怪異のない春の旅
三月になった。
大学最初の1年が終わって、春休みが始まった。
キャンパスの銀杏の木に、緑の葉が戻ってきた。
中庭のケヤキの木も、小さな葉を広げていた。
あの夫婦が、今も木のそばにいるかもしれない、と俺は思った。
でも確かめには行かなかった。
今は、ただの春の景色として見ていたかった。
旅行の行き先は、朝倉が決めた。
発表したのは、出発の一週間前だった。
「京都にしました」朝倉は言った。
「京都か」と俺は言った。
「古い場所だ。でも——今回は、怪異を探しに行くわけじゃない。ただ見て回りたいから選んだ」
「古い神社や寺が多い場所を選んで、怪異を探さないでいられるのか」と俺は聞いた。
「いられる」朝倉は真剣な顔で言った。「今回は怪異なしで行く。それが春休みの目的だ」
「凛に伝えたのか」
「伝えた。凛は大喜びだった」
「目を輝かせたか」
「輝かせた。しかもすでに観光スポットのリストを送ってきた」
「早いな」
「二十三件、リストがあった」
「三日間の旅行で、二十三件か」
「全部は回れないと言ったら——優先順位をつけて送ってきた」
俺は少し笑った。
「凛らしいな」
出発の朝、三人で新幹線に乗った。
凛は今回もリュックを背負っていた。
「今回はお菓子と、観光ガイドと、カメラを持ってきました」凛は言った。
「カメラか」と俺は言った。
「先輩たちの写真を撮ります。怪異のない旅行の記念に」凛はカメラを取り出した。「まず一枚、撮っていいですか」
「新幹線の中でか」と朝倉が言った。
「今がいい瞬間だと思いました」
凛がカメラを構えた。
朝倉が少し俯いた。
「詩音、こっちを向け」と俺は言った。
「嫌だ」
「なぜ」
「恥ずかしい」
「写真くらい、いいだろ」
朝倉は渋々、顔を上げた。
凛がシャッターを切った。
「撮れました。先輩たち、いい顔です」
「見せろ」と朝倉が言った。
凛が画面を向けた。
窓を背景に、俺と朝倉が並んでいた。
朝倉が少し照れた顔をしていた。
俺は笑っていた。
「いい写真ですよ」凛は言った。
「そうだな」と俺は言った。
朝倉は何も言わなかった。でも画面から目を離さなかった。
京都に着いた。
駅を出ると、春の空気がした。
少し暖かくて、花の匂いがした。
「桜が咲いていますね」凛は空を見上げた。
駅の周りの木に、桜が咲いていた。
満開だった。
「きれいだな」と俺は言った。
「うん」朝倉は桜を見ていた。「来てよかった」
「まだ着いたばかりだぞ」
「それでも、もう来てよかったと思う」
最初に向かったのは、凛が選んだ一番の優先スポットだった。
有名な神社だった。
参道に、桜の木が並んでいた。
人が多かった。観光客が写真を撮っていた。
朝倉は、参道を歩きながら周りを見ていた。
「大丈夫か」と俺は聞いた。
「大丈夫」朝倉は言った。「感じない」
「怪異を感じないのか」
「人が多いから、怪異が出づらいのかもしれない。でも——それより」朝倉は前を向いた。「今日は感じないようにしている」
「意図的に?」
「そうした方が、純粋に楽しめる気がして」
俺は少し驚いた。
「できるのか。意図的に感じないようにするのが」
「完全には無理だ。でも——意識を外に向けると、少し薄れる」朝倉は桜を見た。「今は桜を見ている。それだけでいい」
神社で参拝した。
凛が熱心に手を合わせていた。
「また長い願い事をしているのか」と俺は聞いた。
「先輩たちの分も願っています」凛は目を閉じたまま言った。
「俺たちの分は俺たちが願う」
「でも私が願った方が、叶いそうだから」
「なぜそう思うんだ」
「大吉だったから」凛は言った。「お正月に引いた。今年は大吉の年だから、願いが叶いやすい」
「大吉の効果は一年間も続くのか」
「続くと思います」
朝倉が少し笑った。
「凛に任せよう」
「ありがとうございます、朝倉先輩」
昼に、豆腐料理を食べた。
小さな店だった。庭が見える席に座った。
庭の桜が、風で花びらを散らしていた。
三人で黙って、庭を見ていた。
「怪異がない旅行って、こんなに静かなんですね」凛は言った。
「そうだな」と俺は言った。
「怪異があると、ずっと何かを考えています。どう解決するか、何が原因か。でも今日は——ただ、桜を見ている」
「それでいい」朝倉は言った。
「朝倉先輩、今日は表情が違います」凛はじっと朝倉を見た。
「どう違うんだ」
「柔らかい。いつもより、ずっと柔らかい」
「そうか」
「いつもは——何かを考えている顔をしています。でも今日は、ただここにいる顔をしています」
朝倉はしばらく黙った。
「そうかもしれない」朝倉は庭を見た。「怪異のことを考えなくていい日は——ただここにいられる」
「それが、朝倉先輩の素の顔なんですね」凛は少し笑った。「いい顔です」
「うるさい」
「本当のことです」
午後、嵐山に向かった。
川沿いに桜が咲いていた。
人が多かったけど、川の流れを見ていると静かな気持ちになった。
三人で川沿いを歩いた。
凛が写真を撮り続けていた。
「写真を撮りすぎじゃないか」と俺は言った。
「全部、残したいんです」凛は言った。「怪異のない旅行の記録を」
「怪異の記録は残すのに」朝倉は言った。
「どっちも残します。でも——こういう日の記録は、特別だと思って」凛は川を見た。「怪異がある日は、緊張している。でも今日は、ただ川を見ている。そういう日の記録が欲しい」
「そうだな」俺は言った。
「先輩たち、並んで川を見てください」凛はカメラを構えた。
「また撮るのか」と朝倉が言った。
「最後の一枚にします」
俺と朝倉は、並んで川を向いた。
桜が、川の上に張り出していた。
花びらが、川に落ちていた。
凛がシャッターを切った。
「撮れました。今日一番いい写真です」
「見せろ」と俺は言った。
凛が画面を向けた。
川を背景に、俺と朝倉が並んでいた。
桜が、二人の上に広がっていた。
朝倉が、川を見ていた。
穏やかな顔をしていた。
凛が言った通り、ただここにいる顔だった。
「詩音」と俺は言った。
「何?」
「いい写真だ」
朝倉は画面を見た。
しばらく黙っていた。
「そうだね」朝倉は静かに言った。「いい写真だ」
夜、宿に入った。
古い町家を改装した宿だった。
三人で夕飯を食べた。
京料理だった。品数が多くて、一つずつ丁寧に作られていた。
「おいしいです」凛は目を輝かせた。
「そうだな」と俺は言った。
「朝倉先輩は?」
「おいしい」朝倉は箸を持ちながら言った。「でも——量が少ないな」
「京料理は上品なんです」凛は言った。
「上品すぎて、お腹が満たされない」
「後でコンビニに行きますか」凛は笑った。
「行く」
「朝倉先輩、コンビニのおにぎりが好きですよね」凛は言った。
「好きだ。何か問題があるか」
「問題はないです。可愛いと思って」
「可愛くない」
「可愛いです」凛はにっこりした。「高級な京料理の後に、コンビニのおにぎりを食べる先輩が」
「うるさい」
俺は笑った。
「詩音らしいな」
「湊も笑うな」
夜、凛が先に眠った。
俺と朝倉は、宿の縁側に出た。
小さな庭があった。
石灯籠が灯っていた。
静かだった。
「怪異は感じなかったか、今日は」と俺は聞いた。
「ほとんど感じなかった」朝倉は言った。「意識を外に向けていたから」
「ずっとそうしていたのか」
「ずっとじゃない。でも——意識的にそうしていた」朝倉は庭を見た。「凛が言っていた。ただここにいる顔、と」
「そうだな」
「普段、ただここにいることが難しい。地下のものの記憶が流れてくるから。どこかでずっと、何かを感じている」朝倉は石灯籠を見た。「でも今日は——久しぶりに、ただここにいた」
「よかったな」
「うん」朝倉は静かに言った。「湊のおかげだと思う」
「俺は何もしていないぞ」
「隣にいてくれた。それだけで——外に意識を向けられる気がする。湊がいると、今ここにいることが確かになる」
俺は朝倉を見た。
「詩音がいると、俺も同じだ」
「同じか?」
「そうだ。お前が隣にいると——今ここにいることが、確かに感じる」
朝倉は少し間を置いた。
「お互い様だな」
「お互い様だ」
庭を見ながら、しばらく黙っていた。
石灯籠の光が、揺れていた。
朝倉が言った。
「湊、一つ聞いていいか」
「何だ」
「大学に入って一年が経とうとしている。来年、どうするつもりか」
「来年も同じ大学にいる」
「そうだな。でも——住む場所はどうする。祖母の家から通うのか」
「引っ越そうと思っている。大学の近くに。言っていた通り」
「本当に来るのか」
「本当だ。春休みが終わったら、物件を探す」
朝倉は少し間を置いた。
「近くなるな」
「そうだな。詩音のアパートの近くになると思う」
「どのくらい近くなるんだ」
「物件による。でも——徒歩圏内には来たいと思っている」
「徒歩圏内か」朝倉は庭を見た。「それは——嬉しい」
「素直に言うんだな」
「今日は、ただここにいる日だから」朝倉は静かに言った。「ただここにいると、素直になれる」
「いいことだ」
「怪異がない日は、素直になれる」朝倉は少し笑った。「だから怪異がない日も必要だ」
「来年も、旅行に来よう」
「うん。また三人で」
「詩音が行き先を決めていいぞ」
「また私が決めるのか」
「お前が決めた方が、いい場所に行ける気がする」
「根拠は」
「今日がいい証拠だ」
朝倉は少し笑った。
「そうか。じゃあ来年も考える」
「楽しみにしている」
縁側に並んで座った。
肩が触れた。
朝倉は離れなかった。
俺も離れなかった。
石灯籠の光が、庭を照らしていた。
桜の花びらが、一枚、庭に落ちてきた。
「きれいだな」と俺は言った。
「そうだね」朝倉は花びらを見た。「この景色、地下のものの記憶にある」
「この宿が?」
「この辺りの景色が。昔から、春にはこういう光景があったということが分かる」朝倉は続けた。「何百年も前から、誰かがこうして桜を見ていた」
「今、俺たちが見ているのも、その記憶の一部になるんだな」
「そうかもしれない」朝倉は静かに言った。「この土地が、今日のことを覚えていてくれる」
「詩音が覚えていてくれるから、いい」
「私だけじゃ足りない。土地にも覚えていてほしい」
「なぜ」
「何百年後かの誰かに、今日の私たちが伝わるかもしれないから」朝倉は花びらを見た。「そういうことが、好きだ」
「詩音らしい理由だな」
「そうか」
「そういうことを考えるのが——詩音らしい。地下のものの記憶があるから」
「重いことだけじゃない。きれいなことも、ある」朝倉は俺を見た。「今日みたいな日が、記憶に残るのは——きれいなことだと思う」
部屋に戻った。
凛が眠っていた。
朝倉は布団に入る前に、窓の外を一度見た。
「おやすみ、湊」
「おやすみ、詩音」
「今日、来てよかった」
「ああ。来てよかった」
「来年も来よう」
「約束だ」
朝倉は布団に入った。
すぐに静かになった。
俺は天井を見ながら、今日のことを思い返した。
桜。川。庭の石灯籠。詩音の穏やかな顔。
凛が言っていた。ただここにいる顔、と。
今日の詩音は、ただここにいた。
俺も、ただここにいた。
怪異がない日は、こういう日だった。
悪くなかった。
むしろ——とても、よかった。
翌朝、三人で朝食を食べた。
宿の朝食だった。お粥と、小さなおかずが並んでいた。
「おいしいです」凛は言った。
「昨日のコンビニのおにぎりもおいしかった」朝倉は言った。
「先輩、京料理よりコンビニのおにぎりの方が印象に残っているんですか」凛は笑った。
「どっちもおいしかった」
「それは何より」
俺は二人のやり取りを聞きながら、お粥を食べた。
穏やかな朝だった。
二日目は、竹林を歩いた。
嵐山の竹林だった。
高い竹が、両側に並んでいた。
竹の葉が、風に揺れていた。
さらさらという音がした。
「すごいですね」凛は上を見上げた。「竹が、空を覆っている」
「そうだな」と俺は言った。
「先輩、感じますか」凛は朝倉を見た。「竹林に怪異とかはいませんか」
「感じない」朝倉は言った。
「よかった」
「でも——」朝倉は竹を見た。「この竹林は古い。何十年も、ここに立っている。その記憶が少し、流れてくる」
「怪異じゃない?」
「怪異じゃない。ただの記憶だ」朝倉は静かに言った。「昔も、こうして誰かがここを歩いていた。その足音が、残っている気がする」
「きれいな記憶ですね」凛は言った。
「そうだね」朝倉は歩きながら言った。「怪異じゃなくて、記憶がある。それが——この土地の普通だと思う」
昼を食べた後、三人で抹茶パフェを食べた。
凛が食べたいと言って選んだ店だった。
「おいしいです」凛は目を輝かせた。
「そうだな」と俺は言った。
「朝倉先輩は?」
「甘い」朝倉は言った。
「甘いのは当然です」
「でも——おいしい」
「よかったです」凛は写真を撮った。「この写真、先輩たちに送ります。記念に」
「いい写真が多いな、今回は」と俺は言った。
「全部、記念です。怪異のない旅行の記念」凛は言った。「来年も撮ります」
「来年も来るのか」と朝倉が聞いた。
「もちろんです。毎年来ましょう。場所は変えてもいい」
「来年は詩音が決める」と俺は言った。
「また私が決めるのか」
「詩音が決めた方がいい」
「桐島先輩も、何か言ってください」凛は俺を見た。
「詩音が決めた場所ならどこでも行く」
「それ、朝倉先輩が喜ぶやつです」凛はニコニコした。
「うるさい」朝倉は抹茶パフェを食べた。
「照れていますよ、先輩」
「食べろ」
「はい」凛は笑いながら食べた。
三日目の朝、帰る日になった。
荷物をまとめて、宿を出た。
駅に向かう道に、また桜が咲いていた。
三人で並んで歩いた。
「楽しかったです」凛は言った。
「そうだな」と俺は言った。
「怪異がない旅行って、こんなに楽しいんですね。怪異があると、緊張してしまうから——同じ場所でも、見え方が違う気がします」
「それは大事なことだな」と俺は言った。
「そうです。来年も、怪異のない旅行がしたいです」凛は桜を見た。「でも——怪異があっても、来ます」
「どっちでも来るのか」
「どっちでも。先輩たちが一緒なら」
朝倉は前を向いたまま言った。
「来年も一緒に来よう」
「約束ですか」
「約束だ」
「やった」凛は小さくガッツポーズをした。「来年の旅行、今から楽しみです。どこに行きますか」
「詩音が決める」と俺は言った。
「また私か」
「毎回詩音が決めていい」
「毎回か」
「毎年旅行するなら、毎年詩音が決めていい」
朝倉は少し間を置いた。
「分かった。毎年考える」
「楽しみにしている」
「私も楽しみにしています」凛は言った。「先輩が選ぶ場所、好きです。今回の京都、すごくよかった」
「よかったか」
「よかったです。桜も、竹林も、宿も——全部よかった。でも一番よかったのは、先輩たちと来られたことです」
朝倉は凛を見た。
「凛も一緒で、よかった」
「先輩に言ってもらえると、嬉しいです」
「本当のことだから言った」
「朝倉先輩、最近素直になってきましたね」凛は嬉しそうに言った。
「前から素直だ」
「そうですか?」
「うるさい」
新幹線に乗った。
三人で並んで座った。
発車して、京都の街が流れていった。
桜の木が、窓の外を通り過ぎた。
凛がカメラで外を撮っていた。
朝倉が窓の外を見ていた。
「詩音」と俺は小声で言った。
「何?」
「今回来てよかったか」
「よかった」朝倉は小声で返した。「来てよかった。誘ってくれてよかった」
「来年も来よう」
「来る」朝倉は窓の外を見た。「毎年来よう。怪異があってもなくても、春になったら旅行に行こう」
「毎年の約束か」
「毎年の約束だ」
「分かった」俺は言った。「毎年、詩音と来る」
「凛も一緒に」
「凛も一緒に。三人で」
朝倉は窓の外を見たまま、微かに笑った。
「それが一番いい」
その夜、家に帰って、朝倉からメッセージが来た。
今日、ありがとう
今回も言うのか
毎回言う。毎回ありがとうだから
分かった
湊
何だ
今回の旅行、全部よかった。でも——一番よかったのは、縁側で話した夜だった
そうか
二人で庭を見ていた。怪異もなくて、ただ話していた。あの時間が、一番好きだった
俺も好きだった
また、ああいう夜があるといい
引っ越したら、すぐ会えるようになる
そうだね。春休みが終わったら、物件を探すんだろう
そうだ。近くに来る
来い
そっちから言うのか
早く来い。近い方がいい
俺は少し笑った。
そうだな。早く行く
待ってる
分かった
少し間があった。
湊
何だ
来年の旅行、もう考え始めている
早いな
楽しいから。行き先を考えるのが、楽しい
どこに行きたいんだ
まだ秘密だ
なぜ
楽しみを、とっておきたい
分かった。待っている
うん。おやすみ、湊
おやすみ、詩音。いい旅行だった
うん。いい旅行だった。来年も、行こう
来年も行く。絶対に
スマホを置いた。
窓の外に、春の夜空が広がっていた。
怪異がない三日間だった。
ただ三人で旅をして、桜を見て、ご飯を食べた。
それだけだった。
でも——とても、よかった。
怪異がある日も、ない日も、どっちも俺たちの日常だ。
来年の春も、また来よう。
詩音が選んだ場所に。
三人で。
それが、楽しみだった。




