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朝倉詩音の怪異録〜大学編〜  作者: ゆるっとおやじ


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12/32

湖に沈む鏡

九月になった。

秋学期が始まった。

キャンパスの銀杏の木が、少しずつ色づき始めていた。夏の濃い緑から、黄色に変わりかけていた。

旧閲覧室の扉は、守衛さんが定期的に花を供えてくれているらしかった。先週、廊下を通ったら、扉の前に小さな花が置いてあった。

普通の秋学期が始まった。


始まったはずだった。

二週間が経った頃、凛からメッセージが来た。

湖の御神体の記録、もう少し詳しく調べました

何が分かった

場所が特定できそうです

どこだ

大学から電車で一時間半ほどの場所にある、古い湖です。地図で調べたら、今でも存在していました

湖の名前は

鏡淵という名前でした


朝倉からすぐに別のメッセージが来た。

鏡淵、地下のものの記憶にある

知っていたのか

薄くだけど。この土地から少し遠いから、記憶が薄い。でも——名前を見た瞬間、何か感じた

何を感じた

呼ばれた気がした


週末、三人で鏡淵に向かうことにした。

電車を乗り継いで、山あいの駅に降りた。

駅から歩いて二十分ほどの場所に、湖があると地図に書いてあった。

秋の山あいの道は、静かだった。

田んぼの稲が黄色く色づいていた。柿の木に実がなっていた。

普通の秋の景色だった。

でも——進むほど、空気が変わった。


「感じるか」と俺は朝倉に聞いた。

「感じる」朝倉は静かに言った。「近づいてる」

「怒っているか」

「怒っているというより——」朝倉は少し考えた。「悲しんでいる気がする」

「山の神とは違うのか」

「違う。山は怒りが強かった。でもこちらは——静かな悲しみだ」

凛が前を歩きながら言った。

「水無瀬家の記録に、湖の御神体を預かった経緯が書いてありました。少し、山の御神体と違いました」

「どう違ったんだ」と俺は聞いた。

「山の御神体は、管理する者がいなくなったから預かった。でも湖の御神体は——本人から頼まれたと書いてありました」

「本人から?」

「湖の神から、直接頼まれたと。記録にはそう書いてあった」凛は振り返った。「自分から預けたんです。理由は——記録には書いてありませんでした」


湖が見えてきた。

木々の間から、水面が光を反射していた。

近づくほど、静かになった。

外の音が遠ざかっていった。鳥の声も、風の音も、少しずつ薄れていった。

湖の畔に出た。

大きくはなかった。直径が三百メートルほどの、丸い湖だった。周りを木々が囲んでいた。

水は澄んでいた。深い緑色をしていた。

水面は静かだった。風がないのに、小さな波紋が一定のリズムで広がっていた。


「きれいだな」と俺は言った。

「きれい」朝倉は水面を見た。「でも——」

「でも?」

「水の中に、何かある。沈んでいる」

朝倉が湖の畔にしゃがんだ。

水面に手を近づけた。触れない距離で止めた。

「感じるか」と俺は聞いた。

「感じる。水が——何かを包んでいる。大切なものを、底に隠しているみたいに」

「鏡が沈んでいるのか」

「たぶん」朝倉は立ち上がった。「でも——なぜ自分から預けたのかが、まだ分からない。湖の神が自分の御神体を、なぜ水無瀬家に預けたのか」

「記録に理由がなかったなら、聞くしかないな」凛は湖を見た。「呼びかけてみますか」

「そうしよう」


三人で湖の畔に並んだ。

凛が目を閉じた。

深呼吸をした。

それから、言葉を唱え始めた。

山のときとは違う言葉だった。もっと穏やかで、流れるような言葉だった。水に合った言葉だった。

水面の波紋が、変わった。

一定のリズムだったものが、大きくなった。中心から外に向かって、円が広がっていった。

「来てる」朝倉は小声で言った。


水面が、少し盛り上がった。

盛り上がった場所から、光が漏れた。

水の中から来る、青白い光だった。

光が、水面に浮かんだ。

形があった。

女性の形だった。

輪郭が揺れていた。水でできているみたいに、定まらなかった。でも確かに、女性の形をしていた。


朝倉が一歩前に出た。

「あなたが、湖の神ですか」

女性の形が、揺れた。頷くように。

「御神体を預けた理由を、教えてもらえますか」

女性の形が、また揺れた。

今度は違う揺れ方だった。

悲しそうに、揺れた。

朝倉が目を閉じた。

地下のものの記憶を辿っているのが分かった。

一分ほどして、目を開けた。


「見えた」朝倉は静かに言った。

「何が見えた」と俺は聞いた。

「この湖の歴史が。長い歴史が」朝倉は水面を見た。「昔——この湖は、村の人たちに大切にされていた。毎年、祭りがあった。湖の神に感謝して、作物の豊作を願う祭りが」

「でも、それがなくなったのか」

「村が、なくなった」朝倉は静かに言った。「明治の終わり頃、この湖の周りに住んでいた村が——ダム建設のために、移住させられた」

「ダム?」

「この湖のすぐ上流に、小さなダムが建てられた。村の人たちは、遠くに移住した。湖は残ったけど——村も、祭りも、全部なくなった」


水面の女性が、静かに揺れた。

「誰もいなくなったから——」俺は言った。「御神体を、水無瀬家に預けた」

「そうだと思う」朝倉は続けた。「でも——預けた理由は、もう一つある」

「何だ」

「壊されるのが、怖かったから」朝倉は静かに言った。「ダムが建てられるとき、湖の周りの小さな祠が壊された。御神体も、捨てられそうになった。それを、水無瀬家の者が気づいて——引き取った」

「水無瀬家の者が、守ったのか」

「そう。湖の神が頼んだというより——水無瀬家が見かねて、申し出た。記録に理由が書いていなかったのは、水無瀬家の者が当然のこととして引き取ったからかもしれない」

凛が俯いた。


「うちの家が、壊されそうになった御神体を引き取った」凛は静かに言った。「知らなかった。でも——水無瀬家らしいと思う。放っておけなかったんだと思う」

「凛の先祖が、助けたんだ」と俺は言った。

「そうだと思う」凛は水面の女性を見た。「ずっと、待っていたんですね。村がなくなってから、ずっと」

女性の形が、静かに揺れた。

悲しいのか、嬉しいのか、分からない揺れ方だった。

でも——どこか、穏やかだった。

長い間待っていたものが、やっと来た、という穏やかさだった。


朝倉が凛を見た。

「返せるか」

「返します」凛は鞄から白い布に包まれたものを取り出した。

丁寧に布をほどいた。

中から、古い鏡が現れた。

直径が十センチほどの、小さな鏡だった。銅でできていた。表面に、波の文様が彫られていた。

「きれいだな」と俺は言った。

「水の文様だ」朝倉は鏡を見た。「湖の神にふさわしい御神体だ」


凛は鏡を両手で持った。


「お返しします」凛は水面に向かって言った。「長い間、うちの家で預かっていました。お待たせしてごめんなさい」

女性の形が、揺れた。

今度は違う揺れ方だった。

首を横に振るような揺れだった。

「待っていたのは当然だと言ってるのかもしれない」朝倉は静かに言った。「長い間待っていたけど——恨んでいない、という感じがする」

凛が鏡を水面に差し出した。

水が、静かに開いた。

鏡に向かって、水が伸びてきた。

凛の手から、鏡が離れた。

引き寄せられるように、水の中に入っていった。

沈んでいった。

水面が、閉じた。

光が、強くなった。


水中から、光が広がった。

湖全体が、青白く光った。

女性の形が、その光の中に溶けていった。

ゆっくりと、静かに。

最後に、水面が一度だけ大きく波打った。

ありがとう、と言っているみたいだった。

それから、静かになった。

三人は、しばらく動けなかった。

湖が、きれいだった。

さっきより、水が透き通って見えた。

緑色だった水が、澄んだ青色になっていた。


「変わった」と俺は言った。

「御神体が戻ったから」朝倉は湖を見た。「神が、戻ってきた」

「でも村はない。祭りもない」俺は言った。

「そうだね」朝倉は静かに言った。「でも——神はここにいる。湖はここにある。誰かが覚えていれば、続いていく」

「私が覚えている」凛は湖を見た。「水無瀬家として、ここに御神体があったことを覚えている。毎年、ここに来てもいいですか」

朝倉は凛を見た。


「凛が来るなら、俺たちも来る」と俺は言った。

「本当ですか」凛は少し目を潤ませた。

「本当だ。毎年来よう。山にも、ここにも」

「約束ですか」

「約束だ」


帰り道、三人で並んで歩いた。

田んぼの稲が、風に揺れていた。

凛が言った。

「水無瀬家の記録に、最後の御神体の記録も確認しました」

「海の御神体か」と朝倉が言った。

「そうです。海の神の石です。でも——場所が、少し特殊でした」

「どういうことだ」と俺は聞いた。

「海の御神体は、水無瀬家の蔵に今もあります。でも——記録に、こう書いてあった」凛はノートを開いた。「海の御神体は、持ち出した者が自ら返しに行かなければならない。代わりの者が返しても、受け取られない」

「持ち出した者が自ら、というのは」朝倉は言った。「水無瀬家が自分で返しに行かないといけないということか」

「そうだと思います。でも——水無瀬家で、この御神体を預かった者は、もう誰もいない。残っているのは私だけです」

「凛が返しに行く必要があるのか」と俺は聞いた。

「そうなります」凛は静かに言った。「でも——場所が、少し遠い」

「どこだ」

「記録によると、この御神体は元々——九州の海岸にある神社のものだそうです。


俺と朝倉は顔を見合わせた。

「九州か」と俺は言った。

「遠いですが——行かないといけないと思います」凛はノートを閉じた。「水無瀬家の責任として」

「一人では行かせない」朝倉は即座に言った。

「先輩たちは、関係ないのに」

「関係ある」朝倉は凛を見た。「山も、ここも、一緒に来た。最後まで、一緒に行く」

「でも九州は遠い。費用も時間も——」

「冬休みに行こう」俺は言った。「三人で、九州まで行こう」

凛は少し驚いた顔をした。

それから、目を潤ませた。

「……ありがとうございます」


「礼はいい」朝倉は言った。「水無瀬家の責任は、一人で背負わなくていい」

「でも——」

「私たちが一緒に行くことに、理由は必要か」

凛は少し笑った。

「ないです」

「なら決まりだ」

帰りの電車で、三人は疲れて並んでいた。

凛が先に眠った。

俺と朝倉は、窓の外を見ていた。

「九州か」俺は言った。

「遠いな」朝倉は言った。

「でも行くか」

「行く。凛一人には行かせられない」

「御神体が最後の一つだな」

「そうだね」朝倉は静かに言った。「全部返せたら——水無瀬家の長い仕事が、終わる」

「凛は、どうするんだろうな。全部終わったら」

「普通の学生になるんじゃないか」朝倉は少し笑った。「でも——きっと、また何か出るだろう。凛の周りにも」

「そうだな。水無瀬家の血があるから」

「それだけじゃない」朝倉は凛を見た。「凛は、怪異に向き合える人間だ。血じゃなくて、自分の意志で向き合える」


「俺たちと同じだな」

「そうだね」朝倉は俺を見た。「怪異に向き合い続けることが——私たちの一部になってしまった」

「嫌か」

「嫌じゃない」朝倉は言った。「でも——怪異がなくても、普通の日々も大切にしたいと思う」

「今日みたいな日のことか」

「今日は怪異があったけど——こうして三人で帰る時間が、好きだ」

「俺も好きだ」


朝倉は窓の外に視線を戻した。

「冬休みに九州に行って——全部終わったら、春はどうしよう」

「どこか行くか。三人で」

「凛も一緒に?」

「一緒に。お前と俺と凛で、どこか怪異のない場所に」

朝倉は少し笑った。

「怪異のない場所が、あればいいけど」

「探せばある」

「そうだな」朝倉は静かに言った。「探してみよう」


その夜、朝倉からメッセージが来た。

今日、湖がきれいだったな

そうだな。御神体が戻って、水の色が変わった

あの光が、まだ目に残ってる

きれいだったな

うん。でも——湖の神が、長い間一人で待っていたことを思うと

悲しいか

少し。でも返せてよかった。凛の先祖が守ってくれていたから、今日返せた

水無瀬家がいてよかったな

そうだね。凛がいてよかった

俺たちにとっても

本当に。凛がいないと、山も湖も無理だった

三人でよかったな

そう思う

少し間があった。


湊

何だ

九州、楽しみだ

御神体を返しに行くのに?

怪異の仕事だけど——三人で遠くに行くのは、初めてだから

そうだな。旅行みたいなものか

旅行みたいな怪異

凛が喜びそうだな

絶対喜ぶ。目を輝かせる

目に見えるな

うん

また間があった。


湊

何だ

来年の春、どこに行こうか

まだ決めてない。でも——お前が行きたい場所に行こう

私が決めていいのか

俺は詩音が行きたい場所なら、どこでもいい

しばらく間があった。


……それは、反則だ

なんで反則なんだ

そういうことを言うから、どこでもいいと思えてしまう

どこでもいいんだろ

そうだけど——なんか、悔しい

なぜ

私だけ振り回されてる気がする

俺も振り回されてる

本当か

本当だ。詩音が笑うと、全部どうでもよくなる

長い間があった。


……もう

何だ

おやすみ、湊。また明日

おやすみ、詩音


スマホを置いた。

窓の外に、秋の夜空が広がっていた。

湖の青白い光が、まだ目の奥に残っていた。

山の御神体を返した。

湖の御神体を返した。

残るは、海だけだ。

冬休みに、九州に行く。

三人で、最後の御神体を返しに行く。

全部終わったら、春に旅行に行く。

詩音が行きたい場所に。

どこでもいい。

詩音と一緒なら。

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