開かずの部屋③ 昭和二十年に‥
翌朝、朝倉からメッセージが来た。
おはよう。スマホのロック画面に記録を設定してあった。今日の朝、起きてすぐ読んだ
全部覚えているか
昨日の午後は、ほぼ覚えている。でも——今朝のことが、また少しぼんやりしている
今朝、俺から送ったメッセージを読めるか
読んだ。助かった。朝野啓一郎、昭和二十年の空白、霧——全部確認した
よかった。今日も調べに行くか
行く。でも今日は地下には近づかない。昭和二十年に何があったかを、外から調べる
どこで調べるんだ
大学のアーカイブか、地域の図書館か。湊は午前中、授業があるか
一限だけある。終わったら合流する
分かった。私は先に資料を探し始める
午前の授業が終わって、朝倉に連絡した。
どこにいる
大学本部棟の二階。学長室の隣に、大学史料室がある。係の人に頼んで入れてもらった
今から行く
大学史料室は、普段は関係者以外立入禁止だった。
でも朝倉が研究目的だと説明して、特別に入れてもらっていた。
狭い部屋だった。
壁一面に、古い資料が並んでいた。
年代順に整理されていた。
朝倉は昭和十年代のファイルを広げていた。
「来た」朝倉は顔を上げた。「少し分かってきた」
「何が分かった」
「座れ。順番に話す」
朝倉が広げた資料は、昭和十八年から昭和二十二年にかけての大学の記録だった。
「戦時中、この大学は軍に一部接収されていた」朝倉は資料を指した。「昭和十八年から、キャンパスの一部が陸軍に使われていた。図書館もその対象だった」
「図書館が軍に使われていたのか」
「資料の一時保管場所として使われていたらしい。でも——どんな資料が保管されていたかは、記録に残っていない」
「意図的に消されたのか」
「分からない。でも——消えているのは、図書館に関する記録だけだ。他の建物の記録は残っている」朝倉は別のファイルを開いた。「そして昭和二十年の八月、終戦直後に——大学本部に宛てた一通の手紙が残っている」
朝倉がコピーした紙を俺に渡した。
その紙を読んだ。
古い字体で書かれていた。読みにくかったが、朝倉がポイントを説明してくれた。
「差出人は、当時の図書館長だ。終戦の翌月に書かれている。内容は——図書館地下の特別資料保管室についての報告だ」
「何が書いてあるんだ」
「戦時中、軍が図書館地下に何かを持ち込んだ。図書館長は最初、それが通常の資料だと思っていた。でも実際に持ち込まれたものを見て——異常だと気づいた」
「何を持ち込んだんだ」
「手紙には、はっきりとは書いていない。ただ——封じてあったものを持ち込んだ、と書いてある」
「封じてあったもの」
「そうだ。軍は戦時中、各地の神社や旧跡から、封じられていたものを持ち出していた。研究目的か、それとも別の目的かは分からない。でもこの大学の図書館が、一時的な保管場所になった」
俺は手紙を見た。
「それが今、開かずの部屋に入っているのか」
「そうだと思う。終戦後、軍は引き上げた。でも持ち込んだものを、持っていかなかった。置いていった」
「なぜ持っていかなかったんだ」
「それが——」朝倉は別のページを開いた。「手紙の後半に書いてある。終戦後、軍が持ち込んだものを引き取りに来たとき——運ぼうとした兵士が、その場で記憶を失った。持ち込んだものを持ち出すことができなかった。だから置いていった」
「持ち出した者が、記憶を失う」俺は言った。「開けた者が、全てを忘れる。同じことだ」
「そうだ」朝倉はノートに書いた。「でも——ここで疑問がある。元々、どこかに封じられていたものだとしたら、封じられていた場所では記憶を失うことはなかったはずだ。なぜここに持ち込まれてから、そうなったのか」
「場所が変わったから?」
「そうかもしれない。本来いるべき場所から引き離されたから——怒っている。近づくものから記憶を奪う」
「山の神と似ているな」と俺は言った。「本来いるべき場所から離されて、怒った」
「そうだね。でも山の神より——ずっと古い気がする」朝倉は静かに言った。「山の神は怒っていたけど、伝わってくるものがあった。でもこれは——そういう感情じゃない。ただ、記憶を奪う。感情ではなく、性質として」
「性質として記憶を奪うのか」
「そうだと思う。意図があるわけじゃない。ただ——近づいたものの記憶を、吸い込んでしまう。それがこのものの、本来の在り方なのかもしれない」
「どこから持ち出されたのか、分かるか」と俺は聞いた。
「手紙には書いていない。でも——軍が各地から持ち出していた封じられたものの記録が、どこかに残っているかもしれない」
「どこにあるんだ」
「国立公文書館に、戦時中の軍の記録が一部残っている。オンラインで閲覧できるものもある」朝倉はスマホを取り出した。「昨日の夜、少し調べてみたら——一件だけ、関連しそうな記録があった」
「何だった」
「昭和十八年、東北のある山の神社から、御神体を持ち出したという記録がある。理由は——研究目的。でもその御神体の説明に、こう書いてある。記憶を司る神の依代。近づくものの記憶を吸収し、保存する性質を持つ」
「記憶を保存する」俺は繰り返した。
「そうだ。奪うんじゃない。保存する。その神社では——御神体の周りに供え物として、記憶を収めていた。土地の人々が持ってきた、大切な記憶を」
「どういうことだ」
「死んだ人の記憶を、御神体に収めていた。この地に生きた人々の思い出を、神社に預けていた。それがこの御神体の本来の役割だった」朝倉は静かに言った。「でも本来の場所から引き離されて、大量の記憶を預けてくれる人間がいなくなった。だから——近づく人間の記憶を、無差別に吸い込んでしまう」
史料室が静かになった。
俺は手紙を見つめた。
「帰してあげないといけないな」
「そうだ。元の神社に帰してあげれば——本来の在り方に戻る。無差別に記憶を奪うことも、なくなるはずだ」
「でも問題がある」と俺は言った。
「二つある」朝倉は頷いた。「一つ目は、扉を開けること。開けた者が全ての記憶を失う。どうやって開けるか」
「二つ目は?」
「元の神社がまだ存在しているかどうかだ。東北の山の神社と書いてあったが、場所が特定できていない。戦後八十年が経っている。神社が残っているかどうか」
「一つずつ解決するしかないな」
「そうだ」朝倉は資料を片付け始めた。「でも湊、一つ頼んでいいか」
「何だ」
「今日調べたことを、また記録しておいてほしい。私の記憶が、また薄れるかもしれないから」
「もう書いている」
朝倉が俺を見た。
俺はスマホのメモアプリを見せた。
今日調べたことが、時系列で全部書いてあった。
「いつから書いていたんだ」と朝倉が聞いた。
「史料室に入った瞬間から」
朝倉は少し目を細めた。
「……湊は、本当に頼りになる」
「詩音のためだから」
「私のため、か」
「そうだ。詩音が忘れても、俺が覚えている。そのために書いている」
史料室を出た。
廊下を歩きながら、朝倉が静かに言った。
「今日、今朝の記憶がぼんやりしていた。でも——昨日のことは覚えていた」
「昨日のことは?」
「湊が毎日記録を送ってくれると言ったこと。覚えていた」朝倉は前を向いた。「忘れるかもしれないものの中で——湊のことは、なぜか残っている」
「なぜだと思う」
「分からない。でも——地下のものの記憶が、核になっているのかもしれない。私の中で一番古くて、深い記憶だから。その周りに、湊のことがある」朝倉は俺を見た。「核から遠い記憶から、薄れていく。湊のことは——核に近い場所にある気がする」
俺は朝倉を見た。
「それは——嬉しいことを言ってくれるな」
「事実を言っている」朝倉は少し顔を赤くして、前を向いた。「うるさい」
「うるさくない。ありがとう」
「礼を言われることじゃない」
「いや、礼を言う」
「うるさい」
その日の夜、俺は東北の山の神社を調べた。
国立公文書館のデータベースにアクセスした。
戦時中に軍が持ち出した御神体の記録を探した。
一時間ほどして、見つかった。
昭和十八年六月、陸軍第三研究部が岩手県の山中にある小さな神社から御神体を持ち出した記録だった。
神社の名前は——記憶神社。
そのままの名前だった。
場所は、岩手県のある山中。詳細な住所は書いていなかったが、最寄りの集落の名前が記してあった。
現在もその集落が存在するかどうか、調べた。
今も存在していた。
小さな集落だった。人口が百人にも満たない場所だった。
朝倉にメッセージを送った。
神社の場所が分かった
本当か
岩手県だ。集落の名前も分かった
神社は今も残っているのか
それは分からない。でも集落は残っている
連絡を取れるか
集落に連絡先があるか調べてみる
しばらくして、集落の自治会のメールアドレスを見つけた。
朝倉に転送した。
送った
ありがとう。明日、連絡してみる
詩音
何だ
今日調べたことをまとめた。送る
待ってた
俺はメモアプリの内容を全部コピーして送った。
返信が来た。
完璧だ。湊がいなかったら、今日の調査が全部消えていた
消えていない。ちゃんとある
ありがとう
詩音、一つ聞いていいか
何だ
今の状態で、地下のものの記憶は大丈夫か。薄れてきていないか
少し間があった。
大丈夫だ。さっきも確認した。白哉さんのことも、橘さんのことも、凛の儀式のことも——全部ある。古い記憶は消えていない
よかった
でも——今日の朝のことは、今もぼんやりしている。メモで補完した
毎朝、起きたらすぐ俺に連絡してくれ。確認する
毎朝か
そうだ
……湊は過保護だ
過保護じゃない。必要なことだ
そうだな。でも——ありがとう。過保護でいてくれて
おやすみ、詩音
おやすみ、湊。明日の私に、よろしく
伝える。今日の詩音は、よく調べた
また、そういうことを言う
本当のことだ
おやすみ
スマホを置いた。
岩手県の山中に、記憶神社という神社がある。
そこから引き離された御神体が、この大学の地下にある。
元に戻せれば、解決する。
でも——扉を開けた者が、全ての記憶を失う。
どうやって開けるか。
詩音の記憶が、少しずつ薄れている。
急がないといけない。
でも焦って、誰かが全ての記憶を失ったら——それは最悪の結末だ。
本棚の端の人形が、暗い中でこちらを向いていた。
「何か知っているなら、教えてくれ」俺は人形に言った。
返事はなかった。
でも——何かが、頭の隅に引っかかった。
記憶を司る神の依代。
記憶を吸収し、保存する性質。
本来の場所では、人々が自分の記憶を供えていた。
供えていた——記憶を。
俺はゆっくりと、考えた。
もしかしたら。
扉を開けずに済む方法が、あるかもしれない。




