開かずの部屋① 忘れていく人たち
大学二年生
開かずの間編
四月になった。
大学二年生が始まった。
新しい授業、新しい教室、新しい顔。キャンパスに新入生が溢れて、春の匂いがした。
凛は高校三年生になった。受験生だった。
先輩たち、私のことは気にしないでください。勉強します
そうメッセージをくれた。
でも三日後にはやっぱり気にしてください、受験が怖いですと来た。
凛らしかった。
二年生になって最初の週、朝倉が図書館で変なことに気づいた。
いつもの向かいの席に座ると、朝倉が俺を見るなり言った。
「昨日、図書館で変なことがあった」
「怪異か」
「まだ分からない。でも——変だった」朝倉はノートを開いた。「昨日の午後、地下の資料室に行った。古い文献が必要で」
「地下に資料室があるのか」
「一階から降りる。普通の資料室だ。でも——そこで、一人の学生を見かけた」
「何がおかしかったんだ」
「最初は何もおかしくなかった。ただ勉強している学生だった」朝倉はペンを持った。「でも、帰りにもう一度その学生の前を通ったとき——顔が、違った」
「顔が違った?」
「さっきと同じ人物だと思う。服も同じ。でも——表情が変わっていた。最初は集中して本を読んでいた。でも帰りに見たときは——何かに怯えているような顔をしていた。俯いて、手が震えていた」
「体調が悪くなったんじゃないか」
「そうかもしれない。でも——その学生が持っていた本が、最初と変わっていた」
「本が変わっていた?」
「最初は古い文献だった。でも帰りに見たとき、その学生は本ではなくて、自分のノートを見ていた。そのノートに、同じ言葉が繰り返し書いてあった」朝倉はノートに書いた。
覚えていない 覚えていない 覚えていない
「覚えていない、と書いていたのか」
「そう。何ページにもわたって、同じ言葉が書いてあった。その学生は——書いていることに気づいていないようだった。無意識に、手が動いていた」
次の日、俺は朝倉と一緒に図書館の地下に行った。
階段を降りると、空気が変わった。
湿っていて、古い紙の匂いがした。
普通の地下資料室だった。
棚に古い文献が並んでいた。窓がなかった。蛍光灯の光だけが、白く照らしていた。
学生が数人いた。みんな静かに本を読んでいた。
「どの辺りだ」と俺は聞いた。
「奥の方だった」朝倉は資料室の奥に向かった。
奥に行くほど、棚が古くなった。
文献の年代が古くなっていくのが、背表紙を見ると分かった。
一番奥まで来た。
扉があった。
重い金属の扉だった。鍵がかかっていた。扉に紙が貼ってあった。
関係者以外立入禁止 管理部
「何年前から閉まっているんだろう」と俺は言った。
朝倉が扉に手を触れた。
目を閉じた。
五秒ほどして、手を離した。
「古い」朝倉は静かに言った。「この扉の奥に——何かある。でも」
「でも?」
「今は感じない方がいい」朝倉は扉から離れた。「ここから来ている気がする。昨日の学生に起きたことが」
「この部屋から怪異が出ているのか」
「まだ確信はない。でも——近い。確かに、近い」
図書館の受付で、司書さんに聞いた。
「一番奥の金属の扉は、何ですか」と朝倉が聞いた。
司書さんは少し表情を変えた。
「ああ、あの扉ですか」司書さんは声を低くした。「あの部屋は——長い間、閉まっています。私が赴任してきたときには、もうすでに閉まっていました」
「何が入っているんですか」
「分かりません。管理部の管轄なので、図書館員は関わらないようにと言われていて」司書さんは少し考えた。「でも——一つだけ聞いたことがあります。あの部屋は、開けてはいけないと。代々、そう引き継がれていると」
「代々?」
「この大学が設立されてから、ずっとそう引き継がれているらしいです。あの部屋だけは、絶対に開けるなと」
「なぜかは知らないんですか」
「知りません。でも——」司書さんは少し声をひそめた。「あの部屋の近くで長時間勉強した学生が、たまに変になることがある、という噂は聞いたことがあります」
外に出た。
春の空が広がっていた。
朝倉がノートにメモしながら言った。
「この大学が設立されてから、ずっと閉めているということは——大正時代から」
「大正十三年に開校したんだったな」と俺は言った。
「そうだ。百年近く、開けていない部屋がある」
「何が入っているんだ」
「分からない。でも——あの部屋に近い場所にいると、記憶に影響が出るとしたら」
「木下さんのときみたいか」
「木下さんのときとは少し違う。木下さんは意図的に記憶を操った。でもこれは——意図なく、ただ滲み出てくる感じがする」
「自然に、記憶を奪っていくのか」
「奪うというより——薄れさせる」朝倉はペンを止めた。「近くにいると、記憶が薄れていく。昨日の学生は、何かを忘れかけていた。だから、覚えていないと書き続けていた」
「怖いな」と俺は言った。
「怖い」朝倉は静かに言った。「でも——これが何百年続いているなら、もっと多くの人が影響を受けているはずだ。なぜ今まで問題にならなかったのか」
「閉めているから、近づく人が少ないんじゃないか」
「そうだな。でも資料室に行く人間は、あの扉の前を通る。ずっと影響を受けてきた人がいるはずだ」
次の日の朝、朝倉から連絡が来た。
昨日の学生を見つけた
どこで
SNSで。同じ大学の学生だった。昨日の夜、投稿していた
何と投稿していた
写真を一枚。自分のノートの写真だった
朝倉が画像を送ってきた。
ノートの写真だった。
覚えていない 覚えていない 覚えていない
何ページにもわたって、同じ言葉が続いていた。
投稿に、一言だけキャプションがついていた。
昨日の午後から、三時間分の記憶がない。何があったのか分からない。怖い
朝倉が続けてメッセージを送ってきた。
三時間の記憶がない。あの地下にいた時間だ
地下にいる間の記憶が消えたのか
そう思う。あの部屋の近くにいた時間が、丸ごと消えた
本人は何をしていたか覚えていないのか
そうみたいだ。でも湊、もう一つ気になることがある
何だ
この投稿に、コメントがついていた。同じようなことが起きた、という学生が三人いた
三人も?
今学期だけで。先学期にも似たような話があったらしい。でも——みんな、数時間後には忘れていた。その出来事自体を、忘れていた
俺は画面を見つめた。
忘れたことも、忘れるのか
そうだ。だから問題になっていない。みんな、変なことがあったことを忘れてしまう
でも今回の学生は、投稿した
投稿したことで、記録が残った。でも——この学生も、今頃は忘れかけているかもしれない
急いだ方がいいな
そう思う。明日、もう一度地下に行こう。今度はもっと、ちゃんと調べる
一緒に行く
分かった。でも——湊
何だ
一つ、気をつけてほしいことがある
何だ
あの部屋の近くに長くいると、記憶が薄れる。私は地下のものの記憶があるから、少し抵抗があると思う。でも——湊は普通の人間だ。影響を受けやすいかもしれない
どうすればいいんだ
近づきすぎるな。そして——何か忘れそうになったら、すぐ声をかけて
分かった
それと
何だ
私の名前を、覚えていてくれ。何があっても
俺は少し間を置いた。
絶対に忘れない
約束か
約束だ
その夜、俺は部屋で天井を見ていた。
本棚の端に、白い人形がいた。
赤い糸の顔が、こちらを向いていた。
「お前は、何か知っているか」俺は人形に言った。
返事はなかった。
当然だった。
でも部屋の空気が、少しだけ変わった気がした。
温かくなった、ような。
それとも——俺の気のせいかもしれなかった。
読切じゃないの書いてみる




