もうとする波じゃなかった。
聞いている、という波だった。
「一つ、約束できる」朝倉は言った。
「詩音」俺は小声で言った。
「大丈夫」朝倉は俺の手を一瞬、握り返した。それから海に向かって続けた。「あなたたちの話を、記録に残す。若潮丸が故意に沈められた可能性があることを。十二人がここに眠っていることを。開発業者にも伝える。この海に眠る者たちのことを、知ってもらう」
海が静かになった。
完全な静けさではなかった。でも、怒りの圧力が少し弱くなった。
「それだけでは足りないかもしれない。でも——知られることが、最初の一歩だと思う。誰かに知ってもらうことが、百七十年分の怒りへの、最初の答えだと思う」
凛が最後の言葉を唱えた。
海が、深く息をするように揺れた。
暗かった海域が——少しだけ、明るくなった気がした。
暗さが完全になくなったわけじゃなかった。
でも、薄くなった。
怒りが、完全に消えたわけじゃなかった。
でも、届いた。
ちゃんと、届いた。
三人で砂浜に座った。
疲れた。
凛が大の字に倒れた。
「疲れました」凛は言った。
「お疲れ、凛」俺は言った。
「でも——何か、伝わりましたか」凛は空を見た。
「伝わったと思う」朝倉は海を見た。「全部が解決したわけじゃない。でも——聞いてもらえた、という感触があった」
「先輩、引き込まれませんでしたね」凛は起き上がった。
「湊がいたから」朝倉は静かに言った。
凛が俺を見た。
「桐島先輩、すごいですね。何もしてないのに、いるだけで」
「何もしてないは失礼だろ」
「ごめんなさい」凛は笑った。「でも本当に、先輩がいると朝倉先輩が安定するんです。前から思ってた」
「朝倉先輩って呼ぶのか」
「先輩だから」凛はまた笑った。
夕方、三人で食堂に入った。
昨日と同じ食堂だった。
おばさんが、俺たちを見た。
「昨日の若者たちじゃないか。今日は砂浜に長くいたね。何かあったのかい」
「少し調べていました」と朝倉が言った。「若潮丸のことを」
おばさんの顔が変わった。
「若潮丸を知ってるのかい」
「はい。地域の資料館で調べました。沈んだとき、別の船がいたという話を聞いて」
おばさんはしばらく黙っていた。
「うちの先祖が、若潮丸の乗組員だったんだよ」おばさんは静かに言った。「代々、語り継がれてきた話がある。本当は嵐じゃなかったって」
「知っていたんですね」と朝倉が言った。
「信じていたよ。でも証明できなかった」おばさんは目を伏せた。「その怒りが——今でも海に残ってる気がして、ずっと気になっていた」
「残っていました」朝倉は静かに言った。「でも今日、少し話を聞いてきました」
おばさんが顔を上げた。
「話を聞いた?」
「あなたたちの怒りは正当だと伝えました。故意に沈められたことを、ちゃんと知っている人間がいると」
おばさんは長い間、黙っていた。
目が、潤んでいた。
「……ありがとう」おばさんは小さな声で言った。「代わりに、聞きに行ってくれたんだね」
食堂を出た。
夕暮れが、海を照らしていた。
沖の暗い部分が、夕日の中で少し違って見えた。
怒りが消えたわけじゃない。
でも——聞かれた。
百七十年ぶりに、誰かに聞かれた。
それが、今日できた全部だった。
帰りの電車に乗った。
三人で並んで座った。
凛がすぐに眠った。
俺と朝倉は、窓の外を見ていた。
「解決できなかったな」と俺は言った。
「そうだね」朝倉は言った。「でも——全部をすぐに解決できるわけじゃない」
「怒りは残ってる」
「残ってる。でも——届いた。それが今日できたことだ」朝倉は窓の外を見た。「あとは——約束を守らないといけない」
「記録に残すと言ったのか」
「言った。若潮丸が故意に沈められた可能性があることを、ちゃんと記録に残す。それと——開発業者に伝える。この海に眠る者がいることを」
「どうやって伝えるんだ」
「資料館の係の人が、開発業者と連絡を取っていると言っていた。経緯を話して、海底調査のときに配慮してもらえるよう頼んでみる」朝倉は俺を見た。「うまくいくかどうかは分からない。でも——言わないよりいい」
「詩音らしい」
「そうか?」
「できることをやる。それがお前のやり方だ。高校のときから変わらない」
朝倉は少し考えた。
「変わらないのは——いいことか」
「いいことだと思う。軸があるから、俺は迷わない」
「軸があると、迷わないのか」
「詩音が判断するから、俺は動ける」
朝倉は俺を見た。
「湊は、自分で考えないのか」
「考える。でも詩音と考える方が、いい答えが出る」
朝倉はしばらく黙っていた。
「……それは」朝倉は静かに言った。「私も同じだ」
「そうか」
「一人で考えるより、湊と考える方が——いい答えが出る気がする」
「お互い様だな」
「お互い様だな」朝倉は繰り返した。「ずっとそうだった。鶴の日から」
「ずっとそうだった」
凛が目を覚ました。
「着きましたか」凛は言った。
「まだだ」と俺は言った。
「そうですか」凛は眠そうな目をした。「今日——すごく疲れた。でも、よかったと思う」
「そうだな」
「あの乗組員たちに、ちゃんと届きましたよね」凛は朝倉を見た。
「届いたと思う」朝倉は言った。
「よかった」凛はまた目を閉じた。「先輩たちは、いつもそうやって届けるから——私も頑張れる」
「凛が頑張るから、届けられる」朝倉は静かに言った。
「お互い様ですね」凛は眠りながら言った。
「そうだ」
その夜、朝倉からメッセージが来た。
資料館の方に連絡した
早いな
約束したから。開発業者への連絡を検討してくれると言っていた
本当に動いてくれるのか
分からない。でも——言った。それが今できる全部だ
そうだな
湊
何だ
今日、ありがとう
また来るのか、その言葉
毎回言う。毎回ありがとうだから
俺こそ
湊は何もされてないのに
一緒にいた。それが全部だ
しばらく間があった。
湊が言うと、一緒にいることがすごく大事なことに聞こえる
大事なことだから
そうだね
うん、そうだ
湊
何だ
夏休み、まだある
そうだな
また来よう。この海に
また怪異に向き合いに行くのか
それだけじゃない
どういう意味だ
約束を、果たしに行く。ちゃんと届いたか、確かめに行く
そうか
湊も来る?
当たり前だ
じゃあ約束
約束だ
スマホを置いた。
窓の外に、夜空が広がっていた。
遠くに、海は見えなかった。
でも感じた。
百七十年間、誰にも聞かれなかった怒りが——今日、少し和らいだ。
完全に終わったわけじゃない。
でも始まった。
届いたことが、始まりになる。
高校の怪異と同じだ。
始まりがあれば、終わりに向かえる。
詩音とならば、向かえる。
それで十分だった。




