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朝倉詩音の怪異録〜大学編〜  作者: ゆるっとおやじ


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18/33

新しい部屋にいた

春休みの終わり、俺は引っ越した。

大学の近く、朝倉のアパートから徒歩八分の物件だった。


築十五年の、普通の2Kのアパートだった。

下見のとき、朝倉も一緒に来た。

「ここでいいのか」朝倉は部屋の中を見回した。

「いいと思う。大学にも近いし、詩音のところにも近い」

「そこが理由か」

「主な理由だ」

「引っ越しの理由が私のところに近いから、というのは——」朝倉は少し間を置いた。「嬉しいような、困るような」

「困ることはないだろ」

「そうだな」朝倉は窓から外を見た。「ここでいい。悪くない部屋だ」

それで決めた。


引っ越し当日、朝倉が手伝いに来てくれた。

凛も来ようとしたが、高校の春季講習があって来られなかった。

先輩、引っ越し頑張ってください。落ち着いたら遊びに行きます

来い。待ってる

あと——何か変なものがいたら、すぐ連絡してください

縁起でもないことを言うな

一応です。先輩の周りには、よく出るので

俺はスマホをしまった。


午前中に荷物が届いた。

段ボールを開けて、少しずつ片付けた。

朝倉が手伝ってくれた。

黙々と動く朝倉は、手際がよかった。

「詩音、引っ越しの手伝いに慣れているのか」と俺は言った。

「自分が引っ越したときに、練習した」朝倉は本棚を組み立てながら言った。「一人でやったから、効率的にやる方法を考えた」

「一人でやったのか。誰かに頼めばよかったのに」

「誰に頼むんだ」

「俺に頼めばよかった。大学に入ってすぐだったから、時間はあった」

朝倉は手を止めた。


「そうだな」朝倉は静かに言った。「次に引っ越すときは頼む」

「次はいつだ」

「分からない。でも——また引っ越すことがあれば」

「頼め」俺は言った。「すぐ行く」


朝倉はまた本棚を組み立て始めた。

耳が少し赤かった。

昼過ぎに、大体の荷物が片付いた。

二人でカップ麺を食べた。

床に座って、向かい合って食べた。

「落ち着いたな」と俺は言った。

「そうだね」朝倉はカップ麺をすすった。「新しい部屋だ」

「どうだ。いい部屋に見えるか」

「普通だ。でも——悪くない」朝倉は部屋を見回した。「湊らしくなると思う。段ボールが片付いたら」


「詩音の部屋は、本が多い」

「本を読むから」

「俺の部屋は、何が多くなるんだろうな」

「怪異の記録とか」

「それは詩音の部屋だろ」

「湊の部屋にも、いずれ増える気がする」朝倉は少し笑った。「一緒にいると、移るから」

「いいことが移るといいな」

「いいことも、移る」朝倉は静かに言った。「湊が来てから——私も変わった気がするから。いい方向に」

「俺も、詩音から移ったものがある」

「何だ」

「向き合うこと」俺は言った。「怪異に限らず、何かと向き合うとき——詩音を見ていたら、止まらなくなった」

朝倉はカップ麺を持ったまま、俺を見た。


「そうか」

「そうだ。詩音が向き合うから、俺も向き合える」

「お互い様だな」

「お互い様だ」


夕方になった。

朝倉が帰る準備をしていた。

俺は窓の外を見た。

春の夕暮れだった。

新しい街の景色だった。

悪くなかった。

その時、気づいた。

押し入れが、少し開いていた。

引っ越しの荷物を入れた後、閉めたはずだった。

でも少しだけ、開いていた。


「詩音」俺は言った。

「何?」朝倉は振り返った。

「押し入れ、閉めたか」

「閉めていない。湊が閉めたんじゃないのか」

「閉めたと思っていた」


二人で押し入れを見た。

隙間から、暗い中が見えた。

普通の押し入れだった。

でも——何かが、いた。

朝倉が近づいた。

俺も一緒に近づいた。

押し入れの前に立った。

確かに感じた。

小さかった。弱かった。

でも確かに、何かがいた。


「何だ」と俺は聞いた。

「小さい」朝倉は静かに言った。「怒っていない。怖くない。でも——いる」

「この部屋に、もともといたのか」

「そうだと思う。ここに、ずっといる」

「帰れない者か」

「そうかもしれない。でも——弱い。本当に小さな気配だ」

朝倉が押し入れをそっと全開にした。

段ボールが積んであった。

何も見えなかった。

でも朝倉が段ボールの奥を見た。


「奥に、何かある」

「何があるんだ」

「見える。小さい光が——ほんの少しだけ、ある」

段ボールをどかした。

奥の壁際に、小さなものがあった。

古い、手のひらサイズの人形だった。

布で作られていた。白い布に、赤い糸で顔が縫われていた。

古かった。どのくらい古いか、見ただけでは分からなかった。

「人形だ」と俺は言った。

「前の住人が忘れていったのか、それとも——もっと前からここにあるのか」朝倉は人形を見た。「触れていいか」

「感じないと分からないのか」

「感じたい。でも——触れる前に、湊が後ろにいてほしい」


「いる!」

朝倉が人形に手を伸ばした。

そっと、指先で触れた。

目を閉じた。

十秒。二十秒。

朝倉の顔が、少し和らいだ。

目を開けた。

「子どもだ」朝倉は静かに言った。


「子どもが、この人形に?」

「この人形を持っていた子どもがいた。昔、この部屋に住んでいた。その子の気配が、この人形に残っている」

「帰れない者か」

「違う」朝倉は人形を持ったまま、俺を見た。「ただの、記憶だ。その子は、ちゃんと帰れている。でも——大切にしていた人形を、忘れていった」

「忘れていったのか。わざとじゃなくて?」

「わざとじゃないと思う。引っ越しのとき、押し入れの奥に入っていて、気づかなかった」朝倉は人形を見た。「でも——この子が、ここを離れがたかった気持ちが、残っている」

「離れがたかった?」

「この部屋が、好きだったんだと思う。ここで育った。ここに思い出がある。だから——人形に気持ちが残った」


俺は人形を見た。

白い布に、赤い糸で縫われた顔。

笑っているような顔だった。

「どうすればいいんだ」と俺は聞いた。

「帰れない者じゃないから、送らなくていい」朝倉は言った。「でも——この気持ちが残ったままだと、また誰かが気づくかもしれない」

「気づいたら困ることがあるのか」

「困ることはないかもしれない。でも——」朝倉は人形を見た。「大切にされた方がいいと思う。押し入れの奥に放置されたままより」

「大切にするとは、どういうことだ」

「誰かに、ここにあったことを知ってもらう。覚えてもらう。それだけでいいと思う」


俺は人形を受け取った。

軽かった。

でも確かに、温かかった。

「ここに置いておく」俺は言った。

「この部屋に?」

「ここが好きだった子の気持ちが残っているなら——ここにいてもらった方がいい。邪魔にはならないだろ」

朝倉は少し考えた。

「邪魔にはならない。弱い気配だから、影響もない」

「じゃあいてもらう」俺は人形を本棚の端に置いた。「ここにいろ。俺が住んでいる間は、ここにいていい」


人形が、棚の端に収まった。

赤い糸の顔が、こちらを向いていた。

朝倉が、人形を見た。

「湊は、そういうことをするんだな」

「そういうこと、とは」

「追い出さない。大切にする」朝倉は静かに言った。「帰れない者じゃなくても、ちゃんと向き合う」

「向き合うほどのことじゃない。ただ、ここに置いておくだけだ」

「それが向き合うということだと思う」朝倉は俺を見た。「橘さんのときも、そうだった。鶴を神社に持っていったとき——ただ置いてきただけだった。でも、それが一番大切なことだった」

「詩音が教えてくれたことだ」

「私が?」

「橘さんのことを最後まで気にしていたのは、詩音だった」

「でも神社に持っていこうと言ったのは——」朝倉は少し考えた。「湊だったかもしれない」

「そうだったか」

「覚えていないのか」

「覚えていない。でも——二人でやったことだから、どっちでもいい」

朝倉は人形を見た。

「そうだね。どっちでもいい。二人でやったことだから」


朝倉が帰り支度を終えた。

玄関で、靴を履いた。

「今日、ありがとう」俺は言った。

「手伝いに来ただけだ」

「でも助かった。詩音がいないと、もっと時間がかかっていた」

「来年、また引っ越すときは呼べ」

「来年引っ越す予定はないぞ」

「そうか」朝倉は少し笑った。「じゃあ、ここに長くいろ」

「そうする」

「近くなった」朝倉は言った。「徒歩八分だ」

「そうだな」

「何かあったら、すぐ来られる」

「そうだな」

「怪異が出たときも」

「そうだな」

「怪異じゃなくても」

「そうだな」


朝倉は少し間を置いた。

「嬉しい」朝倉は静かに言った。「近くなって、嬉しい」

「俺も嬉しい」

「今日から、ここが湊の部屋だ」

「ああ」

「慣れるまで、時間がかかるかもしれない」

「すぐ慣れる」

「なぜ」

「詩音が近くにいるから」


朝倉は俺を見た。

少し目が潤んでいた。

「そういうことを、さらっと言う」

「本当のことだから」

「毎回それだ」

「毎回本当のことだから」

 朝倉は扉を開けた。

「おやすみ、湊」

「おやすみ、詩音」

「人形に、よろしくな」

「言っておく」

朝倉が出ていった。


扉が閉まった。

一人になった。

新しい部屋に、一人でいた。

本棚の端に、白い人形がいた。

赤い糸の顔が、こちらを向いていた。

「よろしくな」俺は人形に言った。

何も返ってこなかった。

でも部屋の空気が、少し温かかった。

その夜、凛からメッセージが来た。

引っ越し、終わりましたか

終わった

何かいましたか

いた


やっぱり!どんな怪異でしたか

怖くない。小さい人形に、昔の住人の子どもの気持ちが残っていた

解決しましたか

解決というか——本棚に置いた

置いた?

その子が、この部屋が好きだったみたいだから。いてもらうことにした

しばらく間があった。


先輩らしいです

そうか

うん。桐島先輩らしい

朝倉先輩はいましたか

いた。手伝ってくれた

よかった。二人で引っ越しの片付けをしたんですね

そうだ

仲良しですね

そういう話じゃない

そういう話です

うるさい

桐島先輩、徒歩八分なんですよね、朝倉先輩のアパートまで

そうだ

近いですね

近い

いいですね。何かあったらすぐ行ける

そうだな

怪異が出たときも

そうだな

怪異じゃなくても

「凛が詩音と同じことを言う」と俺は思った。

そうだな

桐島先輩、幸せそうですね

そうか

そうです。メッセージから伝わります

凛は鋭いな

水無瀬家の血です

それで全部説明するのか

大体のことは説明できます。おやすみなさい、先輩

おやすみ、凛

人形に、よろしく伝えておいてください

伝えておく


スマホを置いた。

新しい部屋に、最初の夜が来た。

本棚の端に、白い人形がいた。

窓から、街の灯りが見えた。

朝倉のアパートの方角だった。

徒歩八分の距離に、詩音がいる。

それだけで——この部屋が、もう少し好きになった気がした。


人形に向かって言った。

「ここ、いい部屋だろ」

返事はなかった。

でも赤い糸の顔が、笑っているように見えた。

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