海の底から呼ぶ声
七月の終わり、二人で海に行った。
電車で一時間ほどの、小さな海水浴場だった。
有名な場所じゃなかった。地元の人が使う、静かな海だった。砂浜が白くて、人が少なかった。
朝倉が選んだ場所だった。
「人が少ない方がいい」朝倉は言っていた。「怪異が出たとき、人目がない方がいい」
「最初から怪異を想定するな」と俺は言った。
「想定しておいた方がいい」朝倉は言った。
その言葉通りになった。
昼前に着いた。
海は青かった。
波の音がした。風が潮の匂いを運んできた。
朝倉は砂浜に立って、海を見ていた。
「きれいだな」朝倉は言った。
「ああ」
「旅人たちも、こういう海を見たことがあったのかな」朝倉は静かに言った。「シルクロードから来た人たちが、海を見たとき——どう思ったんだろう」
「初めて見た人もいたんじゃないか」
「そうかもしれない」朝倉は波打ち際まで歩いた。「初めて海を見たとき、どんな気持ちだったんだろう」
「今の詩音みたいな顔じゃないか」
「どんな顔をしてる」
「嬉しそうで、少し呆然としてる顔」
朝倉は少し笑った。
「そうかもしれない」
昼を食べた。
砂浜の端にある、小さな食堂だった。
海を見ながら食べた。
朝倉が刺身定食を頼んだ。俺は海鮮丼を頼んだ。
普通の、夏の昼飯だった。
でも食堂のおばさんが、何気なく言った。
「今日は遠浅の沖の方には行かない方がいいよ」
「何かあるんですか」と朝倉が聞いた。
「今年の夏、変なことが続いてるから」おばさんは少し声を低くした。「海から変な音がするんだよ。夜じゃなくて、昼間に」
「変な音?」
「低い音。地鳴りみたいな音が、沖の方から聞こえてくる。地元の漁師が気にしてる。魚の取れ方も変だって」
「いつ頃から?」
「今月の頭から。急に」おばさんは手を振った。「まあ、海は何が起きるか分からないから。気をつけてね」
食堂を出た。
朝倉は海を見ていた。
「聞こえるか」と俺は聞いた。
「聞こえない。でも——感じる」朝倉は沖の方を見た。「何かいる。沖の方に」
「また怪異か」
「たぶん」朝倉はノートを取り出した。「でも——今まで会ってきた怪異と、種類が違う気がする」
「どう違う」
「今まで会ってきた怪異は、全部——困っていた。帰れなくて、閉じ込められていて、助けを求めていた」朝倉は沖を見たまま言った。「でもこれは——怒っている気がする」
「怒っている?」
「そう。何かに、怒っている」
砂浜を歩いた。
地元の人がいた。老人が二人、砂浜に座って海を見ていた。
「すみません」俺は声をかけた。「この海で、最近変なことがあったと聞いて」
老人たちは俺たちを見た。一人が口を開いた。
「観光客かい」
「はい」
「今月の頭から、変なんだよ」老人は沖を見た。「海の色が、少し変わった。見えるかい、あそこ」
老人が指差した先を見た。
沖の一角が、少しだけ色が違った。
他の場所より、暗かった。青というより、黒に近い。
「あの辺りだけ、色が違う」老人は言った。「魚も寄り付かない。ダイバーが潜ったら、気分が悪くなって戻ってきた」
「原因は何だと思いますか」と朝倉が聞いた。
「分からん」老人は首を振った。「でも——昔、じいさんから聞いたことがある。この海の沖に、古いものが沈んでいると。船が一艘、江戸時代に沈んでいると」
「船が?」
「戦じゃなくて、嵐で沈んだらしい。積み荷ごと。人も何人か、一緒に沈んだと」老人は立ち上がった。「今年の夏は、なんかそれを思い出す。若い人は、沖には行かない方がいい」
二人で砂浜に戻った。
暗い海を見た。
「江戸時代の船が沈んでいる」と俺は言った。
「一緒に沈んだ人たちがいる」と朝倉は言った。
「帰れない者か」
「そうだと思う。でも——怒っている理由が分からない。ただ沈んだだけなら、困っているはずだ。なのに怒っている」
「何かに、怒っている」
「そう」朝倉は沖を見た。「原因が分からない限り、近づくのは——」
「でも何かしないと、この海は変なままだろ」
「分かってる」朝倉はノートに何かを書いた。「一つだけ、試してみたいことがある」
「何だ」
「海の記憶を、辿ってみる」朝倉は砂浜に座った。
「地下のものの記憶と同じように、この土地の——海の記憶が、残っているかもしれない」
「できるのか」
「やってみないと分からない。でも——触媒が必要だ」
「触媒?」
朝倉は砂を一握り、手のひらに乗せた。
「この砂は、ずっとここにある。この海の記憶が、染み込んでいるはずだ」
朝倉は目を閉じた。
俺は朝倉の隣に座って、待った。
波が来て、返った。
繰り返した。
海風が吹いた。
一分経った。
二分経った。
朝倉の手が、かすかに震えた。
「詩音」と俺は小声で言った。
朝倉は答えなかった。
三分が経った。
朝倉の顔が、青ざめた。
「詩音」俺は朝倉の肩に触れた。「大丈夫か」
朝倉が目を開けた。
目が、いつもと違った。
焦点が合うまで、少し時間がかかった。
「湊」朝倉は俺を見た。「声が聞こえた」
「海の記憶か」
「違う」朝倉は砂を落とした。「船から、聞こえた。沈んでいる船の中から」
「何を言っていた」
朝倉は少し間を置いた。
「返せ、と言っていた」
「また返せか」と俺は言った。
「でも今回は違う」朝倉は膝を抱えた。「高校のときの怪異は、何かを返してほしがっていた。でも今回は——誰かに、何かを返せと言っている。第三者に向かって、怒っている」
「誰に向かって?」
「分からない。でも——船に乗っていた人たちじゃない。外の、誰かに向かって」
「船が沈んだのは、嵐だと言っていた」俺は言った。「でも嵐じゃなかったとしたら?」
朝倉が俺を見た。
「誰かのせいで、沈んだのか」
「そういう可能性がある」
朝倉はノートを開いた。
「調べないといけない。でも——資料がここにはない。図書館に行かないと」
「今日は無理だ。帰りの電車がある」
「そうだね」朝倉はノートを閉じた。「でも、もう一つだけ確かめたい」
「何を」
「近づいても大丈夫か。沖に近い場所まで」
「やめろ」俺は即座に言った。
「見るだけだ。入らない」
「見るだけでも、危ない気がする」
「大丈夫だと思う。でも——湊が心配なら、やめる」
俺は沖を見た。
暗い海が、ゆっくりと揺れていた。
「一緒に行く。でも何か感じたら、すぐ離れる」
「分かった」
砂浜を歩いた。
波打ち際まで来た。
海水が足元を濡らした。冷たかった。
沖を見た。
暗い部分が、近くで見るとより暗く見えた。
水の色が違った。他の場所より、深みがあった。
朝倉が足を止めた。
「聞こえる」朝倉は小声で言った。
「何が」
「低い音。おばさんが言っていた音だ。ここまで来ると、聞こえる」
俺も耳を澄ませた。
聞こえた。
低い、地鳴りみたいな音。波の音とは違う。もっと深いところから来る音だった。
「怒ってる」朝倉は静かに言った。「ずっと、怒ってる。江戸時代からずっと」
「なんで今になって大きくなったんだ。今月から変わったと言っていた」
「それが——」朝倉は沖を見た。「何かがきっかけになった気がする。今月、この海で何かがあった」
その瞬間だった。
波が来た。
普通の波じゃなかった。
急に、大きくなった。
「詩音!」
俺は朝倉の腕を掴んだ。
波が、足元を攫っていった。
砂が崩れた。
後ろに引かれる感覚があった。
波に、引き込まれかけた。
俺は朝倉を引っ張った。
二人で、後ろに飛んだ。
波が引いた。
砂浜に倒れた。
俺は朝倉を抱えていた。朝倉は俺の腕を掴んでいた。
二人とも、ずぶ濡れだった。
少し離れた場所から、老人が走ってきた。
「大丈夫か!急に波が高くなることがあるんだ、あの辺りは!」
「大丈夫です」俺は言った。
「怪我は?」
「ないです」
老人は安堵した顔をして、また戻っていった。
二人で砂浜に座った。
朝倉は息を整えていた。
「大丈夫か」と俺は聞いた。
「大丈夫」朝倉は言った。「でも——あれは、波じゃない」
「怪異がやったのか」
「そう思う」朝倉は海を見た。「引き込もうとした」
「引き込まれたら、どうなってたんだ」
「分からない。でも——よくはなかったと思う」
俺は朝倉を見た。
「傷はないか」
「ない」朝倉は俺の腕を見た。「湊こそ」
「問題ない」
朝倉はしばらく海を見ていた。
「怒りが、大きくなってきている」朝倉は静かに言った。「最初は音だけだった。でも今は、人を引き込もうとしている」
「このまま放っておけないな」
「そうだ。でも——今日は何もできない。資料が必要だ。船が沈んだ経緯を調べないと、怒りの原因が分からない」
「帰って調べるか」
「うん」朝倉は立ち上がった。「でも湊、一つだけ言っていいか」
「何だ」
「さっき、引っ張ってくれた」
「ああ」
「ありがとう」朝倉は俺を見た。「間に合わなかったら——どうなっていたか分からない」
「間に合った。それでいい」
「でも」朝倉は少し俯いた。「怖かった。引かれる感覚が——今まで経験したことがない感覚だった」
俺は朝倉の手を握った。
「俺も怖かった」
朝倉が顔を上げた。
「湊も?」
「お前が引き込まれそうになって、怖かった」
朝倉はしばらく俺を見ていた。
「……怖いと、言えるんだな」
「怖いものは怖い」
「そうだね」朝倉は俺の手を握り返した。「私も、正直に言う。怖かった。でも——湊が引っ張ってくれたから、助かった」
「また引っ張る。何があっても」
朝倉は少し目を細めた。
「約束か」
「約束だ」
帰りの電車に乗った。
二人ともまだ少し濡れていた。
朝倉がタオルで髪を拭きながら、ノートを開いた。
「帰ったら調べる。江戸時代にこの海で沈んだ船の記録を」
「図書館か」
「それと——地域の歴史資料館。古い船の沈没記録が残っているかもしれない」
「また田村先生みたいに資料を漁るのか」
「先生に習った」朝倉は少し笑った。
「怖かったのに、もう次のことを考えてるのか」
「怖いからこそ、考える。原因が分からないままの方が、怖い」
俺は朝倉を見た。
「相変わらずだな」
「悪いか」
「悪くない。それが詩音だ」
朝倉は窓の外を見た。
海が、遠ざかっていった。
その夜、朝倉からメッセージが来た。
少し調べた
何か分かったか
この海域で江戸時代に沈んだ船の記録、見つかった
早いな
地域の郷土史サイトに載っていた。詳しくは明日、資料館で調べる
概要は?
江戸時代の末期、廻船が嵐で沈んだ記録がある。でも——地元の言い伝えでは、嵐じゃなかったという話もある
嵐じゃなかったとしたら
積み荷を横取りしようとした別の船に、ぶつけられたという説がある。故意に沈められた、という話が地元に残っている
俺は画面を見つめた。
故意に沈められたのか
まだ確認できていない。でも——怒っている理由が、それなら納得できる
故意に殺されたなら、怒るのは当然だ
そう思う。でも——なぜ今月から怒りが大きくなったのか、がまだ分からない
俺は少し考えた。
何かきっかけがあったはずだ
そうだと思う。今月、この海で何かがあった
調べられるか
明日、地元の図書館にも行ってみる。新聞記事に、何か出ているかもしれない
一人で行くのか
湊も来る?
行く
早いな
詩音が一人で行くなら、行く
しばらく間があった。
……来てもいい。でも今日、怖い思いをさせた
また引っ張るから大丈夫だ
海には入らないから、引っ張る場面はないはずだ
でも何があるか分からないから、行く
また間があった。
湊
何だ
今日、海で——本当に怖かった。引かれる感覚が、まだ手に残ってる
そうか
湊の手も、まだ感じる。引っ張ってくれたときの
俺は手のひらを見た。
俺も感じる。詩音の手を掴んだときの感触
間に合ってよかった
間に合わせる。これからも
長い間があった。
……ありがとう
おやすみ、詩音
おやすみ、湊
スマホを置いた。
窓の外は夜だった。
遠くで、雷が光った。
嵐が来そうだった。
故意に沈められた船。
江戸時代からずっと、怒り続けている者たち。
何が、今月怒りを大きくしたのか。
明日、分かるかもしれない。
でも今夜は——朝倉の手の感触を、覚えていた。
あの瞬間、間に合った。
それだけが、確かだった。




