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朝倉詩音の怪異録〜大学編〜  作者: ゆるっとおやじ


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10/31

夏の終わりに呼ばれた

八月になった。

夏休みの後半が始まった。

海の件は、少しずつ動いていた。

資料館の係の人が開発業者に連絡を取ってくれた。開発計画そのものは変わらなかったけど、海底調査の際に若潮丸の調査も同時に行うことになった。


朝倉からメッセージが来たのは、八月の第一週だった。


業者から連絡が来た

何て

海底調査で、若潮丸らしき沈没船を発見したと。十二名分の遺骨も、確認されたと

本当か

本当だ。業者が自治体に報告して、正式な記録に残ることになった

約束を守れたな

守れた。でも——

でも?

まだ怒りは残っているかもしれない。遺骨が引き上げられるまで、終わらないかもしれない

また海に行くか

いつか。でも今日は——別のことを話したい

何だ

会って話したい。今日、来られるか


朝倉のアパートに向かった。

部屋に入ると、朝倉はソファに座っていた。

ノートが膝の上にあった。

顔色が、少し悪かった。

「どうした」と俺は言った。

「夢を見た」朝倉は言った。

「また怪異か」

「分からない。でも——高校のときの夢じゃない。大学の夢でもない」朝倉はノートを見た。「知らない場所の夢だった」

「どんな場所だ」

「山だった。でもここの山じゃない。もっと深い、暗い山。木が密集していて、光が届かない場所」朝倉はノートに書いてあるものを俺に見せた。「目が覚めてすぐ、書いた」


ノートには、走り書きがあった。

山・暗い・声・こっちに来い・名前を呼ばれた

「名前を呼ばれたのか」

「詩音、と呼ばれた」朝倉は静かに言った。「私の名前を知っている何かが、山の中にいた」

「地下のものの記憶に、その山はあるか」と俺は聞いた。

「調べてみた。あった」朝倉は目を伏せた。「大学から電車で二時間ほどの場所にある山。古い山だ。昔から、人が近づかない場所として知られていた」

「なぜ近づかなかったんだ」

「帰ってこない人が続いたから。山に入ると、迷って出られなくなる」朝倉はノートを閉じた。「でも——地下のものの記憶には、その山のことがほとんど残っていない。この土地から離れているから、記憶が薄い」

「その山に何がいるのか分からないのか」

「分からない。でも——私を呼んだ。名前を知っていた」

俺は朝倉を見た。


「行くつもりか」

「行かないといけない気がする」

「気がするだけで行くのか」

「名前を呼ばれた。それは——私に向けたメッセージだ」朝倉は俺を見た。「無視できない」


翌朝、二人で電車に乗った。

朝倉は行くと決めたら、止まらなかった。

俺が止める気もなかった。

電車を二本乗り継いで、山の麓の駅に着いた。

小さな駅だった。

改札を出ると、山が見えた。

深い緑の山だった。夏の光を受けているのに、暗く見えた。木が密集しすぎていて、光が入らないのかもしれない。


「あの山だ」朝倉は言った。

「怖いな」俺は正直に言った。

「怖い」朝倉も言った。「でも——呼ばれてる気がする。さっきから」

「今も?」

「今も。山を見た瞬間から、ずっと」

麓の集落に入った。

小さな集落だった。古い家が並んでいた。

人が少なかった。

一人だけ、畑仕事をしている老婆がいた。

声をかけた。

「すみません。あの山に入りたいんですが、道はありますか」

老婆が顔を上げた。

俺たちを見た。

それから、山を見た。


「入るのかい、あの山に」老婆は言った。

「はい」

「よしなさい」老婆は即座に言った。「あの山は——入ったら出られなくなる。昔から、そういう山だ」

「昔から、ということは——何かいるんですか」と朝倉が聞いた。

老婆はしばらく朝倉を見た。


「あんた、霊が見える口だね」老婆は言った。

「少し」

「そうか」老婆は畑仕事の手を止めた。「あの山には、山神がいる。でも——普通の山神じゃない。機嫌が悪い」

「なぜ機嫌が悪いんですか」

「ずっと昔に、何かがあった。私も詳しくは知らない。でも——私のばあさんが言っていた。あの山は昔、怒っていた。今でも、その怒りが残っていると」

「今でも怒っているのか」と俺は聞いた。

「分からない。ただ——夏になると、山が暗くなる気がする。今年は特に」老婆は朝倉を見た。「呼ばれたのかい」

「はい」

「そうか」老婆は少し間を置いた。「じゃあ、行くしかないね。呼ばれたなら」老婆は立ち上がった。「一つだけ教えてあげる。あの山に入ったら、名前を言うな」

「名前を言わない?」と朝倉が言った。

「自分の名前を、山の中で声に出すな。呼ばれても、答えるな。名前で縛られる」老婆は山を見た。「それだけ守れ。あとは——自分たちでやるしかない」


山道の入り口に立った。

鳥居があった。

古い、苔むした鳥居。扁額が半分取れかけていた。文字が読めなかった。

「入るぞ」と俺は言った。

「うん」朝倉は言った。

鳥居をくぐった。


山道は薄暗かった。

入った瞬間、外の熱気が消えた。

夏の山なのに、冷たかった。

木が密集していて、空が見えなかった。

足元に落ち葉が積もっていた。夏なのに落ち葉があった。


「おかしいな」と俺は言った。

「夏に落ち葉がある」朝倉は葉を拾い上げた。「枯れてる。この葉は枯れている」

「生きている木の葉が、枯れてる?」

「この山の木は——」朝倉は周りを見た。「枯れていない。でも、葉が落ちている。まるで、木が意図的に落としているみたいに」

「意図的に?」

「道を塞ぐように、落としているのかもしれない」

俺は足元を見た。

確かに、落ち葉が厚く積もっていた。道なのか道じゃないのか、分かりにくかった。

「迷わせようとしてるのか」

「そう思う。でも——詩音を呼んだのに、迷わせる?」朝倉は首を傾けた。「矛盾している」

「呼んだのは、いい意味じゃないのかもしれない」

朝倉は俺を見た。

「そうかもしれない」


十分ほど歩いた。

道が、なくなった。

落ち葉が全面を覆って、どこが道か分からなくなった。


俺はスマホのGPSを見た。

電波がなかった。

「電波が切れた」と俺は言った。

「来るかもしれないと思っていた」朝倉は言った。「でも——方向は分かる。さっきから、呼ばれる方向に進んでいる」

「どっちだ」

「まっすぐ」朝倉は奥を見た。「奥の方から、声がする」

「俺には聞こえない」

「聞こえなくていい。私に聞こえているから」朝倉は歩き出した。「ついてきて」


さらに十分歩いた。

急に、開けた場所に出た。

小さな広場だった。

真ん中に、古い祠があった。

でも——祠は壊れていた。

屋根が落ちていた。壁が崩れていた。中が見えていた。


中は空だった。

何もなかった。

「御神体がない」と朝倉が言った。

「ここにも、持ち出されたのか」

「そうかもしれない」朝倉は祠に近づいた。「でも——」

その瞬間だった。

声が来た。

俺にも聞こえた。

低くて、深くて、山全体から来るような声だった。


詩音

朝倉の名前を、呼んだ。

朝倉が固まった。

俺は朝倉の腕を掴んだ。

「答えるな」俺は小声で言った。老婆の言葉を思い出しながら。

朝倉は頷いた。

声が、また来た。


詩音


今度は近かった。

すぐ後ろから来るみたいだった。

俺は振り返った。

誰もいなかった。

でも——空気が、違った。

誰かがいる。見えないけど、すぐそこにいる。


詩音

詩音

詩音


連続で来た。

朝倉の肩が、緊張した。

俺は朝倉の腕を、強く掴んだ。

「答えるな。絶対に」

声が止まった。

しばらくして、今度は違う声が来た。

低くなかった。

柔らかい声だった。

でもそれが——もっと怖かった。

こっちに来い

一緒においで

詩音、こっちに来い


朝倉の足が、一歩前に動いた。

「詩音」俺は朝倉を引き寄せた。

朝倉がはっとした顔をした。

「……引き寄せられた」朝倉は言った。

「気をつけろ。声に反応したら、引き込まれる」

「分かった。でも——」朝倉は祠を見た。「あの祠の中に、何かある」

「何も見えないぞ」

「見えない。でも感じる。御神体は持ち出された。でも——何かが残っている。残されたものが、ここにいる」

「それが詩音を呼んでいるのか」

「そう思う。でも——なぜ詩音を呼ぶのか、まだ分からない」朝倉は俺を見た。「近づいてみたい」

「危ないだろ」

「湊がいる」

「俺がいれば何でもできるわけじゃないぞ」

「でも——湊がいると、私は戻ってこられる」朝倉は静かに言った。「引き込まれそうになっても、湊の声が聞こえれば戻れる」

「確信があるのか」

「ある。今日、引き寄せられたとき——湊が呼んだから、止まれた」


俺は少し考えた。

「分かった。でも——絶対に、名前を言うな。答えるな」

「分かった」

「何があっても、俺の手を離すな」

朝倉は俺の手を握った。

「離さない」

二人で祠に近づいた。

声が来た。

来るな!

「今度は来るな、か」俺は言った。

「矛盾している」朝倉は言った。「呼んでおいて、来るな」

「何がしたいんだ」

「怖がらせたい、のかもしれない」朝倉は祠の前に立った。「でも——本当の目的は別にある気がする」


祠に手を伸ばした。

声が最大になった。

来るな!来るな!来るな!!

朝倉は止まらなかった。

祠の崩れた壁に、手を触れた。


沈黙が来た。

完全な沈黙。声も、風も、木の音も、全部消えた。

朝倉が目を閉じた。

地下のものの記憶を探っているのが分かった。

一分が経った。

朝倉の手が、震えた。


「詩音」

「大丈夫」朝倉は言った。「見えてきた」

「何が見える」

「この山の歴史が」朝倉は続けた。「昔——この山には、山神が祀られていた。穏やかな神だった。山の恵みを与えて、村を守っていた」

「なぜ怒るようになったんだ」

「持ち出されたから」朝倉は静かに言った。「御神体が。誰かが——山の神の御神体を、持ち出した。残されたものが、怒っている」

「また御神体か」

「この土地には、御神体を持ち出した歴史が多い」朝倉は言った。「人間が、勝手に動かしてきた。そのたびに、残されたものが——」

「帰れなくなる」

「そう」朝倉は目を開けた。「でも今回は——残されたものが、ただ帰れないだけじゃない。怒って、人を引き込もうとしている」

「なぜ詩音を呼んだんだ」


朝倉は少し間を置いた。

「私が——御神体を返す力を持っていると、知っているから」

「知っているのか」

「地下のものの記憶が、つながっているのかもしれない。この山の記憶と、あの土地の記憶が。薄く、でも繋がっている」朝倉は祠を見た。「この山の残されたものが、私を通じて——御神体を返してほしいと」

「御神体はどこにあるんだ」

「分からない。でも——」朝倉は立ち上がった。「手がかりがある」

「どこにある」

「この祠の床の下に、何かある」


俺は祠の床を見た。

崩れた床に、石が並んでいた。

一枚だけ、他より浮いている石があった。

俺は石をずらした。

下に、小さな空間があった。

中に、古い木の箱があった。

「これは」俺は箱を取り出した。

「開けて」朝倉は言った。

蓋を開けた。

中に、折りたたまれた紙があった。


それを広げた。

文字が書いてあった。

朝倉が覗き込んだ。

「読める?」と俺は聞いた。

「読める。古い文語体だけど——」朝倉はゆっくりと読んだ。「神体を預かる。安全な場所に移す。戻れるときに戻す。——名前がある。苗字が」

「何という苗字だ」

朝倉が顔を上げた。

「水無瀬」

俺は固まった。


「水無瀬家が、御神体を預かったのか」

「そうだと思う。でも——いつのことか分からない。古い紙だ。江戸時代か、もっと前か」朝倉は紙を持ったまま、空を見た。「水無瀬家は、この土地だけじゃなく——各地の御神体を預かってきた家だったのかもしれない」

「凛が知っているのか」

「たぶん知らない。でも——記録に残っているかもしれない」


声が、また来た。

でも今度は違った。

怒りじゃなかった。


頼む


一言だけだった。

でも確かに、そう聞こえた。

朝倉は空に向かって言った。

「調べる。水無瀬家の記録を調べて、御神体がどこにあるか探す。見つかれば、返しに来る」

山が、静かになった。

さっきまでの圧迫感が、少し緩んだ。

でも完全にはなくならなかった。

「約束しました」朝倉は続けた。「でも——時間がかかるかもしれない。待っていてほしい」


風が吹いた。

枯れ葉が舞った。

答えなのか分からなかった。

でも朝倉は頷いた。

「伝わった」


山を下りた。

来るときより、道が見えやすかった。

落ち葉がどいていた。

まるで、道を開けてくれているみたいだった。

麓に出たとき、老婆がまだ畑にいた。

「出てこられたか」老婆は言った。

「出られました」と俺は言った。

「名前を呼ばれただろう」

「呼ばれました。でも答えませんでした」

「よかった」老婆は安堵した顔をした。「何が分かったかい」

「水無瀬家が、御神体を預かった記録がありました」と朝倉が言った。

「水無瀬」老婆は繰り返した。「その名前、昔聞いたことがある。この山の神様の世話をしていた家だと、ばあさんから聞いた」

「その御神体を、返しに来ます」朝倉は言った。

「本当かい」老婆は目を細めた。「ずっと待っていたよ。この山が」

「待っていてください。必ず来ます」


電車に乗った。

二人で並んで座った。

朝倉は疲れた顔をしていたが、目が真剣だった。

「凛に連絡するか」と俺は言った。

「する。水無瀬家の記録に、この山の御神体のことが残っているか確認してもらう」

「また凛を巻き込むのか」

「凛は嫌がらないと思う」

「そうだな。目を輝かせるだろうな」

「そうだと思う」朝倉は少し笑った。


俺は朝倉を見た。

「さっき、怖かったか」

「怖かった」朝倉は正直に言った。「声が柔らかくなったとき、引き寄せられた。湊が引き留めてくれなかったら、どうなっていたか」

「引き留めた。それでいい」

「でも——」朝倉は手を見た。「湊の手を離さなくてよかった。あの瞬間、離したら終わりだと思った」

「離しただろうな」

「離さなかった」朝倉は俺を見た。「離さないと、決めていたから」

「そうか」

「湊も、離さなかった」

「離さない」俺は言った。「何があっても」

 朝倉は俺の手を見た。

「……約束か」

「約束だ」


その夜、凛に連絡した。

凛の反応は予想通りだった。

え、山の御神体!?水無瀬家が預かったって!?すごい!

記録に残っているか確認してほしい

確認します!!今すぐ探します!!

急がなくていい

急ぎます!!先輩たちがそこまでしてきたのに、私が急がないでどうするんですか!!


しばらくして、朝倉からもメッセージが来た。

凛、元気だな

相変わらずだ

でも——助かる。凛がいると、明るくなる

そうだな

湊

何だ

今日、山で怖かった。でも——終わってみると、また前に進めた気がする

そうか

毎回そうだ。怖くて、でも終わると前に進んでいる

怪異と向き合うたびに、前に進む

そう思う。でも——怪異がなくても、前に進める気がする

何が変わったんだ

湊がいるから


俺は少し微笑んだ。

詩音がいるから、俺も前に進める

お互い様だな

そうだ

湊

何だ

夏休み、怪異ばかりだった

そうだな

でも——悪くなかった

本当か

本当だ。湊と一緒だったから

海も、山も

両方、怖かった

両方、一緒だった

そうだな

次は——怪異のない夏もしたい

来年の夏は、怪異のない海に行こう

約束か?

約束だ

じゃあ——来年の夏が楽しみだ

俺も

おやすみ、湊

おやすみ、詩音


スマホを置いた。

窓の外に、夏の夜が広がっていた。

遠くで、花火が上がった。

夏がまだ続いていた。

海に、山に、怪異があった。

でも全部——詩音と一緒だった。

来年の夏は、怪異のない海に行く。

約束した。

守る。

それが、今の俺には——何より楽しみだった。

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