冬休みの終わりに
九州から帰った翌日、凛は地元に帰省した。
年末は家族と過ごすと言っていた。
「また連絡します」凛は改札の前で言った。「来年の春の旅行、楽しみにしています」
「どこに行きたいか、考えておけよ」と俺は言った。
「考えます。でも——先輩たちが決めたところでもいいです。どこでも楽しいと思うので」
「お前も決めていい」朝倉は言った。「三人で行くんだから、三人で決めよう」
「そうですね」凛は笑った。「じゃあ、考えておきます。良いお年を、先輩たち」
「良いお年を」
凛が改札をくぐって、消えた。
ホームへの階段を降りていく姿が、見えなくなった。
俺と朝倉の二人が残った。
駅のコンコースは、年末の人混みで賑わっていた。
帰省する人たち。旅行に向かう人たち。大きな荷物を持った人たちが、行き交っていた。
「どうする」と俺は言った。
「どうするとは」
「今日、このまま帰るか」
朝倉は少し考えた。
「昨日、九州に行った。今日はゆっくりしたい」
「じゃあ、どこかに行くか」
「どこか、か」朝倉は駅の外を見た。「寒いな」
「温かい場所に行こう。カフェでも」
「そうしよう」
駅の近くのカフェに入った。
窓際の席に座った。
外は冷たそうな風が吹いていた。人々がコートの襟を立てて歩いていた。
コーヒーを頼んだ。朝倉はホットチョコレートを頼んだ。
「ホットチョコレートを飲むのか」と俺は言った。
「寒いときに飲みたくなる」朝倉は言った。「子どもの頃から、冬はこれだった」
「知らなかった」
「そういうこと、話したことがなかったから」
「そうだな」俺は言った。「まだ知らないことが、あるんだな」
「当然だろ」朝倉は窓の外を見た。「一年半付き合っても、全部は分からない」
「全部分かったら、つまらなくなるかもしれないな」
「そうかもしれない」朝倉は少し笑った。「ずっと、知らないことが残っているといい」
「ずっと一緒にいれば、少しずつ分かる」
「そうだね」朝倉はホットチョコレートが来ると、両手で包んだ。「ずっと一緒にいよう」
「ああ」
しばらく、黙っていた。
カフェの中は、静かな音楽が流れていた。
窓の外を、人が行き交っていた。
朝倉がノートを取り出した。
「何を書くんだ」と俺は聞いた。
「今年一年のことを、少し書いておこうと思って」朝倉はペンを持った。「大学に入って、最初の一年だったから」
「記録か」
「記録というより——覚えておきたいことを」朝倉はノートを開いた。「旧閲覧室の女の子のこと。夏の海で引き込まれかけたこと。山で名前を呼ばれたこと。湖の光がきれいだったこと。今日の、九州の荒海神社のこと」
「全部書くのか」
「全部は書けない。でも——残しておきたいことだけ」朝倉はペンを走らせた。「怪異のことだけじゃない。夏祭りのことも、五月の雨の日のことも」
「五月の雨の日?」
「図書館で話した日。卒業後も会う、と言い合った日」朝倉は書きながら言った。「あの日のことを覚えている」
「俺も覚えている」
「そうか」朝倉は少し微笑んだ。「じゃあ、二人とも覚えている」
俺はコーヒーを飲みながら、朝倉がノートに書く様子を見ていた。
真剣な顔だった。
でも、高校のときほど張り詰めていなかった。
田村先生が言っていた通り、顔が柔らかくなっていた。
「詩音」俺は言った。
「何?」朝倉はペンを止めた。
「今年、一番怖かったのはどれだ」
「怖かったこと?」朝倉は少し考えた。「山で名前を呼ばれ続けたとき。柔らかい声で呼ばれたとき、足が前に動いた。あの感覚が、一番怖かった」
「俺も怖かった」
「あのとき、湊が呼んでくれなかったら——どうなっていたか分からない」朝倉はペンを置いた。「呼んでくれてよかった」
「また呼ぶ。何があっても」
「約束か」
「約束だ。何度でも約束する」
朝倉は少し俯いた。
「湊は、約束をよく守る」
「守らないと意味がないから」
「高校のときから、全部守ってきた」朝倉は静かに言った。「卒業しても会いに来ると言って、来た。詩音の隣にいると言って、いた。名前を呼んだら戻ってこられると言って、呼んでくれた」
「全部、本当のことだったから」
「本当のことだったから、守れた」朝倉は俺を見た。「来年も、本当のことを言ってくれるか」
「言う。これからもずっと」
「ずっと、か」
「ずっとだ」
朝倉はノートを閉じた。
「書き終わったのか」と俺は聞いた。
「今日のことは、後で書く」朝倉は言った。「今は——書くより、覚えておきたい」
「何を」
「この時間を」朝倉は窓の外を見た。「怪異もなくて、ただカフェに座っていて——こういう時間が、好きだと思って」
「俺も好きだ」
「怪異がある日も、ない日も——どっちもある一年だった」朝倉は静かに言った。「来年も、そうだと思う」
「そうだな。怪異はまた出る。でも怪異がない日も、ある」
「どっちも、一緒にいよう」
「ああ」
気付いたら夕方になっていた。
カフェを出た。
外は暗くなっている。
街のイルミネーションが、灯り始めていた。
金色の光が、木々に沿って並んでいた。
「きれいだな」と俺は言った。
「うん」朝倉は立ち止まって、光を見た。「高校のとき、こういう場所に来たことがなかった」
「一人だったから?」
「一人だったから。来る理由がなかった」朝倉は俺を見た。「今は来る理由がある」
「俺が一緒にいるから?」
「そう」朝倉はあっさり言った。「湊がいると、来る理由ができる」
「それは嬉しいな」
「そうか」朝倉は再び光を見た。「来年も、こういうところに来よう」
「ああ。怪異の合間に」
「怪異の合間に」朝倉は少し笑った。「なんか変な言い方だけど——それが私たちらしい」
「そうだな。怪異と普通が、混ざってる」
「凛が言っていた。それがかっこいいって」
「凛はよく気づく」
「うん」朝倉は俺の手を握った。「歩こう」
イルミネーションの下を、二人で歩いた。
人が多かった。カップルが多かった。家族連れも多かった。
でも俺には、周りの人たちがあまり見えなかった。
隣に詩音がいたから。
「来年」朝倉が歩きながら言った。
「何だ」
「来年の春、旅行に行くのが楽しみだ」
「凛が喜ぶな」
「凛も、私も」朝倉は少し間を置いた。「湊も楽しみにしてくれているか」
「楽しみにしている」
「なんで?」
「詩音と凛と、三人で行くから」
「それだけか」
「怪異がないから」
「それだけか」
「詩音が笑うのを見たいから」
朝倉は少し歩幅を緩めた。
「……それが一番か」
「一番かどうかは分からない。でも——楽しみにしている理由の一つだ」
「そうか」朝倉は前を向いた。「じゃあ——笑う努力をしよう」
「努力しなくていい。自然に笑えばいい」
「自然に笑えるかな」
「笑えると思う。怪異がない旅行なんだから」
「そうだな」朝倉は静かに言った。「怪異がない旅行——想像できないけど、したい」
「想像しておけ。春まで時間がある」
「そうする」
朝倉のアパートの前まで来た。
冬の夜だった。
息が白かった。
「寒くなったな」と俺は言った。
「そうだね」朝倉はマフラーを直した。「でも——今日は寒くなかった」
「カフェにいたから?」
「そうじゃなくて」朝倉は俺を見た。「湊がいたから」
俺は何も言えなかった。
朝倉はそのまま続けた。
「来年もよろしく、湊」
「こちらこそ」
「来年も、いろいろあると思う」
「そうだな」
「怪異もあるかもしれない。怖いこともあるかもしれない」朝倉は静かに言った。「でも——全部、一緒に向き合おう」
「ああ。全部、一緒だ」
「約束か」
「約束だ」
朝倉は部屋に入っていった。
俺は少し立ち止まって、夜空を見上げた。
星が出ていた。
冬の星は、鋭かった。
今年一年を振り返った。
大学に来て、旧閲覧室の女の子を送ってあげた。海で引き込まれかけた。山で名前を呼ばれた。湖の光がきれいだった。九州まで行って、荒海神社の御神体を返した。
全部、詩音と一緒だった。
全部、三人でやった。
来年も、同じだろう。
怪異が出て、向き合って、解決する。
でも普通の日も、ある。
カフェで話す日も。イルミネーションを歩く日も。ラーメンを食べる日も。
どれも、詩音と一緒だ。
それが、今の俺の日常だった。
その夜、朝倉からメッセージが来た。
今日、よかった
九州も、カフェも?
全部よかった。でも——カフェで話した時間が、一番よかったかもしれない
怪異と関係ない時間が?
怪異と関係ない時間が、好きだと気づいた。湊と話すだけの時間が
俺も好きだ
来年、もっとそういう時間を作ろう
怪異の合間に?
怪異の合間に。でも——怪異がない日の方が、多くなるといいと思っている
そうだな。この大学は、一年でいろいろ出た
でも少しずつ解決してきた。来年は、もう少し静かかもしれない
静かになると、どうなる
普通に大学生をする
普通の大学生に、なれるか
なれると思う。湊が隣にいれば
俺は少し笑った。
俺も普通の大学生に、なれるかな
なれる。詩音が隣にいれば、と言いたいか?
そうだ
じゃあ——お互い様だな
お互い様だ
少し間があった。
湊
何だ
良いお年を
まだ年末じゃないだろ
もうすぐだから
もうすぐか。来年もよろしく、詩音
こちらこそ。来年も、よろしく
おやすみ
おやすみ、湊
スマホを置いた。
窓の外に、冬の夜が広がっていた。
今年が、もうすぐ終わる。
もうすぐ新しい年が来る。
怪異がある日も、ない日も。
詩音と一緒に、迎えよう。
それだけで、十分だった。




