夏の終わりに呼ばれた
八月になった。
夏休みの後半が始まった。
海の件は、少しずつ動いていた。
資料館の係の人が開発業者に連絡を取ってくれた。開発計画そのものは変わらなかったけど、海底調査の際に若潮丸の調査も同時に行うことになった。
朝倉からメッセージが来たのは、八月の第一週だった。
業者から連絡が来た
何て
海底調査で、若潮丸らしき沈没船を発見したと。十二名分の遺骨も、確認されたと
本当か
本当だ。業者が自治体に報告して、正式な記録に残ることになった
約束を守れたな
守れた。でも——
でも?
まだ怒りは残っているかもしれない。遺骨が引き上げられるまで、終わらないかもしれない
また海に行くか
いつか。でも今日は——別のことを話したい
何だ
会って話したい。今日、来られるか
朝倉のアパートに向かった。
部屋に入ると、朝倉はソファに座っていた。
ノートが膝の上にあった。
顔色が、少し悪かった。
「どうした」と俺は言った。
「夢を見た」朝倉は言った。
「また怪異か」
「分からない。でも——高校のときの夢じゃない。大学の夢でもない」朝倉はノートを見た。「知らない場所の夢だった」
「どんな場所だ」
「山だった。でもここの山じゃない。もっと深い、暗い山。木が密集していて、光が届かない場所」朝倉はノートに書いてあるものを俺に見せた。「目が覚めてすぐ、書いた」
ノートには、走り書きがあった。
山・暗い・声・こっちに来い・名前を呼ばれた
「名前を呼ばれたのか」
「詩音、と呼ばれた」朝倉は静かに言った。「私の名前を知っている何かが、山の中にいた」
「地下のものの記憶に、その山はあるか」と俺は聞いた。
「調べてみた。あった」朝倉は目を伏せた。「大学から電車で二時間ほどの場所にある山。古い山だ。昔から、人が近づかない場所として知られていた」
「なぜ近づかなかったんだ」
「帰ってこない人が続いたから。山に入ると、迷って出られなくなる」朝倉はノートを閉じた。「でも——地下のものの記憶には、その山のことがほとんど残っていない。この土地から離れているから、記憶が薄い」
「その山に何がいるのか分からないのか」
「分からない。でも——私を呼んだ。名前を知っていた」
俺は朝倉を見た。
「行くつもりか」
「行かないといけない気がする」
「気がするだけで行くのか」
「名前を呼ばれた。それは——私に向けたメッセージだ」朝倉は俺を見た。「無視できない」
翌朝、二人で電車に乗った。
朝倉は行くと決めたら、止まらなかった。
俺が止める気もなかった。
電車を二本乗り継いで、山の麓の駅に着いた。
小さな駅だった。
改札を出ると、山が見えた。
深い緑の山だった。夏の光を受けているのに、暗く見えた。木が密集しすぎていて、光が入らないのかもしれない。
「あの山だ」朝倉は言った。
「怖いな」俺は正直に言った。
「怖い」朝倉も言った。「でも——呼ばれてる気がする。さっきから」
「今も?」
「今も。山を見た瞬間から、ずっと」
麓の集落に入った。
小さな集落だった。古い家が並んでいた。
人が少なかった。
一人だけ、畑仕事をしている老婆がいた。
声をかけた。
「すみません。あの山に入りたいんですが、道はありますか」
老婆が顔を上げた。
俺たちを見た。
それから、山を見た。
「入るのかい、あの山に」老婆は言った。
「はい」
「よしなさい」老婆は即座に言った。「あの山は——入ったら出られなくなる。昔から、そういう山だ」
「昔から、ということは——何かいるんですか」と朝倉が聞いた。
老婆はしばらく朝倉を見た。
「あんた、霊が見える口だね」老婆は言った。
「少し」
「そうか」老婆は畑仕事の手を止めた。「あの山には、山神がいる。でも——普通の山神じゃない。機嫌が悪い」
「なぜ機嫌が悪いんですか」
「ずっと昔に、何かがあった。私も詳しくは知らない。でも——私のばあさんが言っていた。あの山は昔、怒っていた。今でも、その怒りが残っていると」
「今でも怒っているのか」と俺は聞いた。
「分からない。ただ——夏になると、山が暗くなる気がする。今年は特に」老婆は朝倉を見た。「呼ばれたのかい」
「はい」
「そうか」老婆は少し間を置いた。「じゃあ、行くしかないね。呼ばれたなら」老婆は立ち上がった。「一つだけ教えてあげる。あの山に入ったら、名前を言うな」
「名前を言わない?」と朝倉が言った。
「自分の名前を、山の中で声に出すな。呼ばれても、答えるな。名前で縛られる」老婆は山を見た。「それだけ守れ。あとは——自分たちでやるしかない」
山道の入り口に立った。
鳥居があった。
古い、苔むした鳥居。扁額が半分取れかけていた。文字が読めなかった。
「入るぞ」と俺は言った。
「うん」朝倉は言った。
鳥居をくぐった。
山道は薄暗かった。
入った瞬間、外の熱気が消えた。
夏の山なのに、冷たかった。
木が密集していて、空が見えなかった。
足元に落ち葉が積もっていた。夏なのに落ち葉があった。
「おかしいな」と俺は言った。
「夏に落ち葉がある」朝倉は葉を拾い上げた。「枯れてる。この葉は枯れている」
「生きている木の葉が、枯れてる?」
「この山の木は——」朝倉は周りを見た。「枯れていない。でも、葉が落ちている。まるで、木が意図的に落としているみたいに」
「意図的に?」
「道を塞ぐように、落としているのかもしれない」
俺は足元を見た。
確かに、落ち葉が厚く積もっていた。道なのか道じゃないのか、分かりにくかった。
「迷わせようとしてるのか」
「そう思う。でも——詩音を呼んだのに、迷わせる?」朝倉は首を傾けた。「矛盾している」
「呼んだのは、いい意味じゃないのかもしれない」
朝倉は俺を見た。
「そうかもしれない」
十分ほど歩いた。
道が、なくなった。
落ち葉が全面を覆って、どこが道か分からなくなった。
俺はスマホのGPSを見た。
電波がなかった。
「電波が切れた」と俺は言った。
「来るかもしれないと思っていた」朝倉は言った。「でも——方向は分かる。さっきから、呼ばれる方向に進んでいる」
「どっちだ」
「まっすぐ」朝倉は奥を見た。「奥の方から、声がする」
「俺には聞こえない」
「聞こえなくていい。私に聞こえているから」朝倉は歩き出した。「ついてきて」
さらに十分歩いた。
急に、開けた場所に出た。
小さな広場だった。
真ん中に、古い祠があった。
でも——祠は壊れていた。
屋根が落ちていた。壁が崩れていた。中が見えていた。
中は空だった。
何もなかった。
「御神体がない」と朝倉が言った。
「ここにも、持ち出されたのか」
「そうかもしれない」朝倉は祠に近づいた。「でも——」
その瞬間だった。
声が来た。
俺にも聞こえた。
低くて、深くて、山全体から来るような声だった。
詩音
朝倉の名前を、呼んだ。
朝倉が固まった。
俺は朝倉の腕を掴んだ。
「答えるな」俺は小声で言った。老婆の言葉を思い出しながら。
朝倉は頷いた。
声が、また来た。
詩音
今度は近かった。
すぐ後ろから来るみたいだった。
俺は振り返った。
誰もいなかった。
でも——空気が、違った。
誰かがいる。見えないけど、すぐそこにいる。
詩音
詩音
詩音
連続で来た。
朝倉の肩が、緊張した。
俺は朝倉の腕を、強く掴んだ。
「答えるな。絶対に」
声が止まった。
しばらくして、今度は違う声が来た。
低くなかった。
柔らかい声だった。
でもそれが——もっと怖かった。
こっちに来い
一緒においで
詩音、こっちに来い
朝倉の足が、一歩前に動いた。
「詩音」俺は朝倉を引き寄せた。
朝倉がはっとした顔をした。
「……引き寄せられた」朝倉は言った。
「気をつけろ。声に反応したら、引き込まれる」
「分かった。でも——」朝倉は祠を見た。「あの祠の中に、何かある」
「何も見えないぞ」
「見えない。でも感じる。御神体は持ち出された。でも——何かが残っている。残されたものが、ここにいる」
「それが詩音を呼んでいるのか」
「そう思う。でも——なぜ詩音を呼ぶのか、まだ分からない」朝倉は俺を見た。「近づいてみたい」
「危ないだろ」
「湊がいる」
「俺がいれば何でもできるわけじゃないぞ」
「でも——湊がいると、私は戻ってこられる」朝倉は静かに言った。「引き込まれそうになっても、湊の声が聞こえれば戻れる」
「確信があるのか」
「ある。今日、引き寄せられたとき——湊が呼んだから、止まれた」
俺は少し考えた。
「分かった。でも——絶対に、名前を言うな。答えるな」
「分かった」
「何があっても、俺の手を離すな」
朝倉は俺の手を握った。
「離さない」
二人で祠に近づいた。
声が来た。
来るな!
「今度は来るな、か」俺は言った。
「矛盾している」朝倉は言った。「呼んでおいて、来るな」
「何がしたいんだ」
「怖がらせたい、のかもしれない」朝倉は祠の前に立った。「でも——本当の目的は別にある気がする」
祠に手を伸ばした。
声が最大になった。
来るな!来るな!来るな!!
朝倉は止まらなかった。
祠の崩れた壁に、手を触れた。
沈黙が来た。
完全な沈黙。声も、風も、木の音も、全部消えた。
朝倉が目を閉じた。
地下のものの記憶を探っているのが分かった。
一分が経った。
朝倉の手が、震えた。
「詩音」
「大丈夫」朝倉は言った。「見えてきた」
「何が見える」
「この山の歴史が」朝倉は続けた。「昔——この山には、山神が祀られていた。穏やかな神だった。山の恵みを与えて、村を守っていた」
「なぜ怒るようになったんだ」
「持ち出されたから」朝倉は静かに言った。「御神体が。誰かが——山の神の御神体を、持ち出した。残されたものが、怒っている」
「また御神体か」
「この土地には、御神体を持ち出した歴史が多い」朝倉は言った。「人間が、勝手に動かしてきた。そのたびに、残されたものが——」
「帰れなくなる」
「そう」朝倉は目を開けた。「でも今回は——残されたものが、ただ帰れないだけじゃない。怒って、人を引き込もうとしている」
「なぜ詩音を呼んだんだ」
朝倉は少し間を置いた。
「私が——御神体を返す力を持っていると、知っているから」
「知っているのか」
「地下のものの記憶が、つながっているのかもしれない。この山の記憶と、あの土地の記憶が。薄く、でも繋がっている」朝倉は祠を見た。「この山の残されたものが、私を通じて——御神体を返してほしいと」
「御神体はどこにあるんだ」
「分からない。でも——」朝倉は立ち上がった。「手がかりがある」
「どこにある」
「この祠の床の下に、何かある」
俺は祠の床を見た。
崩れた床に、石が並んでいた。
一枚だけ、他より浮いている石があった。
俺は石をずらした。
下に、小さな空間があった。
中に、古い木の箱があった。
「これは」俺は箱を取り出した。
「開けて」朝倉は言った。
蓋を開けた。
中に、折りたたまれた紙があった。
それを広げた。
文字が書いてあった。
朝倉が覗き込んだ。
「読める?」と俺は聞いた。
「読める。古い文語体だけど——」朝倉はゆっくりと読んだ。「神体を預かる。安全な場所に移す。戻れるときに戻す。——名前がある。苗字が」
「何という苗字だ」
朝倉が顔を上げた。
「水無瀬」
俺は固まった。
「水無瀬家が、御神体を預かったのか」
「そうだと思う。でも——いつのことか分からない。古い紙だ。江戸時代か、もっと前か」朝倉は紙を持ったまま、空を見た。「水無瀬家は、この土地だけじゃなく——各地の御神体を預かってきた家だったのかもしれない」
「凛が知っているのか」
「たぶん知らない。でも——記録に残っているかもしれない」
声が、また来た。
でも今度は違った。
怒りじゃなかった。
頼む
一言だけだった。
でも確かに、そう聞こえた。
朝倉は空に向かって言った。
「調べる。水無瀬家の記録を調べて、御神体がどこにあるか探す。見つかれば、返しに来る」
山が、静かになった。
さっきまでの圧迫感が、少し緩んだ。
でも完全にはなくならなかった。
「約束しました」朝倉は続けた。「でも——時間がかかるかもしれない。待っていてほしい」
風が吹いた。
枯れ葉が舞った。
答えなのか分からなかった。
でも朝倉は頷いた。
「伝わった」
山を下りた。
来るときより、道が見えやすかった。
落ち葉がどいていた。
まるで、道を開けてくれているみたいだった。
麓に出たとき、老婆がまだ畑にいた。
「出てこられたか」老婆は言った。
「出られました」と俺は言った。
「名前を呼ばれただろう」
「呼ばれました。でも答えませんでした」
「よかった」老婆は安堵した顔をした。「何が分かったかい」
「水無瀬家が、御神体を預かった記録がありました」と朝倉が言った。
「水無瀬」老婆は繰り返した。「その名前、昔聞いたことがある。この山の神様の世話をしていた家だと、ばあさんから聞いた」
「その御神体を、返しに来ます」朝倉は言った。
「本当かい」老婆は目を細めた。「ずっと待っていたよ。この山が」
「待っていてください。必ず来ます」
電車に乗った。
二人で並んで座った。
朝倉は疲れた顔をしていたが、目が真剣だった。
「凛に連絡するか」と俺は言った。
「する。水無瀬家の記録に、この山の御神体のことが残っているか確認してもらう」
「また凛を巻き込むのか」
「凛は嫌がらないと思う」
「そうだな。目を輝かせるだろうな」
「そうだと思う」朝倉は少し笑った。
俺は朝倉を見た。
「さっき、怖かったか」
「怖かった」朝倉は正直に言った。「声が柔らかくなったとき、引き寄せられた。湊が引き留めてくれなかったら、どうなっていたか」
「引き留めた。それでいい」
「でも——」朝倉は手を見た。「湊の手を離さなくてよかった。あの瞬間、離したら終わりだと思った」
「離しただろうな」
「離さなかった」朝倉は俺を見た。「離さないと、決めていたから」
「そうか」
「湊も、離さなかった」
「離さない」俺は言った。「何があっても」
朝倉は俺の手を見た。
「……約束か」
「約束だ」
その夜、凛に連絡した。
凛の反応は予想通りだった。
え、山の御神体!?水無瀬家が預かったって!?すごい!
記録に残っているか確認してほしい
確認します!!今すぐ探します!!
急がなくていい
急ぎます!!先輩たちがそこまでしてきたのに、私が急がないでどうするんですか!!
しばらくして、朝倉からもメッセージが来た。
凛、元気だな
相変わらずだ
でも——助かる。凛がいると、明るくなる
そうだな
湊
何だ
今日、山で怖かった。でも——終わってみると、また前に進めた気がする
そうか
毎回そうだ。怖くて、でも終わると前に進んでいる
怪異と向き合うたびに、前に進む
そう思う。でも——怪異がなくても、前に進める気がする
何が変わったんだ
湊がいるから
俺は少し微笑んだ。
詩音がいるから、俺も前に進める
お互い様だな
そうだ
湊
何だ
夏休み、怪異ばかりだった
そうだな
でも——悪くなかった
本当か
本当だ。湊と一緒だったから
海も、山も
両方、怖かった
両方、一緒だった
そうだな
次は——怪異のない夏もしたい
来年の夏は、怪異のない海に行こう
約束か?
約束だ
じゃあ——来年の夏が楽しみだ
俺も
おやすみ、湊
おやすみ、詩音
スマホを置いた。
窓の外に、夏の夜が広がっていた。
遠くで、花火が上がった。
夏がまだ続いていた。
海に、山に、怪異があった。
でも全部——詩音と一緒だった。
来年の夏は、怪異のない海に行く。
約束した。
守る。
それが、今の俺には——何より楽しみだった。




