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朝倉詩音の怪異録〜大学編〜  作者: ゆるっとおやじ


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17/31

怪異のない春の旅

三月になった。

大学最初の1年が終わって、春休みが始まった。

キャンパスの銀杏の木に、緑の葉が戻ってきた。

中庭のケヤキの木も、小さな葉を広げていた。

あの夫婦が、今も木のそばにいるかもしれない、と俺は思った。

でも確かめには行かなかった。

今は、ただの春の景色として見ていたかった。


旅行の行き先は、朝倉が決めた。

発表したのは、出発の一週間前だった。

「京都にしました」朝倉は言った。

「京都か」と俺は言った。

「古い場所だ。でも——今回は、怪異を探しに行くわけじゃない。ただ見て回りたいから選んだ」

「古い神社や寺が多い場所を選んで、怪異を探さないでいられるのか」と俺は聞いた。

「いられる」朝倉は真剣な顔で言った。「今回は怪異なしで行く。それが春休みの目的だ」

「凛に伝えたのか」

「伝えた。凛は大喜びだった」

「目を輝かせたか」

「輝かせた。しかもすでに観光スポットのリストを送ってきた」

「早いな」

「二十三件、リストがあった」

「三日間の旅行で、二十三件か」

「全部は回れないと言ったら——優先順位をつけて送ってきた」


俺は少し笑った。

「凛らしいな」

出発の朝、三人で新幹線に乗った。

凛は今回もリュックを背負っていた。

「今回はお菓子と、観光ガイドと、カメラを持ってきました」凛は言った。

「カメラか」と俺は言った。

「先輩たちの写真を撮ります。怪異のない旅行の記念に」凛はカメラを取り出した。「まず一枚、撮っていいですか」

「新幹線の中でか」と朝倉が言った。

「今がいい瞬間だと思いました」


凛がカメラを構えた。

朝倉が少し俯いた。

「詩音、こっちを向け」と俺は言った。

「嫌だ」

「なぜ」

「恥ずかしい」

「写真くらい、いいだろ」

朝倉は渋々、顔を上げた。

凛がシャッターを切った。


「撮れました。先輩たち、いい顔です」

「見せろ」と朝倉が言った。

凛が画面を向けた。

窓を背景に、俺と朝倉が並んでいた。

朝倉が少し照れた顔をしていた。

俺は笑っていた。

「いい写真ですよ」凛は言った。

「そうだな」と俺は言った。

朝倉は何も言わなかった。でも画面から目を離さなかった。


京都に着いた。

駅を出ると、春の空気がした。

少し暖かくて、花の匂いがした。

「桜が咲いていますね」凛は空を見上げた。

駅の周りの木に、桜が咲いていた。

満開だった。

「きれいだな」と俺は言った。

「うん」朝倉は桜を見ていた。「来てよかった」

「まだ着いたばかりだぞ」

「それでも、もう来てよかったと思う」

最初に向かったのは、凛が選んだ一番の優先スポットだった。

有名な神社だった。


参道に、桜の木が並んでいた。

人が多かった。観光客が写真を撮っていた。

朝倉は、参道を歩きながら周りを見ていた。

「大丈夫か」と俺は聞いた。

「大丈夫」朝倉は言った。「感じない」

「怪異を感じないのか」

「人が多いから、怪異が出づらいのかもしれない。でも——それより」朝倉は前を向いた。「今日は感じないようにしている」

「意図的に?」

「そうした方が、純粋に楽しめる気がして」

俺は少し驚いた。

「できるのか。意図的に感じないようにするのが」


「完全には無理だ。でも——意識を外に向けると、少し薄れる」朝倉は桜を見た。「今は桜を見ている。それだけでいい」


神社で参拝した。

凛が熱心に手を合わせていた。

「また長い願い事をしているのか」と俺は聞いた。

「先輩たちの分も願っています」凛は目を閉じたまま言った。

「俺たちの分は俺たちが願う」

「でも私が願った方が、叶いそうだから」

「なぜそう思うんだ」

「大吉だったから」凛は言った。「お正月に引いた。今年は大吉の年だから、願いが叶いやすい」

「大吉の効果は一年間も続くのか」

「続くと思います」


朝倉が少し笑った。

「凛に任せよう」

「ありがとうございます、朝倉先輩」

昼に、豆腐料理を食べた。

小さな店だった。庭が見える席に座った。

庭の桜が、風で花びらを散らしていた。

三人で黙って、庭を見ていた。


「怪異がない旅行って、こんなに静かなんですね」凛は言った。

「そうだな」と俺は言った。

「怪異があると、ずっと何かを考えています。どう解決するか、何が原因か。でも今日は——ただ、桜を見ている」

「それでいい」朝倉は言った。

「朝倉先輩、今日は表情が違います」凛はじっと朝倉を見た。

「どう違うんだ」

「柔らかい。いつもより、ずっと柔らかい」

「そうか」

「いつもは——何かを考えている顔をしています。でも今日は、ただここにいる顔をしています」


朝倉はしばらく黙った。

「そうかもしれない」朝倉は庭を見た。「怪異のことを考えなくていい日は——ただここにいられる」

「それが、朝倉先輩の素の顔なんですね」凛は少し笑った。「いい顔です」

「うるさい」

「本当のことです」

午後、嵐山に向かった。

川沿いに桜が咲いていた。

人が多かったけど、川の流れを見ていると静かな気持ちになった。


三人で川沿いを歩いた。

凛が写真を撮り続けていた。

「写真を撮りすぎじゃないか」と俺は言った。

「全部、残したいんです」凛は言った。「怪異のない旅行の記録を」

「怪異の記録は残すのに」朝倉は言った。

「どっちも残します。でも——こういう日の記録は、特別だと思って」凛は川を見た。「怪異がある日は、緊張している。でも今日は、ただ川を見ている。そういう日の記録が欲しい」

「そうだな」俺は言った。

「先輩たち、並んで川を見てください」凛はカメラを構えた。

「また撮るのか」と朝倉が言った。

「最後の一枚にします」


俺と朝倉は、並んで川を向いた。

桜が、川の上に張り出していた。

花びらが、川に落ちていた。

凛がシャッターを切った。

「撮れました。今日一番いい写真です」

「見せろ」と俺は言った。

凛が画面を向けた。

川を背景に、俺と朝倉が並んでいた。

桜が、二人の上に広がっていた。

朝倉が、川を見ていた。

穏やかな顔をしていた。

凛が言った通り、ただここにいる顔だった。


「詩音」と俺は言った。

「何?」

「いい写真だ」

朝倉は画面を見た。

しばらく黙っていた。

「そうだね」朝倉は静かに言った。「いい写真だ」

夜、宿に入った。

古い町家を改装した宿だった。

三人で夕飯を食べた。

京料理だった。品数が多くて、一つずつ丁寧に作られていた。


「おいしいです」凛は目を輝かせた。

「そうだな」と俺は言った。

「朝倉先輩は?」

「おいしい」朝倉は箸を持ちながら言った。「でも——量が少ないな」

「京料理は上品なんです」凛は言った。

「上品すぎて、お腹が満たされない」

「後でコンビニに行きますか」凛は笑った。

「行く」

「朝倉先輩、コンビニのおにぎりが好きですよね」凛は言った。

「好きだ。何か問題があるか」

「問題はないです。可愛いと思って」

「可愛くない」

「可愛いです」凛はにっこりした。「高級な京料理の後に、コンビニのおにぎりを食べる先輩が」

「うるさい」

俺は笑った。


「詩音らしいな」

「湊も笑うな」

夜、凛が先に眠った。

俺と朝倉は、宿の縁側に出た。

小さな庭があった。

石灯籠が灯っていた。

静かだった。

「怪異は感じなかったか、今日は」と俺は聞いた。

「ほとんど感じなかった」朝倉は言った。「意識を外に向けていたから」

「ずっとそうしていたのか」

「ずっとじゃない。でも——意識的にそうしていた」朝倉は庭を見た。「凛が言っていた。ただここにいる顔、と」

「そうだな」


「普段、ただここにいることが難しい。地下のものの記憶が流れてくるから。どこかでずっと、何かを感じている」朝倉は石灯籠を見た。「でも今日は——久しぶりに、ただここにいた」

「よかったな」

「うん」朝倉は静かに言った。「湊のおかげだと思う」

「俺は何もしていないぞ」

「隣にいてくれた。それだけで——外に意識を向けられる気がする。湊がいると、今ここにいることが確かになる」

俺は朝倉を見た。


「詩音がいると、俺も同じだ」

「同じか?」

「そうだ。お前が隣にいると——今ここにいることが、確かに感じる」

朝倉は少し間を置いた。

「お互い様だな」

「お互い様だ」

庭を見ながら、しばらく黙っていた。

石灯籠の光が、揺れていた。

朝倉が言った。

「湊、一つ聞いていいか」

「何だ」

「大学に入って一年が経とうとしている。来年、どうするつもりか」

「来年も同じ大学にいる」

「そうだな。でも——住む場所はどうする。祖母の家から通うのか」

「引っ越そうと思っている。大学の近くに。言っていた通り」

「本当に来るのか」

「本当だ。春休みが終わったら、物件を探す」

 朝倉は少し間を置いた。

「近くなるな」

「そうだな。詩音のアパートの近くになると思う」

「どのくらい近くなるんだ」

「物件による。でも——徒歩圏内には来たいと思っている」

「徒歩圏内か」朝倉は庭を見た。「それは——嬉しい」

「素直に言うんだな」

「今日は、ただここにいる日だから」朝倉は静かに言った。「ただここにいると、素直になれる」

「いいことだ」


「怪異がない日は、素直になれる」朝倉は少し笑った。「だから怪異がない日も必要だ」

「来年も、旅行に来よう」

「うん。また三人で」

「詩音が行き先を決めていいぞ」

「また私が決めるのか」

「お前が決めた方が、いい場所に行ける気がする」

「根拠は」

「今日がいい証拠だ」

朝倉は少し笑った。


「そうか。じゃあ来年も考える」

「楽しみにしている」

縁側に並んで座った。

肩が触れた。

朝倉は離れなかった。

俺も離れなかった。

石灯籠の光が、庭を照らしていた。

桜の花びらが、一枚、庭に落ちてきた。


「きれいだな」と俺は言った。

「そうだね」朝倉は花びらを見た。「この景色、地下のものの記憶にある」

「この宿が?」

「この辺りの景色が。昔から、春にはこういう光景があったということが分かる」朝倉は続けた。「何百年も前から、誰かがこうして桜を見ていた」

「今、俺たちが見ているのも、その記憶の一部になるんだな」

「そうかもしれない」朝倉は静かに言った。「この土地が、今日のことを覚えていてくれる」

「詩音が覚えていてくれるから、いい」

「私だけじゃ足りない。土地にも覚えていてほしい」

「なぜ」

「何百年後かの誰かに、今日の私たちが伝わるかもしれないから」朝倉は花びらを見た。「そういうことが、好きだ」

「詩音らしい理由だな」

「そうか」

「そういうことを考えるのが——詩音らしい。地下のものの記憶があるから」


「重いことだけじゃない。きれいなことも、ある」朝倉は俺を見た。「今日みたいな日が、記憶に残るのは——きれいなことだと思う」

部屋に戻った。

凛が眠っていた。

朝倉は布団に入る前に、窓の外を一度見た。

「おやすみ、湊」

「おやすみ、詩音」

「今日、来てよかった」

「ああ。来てよかった」

「来年も来よう」

「約束だ」


朝倉は布団に入った。

すぐに静かになった。

俺は天井を見ながら、今日のことを思い返した。

桜。川。庭の石灯籠。詩音の穏やかな顔。

凛が言っていた。ただここにいる顔、と。

今日の詩音は、ただここにいた。

俺も、ただここにいた。

怪異がない日は、こういう日だった。

悪くなかった。

むしろ——とても、よかった。


翌朝、三人で朝食を食べた。

宿の朝食だった。お粥と、小さなおかずが並んでいた。

「おいしいです」凛は言った。

「昨日のコンビニのおにぎりもおいしかった」朝倉は言った。

「先輩、京料理よりコンビニのおにぎりの方が印象に残っているんですか」凛は笑った。

「どっちもおいしかった」

「それは何より」

俺は二人のやり取りを聞きながら、お粥を食べた。

穏やかな朝だった。


二日目は、竹林を歩いた。

嵐山の竹林だった。

高い竹が、両側に並んでいた。

竹の葉が、風に揺れていた。

さらさらという音がした。

「すごいですね」凛は上を見上げた。「竹が、空を覆っている」

「そうだな」と俺は言った。

「先輩、感じますか」凛は朝倉を見た。「竹林に怪異とかはいませんか」


「感じない」朝倉は言った。

「よかった」

「でも——」朝倉は竹を見た。「この竹林は古い。何十年も、ここに立っている。その記憶が少し、流れてくる」

「怪異じゃない?」

「怪異じゃない。ただの記憶だ」朝倉は静かに言った。「昔も、こうして誰かがここを歩いていた。その足音が、残っている気がする」

「きれいな記憶ですね」凛は言った。

「そうだね」朝倉は歩きながら言った。「怪異じゃなくて、記憶がある。それが——この土地の普通だと思う」


昼を食べた後、三人で抹茶パフェを食べた。

凛が食べたいと言って選んだ店だった。

「おいしいです」凛は目を輝かせた。

「そうだな」と俺は言った。

「朝倉先輩は?」

「甘い」朝倉は言った。

「甘いのは当然です」

「でも——おいしい」

「よかったです」凛は写真を撮った。「この写真、先輩たちに送ります。記念に」

「いい写真が多いな、今回は」と俺は言った。

「全部、記念です。怪異のない旅行の記念」凛は言った。「来年も撮ります」

「来年も来るのか」と朝倉が聞いた。

「もちろんです。毎年来ましょう。場所は変えてもいい」


「来年は詩音が決める」と俺は言った。

「また私が決めるのか」

「詩音が決めた方がいい」

「桐島先輩も、何か言ってください」凛は俺を見た。

「詩音が決めた場所ならどこでも行く」

「それ、朝倉先輩が喜ぶやつです」凛はニコニコした。

「うるさい」朝倉は抹茶パフェを食べた。

「照れていますよ、先輩」

「食べろ」

「はい」凛は笑いながら食べた。


三日目の朝、帰る日になった。

荷物をまとめて、宿を出た。

駅に向かう道に、また桜が咲いていた。

三人で並んで歩いた。

「楽しかったです」凛は言った。

「そうだな」と俺は言った。

「怪異がない旅行って、こんなに楽しいんですね。怪異があると、緊張してしまうから——同じ場所でも、見え方が違う気がします」

「それは大事なことだな」と俺は言った。

「そうです。来年も、怪異のない旅行がしたいです」凛は桜を見た。「でも——怪異があっても、来ます」

「どっちでも来るのか」

「どっちでも。先輩たちが一緒なら」


朝倉は前を向いたまま言った。

「来年も一緒に来よう」

「約束ですか」

「約束だ」

「やった」凛は小さくガッツポーズをした。「来年の旅行、今から楽しみです。どこに行きますか」

「詩音が決める」と俺は言った。

「また私か」

「毎回詩音が決めていい」

「毎回か」

「毎年旅行するなら、毎年詩音が決めていい」


朝倉は少し間を置いた。

「分かった。毎年考える」

「楽しみにしている」

「私も楽しみにしています」凛は言った。「先輩が選ぶ場所、好きです。今回の京都、すごくよかった」

「よかったか」

「よかったです。桜も、竹林も、宿も——全部よかった。でも一番よかったのは、先輩たちと来られたことです」

朝倉は凛を見た。


「凛も一緒で、よかった」

「先輩に言ってもらえると、嬉しいです」

「本当のことだから言った」

「朝倉先輩、最近素直になってきましたね」凛は嬉しそうに言った。

「前から素直だ」

「そうですか?」

「うるさい」


新幹線に乗った。

三人で並んで座った。

発車して、京都の街が流れていった。

桜の木が、窓の外を通り過ぎた。

凛がカメラで外を撮っていた。

朝倉が窓の外を見ていた。


「詩音」と俺は小声で言った。

「何?」

「今回来てよかったか」

「よかった」朝倉は小声で返した。「来てよかった。誘ってくれてよかった」

「来年も来よう」

「来る」朝倉は窓の外を見た。「毎年来よう。怪異があってもなくても、春になったら旅行に行こう」

「毎年の約束か」

「毎年の約束だ」

「分かった」俺は言った。「毎年、詩音と来る」

「凛も一緒に」

「凛も一緒に。三人で」

朝倉は窓の外を見たまま、微かに笑った。

「それが一番いい」


その夜、家に帰って、朝倉からメッセージが来た。

今日、ありがとう

今回も言うのか

毎回言う。毎回ありがとうだから

分かった

湊

何だ

今回の旅行、全部よかった。でも——一番よかったのは、縁側で話した夜だった

そうか

二人で庭を見ていた。怪異もなくて、ただ話していた。あの時間が、一番好きだった

俺も好きだった

また、ああいう夜があるといい

引っ越したら、すぐ会えるようになる

そうだね。春休みが終わったら、物件を探すんだろう

そうだ。近くに来る

来い

そっちから言うのか

早く来い。近い方がいい

俺は少し笑った。


そうだな。早く行く

待ってる

分かった

少し間があった。

湊

何だ

来年の旅行、もう考え始めている

早いな

楽しいから。行き先を考えるのが、楽しい

どこに行きたいんだ

まだ秘密だ

なぜ

楽しみを、とっておきたい

分かった。待っている

うん。おやすみ、湊

おやすみ、詩音。いい旅行だった

うん。いい旅行だった。来年も、行こう

来年も行く。絶対に


スマホを置いた。

窓の外に、春の夜空が広がっていた。

怪異がない三日間だった。

ただ三人で旅をして、桜を見て、ご飯を食べた。

それだけだった。

でも——とても、よかった。

怪異がある日も、ない日も、どっちも俺たちの日常だ。


来年の春も、また来よう。

詩音が選んだ場所に。

三人で。

それが、楽しみだった。

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