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朝倉詩音の怪異録〜大学編〜  作者: ゆるっとおやじ


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9/33

沈んだ船の怒り

翌朝、二人で地元の図書館に向かった。

海沿いの町の図書館は、小さかった。でも郷土資料のコーナーが充実していた。

受付の司書さんに聞いた。

「江戸時代末期に、この海域で沈んだ廻船の記録を調べたいんですが」

司書さんは少し考えてから、奥から古い冊子を持ってきてくれた。


「これに載っているかもしれません。地域の海難事故の記録です」

冊子を開いた。

手書きの文字で、海難事故の記録が並んでいた。

朝倉が素早くページをめくった。

「あった」


俺は覗き込んだ。

安政三年、七月。廻船「若潮丸」、沖合にて沈没。乗組員十二名、積み荷とともに海底に没す。嵐によるものとされたが、目撃者の証言によれば——

続きを朝倉が読み上げた。

「目撃者の証言によれば、沈没前に別の船が接近していたという。しかし該当する船は発見されず、正式な記録には嵐による沈没として処理された」

「やはり、故意に沈められた可能性があったのか」と俺は言った。

「そう思う。でも——証明できなかった。正式には嵐のせいにされた」朝倉はページを続けた。「積み荷は——江戸に向けた商品が大量に積まれていた。金額が相当だったと書いてある」

「金のために、沈められたのか」

「たぶん」朝倉はノートに書き写した。「ひどい話だ」

「でもなぜ今月から怒りが強くなったのか、まだ分からないな」

「もう少し調べてみる」


次に、地域の歴史資料館に行った。

海沿いの、小さな資料館だった。

係の人に事情を話すと、快く協力してくれた。

「若潮丸のことを調べているんですね」係の人は言った。「今月、別の方も同じことを調べていましたよ」


朝倉が顔を上げた。

「誰が来たんですか」

「地元の建設会社の方です。開発計画があって、あの海域の調査をしているとおっしゃっていた」

「開発計画?」と俺は聞いた。

「はい。あの沖合に、海洋リゾート施設を作る計画があるそうで。基礎工事のための海底調査を来月から始めると言っていました」

朝倉は俺を見た。

俺も朝倉を見た。

「それが、きっかけだ」朝倉は静かに言った。

「開発計画の話が出てから、怒りが強くなった」

「沈んでいる船の上に、施設を建てようとしている」

「若潮丸の乗組員たちが——また何かに奪われると感じているのかもしれない」


資料館を出た。

海が見えた。

昨日と同じ海だった。でも今は、怒りの理由が分かっていた。

「どうすればいいんだ」と俺は聞いた。

「開発を止めることはできない」朝倉は言った。「でも——若潮丸の乗組員たちを、送ってあげることはできるかもしれない」

「送り出せるのか。海の底にいる者を」

「場所が陸じゃなくて海、というだけだ」朝倉は沖を見た。「でも——一人じゃ無理だ。海の中の者を呼び出すには、水に関係する力が必要だ」

「凛か」俺は言った。

「水無瀬家の血がある。水に縁がある家だから」朝倉は頷いた。「凛に頼もう」

「今から来られるか」

「電話してみる」

朝倉が凛に電話した。

3コールで出た。

「朝倉先輩、どうしましたか」凛の声が弾んでいた。


「お願いがある。今日、来られるか」

「今日ですか。午後なら大丈夫です。どこに来ればいいですか」

朝倉が場所を伝えた。

「海ですか」凛の声が変わった。「何かあったんですか」

「ある。来てから話す」

「分かりました。急いで行きます」

待つ間、二人で砂浜にいた。

昨日と同じ場所だったが、今日は波打ち際に近づかなかった。


少し離れた場所から、沖を見ていた。

暗い海が、ゆっくりと揺れていた。

「怖いか」と俺は聞いた。

「怖い」朝倉は正直に言った。「昨日の感覚が、まだある。でも——向き合わないといけない」

「凛が来れば、大丈夫か」

「たぶん。でも——凛だけじゃ足りないかもしれない」

「何が足りない」

「あの怒りを、受け止める人間が必要だ。乗組員たちの怒りを——ちゃんと聞ける人間が」朝倉は俺を見た。「私が聞く。地下のものの記憶があるから、受け止められると思う。でも——」

「でも?」

「昨日みたいなことが、また起きるかもしれない。引き込もうとするかもしれない」

「その時は、また引っ張る」

「それに頼っていいのか」

「頼れ」俺は言った。「そのためにいる」

 朝倉はしばらく俺を見ていた。

「湊、怖くないのか」

「怖い。でも——詩音が向き合うなら、俺も向き合う。それだけだ」


一時間後、凛が来た。

息を切らしていた。

「走ってきました」凛は言った。

「急がなくてよかったのに」と朝倉が言った。

「急ぎました。先輩が呼ぶときは、大事なときだから」凛は海を見た。「あの海域、色が違いますね」

「見えるか」

「見えます。暗い。でも——怒っている感じが、すごくします」凛は顔を引き締めた。「どうすればいいですか」

朝倉が説明した。


若潮丸のこと。故意に沈められた可能性があること。開発計画が、怒りを大きくしたこと。

凛は全部、真剣に聞いた。

「私が何をすればいいですか」と凛は聞いた。

「水無瀬家の言葉で、海の底にいる者を呼び出してほしい」朝倉は言った。「私が話を聞く。そして——送り出す」

「呼び出すことは、できると思います」凛は海を見た。「でも先輩、昨日引き込まれかけたと言っていた。今日も危ないんじゃ」

「危ないかもしれない。でも——湊がいる」

「桐島先輩が?」凛は俺を見た。

「昨日も、引っ張ってもらった」朝倉は静かに言った。「また頼む」

俺は頷いた。


「頼め」

凛は少し心配そうな顔をしたが、頷いた。

「分かりました。やります」

三人で波打ち際に立った。

暗い沖を、正面に見た。

風が吹いた。

海の匂いが濃くなった。

凛が目を閉じた。

深呼吸を一つ。

それから、言葉を唱え始めた。


水無瀬家の言葉だった。地下の神を封じたときとも、木の怪異を封じたときとも違う言葉。もっと柔らかくて、でも力があった。

海に向かって、呼びかけるような言葉だった。

沖の暗い部分が、動いた。

波の流れとは違う動き方だった。

内側から、膨らむように。

低い音が大きくなった。

地鳴りのような音が、砂浜全体に響いた。


「来てる」朝倉は小声で言った。

俺は朝倉の隣に立った。

朝倉の腕を掴んだ。昨日のように、引き込まれそうになっても引っ張れるように。

朝倉は俺の手を感じて、少し落ち着いたようだった。


波が変わった。

砂浜に打ち寄せる波が、ゆっくりになった。

まるで、時間が緩んだみたいに。

朝倉が口を開いた。

「聞こえているか」朝倉は海に向かって言った。「あなたたちの怒りを、聞きに来た」

海が、低く唸った。


「答えてほしい。あなたたちは、故意に沈められたのか」

波が、一度大きく来た。

俺は朝倉を引き寄せた。波は二人の足元を濡らして、引いた。

「そうなんだな」朝倉は続けた。「誰かに、沈められた」

また唸り声が来た。

今度は、言葉に聞こえた。

俺には聞き取れなかった。でも朝倉は聞こえたらしかった。


「金のために、沈められた。十二人が、海の底に連れて行かれた」朝倉は繰り返した。「ずっと怒っていたんだな。正式な記録には、嵐のせいにされた。誰も、本当のことを知らなかった」

海が、静かになった。

静かになったのに、重さが増した。

怒りが、凝縮したみたいだった。

「今、その場所に施設が建てられようとしている」朝倉は続けた。「また奪われると思っているのか」

低い音が、最大になった。


砂浜が、微かに揺れた。

凛が唱える言葉を、少し大きくした。

朝倉が、深く息を吸った。

「怒りは正当だ」朝倉は言った。「故意に沈められた。誰にも知られないまま、海の底にいた。怒って当然だ」

海が、少し静かになった。

話を聞いてもらっている、と感じたのかもしれない。


「でも——施設を建てる人たちは、あなたたちを沈めた者たちじゃない。百七十年後の、別の人間たちだ」朝倉は静かに言った。「怒りをぶつける相手が、違う」

海がまた唸った。

「でも——本当のことを、伝えることはできる」朝倉は続けた。「あなたたちが、嵐ではなく故意に沈められたことを。十二人が、海の底で正義を求めていることを」


波が、また来た。

今度は穏やかだった。

引き込もうとする波じゃなかった。

聞いている、という波だった。

「一つ、約束できる」朝倉は言った。

「詩音」俺は小声で言った。

「大丈夫」朝倉は俺の手を一瞬、握り返した。それから海に向かって続けた。「あなたたちの話を、記録に残す。若潮丸が故意に沈められた可能性があることを。十二人がここに眠っていることを。開発業者にも伝える。この海に眠る者たちのことを、知ってもらう」


海が静かになった。

完全な静けさではなかった。でも、怒りの圧力が少し弱くなった。

「それだけでは足りないかもしれない。でも——知られることが、最初の一歩だと思う。誰かに知ってもらうことが、百七十年分の怒りへの、最初の答えだと思う」


凛が最後の言葉を唱えた。

海が、深く息をするように揺れた。

暗かった海域が——少しだけ、明るくなった気がした。


暗さが完全になくなったわけじゃなかった。

でも、薄くなった。

怒りが、完全に消えたわけじゃなかった。

でも、届いた。

ちゃんと、届いた。

三人で砂浜に座った。

疲れた。

凛が大の字に倒れた。


「疲れました」凛は言った。

「お疲れ、凛」俺は言った。

「でも——何か、伝わりましたか」凛は空を見た。

「伝わったと思う」朝倉は海を見た。「全部が解決したわけじゃない。でも——聞いてもらえた、という感触があった」

「先輩、引き込まれませんでしたね」凛は起き上がった。

「湊がいたから」朝倉は静かに言った。

凛が俺を見た。


「桐島先輩、すごいですね。何もしてないのに、いるだけで」

「何もしてないは失礼だろ」

「ごめんなさい」凛は笑った。「でも本当に、先輩がいると朝倉先輩が安定するんです。前から思ってた」

「朝倉先輩って呼ぶのか」

「先輩だから」凛はまた笑った。

夕方、三人で食堂に入った。

昨日と同じ食堂だった。

おばさんが、俺たちを見た。

「昨日の若者たちじゃないか。今日は砂浜に長くいたね。何かあったのかい」

「少し調べていました」と朝倉が言った。「若潮丸のことを」

おばさんの顔が変わった。


「若潮丸を知ってるのかい」

「はい。地域の資料館で調べました。沈んだとき、別の船がいたという話を聞いて」

おばさんはしばらく黙っていた。

「うちの先祖が、若潮丸の乗組員だったんだよ」おばさんは静かに言った。「代々、語り継がれてきた話がある。本当は嵐じゃなかったって」

「知っていたんですね」と朝倉が言った。

「信じていたよ。でも証明できなかった」おばさんは目を伏せた。「その怒りが——今でも海に残ってる気がして、ずっと気になっていた」

「残っていました」朝倉は静かに言った。「でも今日、少し話を聞いてきました」

おばさんが顔を上げた。


「話を聞いた?」

「あなたたちの怒りは正当だと伝えました。故意に沈められたことを、ちゃんと知っている人間がいると」

おばさんは長い間、黙っていた。

目が、潤んでいた。

「……ありがとう」おばさんは小さな声で言った。「代わりに、聞きに行ってくれたんだね」


食堂を出た。

夕暮れが、海を照らしていた。

沖の暗い部分が、夕日の中で少し違って見えた。

怒りが消えたわけじゃない。

でも——聞かれた。

百七十年ぶりに、誰かに聞かれた。

それが、今日できた全部だった。

帰りの電車に乗った。

三人で並んで座った。

凛がすぐに眠った。

俺と朝倉は、窓の外を見ていた。


「解決できなかったな」と俺は言った。

「そうだね」朝倉は言った。「でも——全部をすぐに解決できるわけじゃない」

「怒りは残ってる」

「残ってる。でも——届いた。それが今日できたことだ」朝倉は窓の外を見た。「あとは——約束を守らないといけない」

「記録に残すと言ったのか」

「言った。若潮丸が故意に沈められた可能性があることを、ちゃんと記録に残す。それと——開発業者に伝える。この海に眠る者がいることを」

「どうやって伝えるんだ」

「資料館の係の人が、開発業者と連絡を取っていると言っていた。経緯を話して、海底調査のときに配慮してもらえるよう頼んでみる」朝倉は俺を見た。「うまくいくかどうかは分からない。でも——言わないよりいい」

「詩音らしい」

「そうか?」

「できることをやる。それがお前のやり方だ。高校のときから変わらない」


朝倉は少し考えた。

「変わらないのは——いいことか」

「いいことだと思う。軸があるから、俺は迷わない」

「軸があると、迷わないのか」

「詩音が判断するから、俺は動ける」

朝倉は俺を見た。

「湊は、自分で考えないのか」

「考える。でも詩音と考える方が、いい答えが出る」

朝倉はしばらく黙っていた。

「……それは」朝倉は静かに言った。「私も同じだ」

「そうか」

「一人で考えるより、湊と考える方が——いい答えが出る気がする」


「お互い様だな」

「お互い様だな」朝倉は繰り返した。「ずっとそうだった。鶴の日から」

「ずっとそうだった」

凛が目を覚ました。

「着きましたか」凛は言った。

「まだだ」と俺は言った。

「そうですか」凛は眠そうな目をした。「今日——すごく疲れた。でも、よかったと思う」

「そうだな」

「あの乗組員たちに、ちゃんと届きましたよね」凛は朝倉を見た。

「届いたと思う」朝倉は言った。

「よかった」凛はまた目を閉じた。「先輩たちは、いつもそうやって届けるから——私も頑張れる」

「凛が頑張るから、届けられる」朝倉は静かに言った。

「お互い様ですね」凛は眠りながら言った。

「そうだ」


その夜、朝倉からメッセージが来た。

資料館の方に連絡した

早いな

約束したから。開発業者への連絡を検討してくれると言っていた

本当に動いてくれるのか

分からない。でも——言った。それが今できる全部だ

そうだな

湊

何だ

今日、ありがとう

また来るのか、その言葉

毎回言う。毎回ありがとうだから

俺こそ

湊は何もされてないのに

一緒にいた。それが全部だ

しばらく間があった。


湊が言うと、一緒にいることがすごく大事なことに聞こえる

大事なことだから

そうだね

うん、そうだ

湊

何だ

夏休み、まだある

そうだな

また来よう。この海に

また怪異に向き合いに行くのか

それだけじゃない

どういう意味だ

約束を、果たしに行く。ちゃんと届いたか、確かめに行く

そうか

湊も来る?

当たり前だ

じゃあ約束

約束だ


スマホを置いた。

窓の外に、夜空が広がっていた。

遠くに、海は見えなかった。

でも感じた。

百七十年間、誰にも聞かれなかった怒りが——今日、少し和らいだ。


完全に終わったわけじゃない。

でも始まった。

届いたことが、始まりになる。

高校の怪異と同じだ。

始まりがあれば、終わりに向かえる。

詩音とならば、向かえる。

それで十分だった。

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