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朝倉詩音の怪異録〜大学編〜  作者: ゆるっとおやじ


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8/31

海の底から呼ぶ声

七月の終わり、二人で海に行った。

電車で一時間ほどの、小さな海水浴場だった。

有名な場所じゃなかった。地元の人が使う、静かな海だった。砂浜が白くて、人が少なかった。

朝倉が選んだ場所だった。

「人が少ない方がいい」朝倉は言っていた。「怪異が出たとき、人目がない方がいい」

「最初から怪異を想定するな」と俺は言った。

「想定しておいた方がいい」朝倉は言った。

その言葉通りになった。


昼前に着いた。

海は青かった。

波の音がした。風が潮の匂いを運んできた。

朝倉は砂浜に立って、海を見ていた。

「きれいだな」朝倉は言った。

「ああ」


「旅人たちも、こういう海を見たことがあったのかな」朝倉は静かに言った。「シルクロードから来た人たちが、海を見たとき——どう思ったんだろう」

「初めて見た人もいたんじゃないか」

「そうかもしれない」朝倉は波打ち際まで歩いた。「初めて海を見たとき、どんな気持ちだったんだろう」

「今の詩音みたいな顔じゃないか」

「どんな顔をしてる」

「嬉しそうで、少し呆然としてる顔」

朝倉は少し笑った。

「そうかもしれない」


昼を食べた。

砂浜の端にある、小さな食堂だった。

海を見ながら食べた。

朝倉が刺身定食を頼んだ。俺は海鮮丼を頼んだ。

普通の、夏の昼飯だった。

でも食堂のおばさんが、何気なく言った。

「今日は遠浅の沖の方には行かない方がいいよ」

「何かあるんですか」と朝倉が聞いた。

「今年の夏、変なことが続いてるから」おばさんは少し声を低くした。「海から変な音がするんだよ。夜じゃなくて、昼間に」

「変な音?」

「低い音。地鳴りみたいな音が、沖の方から聞こえてくる。地元の漁師が気にしてる。魚の取れ方も変だって」


「いつ頃から?」

「今月の頭から。急に」おばさんは手を振った。「まあ、海は何が起きるか分からないから。気をつけてね」


食堂を出た。

朝倉は海を見ていた。

「聞こえるか」と俺は聞いた。

「聞こえない。でも——感じる」朝倉は沖の方を見た。「何かいる。沖の方に」

「また怪異か」

「たぶん」朝倉はノートを取り出した。「でも——今まで会ってきた怪異と、種類が違う気がする」

「どう違う」

「今まで会ってきた怪異は、全部——困っていた。帰れなくて、閉じ込められていて、助けを求めていた」朝倉は沖を見たまま言った。「でもこれは——怒っている気がする」


「怒っている?」

「そう。何かに、怒っている」

砂浜を歩いた。

地元の人がいた。老人が二人、砂浜に座って海を見ていた。

「すみません」俺は声をかけた。「この海で、最近変なことがあったと聞いて」

老人たちは俺たちを見た。一人が口を開いた。

「観光客かい」

「はい」

「今月の頭から、変なんだよ」老人は沖を見た。「海の色が、少し変わった。見えるかい、あそこ」

老人が指差した先を見た。

沖の一角が、少しだけ色が違った。

他の場所より、暗かった。青というより、黒に近い。


「あの辺りだけ、色が違う」老人は言った。「魚も寄り付かない。ダイバーが潜ったら、気分が悪くなって戻ってきた」

「原因は何だと思いますか」と朝倉が聞いた。

「分からん」老人は首を振った。「でも——昔、じいさんから聞いたことがある。この海の沖に、古いものが沈んでいると。船が一艘、江戸時代に沈んでいると」

「船が?」

「戦じゃなくて、嵐で沈んだらしい。積み荷ごと。人も何人か、一緒に沈んだと」老人は立ち上がった。「今年の夏は、なんかそれを思い出す。若い人は、沖には行かない方がいい」


二人で砂浜に戻った。

暗い海を見た。

「江戸時代の船が沈んでいる」と俺は言った。

「一緒に沈んだ人たちがいる」と朝倉は言った。

「帰れない者か」

「そうだと思う。でも——怒っている理由が分からない。ただ沈んだだけなら、困っているはずだ。なのに怒っている」

「何かに、怒っている」

「そう」朝倉は沖を見た。「原因が分からない限り、近づくのは——」

「でも何かしないと、この海は変なままだろ」

「分かってる」朝倉はノートに何かを書いた。「一つだけ、試してみたいことがある」

「何だ」

「海の記憶を、辿ってみる」朝倉は砂浜に座った。


「地下のものの記憶と同じように、この土地の——海の記憶が、残っているかもしれない」

「できるのか」

「やってみないと分からない。でも——触媒が必要だ」

「触媒?」

朝倉は砂を一握り、手のひらに乗せた。

「この砂は、ずっとここにある。この海の記憶が、染み込んでいるはずだ」

朝倉は目を閉じた。


俺は朝倉の隣に座って、待った。

波が来て、返った。

繰り返した。

海風が吹いた。

一分経った。

二分経った。

朝倉の手が、かすかに震えた。

「詩音」と俺は小声で言った。

朝倉は答えなかった。


三分が経った。

朝倉の顔が、青ざめた。

「詩音」俺は朝倉の肩に触れた。「大丈夫か」

朝倉が目を開けた。

目が、いつもと違った。

焦点が合うまで、少し時間がかかった。

「湊」朝倉は俺を見た。「声が聞こえた」

「海の記憶か」

「違う」朝倉は砂を落とした。「船から、聞こえた。沈んでいる船の中から」

「何を言っていた」

朝倉は少し間を置いた。


「返せ、と言っていた」

 「また返せか」と俺は言った。

「でも今回は違う」朝倉は膝を抱えた。「高校のときの怪異は、何かを返してほしがっていた。でも今回は——誰かに、何かを返せと言っている。第三者に向かって、怒っている」

「誰に向かって?」

「分からない。でも——船に乗っていた人たちじゃない。外の、誰かに向かって」

「船が沈んだのは、嵐だと言っていた」俺は言った。「でも嵐じゃなかったとしたら?」

朝倉が俺を見た。

「誰かのせいで、沈んだのか」

「そういう可能性がある」


朝倉はノートを開いた。

「調べないといけない。でも——資料がここにはない。図書館に行かないと」

「今日は無理だ。帰りの電車がある」

「そうだね」朝倉はノートを閉じた。「でも、もう一つだけ確かめたい」

「何を」

「近づいても大丈夫か。沖に近い場所まで」

「やめろ」俺は即座に言った。

「見るだけだ。入らない」

「見るだけでも、危ない気がする」

「大丈夫だと思う。でも——湊が心配なら、やめる」


俺は沖を見た。

暗い海が、ゆっくりと揺れていた。

「一緒に行く。でも何か感じたら、すぐ離れる」

「分かった」

砂浜を歩いた。

波打ち際まで来た。

海水が足元を濡らした。冷たかった。


沖を見た。

暗い部分が、近くで見るとより暗く見えた。

水の色が違った。他の場所より、深みがあった。

朝倉が足を止めた。

「聞こえる」朝倉は小声で言った。

「何が」

「低い音。おばさんが言っていた音だ。ここまで来ると、聞こえる」


俺も耳を澄ませた。

聞こえた。

低い、地鳴りみたいな音。波の音とは違う。もっと深いところから来る音だった。

「怒ってる」朝倉は静かに言った。「ずっと、怒ってる。江戸時代からずっと」

「なんで今になって大きくなったんだ。今月から変わったと言っていた」

「それが——」朝倉は沖を見た。「何かがきっかけになった気がする。今月、この海で何かがあった」

その瞬間だった。

波が来た。

普通の波じゃなかった。

急に、大きくなった。


「詩音!」

俺は朝倉の腕を掴んだ。

波が、足元を攫っていった。

砂が崩れた。

後ろに引かれる感覚があった。

波に、引き込まれかけた。

俺は朝倉を引っ張った。

二人で、後ろに飛んだ。

波が引いた。

砂浜に倒れた。

俺は朝倉を抱えていた。朝倉は俺の腕を掴んでいた。


二人とも、ずぶ濡れだった。

少し離れた場所から、老人が走ってきた。

「大丈夫か!急に波が高くなることがあるんだ、あの辺りは!」

「大丈夫です」俺は言った。

「怪我は?」

「ないです」

老人は安堵した顔をして、また戻っていった。

二人で砂浜に座った。

朝倉は息を整えていた。

「大丈夫か」と俺は聞いた。

「大丈夫」朝倉は言った。「でも——あれは、波じゃない」

「怪異がやったのか」

「そう思う」朝倉は海を見た。「引き込もうとした」

「引き込まれたら、どうなってたんだ」

「分からない。でも——よくはなかったと思う」


俺は朝倉を見た。

「傷はないか」

「ない」朝倉は俺の腕を見た。「湊こそ」

「問題ない」

朝倉はしばらく海を見ていた。

「怒りが、大きくなってきている」朝倉は静かに言った。「最初は音だけだった。でも今は、人を引き込もうとしている」

「このまま放っておけないな」

「そうだ。でも——今日は何もできない。資料が必要だ。船が沈んだ経緯を調べないと、怒りの原因が分からない」

「帰って調べるか」

「うん」朝倉は立ち上がった。「でも湊、一つだけ言っていいか」

「何だ」

「さっき、引っ張ってくれた」

「ああ」

「ありがとう」朝倉は俺を見た。「間に合わなかったら——どうなっていたか分からない」

「間に合った。それでいい」


「でも」朝倉は少し俯いた。「怖かった。引かれる感覚が——今まで経験したことがない感覚だった」

俺は朝倉の手を握った。

「俺も怖かった」

朝倉が顔を上げた。

「湊も?」

「お前が引き込まれそうになって、怖かった」

朝倉はしばらく俺を見ていた。

「……怖いと、言えるんだな」

「怖いものは怖い」

「そうだね」朝倉は俺の手を握り返した。「私も、正直に言う。怖かった。でも——湊が引っ張ってくれたから、助かった」

「また引っ張る。何があっても」

朝倉は少し目を細めた。

「約束か」

「約束だ」


帰りの電車に乗った。

二人ともまだ少し濡れていた。

朝倉がタオルで髪を拭きながら、ノートを開いた。

「帰ったら調べる。江戸時代にこの海で沈んだ船の記録を」

「図書館か」

「それと——地域の歴史資料館。古い船の沈没記録が残っているかもしれない」

「また田村先生みたいに資料を漁るのか」

「先生に習った」朝倉は少し笑った。

「怖かったのに、もう次のことを考えてるのか」

「怖いからこそ、考える。原因が分からないままの方が、怖い」

俺は朝倉を見た。


「相変わらずだな」

「悪いか」

「悪くない。それが詩音だ」

朝倉は窓の外を見た。

海が、遠ざかっていった。

その夜、朝倉からメッセージが来た。


少し調べた

何か分かったか

この海域で江戸時代に沈んだ船の記録、見つかった

早いな

地域の郷土史サイトに載っていた。詳しくは明日、資料館で調べる

概要は?

江戸時代の末期、廻船が嵐で沈んだ記録がある。でも——地元の言い伝えでは、嵐じゃなかったという話もある

嵐じゃなかったとしたら

積み荷を横取りしようとした別の船に、ぶつけられたという説がある。故意に沈められた、という話が地元に残っている


俺は画面を見つめた。

故意に沈められたのか

まだ確認できていない。でも——怒っている理由が、それなら納得できる

故意に殺されたなら、怒るのは当然だ

そう思う。でも——なぜ今月から怒りが大きくなったのか、がまだ分からない

俺は少し考えた。

何かきっかけがあったはずだ

そうだと思う。今月、この海で何かがあった

調べられるか

明日、地元の図書館にも行ってみる。新聞記事に、何か出ているかもしれない

一人で行くのか

湊も来る?

行く

早いな

詩音が一人で行くなら、行く


しばらく間があった。

……来てもいい。でも今日、怖い思いをさせた

また引っ張るから大丈夫だ

海には入らないから、引っ張る場面はないはずだ

でも何があるか分からないから、行く

また間があった。

湊

何だ

今日、海で——本当に怖かった。引かれる感覚が、まだ手に残ってる

そうか

湊の手も、まだ感じる。引っ張ってくれたときの


俺は手のひらを見た。

俺も感じる。詩音の手を掴んだときの感触

間に合ってよかった

間に合わせる。これからも

長い間があった。

……ありがとう


おやすみ、詩音

おやすみ、湊


スマホを置いた。

窓の外は夜だった。

遠くで、雷が光った。

嵐が来そうだった。

故意に沈められた船。

江戸時代からずっと、怒り続けている者たち。

何が、今月怒りを大きくしたのか。

明日、分かるかもしれない。

でも今夜は——朝倉の手の感触を、覚えていた。

あの瞬間、間に合った。

それだけが、確かだった。

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