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朝倉詩音の怪異録〜大学編〜  作者: ゆるっとおやじ


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16/33

二月十四日に渡せない

二月になった。

新学期の試験が終わって、少し余裕ができた。

キャンパスの銀杏の木は、まだ裸だった。でも枝の先に、小さな芽が出始めていた。

もうすぐ春が来る、という予感があった。


二月十四日の朝、凛からメッセージが来た。

先輩たち、今日時間ありますか

ある。どうした

実は——変なことが起きていて

怪異か

たぶんそうです。でも怖い感じじゃない。むしろ——切ない感じです

どこにいる

大学の食堂です。来られますか


食堂に行くと、凛がテーブルの前に座っていた。

向かいに、女の子が一人いた。

一年生だろうか。凛と同じくらいの年に見えた。短い髪で、目が赤かった。


泣いていたのか、と思った。

朝倉と俺が来ると、凛が立ち上がった。

「来てくれてありがとうございます」凛は小声で言った。「この子、二年生の桜田さんです。今朝、私に声をかけてきて」

「どうしたんだ」と俺は小声で聞いた。

「桜田さんに、聞いてもらった方が早いです」

四人でテーブルを囲んだ。

桜田さんは少し緊張した顔で、俺たちを見た。


「凛ちゃんから、怪異に詳しい先輩がいると聞いて——変なことかもしれないんですが」桜田さんは言った。

「変なことじゃないです」朝倉は静かに言った。「話してください」

「昨日から、チョコレートが消えるんです」


桜田さんが話してくれた内容は、こうだった。

バレンタインのために、三日かけてチョコレートを作った。渡したい相手がいた。同じゼミの、先輩だった。

昨日の夜、机の上に置いておいた。

今朝起きたら、消えていた。

部屋は施錠していた。窓も閉まっていた。誰も入ってこられない状態だったのに、チョコレートだけがなくなっていた。

「盗まれたのかと思って、部屋中探しました。でも——どこにもなくて」桜田さんは言った。「それで、また作り直して、今日持ってきたんです。でも——」


「また消えたのか」と俺は聞いた。

「消えてはいないんですが——鞄の中に入れていたはずなのに、今朝から鞄が異様に重くて。開けてみたら、チョコレートの箱は入っているのに——」

桜田さんは鞄から箱を取り出した。

「開けてみてください」朝倉は言った。

桜田さんが蓋を開けた。

中は空だった。

箱だけがあって、チョコレートは一粒もなかった。


「鞄の中に入れるとき、ちゃんと確認しました。全部入っていた。でも——」桜田さんは俯いた。「なぜか、なくなっている」

朝倉が箱を手に取った。

目を閉じた。

少し考えるように、眉を寄せた。

目を開けた。

「誰かがいる」朝倉は静かに言った。

「怪異ですか」と凛が聞いた。

「そうだと思う。でも——チョコレートを盗もうとしているわけじゃない気がする」

「どういうことだ」と俺は聞いた。


「邪魔をしている。渡せないように、している」

「なぜ」

「渡してほしくない、から」

 「渡してほしくないのは——誰かが、渡されることを嫌がっているのか」俺は言った。

「そうだと思う。でも誰が——」朝倉は桜田さんを見た。「渡したい相手の先輩について、教えてもらえますか」

「三年生の、田中先輩です」桜田さんは言った。「去年から、ずっと好きで——今年こそ渡そうと思って」

「田中先輩に、気になっている人はいますか」

「いないと思います。彼女もいないと聞いていて——だから今年、渡そうと決めたんです」


朝倉は少し考えた。

「田中先輩と、よく行く場所はありますか。二人でよく話す場所」

「ゼミ室です。毎週木曜日の夕方、ゼミが終わった後に、二人で残って話すことがあります」

「ゼミ室は、何号館ですか」

「三号館の——」桜田さんは少し止まった。「二階です」

俺と朝倉は、目を合わせた。

三号館。

旧閲覧室がある建物だった。


「三号館のゼミ室は、何号室ですか」と朝倉が聞いた。

「203号室です」

「旧閲覧室の真下だ」俺は小声で朝倉に言った。

「そうだな」朝倉は静かに言った。

「旧閲覧室と、関係があるのか」と凛が聞いた。

「分からない。でも——三号館で感じたことがある。旧閲覧室を解決したとき、残ったものがあった気がしていた」

「残ったもの?」俺は聞いた。

「女の子が帰れたとき——全部が消えたわけじゃないと思っていた。でも何が残っているかは、分からなかった」朝倉は立ち上がった。「三号館に行ってみよう」


四人で三号館に向かった。

桜田さんも一緒だった。

二階の203号室の前に立った。

扉は閉まっていた。

朝倉が扉に手を触れた。

目を閉じた。

十秒ほどして、目を開けた。


「いる」朝倉は静かに言った。

「誰がいるんだ」と俺は聞いた。

「女の子だ。若い女の子」朝倉は扉を見た。「でも——旧閲覧室にいた女の子とは違う。もっと新しい。でも——亡くなっているのかは、分からない」

「亡くなっていないのか」

「生きているかもしれない」

「生きている人間が、怪異として現れるのか」と凛が聞いた。

「強い感情が、時として場所に残ることがある」朝倉は静かに言った。「この部屋に、強い感情が残っている」


守衛さんに頼んで、203号室の鍵を借りた。

守衛さんは俺たちを見て、溜め息をついた。

「また何かありましたか」

「少し調べたいことがあります」と朝倉が言った。

「旧閲覧室は解決したんじゃないんですか」

「別のことです。203号室を使わせてもらえますか」

「鍵は貸しますが——あまり長くはいないでください。今日は木曜日ですから、夕方にゼミがあります」

「分かりました」

203号室に入った。

普通のゼミ室だった。

長机が並んでいた。ホワイトボードがあった。窓から中庭が見えた。


銀杏の木が見えた。

桜田さんが入った瞬間、何かが変わった。

空気が、重くなった。

「感じるか」と俺は朝倉に聞いた。

「感じる。強くなった」朝倉は部屋の隅を見た。「あそこだ」

部屋の隅、窓から一番遠い場所。

何も見えなかった。

でも朝倉が指差した場所を見ていると、空気が揺れているような気がした。

凛が前に出た。

「聞こえますか」凛は静かに言った。


空気が、揺れた。

「怒っているんですよね。でも——なぜ怒っているか、教えてもらえますか」

桜田さんが、小さく声を上げた。

「どうした」と俺は聞いた。

「チョコレートの箱が——また重くなった」桜田さんは鞄を抱えた。「さっきまで普通だったのに」

「重くなったということは、チョコレートが戻っている可能性がある」朝倉は言った。「開けてみて」

桜田さんが箱を開けた。

チョコレートが戻っていた。

でも全部ではなかった。

一粒だけ、なかった。


「一粒だけ、ない」桜田さんは言った。

朝倉が部屋の隅を見た。

「持っている」朝倉は静かに言った。

「チョコレートを持っているのか」と俺は聞いた。

「そう。一粒だけ、持っている」

「食べたのか」

「食べていない。ただ——持っている」朝倉は隅に近づいた。「渡したかったんだと思う。自分も、誰かに渡したかった」

朝倉が隅の前に立った。

「あなたも、誰かに渡したかったんですね」朝倉は静かに言った。「でも渡せなかった」

空気が、大きく揺れた。


「なぜ渡せなかったか——」朝倉は目を閉じた。

地下のものの記憶を辿っているのが分かった。

しばらくして、目を開けた。

「去年のことだ」朝倉は静かに言った。「去年のバレンタインに、この部屋でチョコレートを渡そうとした女の子がいた」

「どうなったんですか」と凛が聞いた。

「渡す前に——断られた。相手に、すでに好きな人がいると言われた」朝倉は続けた。「チョコレートを渡せなかった。この部屋に、置いていってしまった。強い感情とともに」

「その女の子は、今もここに通っているのか」と俺は聞いた。

「通っていると思う。生きている。でも——去年の感情がここに残っていた」

「それが、桜田さんのチョコレートを邪魔した」

「邪魔しようとしたわけじゃないかもしれない」朝倉は首を横に振った。「自分が渡せなかったから——羨ましくて。でも同時に、渡してほしくなかった」

桜田さんが、静かに言った。


「その気持ち、分かります」

俺たちは桜田さんを見た。

「私も、一度渡せなかったことがあります。高校のとき」桜田さんは俯いた。「好きな人に、チョコレートを作ったのに——渡す前に、その人に彼女ができて。渡せなかった。その後、そのチョコレートを食べながら、一人で泣いた」

「だから分かるんですね」凛は静かに言った。

「だから——怖くない。ただ、切ない」

朝倉が、隅に向かって言った。

「分かってあげられる人が、ここにいます」朝倉は桜田さんを指した。「同じ気持ちを知っている人が」


空気が、静かになった。

「渡せなかったことは——消えない。でも、同じ気持ちを知っている人がいる。それだけで、少し楽にならないか」

桜田さんが前に出た。

「去年、辛かったですね」桜田さんは隅に向かって言った。「私も同じだったから、分かります。渡せないって——本当に辛い」

空気が、揺れる。

今度は、怒りの揺れじゃなかった。

悲しみが、少し緩んだような揺れだった。


「でも」桜田さんは続けた。「今年の私は、渡したいと思っています。去年の経験があるから——今年は渡そうと決めた。邪魔しないでほしい。私に、チャンスをください」

沈黙が来た。

長い沈黙だった。

俺は息を止めた。

朝倉が、静かに待っていた。


凛が、目を閉じていた。

チョコレートの箱が、軽くなった。

桜田さんが開けた。

一粒が、戻っていた。

全部、揃っていた。

「戻ってきた」桜田さんは言った。

朝倉が微かに笑った。

「許してくれたんだと思う。渡してきなさい、と言っている気がする」

空気が、完全に軽くなった。

重さが消えた。


ただの、普通のゼミ室になった。

桜田さんが深く息を吸った。

「ありがとうございます」桜田さんは俺たちに頭を下げた。「変な話に付き合ってもらって」

「変じゃない」朝倉は言った。「切ない話だった」

「渡してきます。今日中に」桜田さんは箱を鞄に入れた。「田中先輩、今日もゼミが終わったらここに残ると思うので」

「うまくいくといいな」と俺は言った。

「ありがとうございます」桜田さんはもう一度頭を下げて、部屋を出ていった。

三人が残った。

凛が窓の外を見た。


「渡せなかった気持ちが、一年も残っていたんですね」

「そうだな」俺は言った。

「切ないですね。でも——桜田さんが話しかけてくれて、少し楽になったと思います。同じ気持ちの人がいるって、分かったから」

「分かってもらえることが、一番大きかったんだと思う」朝倉は言った。「帰れない者を送るより、話を聞くことが大切な場合もある」

「そうですね」凛は少し笑った。「怪異って、いろんな形があるんですね。怒っているものも、悲しんでいるものも、こうして切ないものも」

「いろんな感情が、残る」朝倉は窓の外の銀杏の木を見た。「人間も、怪異も——感情は同じだ」

ゼミ室を出た。


廊下を歩きながら、凛が言った。

「先輩たち、今日バレンタインですね」

「そうだな」と俺は言った。

「朝倉先輩は——」凛はニコニコしながら朝倉を見た。

「うるさい」朝倉は即座に言った。

「まだ何も言っていないですよ」

「言おうとしていたのは分かる」

「言っていいですか」

「言うな」

「では言いません」凛は笑った。「でも——素敵なバレンタインになるといいですね、先輩たち」


朝倉は前を向いた。

耳が赤かった。

凛が帰った後、二人になった。

中庭のベンチに座った。

銀杏の木が、目の前にあった。

「寒いな」と俺は言った。

「そうだね」朝倉は言った。

少し黙っていた。

朝倉が鞄をごそごそした。

小さな紙袋を取り出した。

俺に差し出した。


「はい」

俺は紙袋を受け取った。

「何だ」

「見れば分かる」

中を見た。

チョコレートだった。

小さくて、丁寧に包まれていた。

「作ったのか」と俺は聞いた。

「作った」朝倉は前を向いたまま言った。「去年は、渡すタイミングがなくて。今年こそ渡そうと思っていた」

「去年も作っていたのか」

「作った。でも——結局、一人で食べた」

「それは勿体なかったな」

「そうだ。だから今年は渡す」朝倉は俺を見た。「ちゃんと、渡す」


俺はチョコレートを見た。

丁寧な包みだった。

「ありがとう、詩音」

「どういたしまして」朝倉は前を向いた。「食べて」

「今ここで?」

「そこで食べて」

包みを開けた。

チョコレートが三粒、入っていた。

一粒、口に入れた。


甘くて、少し苦かった。

「うまい」と俺は言った。

「そうか」朝倉は少し安堵した顔をした。

「詩音が作ったのか」

「作った。不格好だけど」

「不格好じゃない」

「格好よくもない」

「詩音らしくて、いい」

朝倉は少し顔を赤くした。

「何がらしいんだ」

「丁寧で、真剣に作った感じがする。それが詩音らしい」

「……そうか」朝倉は俯いた。「なら、よかった」

しばらく、二人でベンチに座っていた。


「桜田さん、うまくいくといいな」と俺は言った。

「うまくいくと思う」朝倉は言った。「あれだけ真剣に渡そうとしていたから」

「去年の怪異が、応援してくれたのかもしれないな」

「そうかもしれない。渡してきなさい、と言っていたから」朝倉は空を見た。「渡せなかった経験が——誰かを応援することになった」

「切ない経験が、誰かの役に立った」

「そうだね」朝倉は微かに笑った。「怪異って、そういうこともあるんだな」

「そうだな。怖いだけじゃない」

「うん」朝倉はチョコレートの包みを見た。「渡せてよかった。去年、一人で食べてしまったから」

「去年も渡せばよかった」

「渡せなかった。怖かったから」朝倉は静かに言った。「でも今年は——渡せた」

「渡してくれてよかった」

「そうか」朝倉は少し笑った。「来年も渡す」

「毎年か」

「毎年渡す」朝倉はあっさり言った。「これからずっと」


俺は朝倉を見た。

「これからずっと、か」

「そうだ。文句があるか」

「ない」俺は言った。「楽しみにしている」

朝倉は耳を赤くして、前を向いた。

「毎年、受け取れよ」

「受け取る。絶対に」

その夜、桜田さんから凛に連絡が来た。

凛が俺たちに転送してくれた。

渡せました。田中先輩、受け取ってくれました。嬉しくて、泣いてしまいました。ありがとうございました


朝倉からメッセージが来た。

よかったな

そうだな。渡せてよかった

去年の子も——少し、報われたんじゃないかと思う

そうだな。自分が渡せなかった気持ちが、誰かの役に立った

切ない経験が、誰かを助けた

怪異って、怖いだけじゃないな

そうだね。今日のは——切なかったけど、温かかった

詩音のチョコレートも、温かかった


しばらく間があった。

……うるさい

本当のことだ

来年も渡す。文句言うな

言わない。楽しみにしている

毎年受け取れよ

毎年受け取る。これからずっと

長い間があった。

……それは、ずるい

何がずるいんだ

これからずっと、と言うのが

本当のことだから

毎回それだ

毎回本当のことだから

もう。おやすみ、湊

おやすみ、詩音。チョコレート、ありがとう

どういたしまして


スマホを置いた。

窓の外に、冬の夜が広がっていた。

チョコレートが、まだ手元に一粒残っていた。

渡せなかった気持ちが、一年間この場所に残っていた。


でも今日、誰かの背中を押してくれた。

怪異は、怖いだけじゃない。

切ない場合もある。

温かい場合もある。

今日のバレンタインは——全部が、温かかった。


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