初詣の鈴が鳴る
大晦日の夜、俺は祖母の家にいた。
祖母が年越しそばを作ってくれた。テレビで紅白歌合戦が流れていた。
普通の大晦日だった。
零時に近づいた頃、スマホが鳴った。
朝倉からだった。
起きてる?
起きてる
もうすぐ年が変わる
そうだな
初詣、明日どこかに行くか
どこに行きたいんだ
大学の近くに、古い神社がある。調べたら、創建が江戸時代より前らしい。気になっている
俺は少し間を置いた。
怪異目的か
違う。ただ初詣に行きたい。でも——気になる神社があったから
その二つは、同じことじゃないか
違う。初詣が先で、気になるのは後だ
順番の問題か
順番は大事だ
俺は笑った。
分かった。一緒に行く
よかった。凛も誘っていいか
誘う
じゃあ、明日の朝に集合しよう
元旦の朝、三人で待ち合わせた。
大学の最寄り駅の前だった。
凛が来た。和服を着ていた。紺色に白い花の柄だった。
「凛、着物を着てきたのか」と俺は言った。
「お正月だから」凛は少し照れた顔をした。「変ですか」
「変じゃない。似合ってる」
「ありがとうございます」
朝倉が来た。
朝倉も和服だった。
深い緑色の着物に、黒い帯だった。
俺は少し固まった。
「どうした」朝倉は言った。
「似合ってる」
「凛と示し合わせたわけじゃない」
「そうなのか」
「偶然だ」朝倉は凛を見た。「凛も着物か」
「先輩もですね」凛は嬉しそうに言った。「お揃いみたいです」
「お揃いじゃない」
「色が違うだけで、雰囲気が似ています」凛は俺を見た。「桐島先輩は、普通の格好ですね」
「着物は持っていない」
「来年は着てください」凛は言った。「三人で和服を着て初詣に行けば、きれいな写真が撮れます」
「来年の話は来年しろ」
神社に向かって歩いた。
朝の空気は冷たくて、澄んでいた。
元旦の朝は静かだった。
人が少なかった。
でも神社に近づくほど、参拝客が増えてきた。
大学の裏手の路地を抜けると、古い鳥居が見えた。
木の鳥居だった。
塗り直した跡が何層にも重なっていた。それだけ長い間、手入れをされてきた証だった。
「古いな」と俺は言った。
「創建が平安時代という説もあるらしい」朝倉は鳥居を見上げた。「でも確かな記録は、江戸時代から残っている」
「詳しいな」
「昨日、少し調べた」
「やっぱり怪異目的か」
「初詣が先だ」
境内に入った。
参拝客が列を作っていた。
本殿の前まで、じっくりと並んだ。
三人並んで、少しずつ前に進んだ。
凛が周りを見回しながら言った。
「この神社、いい空気がしますね」
「怪異の気配はあるか」と朝倉が聞いた。
「気配というより——穏やかな感じです。怒っていない。悲しんでいない」凛は少し考えた。「ちゃんと、守られている感じがします」
「御神体がきちんとある神社だから」朝倉は言った。「管理する人がいる。祭りも続いている。ここは帰れない者も、怒った神もいない」
「ただの、いい神社だな」と俺は言った。
「ただの、いい神社だ」朝倉は頷いた。「そういう場所に来るのも、大切だと思う」
本殿の前に着いた。
鈴を鳴らした。
賽銭を入れた。
手を合わせた。
俺は目を閉じた。
特別なことを願わなかった。
ただ、今年も一緒にいられますように、と思った。
詩音と。凛と。田村先生と。
目を開けた。
朝倉がまだ目を閉じていた。
何を願っているのか、聞かなかった。
聞かなくても、少し分かる気がした。
参拝を終えて、境内をぶらぶらした。
露店が並んでいた。甘酒の店があった。
「飲むか」と俺は言った。
「飲みます」凛は即座に言った。
三人で甘酒を受け取った。
温かかった。
境内の端にある、古い木のベンチに座った。
「何を願ったか、聞いてもいいですか」凛が俺と朝倉を交互に見て言った。
「願い事は秘密だろ」と俺は言った。
「そうですね。でも——気になって」
「凛は何を願ったんだ」
「私ですか」凛は甘酒を飲んだ。「先輩たちが、元気でいられますように、と。あと——来年も、一緒に怪異に向き合えますように、と」
「怪異に向き合えますように、というのを願う人間は少ないだろうな」と俺は言った。
「私は願いました」凛はきっぱり言った。
朝倉が小さく笑った。
「凛らしい」
「先輩は何を願いましたか」
「秘密だ」
「そうですか」凛は少し残念そうにした。「桐島先輩は?」
「俺も秘密だ」
「二人とも秘密なんですね」凛は甘酒を飲み終えた。「でも——なんとなく、似たようなことを願った気がします」
「なぜそう思うんだ」と朝倉が言った。
「雰囲気です」凛はニコニコした。「二人の表情が、同じだったので」
境内を歩いた。
おみくじを引いた。
凛が大吉を引いた。
「大吉です!」凛は嬉しそうに言った。
「よかったな」と俺は言った。
「先輩たちは?」
俺は中吉だった。
朝倉が引いた紙を見た。
「何だ」と俺は聞いた。
朝倉は少し首を傾けた。
「吉だ」
「普通だな」
「普通でいい」朝倉はおみくじを読んだ。「待ち人、必ず来たる、と書いてある」
「もう来てるじゃないですか」凛は言った。「桐島先輩が」
朝倉は少し顔を赤くした。
「おみくじの話だ」
「先輩の顔が赤いです」
「寒いからだ」
「境内は風がないですよ」
「うるさい」朝倉はおみくじを結び所に結んだ。
凛が俺を見て、ニコニコした。
俺も苦笑いした。
境内を一通り回って、出口に向かった。
鳥居をくぐる手前で、朝倉が止まった。
「どうした」と俺は聞いた。
「社務所の横に、古い建物がある」朝倉は言った。
見ると、本殿の奥に、小さな建物があった。
他の建物より古そうだった。扉が閉まっていた。
「何だろう、あれ」と俺は言った。
「宝物庫かもしれない」朝倉は言った。「でも——」
「感じるのか」
「少し」朝倉は建物を見た。「でも、怒っていない。怖くない。ただ——誰かがいる気がする」
「怪異か」
「そうかもしれない。でも——穏やかだ」
社務所に声をかけた。
神職の方が出てきた。年配の男性だった。
「あの奥の建物は、何ですか」朝倉は建物を指して聞いた。
「ああ、あれは旧本殿です」神職の方は言った。「今の本殿が建てられる前の、古い本殿です。今は使っていませんが、壊さずに残しています」
「中に入ることはできますか」
「普通は入れませんが——お二人は、少し変わった方ですね」神職の方は朝倉をじっと見た。「見えるのですか」
「少し」朝倉は正直に言った。
「そうですか」神職の方は少し考えてから、言った。「入ってみますか。この神社に来る方で、そういう方は珍しい。でも——たまに、こういう方が来ることがある。来るべくして、来る方が」
旧本殿の前に立った。
神職の方が鍵を開けてくれた。
「中に入ったら、何か感じるかもしれません」神職の方は言った。「怖い何かではないですが驚かないでください」
扉を開けた。
中は薄暗かった。
古い香りがした。
線香の香り。木の香り。長い時間が積もった香り。
俺たちが入ると、神職の方は外で待ってくれた。
三人で中に入った。
小さな空間だった。
奥に、古い祭壇があった。
何も置かれていなかった。
でも——誰かがいた。
見えなかった。でも、確かにいた。
「感じるか」と俺は朝倉に聞いた。
「感じる」朝倉は奥を見た。「穏やかだ。怒っていない。ただ——ここにいる。長い間、ここにいる」
「帰れない者か」
「そうかもしれない。でも——普通の帰れない者と違う」
「どう違うんだ」
「帰りたいとは、思っていない気がする」朝倉は少し間を置いた。「ここにいたいから、ここにいる。守りたいから、ここにいる」
「守りたい?」
「この神社を、ずっと守ってきた何かだと思う」
凛が前に出た。
「聞こえますか」凛は静かに言った。
空間が、微かに揺れた気がした。
「この神社を守ってくれているんですね」凛は続けた。「ありがとうございます。私たちは、今日初詣に来ました。この神社がいい空気だったのは——あなたが守ってくれていたからですね」
揺れが、また来た。
今度は大きかった。
でも怖くなかった。
温かかった。
「鈴が鳴った」朝倉は静かに言った。
俺には聞こえなかった。
「聞こえたのか」
「聞こえた。拝殿の鈴が、今鳴った。風もないのに」
「喜んでいるのか」と凛が言った。
「そうだと思う」朝倉は微かに笑った。「来てくれてありがとう、と言っている気がする」
三人で頭を下げた。
「ここにいてくれてありがとう」朝倉は静かに言った。「これからも、よろしくお願いします」
空間が、温かくなった。
それだけだった。
声はなかった。光もなかった。
ただ、温かかった。
外に出たら神職の方が待っていた。
「どうでしたか」神職の方は聞いた。
「この神社を、ずっと守っている何かがいます」朝倉は言った。「穏やかで、温かい存在です」
「そうですか」神職の方は目を細めた。「代々、この神社にはそういうものがいると言い伝えられてきました。私の父も、祖父も、見えたと言っていました。私には見えませんが——感じることはあります。特に、お正月の朝に」
「お正月の朝が、一番強く感じるのですか」と朝倉が聞いた。
「そうです。新しい年の最初の朝は——特別な気がします。この神社が、一番生き生きしている気がする」神職の方は本殿を見た。「来てくれる方がいるから、守り続けてくれているのかもしれません」
「そうだと思います」朝倉は静かに言った。
神社を後にした。
三人で参道を歩いた。
鳥居をくぐって、振り返った。
古い神社が、朝の光の中に立っていた。
「いい初詣だったな」と俺は言った。
「よかったです」凛は言った。「怪異というより——温かい存在に会えた。ああいう存在もいるんですね」
「怒っているものばかりじゃない」朝倉は言った。「ただ、守り続けている。それだけの存在が、いる」
「高校のときの白哉さんみたいだ」と俺は言った。
「そうだね」朝倉は頷いた。「白哉さんも、ただ守り続けていた」
「この神社にも、白哉さんみたいな誰かがいた」凛は振り返った。「出会えてよかったです。怖い怪異だけじゃないと、また思えた」
駅に向かって歩きながら、朝倉が言った。
「一つ、気になることがある」
「何だ」と俺は聞いた。
「この大学の周りには、古い神社が複数ある。今日行った神社もそうだし、旧閲覧室の鏡が来た神社もそうだ」朝倉は少し考えた。「なぜ、この土地に古い神社が多いのか」
「大学が建つ前から、この土地に人が住んでいたからじゃないか」
「そうだとしても——多すぎる気がする」朝倉はノートを取り出した。「新学期が始まったら、少し調べてみようと思う」
「また始まるのか」凛は少し嬉しそうな顔をした。
「調べるだけだ。怪異を探しに行くわけじゃない」
「でも——調べたら、出てくることがある」俺は言った。
「そうかもしれない。でも今日は——調べるだけだ。今日は初詣の日だから」
「順番は大事だ、と言っていたからな」
「そうだ」
駅の近くのカフェに入った。
昨日と同じカフェだった。
三人で座った。
「今年も、よろしくお願いします」凛は言った。
「こちらこそ」と俺は言った。
「今年も——いろいろあると思います。怪異も、普通の日も」凛はコーヒーを飲んだ。「でも三人でいれば、大丈夫だと思います」
「そうだな」
「朝倉先輩は、今年はどんな年にしたいですか」凛は朝倉を見た。
朝倉は少し考えた。
「怪異と、普通が、どっちもある年にしたい」
「具体的に普通のこととは?」凛は聞いた。
「怪異のない旅行。普通に授業を受けること。カフェで話すこと」朝倉は俺を見た。「来年も、こういう時間が続けばいいと思う」
「それだけか」凛はニコニコした。
「それだけだ」
「桐島先輩との話、入っていませんよ」
「入っている」
「どこにですか」
「全部に入っている」朝倉は少し顔を赤くして、前を向いた。「うるさい」
凛が俺を見た。
俺も凛を見た。
二人で、少し笑った。
昼過ぎに、凛は帰っていった。
「今年もよろしくお願いします」凛は改札の前で言った。「また春に、旅行しましょう」
「楽しみにしてる」と俺は言った。
「朝倉先輩、行き先を考えておいてください」凛は言った。
「考える」
「桐島先輩が喜ぶ場所がいいですよ」凛は笑った。「じゃあ、また」
凛が改札をくぐった。
振り返って、小さく手を振った。
また二人になった。
「帰るか」と俺は言った。
「もう少しだけ」朝倉は言った。
「どうした」
「今日、ちゃんと願い事をしたか」朝倉は俺を見た。
「した」
「何を願ったか、聞いてもいいか」
「詩音が聞くのか」
「聞きたい」
俺は少し考えた。
「今年も、一緒にいられますように」
朝倉は俺を見たまま、黙っていた。
「詩音は」
「同じだ」朝倉は静かに言った。「まったく同じことを願った」
「そうか」
「そうだ」朝倉は前を向いた。「だから——今年も、一緒にいよう」
「ああ」
「怪異があっても、なくても」
「ああ」
「普通の日も、怖い日も」
「全部、一緒だ」
帰り道、二人で並んで歩いた。
元旦の街は静かだった。
開いている店が少なくて、人も少なかった。
空が、青かった。
澄んだ、冬の青い空だった。
「今年も、いい年になるといいな」と俺は言った。
「なると思う」朝倉は空を見た。「今日の神社の存在が——そんな気がさせてくれた」
「穏やかな存在だったから?」
「守り続けてくれているものがあると——安心する」朝倉は静かに言った。「高校のとき、白哉さんがそうだった。この大学の周りにも、そういうものがある」
「守られているんだな、俺たちも」
「そうかもしれない」朝倉は俺を見た。「でも——守ってもらうだけじゃなくて、私たちも守れるものがある」
「何を守れるんだ」
「帰れない者を送ること。怒った神の話を聞くこと。忘れられた御神体を返すこと」朝倉は静かに言った。「それが、私たちにできることだ。高校から続いてきたことだ」
「来年も、続いていく」
「続いていく。ずっと」
アパートの前で別れた。
「今年も、よろしく」朝倉は言った。
「こちらこそ」
「今年は——去年より少し、普通の日が多くなるといいと思ってる」
「怪異が減るか」
「そうじゃなくて」朝倉は少し考えた。「怪異があっても——普通の日として受け入れられるようになりたい。怖いことじゃなくて、普通のこととして」
「それはもう、できてると思うぞ」
「そうか?」
「詩音は、怪異に向き合うとき——怖いけど、止まらない。それはもう、普通になってるんじゃないか」
朝倉はしばらく考えた。
「そうかもしれない。でも——もっと自然に、向き合えるようになりたい」
「充分、自然だと思うけどな」
「湊が言うと、そんな気がしてくる」朝倉は少し笑った。「ありがとう、湊」
「今年もよろしく、詩音」
「よろしく」
その夜、朝倉からメッセージが来た。
今日の神社の存在、ずっと考えていた
何を考えていた
高校のときから、帰れない者を送ってきた。でも今日みたいな存在もいる。帰らずに、守り続けている存在が
そうだな。どっちも、この土地に関わってきた存在だ
帰るべき存在と、残るべき存在がいる
それをどうやって見分けるんだ
話を聞けば、分かる気がする
詩音ならできそうだ
一人じゃ無理だ。湊がいないと
いる
今年も?
今年も。来年も。ずっと
長い間があった。
……ありがとう
どういたしまして
湊
何だ
今日、鈴が鳴ったとき——すごく幸せな気持ちになった
なぜ
三人でいて、怪異に出会って、でも怖くなくて——これが私の普通になったと思った。こういう日が、普通になった
いいことだと思う
うん。すごく、いいことだと思う
今年もこういう日が続くといい
続く。絶対に続く
なんで言い切れるんだ
俺がいるから
また長い間があった。
……それが一番、確かな理由だ
そうだろ
うん。おやすみ、湊
おやすみ、詩音。良い年を
もう年は明けてる
良い一年を
うん。良い一年を、湊
スマホを置いた。
窓の外に、元日の夜空が広がっていた。
星が出ていた。
今日の神社の存在が、まだ温かく残っていた。
守り続けている何かが、この土地にいる。
帰れない者を送るだけじゃなくて、守り続けるものもある。
どっちも、この土地の一部だ。
来年も、向き合っていこう。
詩音と。凛と。
それが、俺たちの普通だから。




