三人で九州へ
十二月になった。
秋学期の期末試験が終わって、冬休みが始まった。
三人で九州に行く日が来た。
出発の朝、新幹線の改札の前で待ち合わせた。
凛が一番早く来た。大きなリュックを背負っていた。
「先輩たち、おはようございます」凛は言った。
「荷物が多いな」と俺は言った。
「防寒具と、御神体と、水無瀬家の記録のコピーと——あと一応、お菓子も」凛はリュックをずり上げた。「九州、初めてなので楽しみです」
「怪異を返しに行くのに、お菓子は必要か」
「旅行はお菓子が必要です」凛はきっぱり言った。
朝倉が来た。
いつもより少し厚着だった。マフラーを巻いていた。
「寒いな、今日」朝倉は言った。
「九州はこっちより暖かいと思う」と俺は言った。
「そうなのか」
「海沿いだから」
「じゃあこのマフラーは必要なかったかもしれない」
「似合ってるから、いいだろ」
朝倉は少し耳を赤くした。
「歩くぞ」
新幹線に乗った。
三人並んで座った。凛が窓側を譲ってほしいと言ったので、凛を窓側にした。
発車して、街が流れ始めた。
凛が窓に顔を近づけた。
「すごい。新幹線、久しぶりです」
「そんなに珍しいか」と俺は言った。
「遠くに行く機会がなかったので」凛は外を見たまま言った。「先輩たちは、遠出はしましたか」
「夏に海と山に行った」と朝倉が言った。
「怪異がありましたね。それ以外は?」
「花火を見に行った」
「それだけですか」
「そうだな」俺は言った。「怪異ばかりだった夏だったから」
「今年の冬休みは——怪異の後に、旅行気分を楽しみましょう」凛は言った。「九州に来たなら、ラーメンも食べたいです」
「御神体を返した後でな」と朝倉が言った。
「もちろんです。順番は守ります」
二時間ほどして、車窓の景色が変わった。
海が見えた。
冬の海だった。灰色がかった、広い海だった。
朝倉が窓の外を見た。
「海だ」朝倉は静かに言った。
「そうだな」
「あの海の底に、若潮丸が沈んでいる」
「この海じゃないけどな」
「この海も、同じ海だ。繋がっている」朝倉は海を見続けた。「若潮丸の件は、どうなったかな」
「資料館の係の人に連絡を取ってみようか」
「そうしよう。戻ったら」
凛が海を見た。
「海の御神体を持っている神社も、この海の近くですね」凛はノートを開いた。「記録によると、海沿いの小さな神社です。名前は——荒海神社」
「荒海神社か。強い名前だな」と俺は言った。
「海の神は、穏やかじゃないかもしれませんね」凛は少し緊張した顔をした。「山の神は怒っていた。湖の神は悲しんでいた。海の神は——どうだろう」
「行ってみないと分からない」朝倉は言った。「でも——水無瀬家が持ち出した者が返さないといけないとなると、凛への信頼はあると思う」
「信頼があっても、怒っているかもしれない」
「そうかもしれない。でも凛は一人じゃない」
「そうですね」凛は少し顔を緩めた。「一緒に来てくれているから、大丈夫だと思います」
九州の駅に着いた。
改札を出ると、確かに少し暖かかった。
「暖かいですね」凛は言った。
「そうだな」俺は言った。「朝倉、マフラーは外すか」
「いい」朝倉はマフラーを押さえた。「寒いより暖かい分には、問題ない」
「似合ってるのを、外したくないだけだろ」
「うるさい」
凛がニコニコした。
「先輩たち、相変わらずですね」
「どういう意味だ」と朝倉が言った。
「仲がいいという意味です」
「仲がいいとは違う」
「そうですか?」凛は笑った。「私には、とても仲がよく見えます」
バスに乗った。
海沿いの道を走った。
冬の海が、窓の外に広がっていた。
灰色の空に、白い波が立っていた。
夏の海とは違った。荒々しくて、力強かった。
朝倉が海を見ていた。
「凛」朝倉は言った。
「はい」
「記録に、御神体を預かった経緯が書いてあったか」
「ありました」凛はノートを開いた。「山と湖の御神体とは、少し違う経緯でした」
「どう違うんだ」
「海の御神体は——盗まれたんです」
バスの中が、静かになった。
「盗まれた?」俺は言った。
「百年ほど前のことです」凛はノートを読んだ。「荒海神社の御神体が、夜中に何者かに盗み出された。その後、水無瀬家の先祖が——盗んだ者から取り返して、一時預かりとした。盗んだ者の名前は分からなかったと書いてあります」
「取り返して、水無瀬家が預かった」朝倉は言った。「でも神社には戻さなかったのか」
「戻そうとしたが——その頃、荒海神社はすでに無人になっていたそうです。管理する者がいなくて、戻せなかった」凛はノートを閉じた。「だから水無瀬家で、ずっと預かっていた。でも記録には、持ち出した者が自ら返さないといけないと書いてあった」
「盗んだ者が誰か分からないのに、持ち出した者が返せと書いてあるのか」俺は言った。
「そうです。矛盾しているようですが——記録には、盗んだ者の代わりに、預かった者が謝罪しながら返せと書いてありました」
「つまり凛が、盗んだ者の代わりに謝罪して返す必要があるのか」
「そうなります」凛は少し真剣な顔になった。「うちの先祖は、御神体を守るためにいいことをした。でも——海の神にとっては、盗んだ者も、預かった者も、同じ人間かもしれない」
「怒っている可能性がある」朝倉は言った。
「あります。だから——謝罪しながら返す。それが条件だと思います」
バスを降りた。
海沿いの小さな集落だった。
民家が数軒、並んでいた。
漁港があった。小さな漁船が並んでいた。
冬の海風が、冷たかった。
朝倉がマフラーを深く巻き直した。
荒海神社への道を地図で確認した。
集落の端、小高い丘の上にあると書いてあった。
三人で歩いた。
丘を登った。
道が狭かった。両側を草が覆っていた。
冬なのに、草が濃かった。
三分ほど歩くと、鳥居が見えた。
古い石造りの鳥居だった。苔が全面を覆っていた。
扁額には「荒海神社」と彫られていた。文字が半分、苔で隠れていた。
鳥居の先に、小さな社があった。
無人だった。長い間、誰も来ていない様子だった。
でも——壊れていなかった。
百年以上、誰も管理していないのに、社は立っていた。
「不思議だな」と俺は言った。
「海が守っているのかもしれない」朝倉は言った。「海の神が、社だけは守り続けていた」
「御神体が戻るのを、待っていたのか」
「そう思う」
鳥居をくぐった。
瞬間、空気が変わった。
重くなった。
高校の時に感じた重さに似ていた。でもそれより、もっと古くて、深い重さだった。
「来てる」凛は小声で言った。
「感じるか」と俺は聞いた。
「感じます。怒っている。でも——ここに来た者がいることに、驚いている気もします」
「驚いている?」
「百年以上、誰も来なかったから」朝倉は静かに言った。「来ることを、諦めていたのかもしれない」
社の前に立った。
扉が閉まっていた。
風が吹いた。
冬の海風が、境内を抜けた。
凛が鞄から、白い布に包まれたものを取り出した。
手が、少し震えていた。
「凛、大丈夫か」と俺は聞いた。
「大丈夫です。緊張しているだけです」凛は深く息を吸った。「でも——やります」
「一人じゃない」朝倉は凛の隣に立った。「隣にいる」
「ありがとうございます」凛は少し落ち着いた顔になった。
俺は凛の後ろに立った。
「始めろ。何があっても、ここにいる」
凛が社に向かって、言葉を唱え始めた。
今まで聞いてきた水無瀬家の言葉とは、また違った。
力強くて、海に合った言葉だった。
波の音みたいなリズムがあった。
境内の空気が、変わった。
重さが増した。
でも凛は止まらなかった。
社の扉が、少し開いた。
誰も触れていないのに、扉が開いた。
中が暗かった。
でも奥に、何かが見えた。
光ではなかった。
目だった。
深い闇の中に、目だけがあった。
古い目だった。人間の目じゃない。
ただ、こちらを見ていた。
凛が次の一節に入った。
声が、少し震えた。
でも止まらなかった。
俺は凛の後ろで、前を向いていた。
その目が、こちらを見続けていた。
怒っているのか、悲しんでいるのか、分からなかった。
ただ、見ていた。
百年間、ずっと待っていた目だった。
凛が、謝罪の言葉に入った。
記録にあった言葉だと、後で教えてくれた。
水無瀬家の先祖が盗んだ者の代わりに謝罪する言葉だった。
預かることしかできなかった。返すのが遅くなった。待たせてしまった。申し訳なかった。
凛の声が、少し詰まった。
でも最後まで言いきった。
目が、動いた。
ゆっくりと、瞬いた。
人間が瞬くように。
凛が最後の言葉を唱えた。
白い布を、社の前の台座に置いた。
「お返しします」凛は言った。「長い間、水無瀬家が預かっていました。遅くなって、ごめんなさい」
沈黙が来た。
風が止まった。
波の音も、聞こえなくなった。
完全な静けさが来た。
俺は息を止めた。
朝倉が、俺の手を握った。
俺は握り返した。
その沈黙が、十秒ほど続いた。
それから。
風が来た。
海から来た風だった。
温かかった。
冬の海風なのに、温かかった。
白い布が、ほどけた。
中から、黒い石が現れた。
丸くて、小さな石だった。表面が滑らかで、光を吸い込むように黒かった。
石が、社の中に吸い込まれていった。
扉が、静かに閉まった。
目が、消えた。
社の中の闇が、ただの闇になった。
重さが、消えた。
境内の空気が、軽くなった。
波の音が、戻ってきた。
海の音だった。
荒々しくて、力強い音。
でも、今度は怒りじゃなかった。
ただの、海の音だった。
三人は、しばらく動けなかった。
凛が、その場に座り込んだ。
「凛」俺は凛の隣にしゃがんだ。
「大丈夫です」凛は言った。「ただ——足の力が抜けて」
「無理もない」朝倉は凛に手を差し伸べた。「よくやった」
凛はその手を取って、立ち上がった。
「受け取ってもらえましたね」凛は社を見た。
「受け取ってもらえた」朝倉は言った。「ちゃんと、届いた」
「怒っていましたか。あの目、怖かったです」
「怒っていたと思う」俺は言った。「でも凛が謝罪したから——許してくれた気がする」
「許した、というより」朝倉は静かに言った。「ようやく終われた、という感じだったと思う。百年間待って、ようやく終わった」
「そうですね」凛は少し目を潤ませた。「待たせてしまって、本当に申し訳なかった。でも——よかった。終わらせてあげられた」
社に向かって、三人で頭を下げた。
しばらくそのままでいた。
波の音が続いていた。
怒りのない、穏やかな波の音が。
鳥居を出た。
丘の上から、海が見えた。
広い海だった。
冬の灰色の空の下に、暗い海が広がっていた。
でも——さっきとは違って見えた。
荒々しいけど、怖くなかった。
ただ、広かった。
「きれいだな」と俺は言った。
「そうですね」凛は海を見た。「来てよかったと思います。遠くまで来たけど——来てよかった」
「凛が来なければ、できなかった」朝倉は言った。
「先輩たちが一緒に来てくれなければ、私も来られなかったです」凛は俺と朝倉を見た。「ありがとうございました」
「礼はいい」俺は言った。
「でも言わせてください」凛は真剣な顔で言った。「山も、湖も、海も——一緒に来てくれた。水無瀬家の仕事を、最後まで手伝ってくれた。本当に、ありがとうございました」
朝倉は少し間を置いてから言った。
「こちらこそ、ありがとう」
「何でですか」
「凛がいたから、できた。山も湖も海も——凛の力がなければ、向き合えなかった」朝倉は凛を見た。「水無瀬家の血が、助けてくれた」
「そうですね」凛は少し笑った。「お互い様ですね」
「お互い様だ」
丘を下りた。
集落に戻ると、漁師のおじさんが一人、港で作業をしていた。
声をかけた。
「荒海神社に行ってきたんですが、あの神社のことをご存じですか」
おじさんは手を止めた。
「知ってるよ。昔から、あそこに神社がある。誰も管理していないけど、不思議と壊れない神社だ」
「御神体が、長い間なかったんです。今日、返してきました」
おじさんは俺たちを見た。
驚いた顔をした。
それから、海を見た。
「そうか」おじさんは静かに言った。「なんか——今日、海の様子が違う気がしていた。朝から、穏やかだと思ってた」
「御神体が戻ったから、だと思います」と朝倉が言った。
「そうかい」おじさんは少し目を細めた。「ありがとうよ。この海で生きている者として、お礼を言わせてくれ」
バスに乗って、駅に向かった。
三人でバスの中に座った。
疲れていた。
でも満足していた。
凛が言った。
「ラーメン、食べたいです」
俺と朝倉は顔を見合わせた。
「食べよう」と俺は言った。
「駅の近くにあるはずだ。調べておいた」朝倉はスマホを取り出した。
「朝倉先輩、調べておいたんですか」凛は嬉しそうな顔をした。
「念のため」
「ありがとうございます!」
「怪異の後には、ちゃんと食べないといけない」朝倉は静かに言った。「高校のときから、そう思っていた」
「先輩、たまにすごく現実的なことを言いますね」凛は笑った。
「当然のことだ」
ラーメン屋に入った。
小さな店だった。カウンターだけの、古い店だった。
豚骨ラーメンを三杯、注文した。
待つ間、三人は黙っていた。
疲れていたから、言葉がいらなかった。
ラーメンが来た。
白い豚骨スープから、湯気が上がっていた。
一口飲んだ。
温かかった。
体の芯まで、温かくなった。
「うまいな」と俺は言った。
「おいしいです」凛は言った。
朝倉は黙って食べていた。
でも箸が止まらなかった。
「詩音も気に入ったか」と俺は言った。
「うるさい」朝倉は言った。でも食べ続けた。
凛がニコニコした。
「先輩たちと一緒に来て、よかった」凛はラーメンを食べながら言った。「御神体を返せて、ラーメンも食べられて——いい一日でした」
「いい締めくくりだな」俺は言った。
「水無瀬家の仕事が、全部終わりましたね」凛はスープを飲んだ。「山も、湖も、海も」
「終わった」朝倉は言った。「お疲れ様、凛」
「先輩たちもお疲れ様です」凛は少し目を潤ませた。「でも——終わると思うと、少し寂しいですね」
「終わりじゃない」朝倉は静かに言った。
「そうですか?」
「また何か出る。どこかで、必ず」
「そうですかね」
「そうだ」朝倉はラーメンを食べながら言った。「終わりじゃない。これからも続く」
「先輩、それは湊先輩がいつも言う言葉ですよ」凛は笑った。
「そうか」朝倉は少し照れた顔をした。「移ったのかもしれない」
「いいことだと思います」凛はラーメンを食べ続けた。「二人の言葉が、似てきた」
「似ていないだろ」
「似てきましたよ。私が保証します」
帰りの新幹線に乗った。
三人で並んで座った。
凛はすぐに眠った。
今回も、疲れて眠る凛を、俺と朝倉で見守った。
「今年、いろいろあったな」と俺は言った。
「そうだね」朝倉は窓の外を見た。「大学に来て、旧閲覧室の怪異があって。海に行って、山に行って。湖と、今日の海と」
「全部、解決できた」
「全部、三人でやった」朝倉は静かに言った。「凛がいてくれてよかった」
「そうだな」
「湊がいてくれてよかった」
「俺こそ」
朝倉は窓の外を見ていた。
「来年の春、旅行に行こう。三人で」
「さっき決めたな」
「怪異のない旅行を。ただ観光するだけの」
「凛が起きたら、聞いてみよう。どこに行きたいか」
「うん」朝倉は少し笑った。「凛、絶対に喜ぶ」
「目を輝かせるだろうな」
「目に見えるな」
電車が夜の海沿いを走っていた。
窓の外に、暗い海が見えた。
荒海だった。
でも今は、穏やかだった。
御神体が戻ったから。
百年間、待ち続けた怒りが、終わったから。
朝倉が俺の手に触れた。
「今日も、ありがとう」朝倉は静かに言った。
「また言うのか」
「また言う。これからも、毎回言う」
「分かった。受け取る」
「受け取ってくれ」朝倉は手を握った。「これからも」
「これからも、一緒だ」
「うん」朝倉は目を閉じた。「知ってる」
その夜、ホテルに着いてから、朝倉からメッセージが来た。
今日、九州に来てよかった
そうだな。全部終わった
凛、頑張ったな
頑張った。謝罪の言葉を言い切ったとき、声が震えていた
でも止まらなかった
そうだ。凛は強い
血だけじゃなくて、自分の意志で向き合っている。先輩たちみたいに、と凛が言っていたけど——凛自身の強さだと思う
そうだな
少し間があった。
湊
何だ
来年、怪異のない旅行をしよう。凛も一緒に
今日も言っていたな
言った。でも——改めて約束したくて
分かった。約束だ
どこに行こうか
詩音が決めていい
また私が決めていいのか
どこでもいいから
来年の春、ちゃんと考えておく
待ってる
うん
また間があった。
湊
何だ
今年一年、いろいろあったな
そうだな。大学に来て、最初の一年だった
来年も、いろいろあると思う
そうだろうな
でも——来年も、一緒にいてくれるか
いる。何年でも
何年でも、か
そうだ
しばらく間があった。
……ありがとう、湊
こちらこそ
おやすみ
おやすみ、詩音
スマホを置いた。
ホテルの窓から、九州の夜が見えた。
遠くに、海の灯台の光が瞬いていた。
山の御神体を返した。
湖の御神体を返した。
海の御神体を返した。
全部、三人で向き合った。
来年の春、怪異のない旅行に行く。
来年も、詩音と一緒だ。
何年でも、一緒だ。
灯台の光が、また瞬いた。
穏やかだった。
それで、十分だった。




