記録の中に眠っていた
八月の終わり、凛から連絡が来た。
夏休みが終わる三日前だった。
見つかりました
それだけだった。
俺はすぐに朝倉に転送した。
朝倉からの返信も早かった。
今から凛のところに行く。来られる?
行く
凛の家は、高校の近くにあった。
電車で一時間かけて向かった。
凛の家は、古い一軒家だった。庭に木が何本か植えてあって、手入れが行き届いていた。
凛が玄関に出てきた。
「来てくれた!先輩たち、久しぶりです」
「この間も会っただろ」と俺は言った。
「でも家に来るのは初めてです」凛は俺たちを招き入れた。「どうぞ」
居間に通された。
テーブルの上に、古い箱が置いてあった。
木箱だった。朝倉家の記録が入っていた箱に似ていた。でも、もっと大きかった。
「これが水無瀬家の記録ですか」と朝倉が聞いた。
「そうです」凛は箱の前に座った。「おばあちゃんが亡くなってから、ずっと物置にあったんです。中を全部確認したことがなかったんですが——今回、全部出してみたら」
凛は箱の蓋を開けた。
中に、和紙の束が何十枚も入っていた。丁寧に折りたたまれていた。
「多いな」と俺は言った。
「全部読むのに、二日かかりました」凛は束の中から一枚を抜き出した。「これです。山の名前と、水無瀬家の記録が一致したのは」
朝倉が紙を受け取った。
丁寧に広げた。
俺も隣から覗き込んだ。
古い文語体の文章だった。でも朝倉はすらすらと読んだ。
「文政四年、秋。山の神の神体を預かることとなった。山を管理する者がいなくなり、このままでは神体が失われる恐れがあったため、水無瀬家が一時預かりとした。山に管理する者が現れたとき、返すこととする」
朝倉は続きを読んだ。
「神体は鏡にあらず、剣にあらず。木を彫り込んだ像である。高さ三寸ほど。山神の形を模している。現在は水無瀬家の蔵に安置している」
「蔵に安置している」俺は言った。「今も、水無瀬家にあるのか」
「記録はここまでです」凛は言った。「でも——蔵を調べたら」
凛は立ち上がった。
「来てください」
庭の奥に、小さな蔵があった。
古い木の蔵だった。扉が少し傾いていた。凛が鍵を開けた。
中は薄暗かった。古い道具が棚に並んでいた。
凛が奥まで歩いた。
一番奥の棚の上に、白い布に包まれたものがあった。
「これだと思います」凛は布を手に取った。「触れてみたら、何か感じました。だから連絡しました」
朝倉が布に手を触れた。
目を閉じた。
三十秒ほどして、目を開けた。
「これだ」朝倉は静かに言った。「山から来たものだ。感じる。あの山の空気と同じだ」
「間違いないか」と俺は聞いた。
「間違いない」
居間に戻って、三人でテーブルを囲んだ。
白い布に包まれたものを、真ん中に置いた。
「返しに行けますね」凛は言った。
「そうだな」俺は言った。
「でも——」朝倉は布を見ながら言った。「一つ確認したいことがある」
「何ですか」と凛が聞いた。
「山の神は、今も怒っているかもしれない。御神体を返したとき、受け入れてもらえるかどうか」
「受け入れてもらえないことがあるのか」と俺は聞いた。
「百年以上、離れていたものを急に戻しても——驚いて、暴れるかもしれない。高校の怪異でも、戻す前に準備が必要だった」
「どんな準備が必要なんだ」
「あの山の神に、水無瀬家の言葉で呼びかけることだと思う」朝倉は凛を見た。「凛、できるか」
「やります」凛は即座に言った。「水無瀬家の記録に、山の神への言葉も書いてあったんです。今回、読んでおきました」
「さすがだな」と俺は言った。
「先輩たちのためですから」凛は照れた顔をした。「いつでも行けます」
次の週末、三人で山に向かった。
電車を二本乗り継いで、麓の駅に着いた。
凛は初めて見る山を、正面から見上げた。
「暗い山ですね」凛は言った。
「そうだろ」と俺は言った。
「でも——何か感じます。怒っているけど、その奥に別のものがある」
「別のもの?」と朝倉が聞いた。
「悲しい、みたいな感じ。怒りの下に、悲しみがある」
朝倉は山を見た。
「長い間、一人だったから」
「そうだと思います」凛は白い布に包まれたものを抱え直した。「行きましょう」
山道を登った。
前回より、道が見えやすかった。
落ち葉は積もっていたが、前回ほどではなかった。
でも空気は重かった。
三人で並んで登った。
凛は無言だった。何かを感じ取っているようだった。
「どうだ」と俺は小声で聞いた。
「声が聞こえます」凛は小声で返した。「私の名前は呼ばれていない。でも——気づいてる。誰かが来たことを」
「怒っているか」
「まだ分からない。でも——待っている気がします」
広場に出た。
壊れた祠が、前回と同じ場所にあった。
でも何かが違った。
前回は、怒りの圧力があった。近づくのをためらうような重さがあった。
今回は——静かだった。
待っている静けさだった。
「気づいてたんだな」と俺は言った。「来ることを」
「山が、一度呼んだから」朝倉は言った。「来ると思っていたのかもしれない」
凛が祠の前に立った。
「始めます」
凛が目を閉じた。
深く、息を吸った。
それから、言葉を唱え始めた。
今まで聞いてきた水無瀬家の言葉の中で、一番柔らかい言葉だった。
呼びかけるような、語りかけるような言葉だった。
山が、静かに聞いていた。
木が揺れた。風がないのに揺れた。
でも怖くはなかった。
頷いているみたいだった。
凛が最後の一節を唱えた。
朝倉が白い布を取り出した。
祠の前に、ゆっくりと置いた。
「お返しします」朝倉は静かに言った。「水無瀬家が、ずっと預かっていました。管理する者が現れたとき返すと、記録に書いてありました。私たちが、その者になれるかは分かりません。でも——ここに戻してあげることが、今の私たちにできることです」
山が、静かになった。
完全な静けさが来た。
凛が目を開けた。
その瞬間、光が来た。
祠の中から、温かい光が漏れてきた。
白い布が、光の中でほどけていった。
中から、木の像が現れた。
小さかった。三寸ほど。
山神の形を模していた。荒削りだったが、力強かった。
像が、光に包まれた。
光が、祠の中に収まっていった。
そして——静かになった。
三人は、しばらく動けなかった。
朝倉が先に口を開いた。
「受け入れてもらえた」
「そうですね」凛は目を潤ませていた。「ちゃんと、受け取ってもらえた」
「よかった」と俺は言った。
山の空気が、変わっていた。
重くなかった。
清々しかった。
まるで、長い間閉じていた窓を開けたみたいな空気だった。
祠の前に、三人でしばらく立っていた。
凛が言った。
「あの、一つ聞いていいですか」
「何だ」と俺は言った。
「水無瀬家の記録に、他にも預かったものが書いてあったんです。この山の御神体だけじゃなくて」
朝倉が凛を見た。
「いくつあった」
「三つ、記録がありました」凛は指を折った。「この山の御神体が一つ。あとは——湖の神の鏡が一つ。それと、海の神の石が一つ」
「湖と海にも、預かったものがあるのか」と俺は言った。
「記録によると、同じような理由で預かったようです。管理する者がいなくなったか、失われる危険があったから」
朝倉はしばらく黙っていた。
「つまり——まだ二つ、返しに行かないといけない」
「そうなります」凛は申し訳なさそうな顔をした。「一度に全部言うべきだったかもしれませんが、まず山のことを先に解決しようと思って」
「正解だ」朝倉は言った。「一度に全部は無理だ。一つずつでいい」
「でも——湖と海も、同じように怒っているかもしれない」俺は言った。
「そうかもしれない。でも今日は——今日を喜ぼう」朝倉は祠を見た。「一つ、返せた」
山を下りた。
今回は、来るときより明らかに道が見やすかった。
落ち葉がなかった。
まるで、山が道を整えてくれているみたいだった。
麓に出ると、老婆が畑にいた。
「戻ってきたか」老婆は言った。
「御神体を返せました」と朝倉が言った。
老婆は山を見た。
長い沈黙があった。
「山が——違う気がする」老婆は静かに言った。「気のせいかな」
「気のせいじゃないと思います」と凛が言った。
「そうかい」老婆は目を細めた。「ありがとうよ。長い間、待たせてしまったね」
老婆は山に向かって、深く頭を下げた。
山が、静かに揺れた。
帰りの電車で、三人は疲れて黙っていた。
しばらくして、凛が言った。
「先輩たち、夏休み中に随分と動きましたね」
「そうだな」と俺は言った。
「海と、山と。大学でも怪異があって」凛は少し笑った。「忙しい夏休みでしたね」
「忙しかった」と朝倉が言った。
「でも——先輩たちを見ていると、怪異があってもなくても、ちゃんと楽しんでいる気がします」
「楽しんでいるか?」と朝倉が言った。
「楽しんでいます。夏祭りに行ったとか、海で花火を見たとか——怪異の話と一緒に話してくれていたじゃないですか」
「確かに」俺は言った。
「怪異と普通の日常が、先輩たちの中では自然に混ざっているんだと思います。それが——かっこいいなと思う」
朝倉は少し驚いた顔をした。
「かっこいいとは、思わなかった」
「私は思います」凛はまっすぐ言った。「怖くても向き合える。それは誰にでもできることじゃない」
「凛もやってる」と俺は言った。
「私は先輩たちがいるからできるんです」凛は俺と朝倉を交互に見た。「一人だったら、無理です」
「俺たちも同じだ」俺は言った。「三人だからできることがある」
凛は少し目を潤ませた。
「ありがとうございます、先輩」
「礼はいい」朝倉は言った。「これからも頼む」
「もちろんです」凛は笑った。「湖と海も、一緒に行きます」
「一緒に行こう」
「約束ですよ」
「約束だ」
凛と別れた後、二人で電車に乗った。
朝倉は窓の外を見ていた。
「詩音」俺は言った。
「何?」
「夏休みが終わるな」
「そうだね。明後日からまたゼミだ」
「長い夏だった」
「長かった」朝倉は少し笑った。「海と山と。怪異がよく出た夏だった」
「来年の夏は、怪異のない海に行く約束だぞ」
「覚えてる」朝倉は俺を見た。「でも——湖の御神体と、海の御神体も返さないといけない。来年の夏までに、片付くかな」
「片付けよう。少しずつ」
「少しずつ」朝倉は頷いた。「一度に全部は無理だ」
「そうだな」
朝倉はまた窓の外を見た。
「湊」
「何だ」
「今年の夏、いろいろあったけど——全部、一緒にいてくれたね」
「いたな」
「海で引き込まれそうになったときも、山で引き寄せられそうになったときも——湊がいた」
「いた。これからもいる」
「知ってる」朝倉は静かに言った。「でも——言ってほしかった」
「これからもいる。詩音の隣に」
朝倉は目を閉じた。
「……うん」朝倉は小さく言った。「ありがとう」
その夜、朝倉からメッセージが来た。
今日も、ありがとう
毎回言うな
毎回ありがとうだから
分かった。こちらこそ
湊
何だ
ゼミが始まっても、また何か出るかもしれない
そうだな
でも——大学に来て、怪異に向き合うたびに思う
何を思うんだ
ここに来てよかったと
この大学に?
この大学に来て、湊に会えてよかったと
俺は少し微笑んだ。
俺も来てよかった
なんで?
詩音に会えたから
しばらく間があった。
……毎回そういうことを言う
本当のことだから
分かってる。でも照れる
照れていい。俺も照れてる
湊が照れてるの?
そうだ
珍しい
詩音のことを話すときは、照れる
また間があった。今度は少し長かった。
……それは、ずるい
ずるくない。本当のことだ
もう。おやすみ、湊
おやすみ、詩音
スマホを置いた。
夏休みが、終わろうとしていた。
海で引き込まれかけた。山で引き寄せられかけた。でも全部、詩音と一緒に向き合った。
湖と海の御神体が、まだ残っている。
でも焦らなくていい。
少しずつ、一つずつ。
詩音と一緒なら、向き合える。
窓の外に、夏の終わりの空が広がっていた。
星が出ていた。
この土地の星だった。
来年の夏、怪異のない海に行く。
約束した。
それまでに、できることをやっていこう。
そう思いながら、目を閉じた。




