開かずの部屋② 名前が消えかけた
翌日の午後、二人で図書館の地下に向かった。
今日は目的が違った。
昨日みたいに様子を見るだけじゃなく、開かずの部屋について調べる。扉の周りに何があるか、どんな記録が残っているか。
階段を降りた瞬間、空気が変わった。
昨日より重かった。
「今日は強い気がする」と俺は言った。
「そうだな」朝倉は静かに言った。「昨日より、滲み出ている量が多い」
「何かきっかけがあったのか」
「分からない。でも——近づいてみれば、分かるかもしれない」
奥の棚に向かった。
途中で、学生とすれ違った。
三年生くらいの男子学生だった。
何も変わったところはなかった。
でも、すれ違った瞬間——その学生が呟くのが聞こえた。
「……なんで来たんだっけ」
小さな声だった。独り言だった。
でも俺には聞こえた。
振り返ると、学生は立ち止まっていた。自分が持っている本を、不思議そうに見ていた。
なぜこの本を持っているのか、分からなくなっているのかもしれなかった。
朝倉も気づいていた。
「足を止めるな」朝倉は小声で言った。「あの人の近くにいると、移る可能性がある」
「移るのか」
「影響を受けた人間の近くにいると、連鎖することがある。怪異の種類によっては」
俺たちは足を速めた。
開かずの扉の前に来た。
昨日と同じ、重い金属の扉。
でも今日は、昨日より何かが違った。
扉の下から、薄い霧のようなものが漏れていた。
白くて、ゆっくりと広がっていた。
「見えるか」と俺は聞いた。
「見える」朝倉は扉を見た。「昨日はなかった。今日から漏れ始めた」
「それが記憶を薄れさせるものか」
「たぶん。でも——触れなければ、すぐには影響しない。と思う」
「と思う、というのは確信がないのか」
「ない」朝倉は正直に言った。「分からない部分が多い。だから——長居しない方がいい」
「記録だけして、出るか」
「そうしよう」
朝倉が扉の周りを調べた。
扉の横の壁に、古いプレートがあった。
金属製で、文字が刻んであった。
朝倉が身を乗り出して読んだ。
「文字がある。古い字体だが——」朝倉はノートに書き写した。「読める。特別資料保管室第一号。大正十四年設置。管理責任者——」
名前が続いていた。
「管理責任者の名前は?」と俺は聞いた。
「消えかけていて読みにくい。でも——一字だけ、はっきり読める。最初の字が」朝倉はノートを見た。「朝、という字だ」
「朝という字?」
「苗字が朝で始まる人間が、最初の管理責任者だったということだ」朝倉はノートを閉じた。「早く出よう」
地下から出た。
外の空気を吸った瞬間、俺は深く息をついた。
知らないうちに、息を詰めていたのかもしれなかった。
「大丈夫か」と朝倉が聞いた。
「大丈夫だ。お前は?」
「大丈夫。地下のものの記憶が、少し盾になってくれた気がする」朝倉はノートを開いた。「でも——長くいたら、私でも影響を受けていたかもしれない」
「霧が漏れていた。あれが今日から始まったとすると、何かが変わったことになる」
「そうだな。百年間閉じていたものが、動き始めた」朝倉はノートを見た。「管理責任者の名前が、朝で始まる苗字だった」
「朝倉家とは違うだろ」
「違うと思う。でも——調べた方がいい」
「大学の設立時の記録に、残っているかもしれない」
「そうだ。歴史資料室に行こう」
歴史資料室に向かった。
歴史資料室は図書館の二階にあった。
係の職員に頼んで、大学設立当初の資料を出してもらった。
古い冊子が出てきた。
大正十四年の年次報告書だった。
朝倉がページをめくった。
図書館の設置記録のページで、手が止まった。
「あった」朝倉は静かに言った。
「何が書いてある」
「特別資料保管室第一号について。設置の経緯が書いてある」朝倉はゆっくりと読んだ。「本大学設立に際し、寄贈を受けた資料の中に、通常の方法で保管できないものが含まれていた。当該資料は取り扱いに特別な注意を要するため、専用の保管室を設置することとした。管理責任者には本学初代図書館長、朝野啓一郎を任命する」
「朝野啓一郎か」俺は言った。
「朝野。朝倉じゃなかった」朝倉は続けた。「取り扱いに特別な注意を要する資料——何が入っているか、書いてあるか」
朝倉がページを読み進めた。
眉を寄せた。
「書いてない」
「書いていないのか」
「書いていない。でも——欄外に、小さく書き込みがある。後から誰かが書き加えたものだ」朝倉は身を乗り出した。「読める。——絶対に開けるな。開けた者は、忘れる。全てを忘れる——」
資料室が、静かになった。
「全てを忘れる」俺は繰り返した。
「そうだ。中に入った者が忘れるんじゃない。開けた者が——全てを忘れる」
「開けた者だけが忘れるのか。近くにいるだけでも忘れかけているのに」
「扉を開けたとき、全てを忘れる」朝倉はノートに書いた。「今は閉じているから、漏れ出しているものは弱い。でも——もし開けたら」
「全てを忘れる」俺は言った。「開けた者が」
「そうだ」朝倉は資料を閉じた。「だから百年間、開けないようにしてきた。管理責任者から次の管理責任者へ、絶対に開けるなと引き継がれてきた」
「でも今、霧が漏れ始めた。何かが変わった」
「扉が古くなって、密閉度が落ちたのかもしれない。それとも——中のものが強くなったのかもしれない」
「中のものが強くなる理由があるのか」
「分からない。でも——放っておけない」朝倉は立ち上がった。「中に何があるか、知らないと解決できない」
「開けるのか」と俺は聞いた。
「開けたら、全てを忘れる」朝倉は俺を見た。「だから開けない方法を考える。でも——中を知る方法が必要だ」
図書館を出た。
キャンパスに春の光が降り注いでいた。
中庭の銀杏の木が、風に揺れていた。
「管理責任者の引き継ぎ記録が残っていれば、もっと詳しいことが分かるかもしれない」と俺は言った。
「管理部に行ってみよう」朝倉は言った。「でもその前に——一つ確かめたい」
「何を」
「今日、地下にいた時間は短かった。でも——記憶に影響がないか、確かめたい」
「どうやって確かめるんだ」
朝倉は俺を見た。
「湊に聞く。湊が覚えていれば、私も覚えている」
「何を聞くんだ」
「今日、地下に降りる前に——外で何を話したか覚えているか」
俺は思い出した。
「歴史資料室に行こう、と言った」
「それだけか」
「朝野啓一郎の名前を確認してから、言った」
「そうだ」朝倉は安堵した顔をした。「覚えている。大丈夫だ」
「詩音が覚えていることを確かめるのに、なぜ俺に聞くんだ」
「私が忘れかけているとき、自分では気づけない可能性がある。でも湊が覚えていれば——比較できる」朝倉は静かに言った。「湊を基準にする。湊が覚えていることを私が忘れていたら、影響を受けている証拠だ」
「俺が基準になるのか」
「なれるか」
「なる」俺は言った。「俺が覚えていることは全部、詩音のために覚えておく」
朝倉は少し間を置いた。
「……ありがとう」
管理部に向かった。
管理部は大学本部棟の一角にあった。
担当の職員に、特別資料保管室第一号のことを聞いた。
職員は少し表情を変えた。
「あの部屋については——私どもも、詳しくは存じていません。代々、開けないようにと引き継がれているだけで」
「管理責任者の記録は残っていますか」と朝倉が聞いた。
「少し待ってください」
職員が奥に引っ込んだ。
しばらくして戻ってきた。古いファイルを持っていた。
「これが引き継ぎの記録です。代々の管理責任者が署名しています」
朝倉がファイルを開いた。
大正十四年から現在まで、管理責任者の署名が並んでいた。
初代は朝野啓一郎。
二代目、三代目と続いていた。
朝倉がページをめくる手が、途中で止まった。
「どうした」と俺は聞いた。
「記録が途切れている」
「どこで?」
「昭和二十年」朝倉はファイルを見た。「戦争が終わった年だ。昭和二十年の管理責任者の名前だけ、空白になっている。次の署名は昭和二十三年から再開している」
「戦争中に、管理責任者が途絶えたのか」
「そうかもしれない。でも——空白の三年間に、何かがあった可能性がある」
「何があったと思う」
「分からない。でも——霧が漏れ始めたのが、今だということには、理由があるはずだ」朝倉はファイルを閉じた。「三年間の空白と、関係があるかもしれない」
管理部を出た。
夕方になっていた。
二人で並んで歩いた。
朝倉が突然、立ち止まった。
「詩音?」俺は言った。
朝倉が俯いていた。
「大丈夫か」
「少し——」朝倉はゆっくり顔を上げた。「頭が、ぼんやりする」
「地下の影響か」
「そうかもしれない」朝倉は俺を見た。「湊、今日の朝——朝食を食べたか」
「食べた。詩音も食べたか聞いたら、食べていないと言っていた」
「そうだったか」朝倉は少し眉を寄せた。「覚えていない。今朝のことが、ぼんやりしている」
俺は朝倉の腕を掴んだ。
「詩音、俺の名前は分かるか」
「分かる。桐島湊だ。湊だ」
「俺のことは覚えているな」
「覚えている」
「俺と最初に会ったのはいつだ」
「高校二年生のとき。放課後の掃除当番で——鶴の人形に触れた日だ」
「覚えている。よかった」
朝倉は深く息を吸った。
「今朝のことは忘れかけていた。でも——高校のことは覚えている。湊のことは、全部覚えている」
「古い記憶から薄れるわけじゃなく、最近の記憶が先に薄れるのか」
「そうかもしれない」朝倉は静かに言った。「怖い。自分の記憶が薄れていくのが、分かる。それが一番怖い」
俺は朝倉の手を握った。
「俺が覚えている。詩音が忘れても、俺が全部覚えている」
朝倉は俺の手を握り返した。
「……それが、一番頼りになる」
ベンチに座った。
朝倉が少し落ち着くまで、そのままでいた。
「なぜ今、霧が漏れ始めたのか」俺は言った。「管理責任者の記録に、昭和二十年からの空白があった。今年は——何年だ」
「昭和二十年から、ちょうど八十年が経つ年だ」朝倉は静かに言った。
「八十年という数字に意味があるのか」
「分からない。でも——三年間の空白に何かがあって、それが八十年後に動き始めた可能性がある」
「三年間、管理責任者がいなかった。その間に、何かが起きた」
「そうだと思う。昭和二十年は——終戦の年だ。この大学にも、何かがあったはずだ」
「戦時中のこの大学に、何があったかを調べないといけない」
「そうだ。でも今日は——」朝倉は俯いた。「これ以上調べると、もっと影響を受ける気がする。今日はここまでにしよう」
「そうしよう」
「でも湊、一つだけ確認させてくれ」
「何だ」
「私の名前は、何だ」
俺は朝倉を見た。
「朝倉詩音だ。詩音だ」
朝倉は小さく頷いた。
「覚えていてくれてありがとう」
「忘れるわけがない」
「でも——明日の私が、聞かなければならなくなるかもしれない」
「聞いてくれ。何回でも答える」俺は言った。「詩音の名前を、何回でも言う」
その夜、朝倉からメッセージが来た。
今日の午後のことを、メモしておいた
正解だ
明日の朝、読み返す。忘れていたら、メモが教えてくれる
賢いな
でも——メモを書いたことも忘れたら、意味がない
メモの存在を忘れないように、スマホのロック画面に設定しておけ
しばらく間があった。
それは思いつかなかった。やってみる
俺も毎朝確認する。今日あったことを、詩音に送る。記録として
ありがとう
詩音
何だ
朝倉詩音。俺の名前は桐島湊。今日、歴史資料室で朝野啓一郎の名前を見つけた。昭和二十年に管理責任者の記録が途切れた。霧が今日から漏れ始めた
少し間があった。
……何これ
記録だ。明日の詩音のための
そういうことか。ありがとう
毎日送る。忘れないように
毎日受け取る
おやすみ、詩音
おやすみ、湊。明日の私に、よろしく伝えておいて
伝える。明日の詩音に——今日の詩音が頑張ったと伝える
長い間があった。
……湊は、本当にずるい
ずるくない
そういうことをさらっと言うのが、ずるい
本当のことだから
毎回それだ。おやすみ
スマホを置いた。
本棚の端に、白い人形がいた。
赤い糸の顔が、こちらを向いていた。
「お前は忘れるなよ」俺は人形に言った。
返事はなかった。
でも——部屋の空気が、少し温かかった。
記憶が薄れていく怪異。
詩音の名前さえ、消えかけるかもしれない怪異。
絶対に、負けない。
忘れさせない。
そう思いながら、目を閉じた。




